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零号室  作者: 清忠
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(第三部 . 第四章 ) 最初の図面


 雨は、朝になっても止まなかった。


 団地の屋上から垂れた水が、コンクリートの壁を細い線になって流れていた。古い排水管の先で、水滴が一定の間隔で落ちる。その音だけが、まだ夜の続きのように暗い敷地に残っていた。


 晴人は車の運転席に座ったまま、フロントガラス越しに空を見ていた。


 ワイパーが動くたび、灰色の景色が一瞬だけ切り開かれる。


 そのたびに、団地の壁に黒い染みが浮かび上がった。


 まるで、閉じたはずの部屋が、まだそこにあると主張しているみたいだった。


 助手席で、瀬奈は母の字が残った紙片を両手で包んでいた。


 ――最初の図面を探せ。


 薄い紙は、乾いているはずなのに、指に貼りつくように見えた。


 彼女はそれを何度も読み返していた。読み返すたびに、表情が少しずつ削れていく。泣いてはいない。声も出していない。ただ、唇の色だけが、朝の光の中で薄くなっていた。


「少し休むか」


 晴人が言うと、瀬奈は首を横に振った。


「休んだら、忘れそうで怖い」


 短い言葉だった。


 けれど、晴人には十分だった。


 彼女が何を怖がっているのか、わかった気がした。


 眠ること。


 目を閉じること。


 目を覚ましたとき、自分が何を追っていたのか、誰を探していたのか、その輪郭が一つ消えていること。


 晴人はハンドルに置いた手を見た。


 自分も同じだった。


 昨夜、結衣の名前が戸籍から消えた。


 その事実は、紙の上で起きたことにすぎないはずだった。


 それなのに、世界そのものが少し傾いたような感覚が、まだ体の奥に残っている。


 名前が消える。


 記録が変わる。


 写真が歪む。


 人が忘れる。


 そして最後には、誰も、その人がいたことを証明できなくなる。


 晴人はスマートフォンを取り出した。


 画面には、昨夜撮った折り鶴の写真が残っている。


 白い紙の羽に滲んだ黒い文字。


 橘。


 雨粒が屋根を叩く音が、急に強くなった。


「橘さんに連絡するの?」


 瀬奈が訊いた。


 声は平らだったが、紙片を握る指に力が入っている。


「出ないだろうな」


「出たら?」


「たぶん、嘘をつく」


 瀬奈は小さく笑った。


 笑ったというより、息が少し漏れただけだった。


「じゃあ、先に図面を見る」


「どこにある」


「母のノートに、似た言葉があった」


 瀬奈はバッグから古いノートを取り出した。


 表紙の角は擦り切れ、ゴムバンドは伸びている。何度も開かれたページは、湿気を吸って波打っていた。


 彼女は迷わず、後ろのほうのページを開いた。


 そこには、細い字でいくつもの建物名が並んでいる。


 三〇四号室。


 戸籍のない男がいたアパート。


 子どもの泣き声がした押し入れのある部屋。


 そして、昨夜の団地。


 その下に、鉛筆で薄く書かれた番号があった。


 建築確認番号。


 晴人は身を乗り出した。


「これ、確認申請の番号か」


「たぶん。母は、図面を見るときは必ずこの番号を控えてた」


「区役所の建築審査課に残ってる可能性がある」


「普通は、何年も前のものは閲覧できないでしょ」


「普通ならな」


 晴人はエンジンをかけた。


 古い車の中で、低い振動が足元から伝わってくる。


 瀬奈は窓の外を見た。


 団地の一階、昨夜扉があった場所には、何もない。


 ただ、濡れた壁があるだけだった。


 しかし晴人には、一瞬だけ見えた。


 壁の下のほう。


 小さな白い紙が一枚、貼りついている。


 折り鶴ではない。


 図面の切れ端だった。


 ワイパーが視界を拭った次の瞬間、それは消えた。


「晴人さん」


 瀬奈が言った。


「何だ」


「私、昨日見た母の顔を、もう少し思い出せなくなってる」


 晴人はハンドルを握ったまま、何も答えなかった。


「目の形はわかる。声も、たぶん覚えてる。でも、笑ったときの口元が、ぼやけてる」


 彼女は紙片を胸に押し当てた。


「だから急いで」


 晴人は頷いた。


 車は濡れた団地の敷地を出た。


 バックミラーの中で、建物が少しずつ小さくなる。


 その最上階の窓に、誰かが立っていた。


 晴人は一瞬、目を細めた。


 白い服の少女ではなかった。


 髪の長い女が、窓の向こうからこちらを見ていた。


 瀬奈は振り返らなかった。


 晴人も何も言わなかった。


 今言えば、彼女はきっと戻る。


 そしてあの場所は、戻った人間を簡単には離さない。


 車は雨の中へ入っていった。



 区役所の建築審査課は、午前九時ちょうどに開いた。


 新しい庁舎の一階は明るすぎた。


 ガラス張りの壁。白い床。番号札を取る機械の電子音。雨に濡れた傘を持った人たちが、生活のための手続きに並んでいる。


 その中にいると、昨夜見た部屋も、写真の中の母も、結衣の声も、すべて悪い夢の残りかすのように思えた。


 だが、瀬奈の手にある紙片だけが、その錯覚を許さなかった。


 晴人は番号札を取った。


 瀬奈は壁際に立ち、掲示板を見ていた。


 建築確認申請書の閲覧について。


 古い紙に印刷された説明文が、透明なケースの中で少し黄ばんでいる。


「閲覧には理由がいる」


 晴人が言うと、瀬奈は答えた。


「取材」


「通らない」


「じゃあ、解体予定建築物の安全確認」


「それなら俺のほうが通りやすい」


