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零号室  作者: 清忠
23/35

(第三部 . 第五章 ) 建築士の娘

 古い写真は、時間の匂いを閉じ込めている。


 それを知らなかったわけではない。


 けれど、その朝、晴人は初めて思った。


 写真に写っているのは、過去ではない。


 誰かが忘れずにいようとした、最後の抵抗なのだと。


 瀬奈が持ってきた封筒は、前の晩と同じようにテーブルの上に置かれていた。


 中には、最初の図面のコピーが入っている。


 黄ばんだ紙。


 角の折れた線。


 薄く掠れた青焼きの跡。


 そして右下に、小さく記された名前。


 橘礼司。


 晴人は何度もその文字を見た。


 見れば見るほど、文字の輪郭だけが部屋の中で浮かび上がっていくようだった。


 窓の外では、朝から細い雨が降っていた。


 マンションの向かいのビルの壁を、雨粒が縦に流れている。空は低く、街全体が濡れた灰色の布を被せられたみたいだった。


 キッチンの蛍光灯が、一度だけ小さく瞬いた。


 晴人は反射的に顔を上げた。


 何もない。


 ただ、古い照明が音もなく光を戻しただけだった。


 それでも、胸の奥に残った冷たさは消えなかった。


「寝てないでしょ」


 瀬奈が言った。


 彼女は窓際の床に座り、ノートパソコンを膝に置いていた。髪はまだ少し濡れている。朝早くから資料を取りに出ていたらしい。


「お前もだろ」


「私は慣れてる」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題よ。慣れてない人から先に壊れる」


 瀬奈は画面から目を離さないまま、そう言った。


 声はいつも通りだった。


 けれど、キーボードを叩く指先だけが、ほんの少し早かった。


 晴人は気づかないふりをした。


 彼女もまた、何かに追われている。


 それが母親の影なのか、部屋の気配なのか、自分でもわからなくなっているのだろう。


 テーブルの上の図面を挟んで、二人の沈黙が短く重なった。


 晴人は封筒の中からもう一枚の紙を取り出した。


 瀬奈が昨夜見つけた、古い建築確認申請書の写しだった。


 そこにも同じ名前があった。


 橘礼司。


 設計者。


 当時三十七歳。


 所在地は、世田谷区の古い住宅地にある個人事務所。


 今も同じ場所に、看板だけ残っているらしい。


「行くのか」


 晴人が聞くと、瀬奈は画面を閉じた。


「行かない理由がある?」


「橘は、話さない」


「話させる」


「どうやって」


「黙っている人間は、たいてい隠しているものを見られたときに口を開く」


 瀬奈はそう言って、ノートパソコンの横に置いていた小さな写真を差し出した。


 晴人は眉を寄せた。


 白黒に近い、色褪せた写真だった。


 古い団地の中庭。


 滑り台。


 その前に立つ若い男。


 男の片手を、小さな女の子が握っている。


 女の子は、カメラの方を見て笑っていた。


 前髪を少し短く切りすぎている。


 片方の靴下だけ、ずり落ちている。


 その笑顔は、あまりにも普通だった。


 普通すぎて、胸が痛くなるくらいに。


「これ、どこで」


「母のノートに挟まってた」


 瀬奈は短く答えた。


 晴人は写真の裏を見た。


 そこには細い文字で、こう書かれていた。


 橘礼司、橘栞。


 九月二十一日。


 晴人の指が止まった。


「……娘か」


「たぶんね」


 瀬奈は平気な顔をしていた。


 けれど、その目の奥に眠っているものは、平気とは程遠かった。


「母はこの写真を持っていた。橘は母の研究に関わっていた。最初の図面にも橘の名前がある。偶然にするには、線が繋がりすぎてる」


 晴人はもう一度、写真の女の子を見た。


 橘栞。


 名前の横に小さく押された日付は、十五年以上前のものだった。


 女の子の笑顔だけが、そこで止まっている。


 結衣の顔が、ふいに重なった。


 十二歳のまま畳に座っていた妹。


 白い折り紙を指先で折っていた妹。


 あの部屋の中で、昨日まで生きていたみたいに自分を呼んだ妹。


 お兄ちゃん。


 晴人は写真を封筒に戻した。


 指先が少し湿っていた。


「行こう」


 瀬奈が立ち上がる。


 晴人は頷いた。


 そのとき、テーブルの隅に置いていた携帯電話が震えた。


 画面を見る。


 母からだった。


 晴人は一瞬、息を止めた。


 着信ではない。


 メッセージだった。


 短い文面。


 今日、来られる?


