(第三部 . 第三章 ) 写真の中の母
零号室は、音もなく開いた。
扉があったわけではない。
壁が左右に裂けたのでもない。
ただ、そこにあったはずの暗がりが、次の瞬間には奥行きを持っていた。
廊下の先に、もうひとつの部屋が生まれていた。
古い団地の湿った匂いが消えた。
代わりに漂ってきたのは、味噌汁の湯気の匂いだった。
晴人は一瞬、自分の足元を見た。
六号棟三階の剥げた廊下ではない。
畳でもない。
薄い木目のフローリング。
磨かれてはいるが、ところどころ色の抜けた床板。
左側には小さな台所。流しの横に、白いまな板と包丁。ガス台の上では、銀色の鍋から細い湯気が立っている。
右側には食卓。
四人掛けには大きすぎる、二人掛けには少し広い木のテーブル。
その上に、茶碗が二つ並んでいた。
箸も二膳。
ひとつは大人用。
もうひとつは、子ども用の短い箸だった。
カーテンの向こうは朝だった。
だが、晴人たちがいた団地の外は、さっきまで夕方だったはずだ。
時間が、ここだけ別の場所で止まっている。
いや。
止まっているのではない。
同じ一瞬を、何度も繰り返している。
そんな気がした。
瀬奈は、晴人の隣で固まっていた。
呼吸の音が浅い。
握っていた写真が、彼女の指の中で折れかけている。
部屋の奥に、その人は立っていた。
ベージュのコート。
肩にかかる長さの髪。
黒いノートを胸に抱えたまま、如月亜紀は、台所と食卓のあいだに立っていた。
写真で見た顔より若い。
十五年前に消えたときのままなのだろう。
頬は少しこけている。
目の下には薄い影があった。
けれど、死者の顔ではなかった。
生活の中にいた人間の顔だった。
鍋の火を止めるのを忘れた母親。
娘に声をかけようとして、振り向いたまま止まってしまった母親。
その顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
瀬奈の唇が震えた。
「……お母さん」
声は、ほとんど息だった。
亜紀は眉をわずかに寄せた。
その反応を見た瞬間、晴人の胸の奥が冷えた。
再会の顔ではない。
待ち続けた娘を見つけた母の顔ではない。
知らない人間を部屋に入れてしまったときの、警戒と戸惑いの顔だった。
「どなたですか」
瀬奈の指から、写真が落ちた。
床に当たる音が、小さく響く。
晴人は反射的に一歩前へ出た。
「如月さん」
亜紀の目が晴人に移った。
その瞬間、彼女の表情に、別の種類の怯えが混じった。
「……あなたたち、どこから入ったんですか」
晴人は答えられなかった。
背後を振り返る。
そこには、廊下がない。
さっきまで開いていたはずの零号室の入口も、団地の薄暗い通路も、消えていた。
代わりにあるのは、白い壁だった。
何もない壁。
窓も、扉も、取っ手もない。
ただ、白い壁だけが、二人の背後を塞いでいた。
瀬奈がそれに気づいたのは、数秒遅れてからだった。
彼女は振り返り、壁を見て、それからまた亜紀を見た。
「お母さん……私」
言葉がそこで切れた。
十五年分の時間が、喉に詰まったようだった。
亜紀は、黒いノートを胸に抱え直した。
指先が白くなっている。
「すみません。今、娘が帰ってくる時間なんです。知らない方を家に入れるわけにはいきません」
娘。
その一言で、瀬奈の目が揺れた。
「娘って……」
「瀬奈です」
亜紀は、ごく自然にその名を言った。
それは愛情のある声だった。
忘れた人間の声ではなかった。
娘を思い出せない母親の声でもなかった。
ただし、その声が向けられている娘は、目の前にいる瀬奈ではなかった。
「今日は早く帰るって言っていたので。あの子、人見知りだから」
瀬奈の喉が小さく鳴った。
「……私が、瀬奈だよ」
亜紀は瞬きをした。
一度。
二度。
それから、困ったように笑った。
その笑顔が、瀬奈の何かを壊した。
「瀬奈は、まだ十二歳です」
部屋の時計が鳴った。
壁に掛けられた丸い時計。
針は午後三時四十二分を指している。