 晴人は仕事用の名刺入れを出した。


 何度も現場で渡してきた名刺。


 肩書きは、古い建物の調査担当。


 人に説明するときは便利だった。


 けれど今は、その薄い紙が、自分を現実側につなぎ止める最後の札みたいに見えた。


 番号が呼ばれた。


 窓口の女性職員は、丁寧な笑顔で二人を見た。


「建築確認台帳の閲覧ですね」


「はい。この番号の物件について、竣工時の図面が残っているか確認したいんです」


 晴人はノートに写した番号を差し出した。


 職員は端末に入力する。


 キーボードを打つ音が、やけに乾いて聞こえた。


 画面を見ていた職員の表情が、一瞬だけ止まった。


「……こちら、古い物件ですね」


「残っていませんか」


「通常ですと、保存期間を過ぎたものは一部しか残っていないことが多いです。ただ」


 職員は画面をスクロールした。


 そして、少し首を傾げた。


「この番号、同じものが二つあります」


 瀬奈が顔を上げた。


「二つ?」


「はい。同じ確認番号で、建物名が違います」


「違う建物ということですか」


「いえ……住所は同じです。申請日も同じ。ですが、台帳上の建物名が一部違っています」


 晴人は窓口の縁に指を置いた。


「一部というのは」


 職員は画面を見たまま、言葉を探した。


「一つは、常盤第三共同住宅」


 昨夜行った団地の正式名称だった。


「もう一つは」


 職員の目が細くなる。


「常盤第三共同住宅、附属未採番室」


 空気が、一段冷えた。


 瀬奈の指が紙片を握りしめる。


「未採番室……」


 晴人は低く繰り返した。


 番号のない部屋。


 部屋でありながら、番号を与えられていないもの。


 それは、零号室という呼び名よりも、ずっと事務的で、ずっと不気味だった。


「図面は見られますか」


 晴人が訊く。


 職員は少し困った顔をした。


「データ化されているものなら閲覧可能ですが、原本は地下保管庫です。古いので、出せるかどうか確認します」


「お願いします」


「少々お待ちください」


 職員は席を立った。


 カウンターの奥へ消える。


 その背中を見送りながら、瀬奈は小さく言った。


「未採番室って、役所の記録に残る言葉なの」


「普通は使わない」


「じゃあ、誰かがそう書いた」


「ああ」


 晴人は窓口の向こうにあるコピー機を見た。


 誰かが住民票をコピーしている。


 白い光が、ガラス面の上を横切った。


 その光が一瞬、瀬奈の顔を青白く照らした。


「最初の図面」


 彼女は呟いた。


「母は、それを見たんだと思う」


「そして、戻れなくなった」


 瀬奈は返事をしなかった。


 ただ、紙片をバッグの奥にしまった。


 しまうとき、指が少し震えていた。


 十分ほどして、さっきの職員が戻ってきた。


 その手に、薄い閲覧申請書がある。


「お待たせしました。地下の保管庫に、紙の図面袋が残っているようです」


 瀬奈の目が動いた。


「見られますか」


「ただし、状態がよくないため、職員立ち会いで閲覧室をご利用いただく形になります。撮影は禁止です。複写も、状態によってはできません」


「構いません」


 晴人が答えた。


 職員は申請書を差し出した。


「こちらにお名前と閲覧目的をご記入ください」


 晴人はペンを取った。


 名前を書く。


 水野晴人。


 書いた瞬間、インクが紙の上で少し滲んだ。


 役所の安いボールペンのせいだと思った。


 だが、次の行に瀬奈が名前を書いたとき、滲みは起きなかった。


 晴人は自分の名前を見た。


 水野の「水」の一画だけが、黒く太くなっている。


 まるで、誰かがそこを消そうとして、途中でやめたみたいだった。


「晴人さん?」


 瀬奈が見ている。


「何でもない」


 晴人はペンを置いた。


 職員は申請書を受け取ると、カウンター横の扉を開けた。


「こちらへどうぞ」


 扉の向こうは、庁舎の明るさから切り離された細い廊下だった。


 床の色が急に暗くなる。


 蛍光灯の間隔も広い。


 一歩入っただけで、空気が少し古くなった。


 瀬奈が息を吸った。


「似てる」


「何に」


「部屋の前の空気」


 晴人は答えなかった。


 廊下の奥に、地下へ降りる階段があった。


 職員の靴音が、先に沈んでいく。


 晴人と瀬奈は、その後を追った。



 地下保管庫の閲覧室は、窓のない部屋だった。


 長机が一つ。


 古い蛍光灯が二本。


 壁際には、金属製の棚が並び、箱と図面袋が年代ごとに積まれている。


 空気は紙の匂いで満ちていた。


 乾いた紙。


 古い糊。


 少しだけ錆びた金属。


 そして、どこかで嗅いだことのある、焦げた匂い。


 晴人は無意識に足を止めた。


 瀬奈も同じ匂いに気づいたのか、眉をひそめる。


「火事の記録室みたい」


 彼女が言った。


「ここは建築書類の保管庫です」


 職員はそう説明したが、声は少し小さくなっていた。


 彼女自身も、この部屋の空気を好きではないのだろう。


 奥の棚から、一人の年配職員が図面袋を抱えて出てきた。


 袋は茶色く変色し、紐で縛られている。


 表には、黒いスタンプで古い確認番号が押されていた。


 その下に、手書きの文字。


 常盤第三共同住宅。


 さらに小さく、別の筆跡で書き足された文字がある。


 附属未採番室。


 瀬奈が息を呑んだ。


 年配職員は図面袋を机の上に置いた。


「かなり古いものです。破損しやすいので、ページをめくるときはこちらで補助します」


「わかりました」