 その下に、もう一行。


 あなたに聞きたいことがあるの。


 晴人はしばらく画面を見つめていた。


 瀬奈が横から覗き込む。


「お母さん?」


「ああ」


「先に行く?」


 晴人は首を振った。


「あとで行く」


「いいの」


「今は橘だ」


 自分でそう言った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。


 あとで。


 その言葉を、いつから自分は簡単に使うようになったのだろう。


 結衣にも、きっと何度も言った。


 あとで。


 あとで聞く。


 あとで見る。


 あとで遊ぶ。


 あとで迎えに行く。


 けれど、火事の夜に、あとでは来なかった。


 晴人は携帯を伏せた。


 画面の光が消える。


 雨音だけが残った。



 橘建築設計事務所は、駅から少し離れた坂の途中にあった。


 周囲には古い一戸建てと低いマンションが並び、細い道の両側に濡れた紫陽花が垂れていた。雨は昼になっても止まない。舗装の割れ目に溜まった水が、車の通るたびに小さく揺れた。


 看板はまだ残っていた。


 橘建築設計事務所。


 黒い文字はところどころ剥げ、端には錆が浮いている。


 玄関の横には小さな郵便受けがあった。


 チラシが何枚も差し込まれたまま、雨に濡れて波打っている。


 晴人はインターホンを押した。


 反応はなかった。


 もう一度押す。


 家の奥で、かすかに物音がした。


 瀬奈が晴人を見る。


 晴人は黙って待った。


 やがて、玄関扉の内側で鍵が回る音がした。


 細く、乾いた音だった。


 扉が少しだけ開く。


 隙間から、橘礼司の顔が見えた。


 前に会ったときと同じ、整えられた白髪。皺の刻まれた目元。背筋はまだまっすぐだった。


 だが、今日は違った。


 顔色が悪い。


 目の下に深い影がある。


 まるで一晩で何年も老いたみたいだった。


「……君たちか」


 橘の声は低かった。


「話を聞きに来ました」


 瀬奈が言った。


「話すことはない」


 扉が閉まりかける。


 晴人は手を伸ばした。


 扉の縁を掴む。


 橘の目が鋭くなる。


「水野君」


「最初の図面を見つけました」


 その一言で、橘の手が止まった。


 雨音が、急に近くなった。


 瀬奈は鞄から封筒を取り出し、透明なファイルに入れたコピーを橘に見せた。


 橘はそれを見た。


 見た瞬間、表情から色が消えた。


「……どこで」


「母のノートからです」


 瀬奈の声が少しだけ硬くなる。


「如月亜紀。あなたは知っていますよね」


 橘は答えなかった。


 ただ、扉の隙間を少し広げた。


「入れ」


 それだけ言って、奥へ引っ込んだ。


 事務所の中は、時間が止まっていた。


 入口の左側に古い製図台があり、その上には黄ばんだトレーシングペーパーが何枚も重なっている。壁には模型用の道具が吊るされ、棚には建築雑誌が年代順に並んでいた。


 窓際には、小さな団地の模型が置かれていた。


 白いスチレンボードで作られた建物。


 並んだベランダ。


 小さな階段。


 中庭。


 そして、どの棟にも、窓のない小さな箱のような部分が一つずつ付いていた。


 晴人は足を止めた。


 模型の中の小さな箱。


 それは部屋というより、余白だった。


 図面に載せるには小さすぎる。


 けれど無視するには、そこにあることがあまりにもはっきりしていた。


「触るな」


 橘の声が飛んだ。


 晴人は手を引いた。


 触れようとしたつもりはなかった。


 ただ、指が勝手に伸びていた。


