(第三部 . 第五章 ) 建築士の娘
古い写真は、時間の匂いを閉じ込めている。
それを知らなかったわけではない。
けれど、その朝、晴人は初めて思った。
写真に写っているのは、過去ではない。
誰かが忘れずにいようとした、最後の抵抗なのだと。
瀬奈が持ってきた封筒は、前の晩と同じようにテーブルの上に置かれていた。
中には、最初の図面のコピーが入っている。
黄ばんだ紙。
角の折れた線。
薄く掠れた青焼きの跡。
そして右下に、小さく記された名前。
橘礼司。
晴人は何度もその文字を見た。
見れば見るほど、文字の輪郭だけが部屋の中で浮かび上がっていくようだった。
窓の外では、朝から細い雨が降っていた。
マンションの向かいのビルの壁を、雨粒が縦に流れている。空は低く、街全体が濡れた灰色の布を被せられたみたいだった。
キッチンの蛍光灯が、一度だけ小さく瞬いた。
晴人は反射的に顔を上げた。
何もない。
ただ、古い照明が音もなく光を戻しただけだった。
それでも、胸の奥に残った冷たさは消えなかった。
「寝てないでしょ」
瀬奈が言った。
彼女は窓際の床に座り、ノートパソコンを膝に置いていた。髪はまだ少し濡れている。朝早くから資料を取りに出ていたらしい。
「お前もだろ」
「私は慣れてる」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題よ。慣れてない人から先に壊れる」
瀬奈は画面から目を離さないまま、そう言った。
声はいつも通りだった。
けれど、キーボードを叩く指先だけが、ほんの少し早かった。
晴人は気づかないふりをした。
彼女もまた、何かに追われている。
それが母親の影なのか、部屋の気配なのか、自分でもわからなくなっているのだろう。
テーブルの上の図面を挟んで、二人の沈黙が短く重なった。
晴人は封筒の中からもう一枚の紙を取り出した。
瀬奈が昨夜見つけた、古い建築確認申請書の写しだった。
そこにも同じ名前があった。
橘礼司。
設計者。
当時三十七歳。
所在地は、世田谷区の古い住宅地にある個人事務所。
今も同じ場所に、看板だけ残っているらしい。
「行くのか」
晴人が聞くと、瀬奈は画面を閉じた。
「行かない理由がある?」
「橘は、話さない」
「話させる」
「どうやって」
「黙っている人間は、たいてい隠しているものを見られたときに口を開く」
瀬奈はそう言って、ノートパソコンの横に置いていた小さな写真を差し出した。
晴人は眉を寄せた。
白黒に近い、色褪せた写真だった。
古い団地の中庭。
滑り台。
その前に立つ若い男。
男の片手を、小さな女の子が握っている。
女の子は、カメラの方を見て笑っていた。
前髪を少し短く切りすぎている。
片方の靴下だけ、ずり落ちている。
その笑顔は、あまりにも普通だった。
普通すぎて、胸が痛くなるくらいに。
「これ、どこで」
「母のノートに挟まってた」
瀬奈は短く答えた。
晴人は写真の裏を見た。
そこには細い文字で、こう書かれていた。
橘礼司、橘栞。
九月二十一日。
晴人の指が止まった。
「……娘か」
「たぶんね」
瀬奈は平気な顔をしていた。
けれど、その目の奥に眠っているものは、平気とは程遠かった。
「母はこの写真を持っていた。橘は母の研究に関わっていた。最初の図面にも橘の名前がある。偶然にするには、線が繋がりすぎてる」
晴人はもう一度、写真の女の子を見た。
橘栞。
名前の横に小さく押された日付は、十五年以上前のものだった。
女の子の笑顔だけが、そこで止まっている。
結衣の顔が、ふいに重なった。
十二歳のまま畳に座っていた妹。
白い折り紙を指先で折っていた妹。
あの部屋の中で、昨日まで生きていたみたいに自分を呼んだ妹。
お兄ちゃん。
晴人は写真を封筒に戻した。
指先が少し湿っていた。
「行こう」
瀬奈が立ち上がる。
晴人は頷いた。
そのとき、テーブルの隅に置いていた携帯電話が震えた。
画面を見る。
母からだった。
晴人は一瞬、息を止めた。
着信ではない。
メッセージだった。
短い文面。
今日、来られる?