チッ、チッ、チッ、と秒針だけが異様に大きく響いていた。
晴人は時計を見た。
十五年前の午後三時四十二分。
何かが起きる直前の時間。
あるいは、何かを選ぶ直前の時間。
「瀬奈」
晴人が低く呼んだ。
彼女は聞いていなかった。
母親だけを見ていた。
目を逸らしたら、二度と見えなくなるとでも思っているように。
「私、二十七になった」
亜紀の顔から、笑みが消えた。
「中学の入学式の日、お母さん、寝坊したよね。制服のリボンが見つからなくて、二人で引き出しを全部ひっくり返した。結局、洗濯機の横に落ちてた」
言葉が早くなる。
瀬奈は、必死に過去を差し出していた。
自分が娘である証拠を。
母親と自分だけが持っているはずの記憶を。
「遠足の日、私、お弁当の卵焼きに砂糖が多すぎるって文句言った。でも本当は好きだった。あと、風邪をひいたとき、桃の缶詰を買ってきてくれた。お母さん、自分は一口も食べないで、全部私にくれた」
亜紀の目がかすかに揺れた。
それを見て、瀬奈はさらに一歩近づいた。
「覚えてるでしょう」
亜紀は答えない。
「覚えてるよね」
瀬奈の声が細くなる。
「お願い。覚えてるって言って」
台所の鍋が、ことりと鳴った。
沸騰した味噌汁が、縁からこぼれかけている。
亜紀はそちらを見た。
火を止めようと、体を動かしかける。
けれど、瀬奈がその腕をつかんだ。
細い手首。
生きている温度。
瀬奈の指が、そこに食い込む。
「私を見て」
亜紀は、掴まれた手首を見た。
それから、瀬奈の顔を見た。
長い沈黙が落ちた。
晴人は、その沈黙の中で、部屋の異常に気づいた。
写真が多すぎる。
棚の上。
冷蔵庫の扉。
食卓の横の壁。
小さなコルクボード。
どこにでも、写真が貼られていた。
運動会。
誕生日。
水族館。
公園。
白いワンピースの少女。
母親の隣で笑っているはずの娘。
だが、どの写真も、少女の顔だけがぼやけていた。
煙で曇ったように。
水をこぼしたインクのように。
顔だけが、そこから抜け落ちている。
亜紀の写真は鮮明だった。
背景も、衣服も、手に持った紙袋の文字まで読める。
けれど少女の顔だけが、白く溶けていた。
晴人は棚の前へ近づいた。
写真立てがひとつ、倒れている。
それを手に取る。
銀色の縁の中に、若い亜紀と、小学生くらいの少女が写っていた。
少女はランドセルを背負っている。
右手でピースをしていた。
だが、その顔はなかった。
削られたのではない。
破れたのでもない。
最初から、そこだけ現像されなかったように、白く抜けている。
写真の裏に、鉛筆の文字があった。
晴人は目を細めた。
かすれた字。
急いで書いたような、震えた筆跡。
――瀬奈を、連れていかないで。
晴人の指が止まった。
「瀬奈」
今度は少し強く呼んだ。
瀬奈は振り向かない。
亜紀の目だけを見ている。
「ねえ、覚えてるよね。私、あの日、玄関で待ってた。雨が降ってた。お母さん、すぐ帰るって言った。すぐ戻るから、チェーンをかけて待ってなさいって」
亜紀の唇が、かすかに震えた。
「……雨」
その一言に、瀬奈の目が見開かれた。
「そう。雨だった」
「傘を……」
「うん」
「赤い傘」
瀬奈の顔に、希望のようなものが浮かんだ。
痛々しいほど小さな光だった。
「覚えてるんだ」
亜紀は、ゆっくり頷いた。
けれど次に出た言葉は、瀬奈の期待とは違っていた。
「瀬奈が、傘を持っていったんです」
瀬奈の表情が止まる。
「え……」
「雨なのに、あの子、傘を忘れて。だから私は取りに戻った」
「違う」
瀬奈の声が、すぐに出た。
「違うよ。私は家にいた。傘なんか持っていってない。お母さんが出ていったんだよ」
亜紀は首を横に振った。
「いいえ。あの子は帰ってこなかった」
「帰ってきたよ。私、ずっと玄関にいた」
「いいえ」
亜紀の目に、異様な焦点が宿った。
それは、今この部屋にいる瀬奈を見ていない目だった。
十五年前のどこかを見ている目。
何度も同じ場面を見せられ、何度も同じ結論に縛られた人間の目。