 橘は奥の応接スペースに腰を下ろした。古い革張りのソファが、彼の体重で小さく軋む。


 瀬奈は向かいに座らなかった。


 立ったまま、ファイルをテーブルに置いた。


「この図面の、ここ」


 彼女は赤い付箋が貼られた箇所を指した。


 図面の端。


 通常なら収納か配管スペースになっているはずの部分に、薄い鉛筆で小さく書き込まれた数字があった。


 0。


 橘は目を閉じた。


「若いな」


「何がですか」


「君たちは、名前があれば正体がわかると思っている」


 橘はゆっくり目を開けた。


「だが、名前はただの蓋だ。中にあるものが腐っていれば、蓋の文字を読んでも意味はない」


 瀬奈の眉が動いた。


「詩みたいなことを聞きに来たんじゃありません」


「なら帰ることだ」


「帰りません」


 短い沈黙。


 雨粒が窓を叩いた。


 晴人は、二人の間に立つような形でテーブルの横にいた。


 橘は瀬奈を見た。


 その視線は、初めて会ったときと違っていた。


 警戒ではない。


 恐れでもない。


 もっと古い何かだった。


 傷跡を見るような目。


「如月亜紀に似ている」


 橘が言った。


 瀬奈の表情が消えた。


「母を知っていたんですね」


「知っていた」


「どこまで」


「君が思っているより少しだけ多く、君が望んでいるよりずっと少ない」


「答えになってません」


「答えは、人を救わない」


 瀬奈は一歩前に出た。


 靴底が床を濡らす。


「じゃあ、黙っていたことで誰か救えたんですか」


 橘は何も言わなかった。


 その沈黙が、答えのように落ちた。


 晴人は事務所の奥を見た。


 半分開いた引き戸の向こうに、もう一つ部屋がある。


 子供部屋のように見えた。


 淡い黄色のカーテン。


 小さな机。


 本棚。


 その上に、古いぬいぐるみが座っている。


 場違いだった。


 設計事務所の奥にあるには、あまりにも生活の匂いが残りすぎている。


 晴人の視線に気づいたのか、橘が低く言った。


「見るな」


 命令だった。


 けれど、その声は震えていた。


 瀬奈も奥の部屋に気づいた。


「そこ、誰の部屋ですか」


「関係ない」


「関係あります。あなたの過去が、あの部屋と繋がっているなら」


「やめろ」


 橘の声が鋭くなった。


 空気が一瞬で固まる。


 晴人は、橘の手を見た。


 膝の上で組まれた指。


 その爪の先が、白くなるほど力が入っている。


 この人は、隠している。


 秘密を。


 いや、秘密ではない。


 傷だ。


 触れられた瞬間に、血が出る場所を、何十年も服の下に隠してきたのだ。


「橘さん」


 晴人は静かに言った。


「俺は、妹に会いました」


 橘の目がわずかに揺れた。


「十二歳のままの結衣に。畳の部屋で。折り鶴を折っていた」


 晴人は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。


 落ち着いているのではない。


 壊れかけたものは、ときどき静かになる。


「あなたは言いました。あの部屋は救わない、と。じゃあ、何をするんですか」


 橘は晴人を見た。


 長い時間、何も言わなかった。


 窓の外の雨が強くなる。


 製図台の上の紙が、風もないのに一枚だけめくれた。


 晴人は視線を向けた。


 紙の端に、薄い線が見えた。


 廊下。


 部屋。


 収納。


 そして、どこにも繋がらない細い長方形。


 橘が立ち上がった。


 晴人は身構えた。


 だが橘は、奥の棚へ歩いていっただけだった。


 背中が細い。


 前に会ったときより、ずっと小さく見えた。