その下に、もう一行。
あなたに聞きたいことがあるの。
晴人はしばらく画面を見つめていた。
瀬奈が横から覗き込む。
「お母さん?」
「ああ」
「先に行く?」
晴人は首を振った。
「あとで行く」
「いいの」
「今は橘だ」
自分でそう言った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
あとで。
その言葉を、いつから自分は簡単に使うようになったのだろう。
結衣にも、きっと何度も言った。
あとで。
あとで聞く。
あとで見る。
あとで遊ぶ。
あとで迎えに行く。
けれど、火事の夜に、あとでは来なかった。
晴人は携帯を伏せた。
画面の光が消える。
雨音だけが残った。
*
橘建築設計事務所は、駅から少し離れた坂の途中にあった。
周囲には古い一戸建てと低いマンションが並び、細い道の両側に濡れた紫陽花が垂れていた。雨は昼になっても止まない。舗装の割れ目に溜まった水が、車の通るたびに小さく揺れた。
看板はまだ残っていた。
橘建築設計事務所。
黒い文字はところどころ剥げ、端には錆が浮いている。
玄関の横には小さな郵便受けがあった。
チラシが何枚も差し込まれたまま、雨に濡れて波打っている。
晴人はインターホンを押した。
反応はなかった。
もう一度押す。
家の奥で、かすかに物音がした。
瀬奈が晴人を見る。
晴人は黙って待った。
やがて、玄関扉の内側で鍵が回る音がした。
細く、乾いた音だった。
扉が少しだけ開く。
隙間から、橘礼司の顔が見えた。
前に会ったときと同じ、整えられた白髪。皺の刻まれた目元。背筋はまだまっすぐだった。
だが、今日は違った。
顔色が悪い。
目の下に深い影がある。
まるで一晩で何年も老いたみたいだった。
「……君たちか」
橘の声は低かった。
「話を聞きに来ました」
瀬奈が言った。
「話すことはない」
扉が閉まりかける。
晴人は手を伸ばした。
扉の縁を掴む。
橘の目が鋭くなる。
「水野君」
「最初の図面を見つけました」
その一言で、橘の手が止まった。
雨音が、急に近くなった。
瀬奈は鞄から封筒を取り出し、透明なファイルに入れたコピーを橘に見せた。
橘はそれを見た。
見た瞬間、表情から色が消えた。
「……どこで」
「母のノートからです」
瀬奈の声が少しだけ硬くなる。
「如月亜紀。あなたは知っていますよね」
橘は答えなかった。
ただ、扉の隙間を少し広げた。
「入れ」
それだけ言って、奥へ引っ込んだ。
事務所の中は、時間が止まっていた。
入口の左側に古い製図台があり、その上には黄ばんだトレーシングペーパーが何枚も重なっている。壁には模型用の道具が吊るされ、棚には建築雑誌が年代順に並んでいた。
窓際には、小さな団地の模型が置かれていた。
白いスチレンボードで作られた建物。
並んだベランダ。
小さな階段。
中庭。
そして、どの棟にも、窓のない小さな箱のような部分が一つずつ付いていた。
晴人は足を止めた。
模型の中の小さな箱。
それは部屋というより、余白だった。
図面に載せるには小さすぎる。
けれど無視するには、そこにあることがあまりにもはっきりしていた。
「触るな」
橘の声が飛んだ。
晴人は手を引いた。
触れようとしたつもりはなかった。
ただ、指が勝手に伸びていた。
橘は奥の応接スペースに腰を下ろした。古い革張りのソファが、彼の体重で小さく軋む。
瀬奈は向かいに座らなかった。
立ったまま、ファイルをテーブルに置いた。
「この図面の、ここ」
彼女は赤い付箋が貼られた箇所を指した。
図面の端。
通常なら収納か配管スペースになっているはずの部分に、薄い鉛筆で小さく書き込まれた数字があった。
0。
橘は目を閉じた。
「若いな」
「何がですか」
「君たちは、名前があれば正体がわかると思っている」
橘はゆっくり目を開けた。
「だが、名前はただの蓋だ。中にあるものが腐っていれば、蓋の文字を読んでも意味はない」
瀬奈の眉が動いた。
「詩みたいなことを聞きに来たんじゃありません」
「なら帰ることだ」
「帰りません」
短い沈黙。
雨粒が窓を叩いた。
晴人は、二人の間に立つような形でテーブルの横にいた。
橘は瀬奈を見た。