「瀬奈は、帰ってこなかった」
瀬奈の手が、亜紀の手首から離れた。
彼女は一歩下がる。
床が軋んだ。
「……何言ってるの」
亜紀は黒いノートを抱きしめた。
「探しに行かなきゃ」
その言葉と同時に、部屋の空気が変わった。
朝のようだった室内に、冷たい夕方の色が混じる。
カーテンの向こうの光が、薄く濁る。
食卓の茶碗が、一瞬だけ別の位置にずれた。
鍋の湯気が逆向きに流れた。
晴人の背中に汗がにじんだ。
「ここは記憶だ」
彼は小さく言った。
瀬奈が振り返る。
「誰の?」
「たぶん、君のお母さんの」
晴人は写真立てを持ち上げた。
「でも、壊れてる」
瀬奈の目が、写真の裏の文字に落ちる。
瀬奈を、連れていかないで。
その文字を見た瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「……これ、お母さんの字」
「わかるのか」
「わかる」
瀬奈は写真立てを受け取った。
指で裏の文字をなぞる。
何度も。
そこに残った母の震えを確かめるように。
「でも、誰に向けて書いたの」
亜紀が、二人の会話に割り込むように言った。
「その写真を見ないでください」
声が硬かった。
先ほどまでの困惑した母親の声ではない。
何かを守ろうとする人間の声だった。
晴人は、亜紀を見た。
「あなたは、零号室を知っていますね」
亜紀の目が動いた。
ほんのわずか。
だが、確かに動いた。
「知らない方は、お帰りください」
「帰る場所がありません。入口が消えた」
亜紀は背後の白い壁を見た。
その顔に、驚きはなかった。
代わりに浮かんだのは、諦めだった。
何度も同じことを経験している人間の、静かな諦め。
「また、開いたんですね」
瀬奈の肩が震えた。
「また?」
亜紀は視線を落とした。
黒いノートの角を、親指で擦っている。
「この部屋は、扉がないんです」
「でも、私たちは入ってきた」
「だから危ないんです」
亜紀は初めて、真正面から瀬奈を見た。
知らない大人の女性を見る目で。
それでも、その奥に何かが揺れていた。
母性ではない。
記憶の残響のようなもの。
「ここに長くいてはいけません」
瀬奈は唇を噛んだ。
「私は、十五年探した」
亜紀の顔に、痛みが走った。
だが、それはすぐに消えた。
「誰をですか」
「お母さんを」
「……私を?」
亜紀は困ったように笑った。
さっきと同じ笑い方。
その笑い方が、瀬奈をさらに傷つける。
「人違いだと思います」
「人違いじゃない」
「私は、娘を探しているんです」
「だから、私がその娘だって言ってる!」
瀬奈の声が、部屋にぶつかった。
その瞬間、棚の写真が一斉に揺れた。
冷蔵庫に貼られた写真が一枚、床に落ちる。
続いてもう一枚。
壁のコルクボードから、ピンが外れる。
運動会の写真。
誕生日の写真。
水族館の写真。
すべてが床に散らばる。
その中で、少女の顔だけが白く抜けていた。
亜紀は小さく悲鳴を上げ、床に膝をついた。
「だめ」
写真を拾い集める。
「だめ、消えないで」
その言葉に、瀬奈の怒りが止まった。
亜紀は必死だった。
床に散らばった写真を胸にかき集めながら、震える声で繰り返している。
「消えないで。お願い。瀬奈、消えないで」
瀬奈は動けなかった。
母は、自分を忘れている。
けれど、忘れたくないと泣いている。
その矛盾が、彼女の顔から表情を奪った。
晴人は、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。
水野家の写真。
結衣の名前が消えた戸籍。
母が娘の名を忘れていく光景。
今、目の前で起きていることは、それと同じだ。
零号室は、死者を返すのではない。
残された人間から、死者の輪郭を少しずつ奪っていく。
いや。
生きている人間の輪郭さえも。
亜紀は写真を抱えたまま、泣いていた。
声を殺していた。
娘を探している母親の泣き方ではない。
娘を忘れそうな自分を許せない人間の泣き方だった。
瀬奈はゆっくりしゃがんだ。