 橘は鍵のかかった木箱を取り出した。


 古い箱だった。


 表面には細かい傷がいくつもあり、角の金具は黒ずんでいる。


 彼は胸ポケットから小さな鍵を出し、箱を開けた。


 中から、一枚の写真を取り出す。


 テーブルに置いた。


 晴人と瀬奈は、同時にそれを見た。


 さっきの写真とは違う。


 こちらはカラーだった。


 若い橘が、病室のベッドの横に座っている。


 ベッドの上には、小さな女の子がいた。


 頬は痩せ、腕には点滴の管が繋がっている。


 それでも女の子は笑っていた。


 手には、白い折り鶴を持っている。


 晴人の胸が、強く締めつけられた。


 白い鶴。


 折り目の甘い、少し歪んだ鶴。


 結衣の折る鶴と、よく似ていた。


「娘だ」


 橘は言った。


「橘栞。八歳だった」


 瀬奈の唇がわずかに開いた。


 晴人は写真から目を離せなかった。


 橘栞。


 写真の中の少女は、こちらを見て笑っている。


 画面の向こうから、何も知らずに。


「病気だったんですか」


 瀬奈が聞いた。


 橘は頷かなかった。


 首も振らなかった。


 ただ、写真の端を指でなぞった。


「心臓が悪かった。手術をすれば助かる可能性はあった。可能性だけは、いつも残されていた」


 声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、怖かった。


「私はその頃、ある団地の再開発計画を担当していた。設計変更が続き、施工会社との調整も荒れていた。毎日、図面と電話と現場に追われていた」


 橘はそこで一度、言葉を切った。


 視線は写真に落ちたまま動かない。


「栞は、私に来てほしがっていた。手術の前の日だった。母親は病院に泊まっていた。私は仕事が終わったら行くと言った」


 晴人は目を伏せた。


 胸の奥に、同じ言葉が刺さる。


 あとで。


 仕事が終わったら。


 次の休日に。


 大丈夫だと思っていた未来。


 何も起きないと思っていた明日。


「行かなかったんですか」


 瀬奈の声は低かった。


 橘は小さく笑った。


 笑いには、何の温度もなかった。


「行けなかった、と長い間言っていた」


 晴人は顔を上げた。


 橘の目は、もう二人を見ていなかった。


 どこか遠い、開かない扉の前に立っているようだった。


「だが違う。私は行かなかった。仕事を選んだ。図面を選んだ。誰かの住まいを作る仕事をしていながら、自分の家族のいる場所に帰らなかった」


 瀬奈は何も言えなかった。


 晴人も、言葉が出なかった。


 責めることは簡単だった。


 でも、簡単に責められる人間ほど、たぶん何も失っていない。


 橘の罪は、晴人には他人事ではなかった。


 彼もまた、戻れると思っていた。


 まだ間に合うと思っていた。


 それが一番残酷な勘違いだと、あとになって知った。


「栞は、その夜に急変した」


 橘は言った。


「病院から何度も電話があった。私は出なかった。会議中だったからだ。いや、出るのが怖かったのかもしれない。悪い知らせを聞く準備ができていなかった」


 雨音が止んだ。


 気づくと、窓の外が静かになっていた。


 その静けさが、かえって部屋を重くした。


「病院に着いたとき、栞はもう冷たかった」


 橘の指が写真から離れた。


「最期に何を言ったか、妻は私に教えなかった」


「どうして」


 瀬奈が聞いた。


「私が聞かなかったからだ」


 橘は答えた。


「聞けば、自分が壊れると思った。だから逃げた。葬式のあとも、四十九日が過ぎても、私は仕事に戻った。誰もいない家に帰るのが怖かった」


 晴人は事務所の奥の子供部屋を見た。