 晴人は椅子に座らなかった。


 座ると、何かを見落とす気がした。


 年配職員が紐をほどく。


 乾いた音がした。


 袋の中から、折りたたまれた大判の図面が数枚出てくる。


 一枚目。


 配置図。


 二枚目。


 立面図。


 三枚目。


 各階平面図。


 瀬奈は無言で目を走らせた。


 晴人も横から覗き込む。


 普通の団地だ。


 廊下。階段。住戸。設備室。ゴミ置き場。


 どこにも、昨夜の部屋はない。


 どこにも、写真の中の母が立っていた部屋は描かれていない。


「これじゃない」


 瀬奈が言った。


 声が硬い。


 年配職員は困ったように笑った。


「閲覧できるのは、これがすべてのはずですが」


「台帳には、もう一つあると出ていました」


 瀬奈が食い下がる。


「未採番室のほうです」


 年配職員は首を傾げた。


「未採番室……?」


 さっきの女性職員が端末を確認しようとした。


 しかし地下閲覧室には端末がない。


 年配職員は図面袋の表を見た。


「たしかに書き込みはありますね。ただ、図面自体には……」


 そのとき、長机の下で、かさり、と音がした。


 晴人は足元を見た。


 何もない。


 もう一度、かさり。


 紙が擦れる音。


 瀬奈も下を見る。


 机の下の暗がり。


 そこに、一枚の紙が落ちていた。


 いつからあったのか。


 白くない。


 青焼きの図面だった。


 年配職員が眉をひそめる。


「おかしいな。さっきは……」


 晴人はしゃがんだ。


 手を伸ばす。


 図面に触れる直前、指先が冷たくなった。


 紙ではないものに触れるような感覚。


 水面。


 あるいは、誰かの記憶。


「待って」


 瀬奈が言った。


 晴人の手が止まる。


 彼女は机の反対側からしゃがみ、自分も手を伸ばした。


「一緒に」


 晴人は頷いた。


 二人の指先が、同時に青焼きの端に触れる。


 その瞬間、閲覧室の蛍光灯が一度だけ消えた。


 完全な暗闇。


 そして、すぐに点いた。


 女性職員が小さく悲鳴を上げる。


 年配職員は固まったまま、天井を見ている。


 晴人と瀬奈の手には、一枚の図面があった。


 紙は濡れていない。


 だが、ひどく冷たかった。


 晴人は立ち上がり、慎重に机の上へ広げた。


 青い紙に、白い線が浮かび上がる。


 古い図面。


 だが、他の図面よりも線が細い。


 手描きの跡が残っている。


 タイトル欄には、こう書かれていた。


 常盤第三共同住宅 初期案。


 瀬奈の喉が鳴った。


「最初の図面……」


 晴人は図面の中央を見る。


 建物の形は、現在の団地とほとんど同じだった。


 住戸の配置も、階段の位置も、廊下の長さも、昨夜歩いた記憶と一致する。


 しかし一か所だけ、明らかに違っていた。


 一階の西端。


 廊下の突き当たり。


 そこには、四角い空白が描かれている。


 部屋のようで、部屋ではない。


 壁はある。


 だが、扉がない。


 窓もない。


 番号もない。


 ただ、その四角の中央に、小さく「0」とだけ書かれていた。


 職員二人は黙っていた。


 さっきまでの役所の空気が、部屋から消えていた。


 ここにいる全員が、その数字を見てはいけないものとして理解している。


 晴人は図面の端に目を移した。


 余白に、赤い鉛筆で小さな注記がある。


 ――扉は、後から現れる。


 背中に冷たいものが走った。


 瀬奈は震える指で、その文字を指した。


「これ、建築の注記じゃない」


「ああ」


「誰がこんなものを……」


 瀬奈の声が途切れた。


 図面の右下に、設計者欄がある。


 古い印影。


 少し欠けているが、読めないわけではない。


 晴人はそこに目を落とした。


 だが、印影の文字は一部が滲んでいた。


 立――建築設計室。


 下の名前は、まだ読めない。


 瀬奈がバッグから母の紙片を取り出した。


 紙片に書かれた「最初の図面を探せ」という文字を、図面の余白に重ねる。


 すると、紙片の端がかすかに震えた。


 まるで磁石に引かれるみたいに。


 晴人は息を止めた。


 紙片の裏側に、これまで見えていなかった線が浮かび上がる。


 瀬奈が紙を裏返した。


 そこには、母の細い字で、もう一文が書かれていた。


 ――設計者を信じるな。


 瀬奈の顔から血の気が引いた。


「お母さん……」


 その声に、閲覧室の空気が小さく震えた。


 年配職員が慌てて言う。


「すみません、その図面はどこから……」


 言いかけたところで、彼は黙った。


 なぜなら、図面袋の中に入っていた図面の枚数と、今机の上に広げられている図面の枚数が、どう見ても合わなくなっていたからだ。


 彼は自分の手元を見る。


 そして、小さく首を振った。


「いや……違う。私は、これを出した……?」


 女性職員も顔を青くしている。


「さっき、机の下に落ちて……」


「落ちていた?」


 年配職員は彼女を見る。


「何がですか」


 女性職員の口が止まった。


 彼女はもう、さっき何を見たのかを忘れ始めていた。


 晴人は瀬奈と目を合わせる。


 時間がない。


 この図面も、見ている人間の記憶から剥がれ落ちていく。


「写すぞ」


 晴人は囁いた。


「撮影禁止だって」


「覚えて帰れる保証がない」


 瀬奈は一瞬だけ迷った。


 そして、自分のノートを開いた。


 カメラではない。


 手で写す。


 彼女は図面の形、0の位置、赤い注記を一気に書き留め始めた。