床に落ちた一枚を拾う。
夏祭りの写真だった。
屋台の光。
金魚すくいの紙袋。
亜紀が笑っている。
その隣にいる少女は、顔だけ白い。
瀬奈は写真を見つめた。
「これ、覚えてる」
声がかすれていた。
「金魚、すぐ死んじゃった。私、泣いて……お母さん、庭に埋めようって言った」
亜紀の手が止まった。
瀬奈は続ける。
「でもマンションだから庭なんてなくて。二人で公園まで行った。夜なのに。お母さん、スコップ持って」
亜紀の目が、ゆっくり上がる。
瀬奈は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「変だよね。金魚一匹のために」
亜紀の唇が動いた。
「……名前をつけた」
瀬奈の目が見開かれる。
「うん」
「きんちゃん」
瀬奈は頷いた。
頷きながら、涙が落ちた。
「そう。きんちゃん」
亜紀の目にも涙が浮かんだ。
しかし、その目はまだ、瀬奈を娘として見ていなかった。
記憶の断片だけが、彼女の中で光っている。
その光が、目の前の大人の女性とは結びつかない。
写真の中の少女と、今の瀬奈のあいだに、十五年の空白が横たわっている。
零号室は、その空白を橋にしなかった。
壁にした。
「あなたは」
亜紀が言った。
「瀬奈のことを、よく知っているんですね」
瀬奈の顔が、静かに崩れた。
晴人は息を止めた。
亜紀は、悪意なく言っていた。
それが残酷だった。
「どうして……」
瀬奈の声は、もう怒っていなかった。
「どうして、わからないの」
亜紀は答えない。
写真を胸に抱いたまま、ただ申し訳なさそうに目を伏せた。
その沈黙の中で、黒いノートが床に落ちた。
亜紀が抱えていたノートだった。
瀬奈が拾おうとすると、亜紀の手がそれを押さえた。
「見ないで」
その声は、低かった。
瀬奈の手が止まる。
「どうして」
「あなたが、ここへ来てしまうから」
「もう来てる」
「違う」
亜紀は首を振った。
髪が頬にかかる。
「まだ、来てはいけない」
その言い方に、晴人は違和感を覚えた。
まだ。
まるで、この部屋の中の亜紀にとって、瀬奈は過去の娘であり、未来の訪問者でもあるようだった。
時間の順序が、壊れている。
「如月さん」
晴人は言った。
「あなたは、ここに閉じ込められているんですか」
亜紀は晴人を見た。
目の奥が、一瞬だけ澄んだ。
「閉じ込められているのは、私だけじゃありません」
部屋の時計が鳴った。
三時四十三分。
針が一分だけ進んでいた。
すると、台所の窓の外で、雨の音がし始めた。
さっきまで朝の光だったのに、窓の向こうは灰色に沈んでいる。
ぽつ。
ぽつ。
雨粒がガラスを叩く。
晴人の背中に冷たいものが走った。
部屋が、変わっていく。
記憶が次の場面へ進もうとしている。
亜紀は立ち上がった。
食卓の椅子にかけてあった赤い傘を取る。
瀬奈がその傘を見た瞬間、息を呑んだ。
「それ……」
赤い子ども用の傘。
持ち手には、油性ペンで名前が書いてあった。
せな。
ひらがなの丸い文字。
亜紀はそれを握りしめた。
「瀬奈を迎えに行かなくちゃ」
「私はここにいる!」
瀬奈が叫ぶ。
亜紀は振り返らない。
「雨に濡れてしまう」
「お母さん!」
瀬奈は亜紀の腕をつかもうとした。
だが、今度は触れられなかった。
指が、空気をすり抜けた。
さっきまで温かかった手首が、そこにはない。
亜紀の輪郭が、少しだけ薄くなっていた。
写真の中の人物のように。
記憶の表面に写った光のように。
晴人は瀬奈の肩をつかんだ。
「だめだ。これ以上近づくな」
「離して」
「瀬奈」
「離して!」
瀬奈の声が割れた。
晴人は手を離さなかった。
彼にはわかっていた。
零号室は、こうやって選ばせる。
追いかければ、手が届くと思わせる。
触れられると思わせる。
もう一度だけ名前を呼べば、相手が振り向くと思わせる。
そしてそのたびに、何かを削る。
記憶。
名前。
顔。
残された世界の輪郭。
亜紀は玄関へ向かった。
