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零号室  作者: 清忠
24/34

(第三部 . 第六章 ) 死者を留める部屋

 名前を忘れられるとき、最初に消えるのは声だ。


 紙に残った文字よりも先に。


 写真に焼きついた顔よりも先に。


 誰かの口から、その名前を呼ぶ音だけが、静かに欠けていく。


 晴人は、携帯電話を耳に当てたまま立っていた。


 濡れた道路の上で、街灯が薄く滲んでいる。


 橘の事務所を出てから、まだ十分も経っていなかった。雨は上がっていたが、空気には冷えた水の匂いが残っている。坂道の下を走る車のタイヤが、水たまりを踏むたび、小さな音を立てた。


 その音だけが、やけにはっきり聞こえた。


『晴人』


 電話の向こうで、母がもう一度言った。


『結衣って、誰?』


 晴人は答えなかった。


 答えられなかった。


 口を開こうとすると、喉の奥に黒い煙が詰まるような感覚があった。十年前の火事の煙ではない。もっと冷たく、もっと重いものだった。


 母は泣いていなかった。


 だから余計に、恐ろしかった。


 忘れてしまった人間は、忘れたことに傷つくことができない。


 傷ついているのは、覚えている側だけだった。


『ごめんね。変なこと聞いて』


 母の声が小さく笑った。


『でも、気になって。押し入れの箱に、女の子のものがたくさんあったの。名前も書いてあるのに、どうしても思い出せなくて』


「……母さん」


 ようやく出た声は、ひどく低かった。


『うん』


「その箱、触らないで」


『え?』


「今は触らないで。閉めて。押し入れに戻して。俺が行くまで、何も捨てないで」


 母は少し黙った。


 その沈黙の中に、昔ならすぐに返ってきたはずの言葉がなかった。


 ――結衣のものを捨てるわけないでしょう。


 その一言が、なかった。


『わかった』


 母は素直に言った。


『ごめんね。お仕事中だった?』


「違う」


『そう。じゃあ、気をつけて帰ってきてね』


「母さん」


『なに?』


 晴人は唇を噛んだ。


 聞いてはいけない。


 そう思った。


 けれど、聞かずにはいられなかった。


「俺のことは、わかるよな」


 電話の向こうで、母が息を止めた。


 ほんの一秒。


 たぶん、ただ驚いただけだ。


 そう思いたかった。


『当たり前でしょ』


 母は笑った。


『何を言ってるの。晴人は、晴人じゃない』


 胸の奥に、少しだけ空気が戻った。


 けれど安心はできなかった。


 母の声は、確かに自分の名前を呼んだ。


 だがその声の底で、何かが薄く削れている気がした。


「また電話する」


『うん』


 通話が切れた。


 画面が暗くなる。


 そこに映った自分の顔は、見知らぬ男のようだった。


 晴人は携帯を下ろした。


 指先が冷えている。


 瀬奈は、少し離れた場所に立っていた。


 彼女は何も聞かなかった。


 濡れた前髪が頬に貼りついている。手には、橘から受け取った二〇四号室の鍵を握っていた。その小さな金属片だけが、街灯の光を受けて鈍く光っている。


「お母さん?」


 ようやく瀬奈が言った。


 晴人は頷いた。


「結衣を忘れた」


 言葉にした瞬間、それは現実になった。


 瀬奈の目がわずかに揺れる。


 彼女は視線を落とした。


 鍵を握る手に、力が入る。


「……早すぎる」


「何が」


「消え方」


 瀬奈は道路の向こうを見た。


 その先には、黒い窓を並べた古いビルが沈んでいる。街はいつも通り動いているのに、二人の周りだけが少しずつ現実から切り離されていくようだった。


「今までは、部屋に入った本人の周囲から、ゆっくり削れていった。戸籍。写真。近所の記憶。関係の薄い人から順番に。でも、あなたのお母さんは違う」


 瀬奈は言葉を選ぶように、一度唇を閉じた。


「近すぎる人よ」


 晴人は返事をしなかった。


 母が結衣を忘れる。


 その事実は、胸に刺さるというより、胸そのものを空洞にしていくようだった。


「橘のところへ戻る」


 晴人は言った。


 瀬奈が顔を上げる。


「今?」


「あの人は、知っている」


「でも話すとは限らない」


「話させる」


 自分でも驚くほど、声が冷えていた。


 瀬奈はしばらく晴人を見ていた。


 やがて、何も言わずに歩き出した。


 二人の足音が、濡れた坂道に重なる。


 橘建築設計事務所の看板は、さっきよりも暗く見えた。


 小さなビルの二階。


 曇ったガラス扉の向こうに、細い光が残っている。


 閉めたはずの事務所の灯りが、まだついていた。


 晴人が階段を上がると、古い鉄骨が足の下で軋んだ。


 一段。


 また一段。


 踊り場の壁に、誰かが貼った古い不動産広告が半分剥がれている。


 その端が、風もないのにかすかに揺れていた。


 瀬奈が立ち止まる。


「今、動いた」


「見た」


 晴人は扉の前に立った。


 ノックする前に、向こう側から鍵の開く音がした。


 かちゃり。


 扉が、数センチだけ開いた。


 橘礼司が立っていた。


 その顔を見た瞬間、晴人は理解した。