 晴人も仕事用の手帳を出す。


 図面を見る。


 線を記録する。


 だが、不思議なことに、見ているはずの線がすぐに頭から抜け落ちる。


 四角がどちら側にあったのか。


 廊下の長さは何メートルだったのか。


 0の位置は中央だったか、少しずれていたか。


 見ているのに、覚えられない。


 まるで図面そのものが、記憶に残ることを拒んでいる。


「瀬奈」


「わかってる」


 瀬奈はペンを走らせる。


 強く書きすぎて、紙が少し破れた。


 彼女は止まらなかった。


 晴人は図面のタイトル欄を見た。


 最初の図面。


 その下に、小さな文字がある。


 用途。


 共同住宅。


 構造。


 鉄筋コンクリート造。


 階数。


 地上五階。


 そして、備考欄。


 そこに、信じられない言葉が書かれていた。


 記憶保管領域。


 晴人の手が止まる。


 建築図面にあるはずのない言葉だった。


 設備室でもない。


 倉庫でもない。


 避難スペースでもない。


 記憶を保管する領域。


 誰の記憶を。


 何のために。


 瀬奈もその文字に気づいた。


 ペン先が、紙の上で止まる。


「母は、これを見た」


「ああ」


「だから、部屋のことを調べ始めた」


「たぶん」


「違う」


 瀬奈は首を横に振った。


「母は、調べ始めたんじゃない。巻き込まれたんだ」


 晴人は図面の中央にある0を見た。


 その数字が、ゆっくりと濃くなっている気がした。


 青焼きの白い線の中で、そこだけが黒く沈んでいく。


「水野さん」


 年配職員が言った。


 晴人は顔を上げる。


「この図面、閲覧記録にありません」


「ありません?」


「はい。少なくとも、台帳上は存在しません」


 職員は図面袋の表を見た。


 そして、また困った顔をする。


「でも、たしかに今ここにある」


 晴人は何も言わなかった。


 そういうものを、彼はもう何度も見てきた。


 ある。


 だが記録されていない。


 見える。


 だが誰も覚えていられない。


 人と同じだ。


 部屋もまた、忘れられることで存在している。



 閲覧室の時計は、十時十八分で止まっていた。


 晴人が気づいたのは、瀬奈が三枚目のメモを書き終えたときだった。


 壁の時計の秒針が、同じ位置で震えている。


 進まない。


 戻らない。


 小さく痙攣するだけ。


「ここ、時間が止まってる」


 晴人が言うと、瀬奈は時計を見た。


 彼女は驚かなかった。


「止まってるんじゃない」


「何だ」


「ずっと同じ瞬間を保存してる」


 その言い方が、晴人の胸に引っかかった。


 記憶保管領域。


 保存。


 部屋は過去を再生しているだけではない。


 どこかに保管している。


 誰かの後悔を。


 誰かの死を。


 誰かが変えたいと願った、一瞬を。


 瀬奈はメモを閉じた。


「もう一つ、見たいものがある」


「何だ」


「母の名前」


 晴人は図面の隅を見る。


 設計者欄の周囲には、申請者、代理者、構造設計者の欄が並んでいる。


 瀬奈はその一つ一つを確認した。


 如月亜紀の名はない。


 彼女は少し肩を落とした。


 しかし、そのままでは終わらなかった。


 図面の裏を見たい、と彼女は言った。


 年配職員は難色を示した。


「裏面は紙が傷むので……」


「一瞬でいいんです」


「規則上」


「お願いします」


 瀬奈の声は静かだった。


 だが、そこには強さがあった。


 誰かを説得するための声ではない。


 失われたものの前に立つ人間の声だった。


 年配職員は彼女を見た。


 何か言おうとして、やめた。


「……端だけなら」


 彼は白い手袋をつけ、図面の右端を慎重に持ち上げた。


 裏面には、何もないように見えた。


 ただの青い紙。


 薄く透けた線。


 しかし、瀬奈は目を凝らした。


「そこ」


 彼女が指したのは、右下の角だった。


 紙の繊維に埋もれるように、小さな鉛筆書きがある。


 晴人は顔を近づけた。


 文字はほとんど消えている。


 だが、読めた。


 A・K 確認済。


 瀬奈は動かなかった。


 A・K。


 如月亜紀。


 母は、この図面を見ただけではない。


 確認していた。


 承認したのか。


 止めようとしたのか。


 それとも、誰かに見せられたのか。


「お母さんは、被害者だけじゃなかったのかもしれない」


 晴人が言うと、瀬奈はゆっくり首を振った。


「まだ、わからない」


 声は硬い。


 自分に言い聞かせている声だった。


「でも、母はここに来た。十五年前じゃない。もっと前から、部屋のことを知ってた」


「この団地が建ったときからか」


「たぶん」


 瀬奈の指が、紙片の端をなぞる。


「それなら、母が消えた理由も、最初からここにあった」


 そのとき、図面の上の0が、少し歪んだ。


 晴人は瞬きをした。


 数字の内側に、暗い影が見える。


 部屋の内部だ。


 畳ではない。


 コンクリートの床。


 裸電球。


 そして、壁際に置かれた小さな椅子。


 椅子の上に、誰かが座っている。


 大人ではない。


 子どもでもない。


 影だけが、そこにある。


 晴人は思わず図面から手を引いた。


「どうしたの」


 瀬奈が訊く。


「中が見えた」


「中?」


「この0の中に、部屋があった」


 瀬奈は図面を見る。


 しかし彼女には見えていないようだった。


「誰かいた?」


「ああ」


「結衣ちゃん?」