その視線は、初めて会ったときと違っていた。
警戒ではない。
恐れでもない。
もっと古い何かだった。
傷跡を見るような目。
「如月亜紀に似ている」
橘が言った。
瀬奈の表情が消えた。
「母を知っていたんですね」
「知っていた」
「どこまで」
「君が思っているより少しだけ多く、君が望んでいるよりずっと少ない」
「答えになってません」
「答えは、人を救わない」
瀬奈は一歩前に出た。
靴底が床を濡らす。
「じゃあ、黙っていたことで誰か救えたんですか」
橘は何も言わなかった。
その沈黙が、答えのように落ちた。
晴人は事務所の奥を見た。
半分開いた引き戸の向こうに、もう一つ部屋がある。
子供部屋のように見えた。
淡い黄色のカーテン。
小さな机。
本棚。
その上に、古いぬいぐるみが座っている。
場違いだった。
設計事務所の奥にあるには、あまりにも生活の匂いが残りすぎている。
晴人の視線に気づいたのか、橘が低く言った。
「見るな」
命令だった。
けれど、その声は震えていた。
瀬奈も奥の部屋に気づいた。
「そこ、誰の部屋ですか」
「関係ない」
「関係あります。あなたの過去が、あの部屋と繋がっているなら」
「やめろ」
橘の声が鋭くなった。
空気が一瞬で固まる。
晴人は、橘の手を見た。
膝の上で組まれた指。
その爪の先が、白くなるほど力が入っている。
この人は、隠している。
秘密を。
いや、秘密ではない。
傷だ。
触れられた瞬間に、血が出る場所を、何十年も服の下に隠してきたのだ。
「橘さん」
晴人は静かに言った。
「俺は、妹に会いました」
橘の目がわずかに揺れた。
「十二歳のままの結衣に。畳の部屋で。折り鶴を折っていた」
晴人は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
落ち着いているのではない。
壊れかけたものは、ときどき静かになる。
「あなたは言いました。あの部屋は救わない、と。じゃあ、何をするんですか」
橘は晴人を見た。
長い時間、何も言わなかった。
窓の外の雨が強くなる。
製図台の上の紙が、風もないのに一枚だけめくれた。
晴人は視線を向けた。
紙の端に、薄い線が見えた。
廊下。
部屋。
収納。
そして、どこにも繋がらない細い長方形。
橘が立ち上がった。
晴人は身構えた。
だが橘は、奥の棚へ歩いていっただけだった。
背中が細い。
前に会ったときより、ずっと小さく見えた。
橘は鍵のかかった木箱を取り出した。
古い箱だった。
表面には細かい傷がいくつもあり、角の金具は黒ずんでいる。
彼は胸ポケットから小さな鍵を出し、箱を開けた。
中から、一枚の写真を取り出す。
テーブルに置いた。
晴人と瀬奈は、同時にそれを見た。
さっきの写真とは違う。
こちらはカラーだった。
若い橘が、病室のベッドの横に座っている。
ベッドの上には、小さな女の子がいた。
頬は痩せ、腕には点滴の管が繋がっている。
それでも女の子は笑っていた。
手には、白い折り鶴を持っている。
晴人の胸が、強く締めつけられた。
白い鶴。
折り目の甘い、少し歪んだ鶴。
結衣の折る鶴と、よく似ていた。
「娘だ」
橘は言った。
「橘栞。八歳だった」
瀬奈の唇がわずかに開いた。
晴人は写真から目を離せなかった。
橘栞。
写真の中の少女は、こちらを見て笑っている。
画面の向こうから、何も知らずに。
「病気だったんですか」
瀬奈が聞いた。
橘は頷かなかった。
首も振らなかった。
ただ、写真の端を指でなぞった。
「心臓が悪かった。手術をすれば助かる可能性はあった。可能性だけは、いつも残されていた」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、怖かった。
「私はその頃、ある団地の再開発計画を担当していた。設計変更が続き、施工会社との調整も荒れていた。毎日、図面と電話と現場に追われていた」
橘はそこで一度、言葉を切った。
視線は写真に落ちたまま動かない。
「栞は、私に来てほしがっていた。手術の前の日だった。母親は病院に泊まっていた。私は仕事が終わったら行くと言った」
晴人は目を伏せた。
胸の奥に、同じ言葉が刺さる。
あとで。
仕事が終わったら。