 淡い黄色のカーテン。


 小さな机。


 置きっぱなしの鉛筆立て。


 そこだけが、八歳のまま止まっている。


「でも、ある日」


 橘の声が少し低くなった。


「設計中だった団地の一室で、存在しない部屋を見つけた」


 瀬奈が息を止めた。


 晴人も、体の奥が冷たくなるのを感じた。


「図面にはない。施工図にもない。誰もそんな部屋を作っていない。けれど現場に行くと、そこには扉があった」


 橘はゆっくり顔を上げた。


「私は開けた」


 声が、わずかに掠れた。


「中に、栞がいた」


 部屋の空気が落ちた。


 それは説明ではなかった。


 懺悔だった。


 晴人の目の前に、畳の部屋が蘇る。


 白い折り紙。


 十二歳の結衣。


 お兄ちゃん。


 遅すぎたよ。


 晴人はテーブルの端を掴んだ。


「娘さんは……生きていたんですか」


 問いながら、自分で答えを知っていた。


 橘は首を横に振った。


「生きてはいなかった。だが、死んでもいなかった」


「どういう意味ですか」


 瀬奈が詰める。


 橘は瀬奈を見た。


 その目の奥に、長い年月をかけて腐ってしまった後悔があった。


「零号室の中にいる者は、本人ではない。少なくとも、完全には違う。記憶だ。願望だ。罪悪感だ。死者の形を借りた、戻れなかった時間だ」


「でも、会話はできる」


 晴人が言った。


「触れることもできる。名前も呼ぶ。あれがただの記憶なら、どうして俺の知らないことを言う」


 橘は静かに目を細めた。


「だから危険なんだ」


 晴人は黙った。


 橘の声は強くなかった。


 むしろ、祈りに近かった。


「あれは君を知っている。君の痛みを知っている。君が何を望み、何を恐れ、何を差し出せば扉の前に膝をつくかを知っている」


 瀬奈が唇を噛んだ。


「母も、そこに入ったんですか」


 橘は答えなかった。


 答えないまま、箱の中からもう一枚の紙を出した。


 それは手紙だった。


 古い便箋。


 端が少し焼け焦げている。


 橘はそれを瀬奈の前に置いた。


 瀬奈はすぐには手を伸ばさなかった。


 便箋の上には、見覚えのある筆跡があった。


 如月亜紀。


 瀬奈の母の字。


 晴人は横から見た。


 短い文章だった。


 ――橘さん。

 ――部屋は、死者を返しているのではありません。

 ――生者から、居場所を奪っています。


 瀬奈の手が、ゆっくり震えた。


「これ……」


「君の母親が、私に残した最後の警告だ」


「最後?」


 瀬奈の声が鋭くなる。


「最後って、どういう意味ですか」


 橘は窓の方を見た。


 雨は上がっていたが、空はまだ暗い。


 雲の向こうに夕方が滲み始めていた。


「亜紀さんは、私よりも早く気づいた。零号室の本質に。私は栞に会いたい一心で、それを見ようとしなかった」


「母はどこにいるんですか」


「知らない」


「嘘」


「本当に知らない」


 瀬奈がテーブルを叩いた。


 写真が小さく跳ねた。


「あなたは全部知ってる顔をしてる。私が子供の頃からずっと、母のことを誰に聞いても同じ顔をされた。知らない。わからない。昔のことだ。もう終わったことだって。終わってない。私はまだ、何も終わってない」


 橘は、瀬奈の怒りを受け止めた。


 反論しなかった。


 それがまた、瀬奈を追い詰めた。


「あなたの娘さんの話を聞いて、同情すればいいんですか」


 瀬奈の声が震えた。


「私にも母がいたんです。写真の中じゃない。夢の中じゃない。ちゃんと朝ご飯を作って、髪を結んで、私に傘を持たせてくれる人だった。それを失くしたまま、私は十五年も生きてきた」