 晴人は首を横に振った。


「違う」


 彼の声は、自分でもわかるほど低かった。


「もっと古い」


 瀬奈は黙った。


 その沈黙の中で、晴人は理解した。


 結衣が最初ではない。


 瀬奈の母も最初ではない。


 あの部屋は、ずっと前から誰かを見ていた。


 誰かの後悔を、待っていた。



 昼前になっても、雨は弱まらなかった。


 区役所の外に出ると、車道の水たまりに信号の赤が滲んでいた。


 人々は傘を差し、濡れないように足早に通り過ぎていく。


 世界は、何も知らない顔をして動いていた。


 瀬奈は庁舎の庇の下でノートを開いた。


 濡れた空気の中で、手書きの線が少し滲みかけている。


 彼女はページをめくり、さっき写した図面を確認した。


 0の位置。


 赤い注記。


 記憶保管領域。


 A・K。


 そして、かすれた設計者欄。


「読めなかった」


 瀬奈が言った。


「設計者名か」


「立、までは見えた。でもその先が……」


「橘だろう」


「そう思う。でも、証拠がいる」


 晴人はスマートフォンを出した。


 橘礼司の番号を呼び出す。


 以前登録したはずの連絡先。


 だが、画面には名前が出なかった。


 通話履歴にもない。


 数日前、たしかに会った。


 話した。


 「部屋は救わない」と言った老人。


 その履歴が、端末から消えている。


 晴人は眉を寄せた。


「消えた」


「何が」


「橘さんの番号」


 瀬奈はスマートフォンを覗き込んだ。


「私のも確認する」


 彼女は自分の端末を操作した。


 画面を見たまま、表情が硬くなる。


「ない」


 雨音が強くなる。


 庇の先から水が糸のように落ちていた。


「忘れられてるのは人だけじゃない」


 瀬奈が言った。


「記録も、関係も、接点も消される」


「でも名前は出た」


「折り鶴に?」


「ああ」


 晴人はポケットから折り鶴を出した。


 白い紙の羽は、乾いていた。


 黒いインクの文字も、まだ残っている。


 橘。


 瀬奈はそれを見つめた。


「結衣ちゃんは、止めようとしてるのかな」


「わからない」


「でも、知らせてもいる」


 晴人は折り鶴を見た。


 そこに結衣の意志があるのか。


 それとも、部屋が結衣の形を借りて、こちらを誘導しているのか。


 答えは出ない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 結衣は、橘という名前を見せた。


 そして瀬奈の母は、設計者を信じるなと残した。


「橘建築設計事務所」


 瀬奈が呟いた。


「まだあると思う?」


「廃業してるかもしれない。でも登記は残ってる」


「調べられる?」


「仕事柄、建築士登録なら当たれる」


 晴人は言ってから、自分の言葉に少し違和感を覚えた。


 仕事柄。


 その仕事が、最初に彼を三〇四号室へ連れていった。


 偶然だったのか。


 それとも、誰かがそうなるようにしたのか。


 瀬奈はノートを閉じた。


「行こう」


「どこへ」


「橘さんの事務所」


「場所はまだわからない」


「わかるよ」


 彼女は母のノートを開いた。


 後ろのページ。


 そこに、小さな住所が書かれていた。


 新宿区若葉町。


 橘建築設計事務所。


 その横に、母の字で一言だけ添えられている。


 会うな。


 晴人はその文字を見た。


 瀬奈は、しばらく黙っていた。


 それから、ノートを閉じた。


「母は、会うなって書いた」


「ああ」


「でも、探せとも書いた」


「矛盾してる」


「母らしい」


 瀬奈は少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに雨の音に溶けた。


「危ない場所には近づくなって言いながら、危ないものの場所だけは全部メモしてた」


 晴人は言葉を返さなかった。


 代わりに車の鍵を取り出した。


 二人は雨の中を駐車場へ向かった。


 その途中で、瀬奈の足が止まった。


「晴人さん」


「何だ」


「さっきの職員さんたち、私たちのこと覚えてるかな」


 晴人は庁舎の入口を振り返った。


 窓口の向こうで、さっきの女性職員が別の来庁者に説明している。


 その表情は、最初に会ったときと同じだった。


 何も見なかった顔。


 何も知らない顔。


 晴人は小さく息を吐いた。


「確認するか」


 瀬奈は首を横に振った。


「いい」


「いいのか」


「覚えてなかったら、怖い」


 彼女は歩き出した。


「覚えてたら、もっと怖い」


 晴人はその後を追った。


 駐車場の水たまりに、二人の姿が映る。


 一瞬、そこに三人目の影が重なった。


 小さな少女の影。


 晴人が振り返ると、誰もいなかった。


 ただ、車のフロントガラスに、小さな白い折り鶴が置かれていた。


 今朝までは、なかった。


 瀬奈もそれに気づいた。


 晴人は折り鶴を手に取る。


 濡れていない。


 羽の内側に、細い文字があった。


 ――図面は、まだ一枚足りない。


 晴人の背筋が冷えた。


 瀬奈は何も言わなかった。


 ただ、母のノートを強く抱いた。



 車の中で、瀬奈は何度も自分のノートを確認した。


 しかし、ページをめくるたび、写し取った図面の線が少しずつ違って見えた。


 最初は一階の西端にあったはずの0が、次に見たときには階段脇へずれている。赤い注記の文字も、「扉は、後から現れる」だったはずなのに、今は「扉は、必要になった時に現れる」と読めた。