さっきまで白い壁しかなかった場所に、いつの間にか玄関ができていた。
古い金属製のドア。
チェーンロック。
靴箱。
子ども用のスニーカー。
傘立て。
そこに、外の雨の匂いが流れ込んでくる。
瀬奈は晴人の腕の中でもがいた。
「お母さん、行かないで」
亜紀の足が止まった。
背中だけが、瀬奈の声を聞いている。
長い沈黙。
雨の音。
時計の秒針。
鍋の湯気。
写真が床でかすかに震える音。
亜紀は、ゆっくり振り返った。
その目に、ほんの一瞬だけ、何かが宿った。
瀬奈は息を止めた。
母の目が、自分を見ている。
今度こそ。
今度こそ、届いたのだと思った。
亜紀は口を開いた。
「……泣かないで」
瀬奈の目から涙がこぼれた。
「お母さん」
「瀬奈は、泣き虫だから」
瀬奈の体から力が抜けた。
亜紀の声は優しかった。
間違いなく、母親の声だった。
けれど、その優しさは目の前の瀬奈に向けられたものではない。
どこか遠くにいる十二歳の娘に向けられた声だった。
「だから、早く迎えに行かなきゃ」
亜紀は微笑んだ。
そして、玄関のドアを開けた。
外には廊下がなかった。
団地の階段もない。
雨の街もない。
真っ白な光だけがあった。
その光の向こうから、子どもの声がした。
「お母さん」
瀬奈の顔が凍った。
その声は、幼い瀬奈の声だった。
十二歳の。
十五年前の。
亜紀は光のほうへ一歩踏み出した。
瀬奈が悲鳴のように叫ぶ。
「行かないで!」
その瞬間、黒いノートがひとりでに開いた。
床の上で、ページが何枚もめくれる。
風などない。
それでも紙は乱暴にめくれ、あるページで止まった。
晴人の目が、その文字を捉えた。
零号室に関する記録。
第一発見者――橘礼司。
最初の図面。
日付の横に、古い団地名が記されている。
そして、その下に赤いペンで一行だけ書かれていた。
――写真に残った者から、現実は忘れられていく。
晴人はノートへ手を伸ばした。
しかし、指が触れる直前、ページの文字が滲んだ。
雨に濡れたように。
インクが流れる。
橘礼司の名前だけが、黒く残った。
「瀬奈、出るぞ」
晴人はノートを諦め、瀬奈の腕を引いた。
だが瀬奈は動かなかった。
亜紀の背中が、白い光の中へ溶けようとしている。
「お母さん」
今度の声は、小さかった。
怒りも、叫びも、責める響きもなかった。
ただ、子どもの声だった。
置いていかれた十二歳の少女の声。
その声に、亜紀がもう一度振り返る。
瀬奈は涙で濡れた顔のまま、言った。
「私、ずっと待ってた」
亜紀の目が、揺れた。
黒い瞳の奥で、何かがひび割れる。
「毎日、玄関の音を聞いてた。郵便受けが鳴るたびに走った。電話が鳴るたびに、お母さんかもしれないって思った」
瀬奈は笑った。
泣きながら、笑おうとした。
「もう、帰ってこないってわかってからも、待ってた」
亜紀の頬に、一筋の涙が落ちた。
彼女はそれに気づいていないようだった。
「あなたは……」
亜紀の声が震える。
瀬奈は息を止めた。
「あなたは、瀬奈の……」
そこまで言ったところで、部屋の時計が激しく鳴った。
三時四十四分。
ベルの音が、壊れたように続く。
ジリリリリリリリ。
窓ガラスが震える。
写真が一斉に裏返る。
床に散らばった写真の中で、白く抜けていた少女の顔が、さらに消えていく。
顔だけではない。
肩。
手。
体。
少女の輪郭そのものが、写真から抜け落ちていく。
亜紀は胸を押さえた。
苦しそうに息をした。
「だめ……」
彼女は写真に向かって手を伸ばす。
「瀬奈を、消さないで」
瀬奈が駆け寄ろうとした。
晴人は今度こそ、彼女を強く引き戻した。
「見るな!」
「離して!」
「君まで消える!」
その言葉で、瀬奈の動きが止まった。
部屋の壁が震えている。
白い壁に、黒い線が走った。
線はひび割れのように広がり、そこから団地の薄暗い廊下が見えた。
出口だ。
零号室が、閉じようとしている。
晴人は瀬奈を引きずるようにして、黒い線へ向かった。
瀬奈は最後まで、亜紀から目を離さなかった。