次の休日に。
大丈夫だと思っていた未来。
何も起きないと思っていた明日。
「行かなかったんですか」
瀬奈の声は低かった。
橘は小さく笑った。
笑いには、何の温度もなかった。
「行けなかった、と長い間言っていた」
晴人は顔を上げた。
橘の目は、もう二人を見ていなかった。
どこか遠い、開かない扉の前に立っているようだった。
「だが違う。私は行かなかった。仕事を選んだ。図面を選んだ。誰かの住まいを作る仕事をしていながら、自分の家族のいる場所に帰らなかった」
瀬奈は何も言えなかった。
晴人も、言葉が出なかった。
責めることは簡単だった。
でも、簡単に責められる人間ほど、たぶん何も失っていない。
橘の罪は、晴人には他人事ではなかった。
彼もまた、戻れると思っていた。
まだ間に合うと思っていた。
それが一番残酷な勘違いだと、あとになって知った。
「栞は、その夜に急変した」
橘は言った。
「病院から何度も電話があった。私は出なかった。会議中だったからだ。いや、出るのが怖かったのかもしれない。悪い知らせを聞く準備ができていなかった」
雨音が止んだ。
気づくと、窓の外が静かになっていた。
その静けさが、かえって部屋を重くした。
「病院に着いたとき、栞はもう冷たかった」
橘の指が写真から離れた。
「最期に何を言ったか、妻は私に教えなかった」
「どうして」
瀬奈が聞いた。
「私が聞かなかったからだ」
橘は答えた。
「聞けば、自分が壊れると思った。だから逃げた。葬式のあとも、四十九日が過ぎても、私は仕事に戻った。誰もいない家に帰るのが怖かった」
晴人は事務所の奥の子供部屋を見た。
淡い黄色のカーテン。
小さな机。
置きっぱなしの鉛筆立て。
そこだけが、八歳のまま止まっている。
「でも、ある日」
橘の声が少し低くなった。
「設計中だった団地の一室で、存在しない部屋を見つけた」
瀬奈が息を止めた。
晴人も、体の奥が冷たくなるのを感じた。
「図面にはない。施工図にもない。誰もそんな部屋を作っていない。けれど現場に行くと、そこには扉があった」
橘はゆっくり顔を上げた。
「私は開けた」
声が、わずかに掠れた。
「中に、栞がいた」
部屋の空気が落ちた。
それは説明ではなかった。
懺悔だった。
晴人の目の前に、畳の部屋が蘇る。
白い折り紙。
十二歳の結衣。
お兄ちゃん。
遅すぎたよ。
晴人はテーブルの端を掴んだ。
「娘さんは……生きていたんですか」
問いながら、自分で答えを知っていた。
橘は首を横に振った。
「生きてはいなかった。だが、死んでもいなかった」
「どういう意味ですか」
瀬奈が詰める。
橘は瀬奈を見た。
その目の奥に、長い年月をかけて腐ってしまった後悔があった。
「零号室の中にいる者は、本人ではない。少なくとも、完全には違う。記憶だ。願望だ。罪悪感だ。死者の形を借りた、戻れなかった時間だ」
「でも、会話はできる」
晴人が言った。
「触れることもできる。名前も呼ぶ。あれがただの記憶なら、どうして俺の知らないことを言う」
橘は静かに目を細めた。
「だから危険なんだ」
晴人は黙った。
橘の声は強くなかった。
むしろ、祈りに近かった。
「あれは君を知っている。君の痛みを知っている。君が何を望み、何を恐れ、何を差し出せば扉の前に膝をつくかを知っている」
瀬奈が唇を噛んだ。
「母も、そこに入ったんですか」
橘は答えなかった。
答えないまま、箱の中からもう一枚の紙を出した。
それは手紙だった。
古い便箋。
端が少し焼け焦げている。
橘はそれを瀬奈の前に置いた。
瀬奈はすぐには手を伸ばさなかった。
便箋の上には、見覚えのある筆跡があった。
如月亜紀。
瀬奈の母の字。
晴人は横から見た。
短い文章だった。
――橘さん。
――部屋は、死者を返しているのではありません。
――生者から、居場所を奪っています。
瀬奈の手が、ゆっくり震えた。
「これ……」
「君の母親が、私に残した最後の警告だ」
「最後?」
瀬奈の声が鋭くなる。
「最後って、どういう意味ですか」
橘は窓の方を見た。
雨は上がっていたが、空はまだ暗い。
雲の向こうに夕方が滲み始めていた。
「亜紀さんは、私よりも早く気づいた。零号室の本質に。私は栞に会いたい一心で、それを見ようとしなかった」