 さらに数分後には、そこに書かれていたのは「扉は、求めた者にだけ開く」になっていた。


 瀬奈はペンで乱暴に訂正線を引いた。


「違う」


 彼女は呟いた。


「私が書き間違えたんじゃない」


 晴人は赤信号で車を止めた。


 ワイパーが一定の間隔で動いている。


 雨は窓を叩き、街の輪郭をぼかしていた。


「図面のほうが変わってる」


「紙に写した後でも?」


「たぶん、記憶に触れたものは全部」


 瀬奈はノートを閉じた。


 それから、両手で表紙を押さえた。


 まるで、その中に閉じ込めたものが逃げ出さないように。


「写真も変わった。戸籍も変わった。だったら、メモだって変わる」


 晴人は青信号になった交差点を進んだ。


 車の列が、濡れたアスファルトの上を静かに流れていく。


 瀬奈の言葉は正しかった。


 記録は安全ではない。


 むしろ、記録されたものから先に書き換えられる。


 だったら、何を信じればいいのか。


 記憶か。


 しかし記憶こそが、一番脆い。


 晴人は助手席の足元に置かれた瀬奈のバッグを見た。


 中には母のノートがある。


 如月亜紀の筆跡。


 あの字だけは、まだ変わっていないように見えた。


「お母さんのノートは、どうして残ってる」


 晴人が言うと、瀬奈はしばらく黙った。


「わからない」


「部屋に関係するものは消える。なのに、あのノートだけは残ってる」


「母が、残るようにしたのかもしれない」


「どうやって」


「忘れられる前提で、書いた」


 瀬奈は窓の雨を見た。


「たぶん母は、自分の記憶を信用してなかった。だから同じことを何度も書いてる。少し言い方を変えて、別のページに。名前も、住所も、見たものも。どれか一つが消えても、別の書き方が残るように」