亜紀は光の前で立ち尽くしている。
手には赤い傘。
足元には、顔のない写真。
胸には、もう何も抱いていなかった。
黒いノートは床に開いたまま。
雨の音だけが、部屋の中で大きくなっていく。
「お母さん!」
瀬奈が叫んだ。
亜紀が振り返る。
涙に濡れた顔で。
そして、瀬奈を見た。
まっすぐに。
その一瞬、晴人は確かに見た。
亜紀の目に、娘を見つけた光が宿ったことを。
だが、それはあまりにも短かった。
次の瞬間、彼女の表情から、その光が消えた。
亜紀は不安そうに眉を寄せた。
知らない人を見る顔に戻っていた。
そして、静かに言った。
「ごめんなさい」
瀬奈の唇が開く。
声は出なかった。
亜紀は、丁寧に頭を下げた。
「あなたは、どなたですか」
黒い線が、二人を呑み込んだ。
次に晴人が床に倒れたとき、そこは六号棟三階の廊下だった。
湿ったコンクリートの匂い。
剥がれた壁紙。
赤い非常灯。
遠くで鳴る、壊れた蛍光灯の音。
零号室は閉じていた。
壁には、もう何もない。
瀬奈は、晴人の隣に座り込んでいた。
片手に、写真を握っている。
あの部屋から持ち出せたのは、それだけだった。
晴人は息を整えながら、彼女の手元を見た。
写真の表には、若い亜紀が写っていた。
その隣にいたはずの少女は、完全に消えていた。
背景だけが残っている。
夏祭りの光。
金魚すくいの袋。
空白の隣で笑う母。
瀬奈はその写真を見つめていた。
表情がなかった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、そこから自分だけが抜け落ちた写真を見ていた。
晴人は何か言おうとした。
言葉が見つからなかった。
慰めは、届かない。
同情は、余計に痛い。
だから彼は、黙って彼女の隣に座った。
廊下の奥で、雨の音がした。
外は晴れているはずなのに。
瀬奈が、ようやく口を開いた。
「ねえ、水野さん」
声は平らだった。
平らすぎて、逆に危うかった。
「はい」
「私、まだここにいるよね」
晴人は彼女を見た。
瀬奈は写真から目を離さない。
「見えてるよね」
晴人は、すぐに答えた。
「見えてる」
「名前も?」
「如月瀬奈」
彼女の指が、写真の端を強く握った。
「もう一回」
「如月瀬奈」
瀬奈は小さく息を吐いた。
安心したようにも、絶望したようにも見えた。
そのとき、晴人の足元に、何かが落ちていることに気づいた。
紙片だった。
黒いノートから破れた一ページ。
さっきまでなかった。
白い紙の端が、雨に濡れたように波打っている。
晴人はそれを拾った。
文字はほとんど滲んでいた。
だが、中央に残った一行だけは読めた。
――最初の図面を探せ。
その下に、かすれた署名がある。
A・K。
如月亜紀。
瀬奈が紙片を見る。
彼女の目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「お母さんの字だ」
晴人は頷いた。
廊下の蛍光灯が、二度瞬いた。
一度目は白く。
二度目は赤く。
そして、壁の向こうから、低い音がした。
誰かが、まだ閉じた部屋の中で、写真を裏返しているような音だった。
瀬奈は立ち上がった。
膝が少し震えている。
それでも立った。
「行こう」
晴人も立ち上がる。
「どこへ」
瀬奈は紙片を握りしめた。
顔は青白い。
だが、その目だけは、さっきよりも固かった。
「最初の図面がある場所」
彼女は、閉じた壁を見た。
そこにはもう扉はない。
ただ、薄汚れた団地の壁があるだけだった。
それでも瀬奈は、そこに向かって静かに言った。
「次は、私がお母さんを忘れない」
晴人は何も言わなかった。
ただ、手の中の折り鶴を見た。
白い紙の羽の先が、ほんの少しだけ濡れていた。
雨ではない。
涙でもない。
黒いインクが、一滴だけ滲んでいる。
その滲みは、ゆっくりと文字の形になった。
橘。
晴人は息を止めた。
折り鶴の中で、結衣の声がした気がした。
『そこに、行っちゃだめ』