「母はどこにいるんですか」
「知らない」
「嘘」
「本当に知らない」
瀬奈がテーブルを叩いた。
写真が小さく跳ねた。
「あなたは全部知ってる顔をしてる。私が子供の頃からずっと、母のことを誰に聞いても同じ顔をされた。知らない。わからない。昔のことだ。もう終わったことだって。終わってない。私はまだ、何も終わってない」
橘は、瀬奈の怒りを受け止めた。
反論しなかった。
それがまた、瀬奈を追い詰めた。
「あなたの娘さんの話を聞いて、同情すればいいんですか」
瀬奈の声が震えた。
「私にも母がいたんです。写真の中じゃない。夢の中じゃない。ちゃんと朝ご飯を作って、髪を結んで、私に傘を持たせてくれる人だった。それを失くしたまま、私は十五年も生きてきた」
晴人は一歩、瀬奈に近づいた。
けれど、止めなかった。
これは彼女の怒りだった。
彼女が持っていなければ、自分自身が消えてしまう怒りだった。
「母はどこですか」
瀬奈はもう一度聞いた。
橘は長く沈黙した。
やがて、箱の底から小さな鍵を取り出した。
真鍮製の古い鍵。
タグには、黒いインクで数字が書かれている。
204。
「これは」
「亜紀さんが最後に残した資料に挟まっていた部屋の鍵だ」
瀬奈の目が見開かれる。
「どこですか」
「旧南品川第三団地。もう取り壊しが決まっている。二〇四号室」
「そこが、母の消えた場所ですか」
「わからない」
「またそれですか」
「わからないから、行くなと言っている」
橘の声が初めて強くなった。
「君の母親は、その部屋を調べていた。だが、実際に戻らなかったのは宮下団地の六号棟三〇一号室だ」
瀬奈の顔から血の気が引いた。
晴人は鍵を見た。
小さな金属片。
ただの鍵。
なのに、それが机の上にあるだけで、部屋の温度が下がった気がした。
「なぜ、今まで持っていたんですか」
晴人が聞いた。
橘は鍵から目を離さなかった。
「返す相手がいなかった」
「探そうとはしなかったんですか」
「した」
橘は即答した。
そして、すぐに目を伏せた。
「何度も。何度も行った。だが、扉は私には開かなかった」
「なぜ」
「私の後悔は、もう別の場所に固定されていたからだ」
晴人は奥の子供部屋を見た。
栞の部屋。
八歳のまま止まった場所。
橘の後悔は、そこに縫い付けられている。
「零号室は、誰にでも同じ顔を見せるわけじゃない」
橘は言った。
「その人間がいちばん戻りたい場所に、いちばん戻ってはいけない形で現れる」
晴人は自分の手を見た。
指先が冷たい。
「俺には、結衣の部屋に見えた」
「君が、そこに縛られているからだ」
橘の言葉は静かだった。
だが、痛かった。
晴人は反論できなかった。
反論できないことが、何よりも苦しかった。
結衣の死を忘れたいと思っていた。
なのに、忘れたくなかった。
忘れたら、結衣が本当にいなくなる気がした。
だからずっと、火事の夜を胸の中に飼っていた。
熱くて、黒くて、息のできない夜を。
それが罰だと思っていた。
「橘さん」
晴人は写真の中の栞を見ながら言った。
「あなたは、娘さんを取り戻そうとしたんですか」
橘の肩が、ほんの少し下がった。
その変化は小さかった。
けれど、答えとしては十分だった。
「した」
橘は言った。
「何度も」
瀬奈は息を止めた。
「戻ったんですか」
橘はすぐには答えなかった。
代わりに、箱の中から最後の一枚を取り出した。
それは写真ではなかった。
戸籍謄本の写しだった。
古い紙。
黒く塗りつぶされた箇所。
そして、家族欄の一部に、不自然な空白があった。
橘はそこを指した。
「一度だけ、栞の名前が戻った」
晴人は息を呑んだ。
「どういう……」
「妻が、娘の名前を呼んだ。死んでから三年、一度も口にしなかった名前を、朝食の席で突然呼んだ。栞の茶碗を出して、今日は学校に遅れると言った」
橘の目が、遠くなる。
「私は泣いた。救われたと思った。やっと、やり直せると思った」
声がそこで止まった。
晴人は、その先を聞きたくなかった。
でも、聞かなければいけなかった。
「その代わりに」
橘は続けた。
「妻が、私を忘れた」
瀬奈が目を見開いた。
晴人の背筋を冷たいものが走る。