 晴人は、母のノートの分厚さを思い出した。


 あれは調査記録ではない。


 忘却に対する抵抗だった。


 自分が何を見たのか。


 誰を愛していたのか。


 誰を助けたかったのか。


 それを未来の自分に向けて、何度も何度も書き残したものだった。


「瀬奈」


「何」


「お母さんの名前、言えるか」


 彼女はすぐには答えなかった。


 雨音だけが車内に落ちる。


 少しして、瀬奈は口を開いた。


「如月亜紀」


 声ははっきりしていた。


 だが、そのあと彼女は苦しそうに息を吸った。


「……今、一瞬だけ詰まった」


 晴人はハンドルを握る手に力を込めた。


「毎回、言え」


「え?」


「不安になったら、名前を言え。声に出せ。何度でも」


 瀬奈は晴人を見た。


 そして、小さく頷いた。


「如月亜紀」


 彼女はもう一度言った。


「私の母。十五年前に消えた。都市伝説の記事を書いていた。零号室を調べていた。私を、忘れなかった」


 最後の言葉だけ、少し揺れた。


 晴人は前を見たまま答えた。


「忘れてない」


「誰が」


「君が」


 瀬奈は目を伏せた。


 それから、自嘲するように笑った。


「忘れないって、難しいね」


「ああ」


「晴人さんは、結衣ちゃんのことを忘れたことある?」


 心臓の奥を、細い針で刺されたようだった。


 晴人はすぐに答えられなかった。


 忘れたことはない。


 そう言いたかった。


 しかし、その言葉は喉で止まった。


 結衣の顔。


 声。


 小さな手。


 折り鶴を失敗して笑った顔。


 そのすべてを覚えているつもりだった。


 でも本当に、全部覚えているのか。


 火事の日、彼女が何を言ったのか。


 自分がどこにいたのか。


 誰が先に叫んだのか。


 肝心なところだけが、いつも煙の中にある。


「忘れようとしたことならある」


 晴人はようやく言った。


「忘れられた?」


「無理だった」


「じゃあ、まだ大丈夫」


 瀬奈はノートを膝に置いた。


「忘れようとしても忘れられないものは、たぶん、まだその人が残ってる証拠だから」


 晴人は返事をしなかった。


 信号待ちで車が止まる。


 横断歩道を、小学生の列が渡っていった。


 黄色い帽子。


 濡れたランドセル。


 透明な傘。


 その列の最後に、白いワンピースの少女がいた。


 晴人は思わず息を呑んだ。


 結衣。


 しかしワイパーが動いた次の瞬間、そこには誰もいなかった。


 信号が青に変わる。


 後ろの車が軽くクラクションを鳴らした。


 晴人は車を出した。


 瀬奈は何も訊かなかった。


 見えていたのかもしれない。


 見えていなかったのかもしれない。


 どちらにしても、今は止まれなかった。



 二人は一度、駅前の小さな喫茶店に入った。


 雨宿りというより、ノートを確認するためだった。


 店内は古かった。


 木目のテーブル。壁に掛かった振り子時計。カウンターの奥で、年配の店主が新聞を畳んでいる。昼前なのに客は少なく、窓際の席に濡れた傘が二本立てかけられた。


 コーヒーの匂いがした。


 その匂いだけが、現実のものだった。


 瀬奈はテーブルいっぱいにノートを広げた。


 母のノート。


 自分のメモ。


 晴人の手帳。


 折り鶴。


 どれも濡れないよう、彼女は一枚ずつ丁寧に置いた。


「同じ形を、三回書いてみる」


 瀬奈は新しいページを開いた。


「記憶だけで?」


「そう。図面を見ないで書く。私と晴人さんで別々に」


 晴人は頷いた。


 二人は向かい合って、無言でペンを走らせた。


 団地の配置。


 廊下の突き当たり。


 0の空白。


 扉のない四角。


 晴人は仕事で何百枚もの図面を見てきた。建物の形を記憶し、現地と照合することには慣れている。


 それでも、線はうまく引けなかった。


 手が迷う。


 まっすぐな廊下のはずなのに、なぜか途中で曲げたくなる。


 0の部屋は西端にあったはずなのに、紙の上では中央へ寄っていく。


 扉はない。


 なのに、気づくと小さな開口を描いている。


 晴人はペンを止めた。


 瀬奈も同じタイミングで止める。


 二人は互いの図を見せ合った。


 違っていた。


 だが、一か所だけ同じだった。


 0の部屋の横に、二人とも無意識に小さな階段を描いていた。


 閲覧室の図面には、そんな階段はなかった。


「これ、描いた?」


 瀬奈が自分のメモを指す。


「覚えてない」


「私も」


 晴人は母のノートを開いた。


 建物名の一覧が書かれたページ。


 その余白に、小さな階段の絵があった。


 矢印。


 下へ。


 そして、短い文字。


 地下に降りるな。


 瀬奈はその文字を見たまま、しばらく動かなかった。


「団地に地下なんて、なかったよね」


「少なくとも、表の図面にはない」


「でも、最初の図面にはあったのかも」


「さっきの折り鶴の言葉」


 晴人はテーブルの上の折り鶴を見る。


 ――図面は、まだ一枚足りない。


 瀬奈は母のノートを強く押さえた。


「その一枚が、地下の図面」


「かもしれない」


 店主がコーヒーを運んできた。


 二人は咄嗟にノートを閉じる。


 店主は何も訊かなかった。


 ただ、カップを置くときに、折り鶴を見た。


「ああ」


 彼が小さく声を漏らした。


 晴人が顔を上げる。


「何か」


 店主は折り鶴を見つめていた。


「昔、これをよく置いていく人がいました」


 瀬奈の肩が小さく動いた。


「誰ですか」


「名前は……」


 店主は眉を寄せた。


 記憶を探す顔。


 だが、探したものが見つからない顔。


「すみません。思い出せません。女の人だった気がするんですが」


 瀬奈は息を止めた。


「髪を一つに結んでいましたか」


「そうだったかもしれません」


「ノートを持っていましたか」


 店主は少し驚いたように瀬奈を見た。


「ええ。いつも、何かを書いていました」


 瀬奈の指が、膝の上で握られる。


「その人、ここで誰かと会っていましたか」


 店主はカウンターの方を振り返った。


 壁の振り子時計が、ぎい、と鳴った。


「年配の男性と、何度か」


「名前は」


「それが……」


 店主は困ったように笑った。


「顔は浮かぶのに、名前だけがどうしても出てこない」


 晴人は瀬奈を見た。


 同じだ。


 橘の名前は、周囲から消え始めている。


 いや、もしかすると最初からそうだったのかもしれない。


 誰も彼の名前を長く覚えていられない。


 だから彼は、部屋に関わり続けることができた。


 誰にも、完全には捕まらずに。


 店主はカウンターに戻りかけたが、ふと思い出したように立ち止まった。


「でも、その男性が置いていったものなら、まだあります」


 瀬奈が顔を上げる。


「何ですか」


「忘れ物です。ずっと取りに来ないので、奥にしまってあります」


 店主は厨房の奥へ消えた。


 瀬奈は晴人を見る。


 晴人は小さく頷いた。


 やがて店主は、細長い紙筒を持って戻ってきた。


 古い製図用の筒だった。


 表面は黒く、端に銀色の金具がついている。


 白いラベルには、かすれた文字でこう書かれていた。


 T・R。


 晴人の胸が沈む。


 橘礼司。


「開けても?」


 瀬奈が訊くと、店主は迷った。


「本当は持ち主に返すべきなんでしょうが、もう二十年以上になりますから」


 二十年以上。


 常盤第三共同住宅の建設時期と重なる。


 瀬奈は慎重に筒のふたを外した。


 中には、丸められた紙が一枚入っていた。


 図面ではなかった。


 写真だった。


 大判に引き伸ばされた、建設現場の写真。


 未完成の団地。


 コンクリートの柱。


 むき出しの鉄筋。