 晴人は一歩、瀬奈に近づいた。


 けれど、止めなかった。


 これは彼女の怒りだった。


 彼女が持っていなければ、自分自身が消えてしまう怒りだった。


「母はどこですか」


 瀬奈はもう一度聞いた。


 橘は長く沈黙した。


 やがて、箱の底から小さな鍵を取り出した。


 真鍮製の古い鍵。


 タグには、黒いインクで数字が書かれている。


 204。


「これは」


「亜紀さんが最後に残した資料に挟まっていた部屋の鍵だ」


 瀬奈の目が見開かれる。


「どこですか」


「旧南品川第三団地。もう取り壊しが決まっている。二〇四号室」


「そこが、母の消えた場所ですか」


「わからない」


「またそれですか」


「わからないから、行くなと言っている」


 橘の声が初めて強くなった。


「君の母親は、その部屋を調べていた。だが、実際に戻らなかったのは宮下団地の六号棟三〇一号室だ」


 瀬奈の顔から血の気が引いた。


 晴人は鍵を見た。


 小さな金属片。


 ただの鍵。


 なのに、それが机の上にあるだけで、部屋の温度が下がった気がした。


「なぜ、今まで持っていたんですか」


 晴人が聞いた。


 橘は鍵から目を離さなかった。


「返す相手がいなかった」


「探そうとはしなかったんですか」


「した」


 橘は即答した。


 そして、すぐに目を伏せた。


「何度も。何度も行った。だが、扉は私には開かなかった」


「なぜ」


「私の後悔は、もう別の場所に固定されていたからだ」


 晴人は奥の子供部屋を見た。


 栞の部屋。


 八歳のまま止まった場所。


 橘の後悔は、そこに縫い付けられている。


「零号室は、誰にでも同じ顔を見せるわけじゃない」


 橘は言った。


「その人間がいちばん戻りたい場所に、いちばん戻ってはいけない形で現れる」


 晴人は自分の手を見た。


 指先が冷たい。


「俺には、結衣の部屋に見えた」


「君が、そこに縛られているからだ」


 橘の言葉は静かだった。


 だが、痛かった。


 晴人は反論できなかった。


 反論できないことが、何よりも苦しかった。


 結衣の死を忘れたいと思っていた。


 なのに、忘れたくなかった。


 忘れたら、結衣が本当にいなくなる気がした。


 だからずっと、火事の夜を胸の中に飼っていた。


 熱くて、黒くて、息のできない夜を。


 それが罰だと思っていた。


「橘さん」


 晴人は写真の中の栞を見ながら言った。


「あなたは、娘さんを取り戻そうとしたんですか」


 橘の肩が、ほんの少し下がった。


 その変化は小さかった。


 けれど、答えとしては十分だった。


「した」


 橘は言った。


「何度も」


 瀬奈は息を止めた。


「戻ったんですか」


 橘はすぐには答えなかった。


 代わりに、箱の中から最後の一枚を取り出した。


 それは写真ではなかった。


 戸籍謄本の写しだった。


 古い紙。


 黒く塗りつぶされた箇所。


 そして、家族欄の一部に、不自然な空白があった。


 橘はそこを指した。


「一度だけ、栞の名前が戻った」


 晴人は息を呑んだ。


「どういう……」


「妻が、娘の名前を呼んだ。死んでから三年、一度も口にしなかった名前を、朝食の席で突然呼んだ。栞の茶碗を出して、今日は学校に遅れると言った」


 橘の目が、遠くなる。


「私は泣いた。救われたと思った。やっと、やり直せると思った」


 声がそこで止まった。


 晴人は、その先を聞きたくなかった。


 でも、聞かなければいけなかった。


「その代わりに」


 橘は続けた。


「妻が、私を忘れた」


 瀬奈が目を見開いた。


 晴人の背筋を冷たいものが走る。


「最初は、冗談だと思った。だが違った。妻は本気で私の名前を知らなかった。家に知らない男がいると言って、警察を呼ぼうとした」


 橘は乾いた笑みを浮かべた。


「その日、私は理解した。部屋は死者を返すのではない。生きている者の場所を奪って、空いた席に死者の影を座らせるだけだ」


 晴人の耳の奥で、心臓の音が鳴った。


 結衣を戻せば、誰かが消える。


 それは知っていた。


 知ったつもりでいた。