「最初は、冗談だと思った。だが違った。妻は本気で私の名前を知らなかった。家に知らない男がいると言って、警察を呼ぼうとした」
橘は乾いた笑みを浮かべた。
「その日、私は理解した。部屋は死者を返すのではない。生きている者の場所を奪って、空いた席に死者の影を座らせるだけだ」
晴人の耳の奥で、心臓の音が鳴った。
結衣を戻せば、誰かが消える。
それは知っていた。
知ったつもりでいた。
でも、今、橘の口から聞いたそれは、紙に書かれた法則ではなかった。
朝食の席。
茶碗。
知らない男を見る妻の目。
それは生活そのものが壊れる音だった。
「それでも」
瀬奈が小さく言った。
「あなたは、やめなかったんですか」
橘は目を閉じた。
「やめられなかった」
その一言には、弁解がなかった。
ただ事実だけがあった。
「一度会ってしまえば、人は弱くなる。死者がもう一度名前を呼んでくれる。もう一度笑ってくれる。もう一度、帰ろうと言ってくれる。その前で、正しさなど紙より軽い」
晴人は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
結衣の声が蘇る。
お兄ちゃん。
今度は間に合ったね。
本当に、あれが言われたら。
自分は拒めるだろうか。
誰かが消えると知っていて、それでも手を伸ばさないでいられるだろうか。
答えは出なかった。
出ないことが、答えだった。
*
事務所を出る頃には、雨は完全に止んでいた。
坂道のアスファルトは濡れたまま、街灯の光を鈍く反射している。遠くで電車が通る音がした。湿った空気の中に、夏の終わりの匂いが混じっていた。
瀬奈は鍵を握ったまま歩いていた。
何も言わない。
晴人も言葉を探さなかった。
言葉にした瞬間、壊れてしまうものがある。
瀬奈の母。
橘の娘。
自分の妹。
すべてが別々の痛みのようで、同じ扉の前に繋がっている。
坂の下まで来たとき、瀬奈が足を止めた。
「私」
声が小さかった。
「母に会ったら、どうするんだろう」
晴人は瀬奈を見た。
彼女は鍵を見ていた。
「怒ると思ってた」
瀬奈は続けた。
「なんで置いていったのって。なんで帰ってこなかったのって。ずっと、そう言うつもりだった」
「今は?」
瀬奈は答えなかった。
代わりに、鍵を握る手に力を込めた。
「会ったら、たぶん」
言葉が止まる。
瀬奈は顔を上げなかった。
「抱きついてしまうかもしれない」
晴人は何も言わなかった。
瀬奈は笑おうとした。
失敗した。
「馬鹿みたいでしょ。二十七にもなって」
「馬鹿じゃない」
晴人は言った。
短い言葉だった。
それ以上は、何も言えなかった。
瀬奈は少しだけ目を伏せた。
街灯の下で、彼女の睫毛に残った雨粒が小さく光った。
そのとき、晴人の携帯が震えた。
また母からだった。
今度は着信。
晴人は画面を見つめた。
出るべきだった。
わかっていた。
わかっているのに、指が動かなかった。
瀬奈がこちらを見る。
「出て」
晴人は通話ボタンを押した。
「もしもし」
少し間があった。
向こうから、母の息遣いが聞こえる。
いつもより浅い。
『晴人?』
「ああ」
『ごめんね。何度も』
「どうした」
母はすぐに答えなかった。
その沈黙の中で、晴人の心臓がゆっくり重くなる。
『今日、押し入れを片付けていたの』
「うん」
『古い箱が出てきてね。写真とか、学校の物とか、いろいろ入っていたの』
晴人の手に力が入る。
瀬奈も気づいたのか、顔を上げた。
『そこに、女の子のものがあったの』
晴人は息を止めた。
『小さな上履きとか、折り紙とか、名前の書いてあるハンカチとか』
「母さん」
『変なのよ』
母の声が震えた。
『その子の名前、見覚えがある気がするの。でも、思い出せないの』
晴人の視界が、暗く狭まった。
濡れた道路。
街灯。
瀬奈の顔。
すべてが遠くなる。
『晴人』
母が言った。
『結衣って、誰?』
携帯を握る手から、音が消えた。
晴人は答えられなかった。
その沈黙の中で、橘の声だけが蘇った。
部屋は死者を返すのではない。
生きている者の場所を奪うだけだ。
晴人はゆっくり、目を閉じた。
そして気づいた。
壊れ始めているのは、もう部屋の中だけではなかった。