 その奥に、まだ壁で閉じられる前の小さな空間がある。


 扉はない。


 窓もない。


 しかしその空間の前に、人が立っていた。


 若い如月亜紀。


 若い橘礼司。


 そして、もう一人。


 小さな女の子。


 晴人は写真に顔を近づけた。


 女の子の顔は、光の反射でよく見えない。


 だが、その手には白い折り紙が握られていた。


「この子……」


 瀬奈が呟いた。


 晴人は返事をしなかった。


 できなかった。


 写真の隅に書かれた日付は、一九九八年。


 結衣が生まれるより前だ。


 それなのに、写真の中の少女は、結衣と同じように折り紙を持っていた。


 店の振り子時計が、十二回鳴った。


 その音が鳴り終わる前に、写真の中の少女の顔が少しだけこちらを向いた気がした。


 瀬奈は写真から手を離した。


「これ、持って行ってもいいですか」


 店主は不思議そうに首を傾げた。


「何をですか」


 瀬奈の顔がこわばる。


 店主の視線は、テーブルの上を素通りしていた。


 彼には、もう紙筒も写真も見えていない。


 晴人は素早く写真を丸め、筒に戻した。


「すみません。会計を」


 店主は、少しぼんやりした顔で頷いた。


 瀬奈は黙って母のノートをバッグにしまった。


 店を出る直前、彼女は振り返った。


 テーブルの上には、コーヒーカップが二つ。


 その間に、白い折り鶴が一羽だけ残っていた。


 さっきまで晴人のポケットに入っていたはずのものだった。


 羽の内側には、新しい文字が浮かんでいた。


 ――会えば、思い出す。


 瀬奈はそれを読んだ。


 そして、声を出さずに唇だけで母の名前を言った。


 如月亜紀。


 晴人は折り鶴を取った。


 紙は、ほんの少し温かかった。



 橘建築設計事務所は、古い商店街の外れにあった。


 新宿区若葉町。


 大通りから一本入ると、急に街の音が遠くなる。


 雨に濡れた電線が低く垂れ、古い看板が軒先で揺れていた。シャッターを下ろした店が多い。クリーニング店の白い蛍光灯だけが、昼間なのに暗い路地を細く照らしている。


 その奥に、三階建ての小さなビルがあった。


 一階は空き店舗。


 ガラス扉の内側に、古い郵便受けが並んでいる。


 その一つに、手書きのプレートが貼られていた。


 橘建築設計事務所。


 文字は古い。


 だが、埃は積もっていなかった。


 最近、誰かが拭いたのだ。


 晴人はビルの入口に立ち、上を見上げた。


 二階の窓に、明かりはない。


 三階のカーテンは閉まっている。


「ここに来たことある?」


 瀬奈が訊く。


「ない」


「なのに、知ってる顔してる」


 晴人は返事に困った。


 たしかに、初めての場所という感じがしなかった。


 階段の位置。


 郵便受けの錆。


 入口の床にあるひび割れ。


 どれも、以前どこかで見た気がする。


 夢の中か。


 それとも、誰かの記憶の中か。


 瀬奈はインターホンを押した。


 反応はない。


 もう一度押す。


 古いベルの音が、建物の中で鈍く響いた。


 返事はない。


「不在か」


 晴人が言うと、瀬奈は郵便受けを見た。


 中に、郵便物は一枚もない。


 しかし扉の隙間から、白い紙片が少しだけ覗いていた。


 瀬奈は指でつまみ、取り出した。


 小さな紙。


 名刺だった。


 古いものではない。


 真新しい白い名刺。


 そこには、はっきりと印刷されていた。


 橘建築設計事務所


 一級建築士 橘礼司


 晴人はその名前を見た。


 胸の奥で、何かが重く沈んだ。


 設計者。


 あの図面の右下に、滲んで読めなかった名前。


 瀬奈の母が、信じるなと残した相手。


 そして、晴人に「部屋は救わない」と言った老人。


 すべてが、同じ一点に重なった。


 瀬奈は名刺を裏返した。


 裏面には、手書きの文字があった。


 待っていました。


 その下に、細い矢印。


 上へ。


 階段の奥から、ぎい、と音がした。


 誰かが、上の階で扉を開けた音だった。


 晴人は瀬奈の前に出た。


「下がってろ」


「嫌」


 即答だった。


 瀬奈は名刺を握りしめる。


「ここまで来て、下がらない」


 晴人は何か言おうとして、やめた。


 彼女の目を見れば、わかった。


 止めても無駄だ。


 二人は階段を上がった。


 一段上がるごとに、外の雨音が遠ざかっていく。


 壁には古い建築写真が何枚も掛かっていた。


 解体前の団地。


 木造アパート。


 古いマンションの廊下。


 見覚えのある建物が混じっている。


 三〇四号室のあったアパート。


 押し入れの奥に扉があった部屋。


 戸籍のない男が住んでいた家。


 すべて、橘建築設計事務所の壁に掛かっていた。


 瀬奈が息を呑む。


「全部……」


「関係してたんだ」


 晴人は低く言った。


 階段の踊り場に、一枚だけ額に入っていない写真があった。


 古い白黒写真。


 若い男が、建設中の団地の前で立っている。


 その横に、若い女性がいる。


 髪を一つに結び、手にノートを持っている。


 瀬奈の足が止まった。


「お母さん」


 写真の中の若い如月亜紀は、カメラを見ていなかった。


 彼女は、若い男の手元にある図面を見ている。


 その目は、怯えていた。


 晴人は写真の下を見る。


 小さな紙片に、撮影年と場所が書かれている。


 一九九八年 常盤第三共同住宅 初期現場確認。


 瀬奈の呼吸が乱れた。


「母は、ここにいた」


 晴人は写真の若い男を見る。


 今より背筋が伸び、髪も黒い。


 だが、目元は変わらない。


 静かで、礼儀正しくて、奥に何かを隠している目。


 橘礼司。


 瀬奈は写真に手を伸ばした。


 その瞬間、二階の奥から声がした。


「触らないほうがいい」


 二人は同時に振り返った。


 廊下の奥。


 半開きの扉の前に、老人が立っていた。


 白いシャツに、灰色のカーディガン。


 杖は持っていない。


 それでも、その立ち姿はひどく古い建物のように見えた。


 橘礼司は、静かに二人を見ていた。


「写真は、残りたがらないものを無理に留めています」


 彼は穏やかに言った。


「長く見つめると、向こう側がこちらを覚えてしまう」


 瀬奈は一歩前に出た。


「あなたが、設計者ですね」


 橘は答えなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せた。


 その沈黙が、答えだった。


 晴人はポケットの中で折り鶴を握りしめた。


 紙の角が指に食い込む。


「最初の図面を見ました」


 橘の眉が、ほんのわずかに動いた。


「そうですか」


「そこに、あなたの名前があった」


 橘はゆっくり顔を上げた。


 廊下の蛍光灯が一度だけ瞬く。


 その白い光の下で、老人の顔はひどく疲れて見えた。


「名前だけなら」


 彼は言った。


「消えてくれればよかったのですが」


 瀬奈の手の中で、名刺が小さく震えた。


 晴人は息を止める。


 橘は扉を少し開けた。


 中は暗い。


 だが、その奥に大きな製図台が見えた。


 その上に、青焼きの図面が一枚広げられている。


 右下に、はっきりと印が押されていた。


 橘礼司。


 そして、中央の空白に、小さく赤い文字がある。


 零号室。


 橘は、穏やかな声で言った。


「入りますか。水野さん」


 晴人は動けなかった。


 老人の視線は、晴人ではなく、彼のポケットを見ていた。


 そこにある折り鶴を知っている目だった。


 橘は続けた。


「それとも、今日はまだ、妹さんの話を聞く勇気がありませんか」


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