 でも、今、橘の口から聞いたそれは、紙に書かれた法則ではなかった。


 朝食の席。


 茶碗。


 知らない男を見る妻の目。


 それは生活そのものが壊れる音だった。


「それでも」


 瀬奈が小さく言った。


「あなたは、やめなかったんですか」


 橘は目を閉じた。


「やめられなかった」


 その一言には、弁解がなかった。


 ただ事実だけがあった。


「一度会ってしまえば、人は弱くなる。死者がもう一度名前を呼んでくれる。もう一度笑ってくれる。もう一度、帰ろうと言ってくれる。その前で、正しさなど紙より軽い」


 晴人は拳を握った。


 爪が掌に食い込む。


 結衣の声が蘇る。


 お兄ちゃん。


 今度は間に合ったね。


 本当に、あれが言われたら。


 自分は拒めるだろうか。


 誰かが消えると知っていて、それでも手を伸ばさないでいられるだろうか。


 答えは出なかった。


 出ないことが、答えだった。



 事務所を出る頃には、雨は完全に止んでいた。


 坂道のアスファルトは濡れたまま、街灯の光を鈍く反射している。遠くで電車が通る音がした。湿った空気の中に、夏の終わりの匂いが混じっていた。


 瀬奈は鍵を握ったまま歩いていた。


 何も言わない。


 晴人も言葉を探さなかった。


 言葉にした瞬間、壊れてしまうものがある。


 瀬奈の母。


 橘の娘。


 自分の妹。


 すべてが別々の痛みのようで、同じ扉の前に繋がっている。


 坂の下まで来たとき、瀬奈が足を止めた。


「私」


 声が小さかった。


「母に会ったら、どうするんだろう」


 晴人は瀬奈を見た。


 彼女は鍵を見ていた。


「怒ると思ってた」


 瀬奈は続けた。


「なんで置いていったのって。なんで帰ってこなかったのって。ずっと、そう言うつもりだった」


「今は?」


 瀬奈は答えなかった。


 代わりに、鍵を握る手に力を込めた。


「会ったら、たぶん」


 言葉が止まる。


 瀬奈は顔を上げなかった。


「抱きついてしまうかもしれない」


 晴人は何も言わなかった。


 瀬奈は笑おうとした。


 失敗した。


「馬鹿みたいでしょ。二十七にもなって」


「馬鹿じゃない」


 晴人は言った。


 短い言葉だった。


 それ以上は、何も言えなかった。


 瀬奈は少しだけ目を伏せた。


 街灯の下で、彼女の睫毛に残った雨粒が小さく光った。


 そのとき、晴人の携帯が震えた。


 また母からだった。


 今度は着信。


 晴人は画面を見つめた。


 出るべきだった。


 わかっていた。


 わかっているのに、指が動かなかった。


 瀬奈がこちらを見る。


「出て」


 晴人は通話ボタンを押した。


「もしもし」


 少し間があった。


 向こうから、母の息遣いが聞こえる。


 いつもより浅い。


『晴人?』


「ああ」


『ごめんね。何度も』


「どうした」


 母はすぐに答えなかった。


 その沈黙の中で、晴人の心臓がゆっくり重くなる。


『今日、押し入れを片付けていたの』


「うん」


『古い箱が出てきてね。写真とか、学校の物とか、いろいろ入っていたの』


 晴人の手に力が入る。


 瀬奈も気づいたのか、顔を上げた。


『そこに、女の子のものがあったの』


 晴人は息を止めた。


『小さな上履きとか、折り紙とか、名前の書いてあるハンカチとか』


「母さん」


『変なのよ』


 母の声が震えた。


『その子の名前、見覚えがある気がするの。でも、思い出せないの』


 晴人の視界が、暗く狭まった。


 濡れた道路。


 街灯。


 瀬奈の顔。


 すべてが遠くなる。


『晴人』


 母が言った。


『結衣って、誰?』


 携帯を握る手から、音が消えた。


 晴人は答えられなかった。


 その沈黙の中で、橘の声だけが蘇った。


 部屋は死者を返すのではない。


 生きている者の場所を奪うだけだ。


 晴人はゆっくり、目を閉じた。


 そして気づいた。


 壊れ始めているのは、もう部屋の中だけではなかった。


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