 橘は、二人が戻ってくることを知っていた。


 いや。


 待っていた。


「入れ」


 橘は短く言った。


 事務所の中は、さっきよりも冷えていた。


 エアコンはついていない。


 窓も閉まっている。


 それなのに、床近くの空気だけが冬のように冷たかった。


 図面台の上には、古い資料がいくつも広げられている。


 写真。


 戸籍謄本の写し。


 建築確認申請書。


 新聞の切り抜き。


 そのどれもが、長い年月、人の手に触れられてきたように角が丸くなっていた。


 橘は奥の応接スペースへ歩いた。


 淡い黄色のカーテンがかかった子供部屋の扉は、閉まっている。


 閉まっているはずだった。


 けれど、晴人はその扉の下から、細い光が漏れているのを見た。


 白い光ではない。


 夕暮れのような、赤く濁った光。


「母が、結衣を忘れました」


 晴人は座らずに言った。


 橘の背中が止まる。


 瀬奈も、鍵を握ったまま立っていた。


 橘はゆっくり振り返った。


 その顔に驚きはなかった。


 ただ、目の下の皺が深くなっただけだった。


「始まったか」


「何が」


 晴人の声が低くなる。


「何が始まったんですか」


 橘は答えなかった。


 代わりに、図面台の上に置かれた一冊の黒いファイルを取った。


 背表紙には、白いテープが貼られている。


 文字は、ほとんど掠れていた。


 それでも読めた。


 零号室記録 一九九七――。


 最後の数字は、黒く塗りつぶされている。


 橘はファイルをテーブルに置いた。


「零号室には、段階がある」


「段階?」


「最初は、見せるだけだ」


 橘はファイルを開いた。


 中には、古い写真が何枚も貼られていた。


 どこにでもある集合住宅の玄関。


 廊下。


 階段。


 室内。


 その中に、ひとつだけ異様な写真があった。


 六畳ほどの和室。


 畳の上に、子供用の椅子が置かれている。


 壁には何もない。


 窓もない。


 扉だけが、画面の端に黒く写っていた。


「見せる?」


 瀬奈が聞く。


「後悔を見せる。失った者を見せる。戻れなかった時間を見せる。そこで終われば、まだ取り返しがつく」


 橘の指が、次のページへ移る。


 そこには、家族写真が貼られていた。


 父。


 母。


 小さな女の子。


 だが父親の顔だけが、灰色に滲んでいる。


 晴人の背筋が凍った。


 自分の家の写真と同じだった。


「次に、揺さぶる」


 橘が言った。


「写真が変わる。記録が変わる。小さな物が、部屋の外に現れる。折り鶴。靴。ハンカチ。本人しか知らないはずの言葉」


 結衣の折り鶴が、晴人の脳裏に浮かんだ。


 白い紙。


 少し曲がった首。


 机の上に、いつの間にか置かれていた小さな鳥。


「そして」


 橘はそこで一度、言葉を止めた。


 窓の外で、遠くの救急車のサイレンが鳴った。


 音はすぐに小さくなっていく。


「本人が選ぶのを待つ」


「何を」


 晴人が聞いた。


 橘は晴人を見た。


「変えるかどうかをだ」


 部屋の空気が重くなった。


 瀬奈が鍵を握りしめる音がした。


「変えなければ?」


「扉は閉じることもある。だが、強い後悔ほど閉じない。何度も現れる。夢に。写真に。音に。人の声に」


「変えたら」


 晴人の声は、ほとんど自分に向けたものだった。


 橘はすぐには答えなかった。


 代わりに、ファイルのさらに奥をめくった。


 そこには、文字の消えたページがあった。


 罫線だけが残っている。


 名前を書いていたらしい欄は、白く抜けていた。


 まるで紙そのものが、その文字を拒んだかのように。


「部屋が食べ始める」


 橘は言った。


 瀬奈の顔色が変わった。


「記憶を、ですか」


「記憶だけではない」


 橘の声は低かった。


「呼び方。匂い。癖。誕生日。好きだったもの。嫌いだったもの。家族の中でその人が座っていた椅子。食器棚の中の茶碗。靴箱の空き。すべてだ」


 晴人は無意識に、母の言葉を思い出していた。


 小さな上履き。


 折り紙。


 名前の書いてあるハンカチ。


 母はそれを見て、結衣を思い出せなかった。


 物は残っている。


 でも、その物に繋がる声が消えている。


「死者を留める部屋」


 瀬奈が呟いた。


 橘は目を伏せた。


「昔、君の母親がそう呼んだ」


 瀬奈の呼吸が止まる。


「母が?」


「ああ」


 橘は別の封筒を取り出した。


 茶色い封筒。


 表には、細い文字で日付が書かれている。


 一九九九年十一月十七日。


 その下に、如月亜紀の名前。


 瀬奈は封筒を見つめた。


 手を伸ばそうとして、途中で止める。


 触れたら壊れてしまうものを見るような目だった。


「読め」


 橘が言った。


 瀬奈はゆっくり封筒を開けた。


 中には、数枚のメモが入っていた。


 古い紙。


 鉛筆で書かれた文字。


 ところどころ、強く擦れている。


 瀬奈の指が、一行目で止まった。


 晴人は横からそれを見た。


 ――零号室は、死者を保存する場所ではない。

 ――生者の中に残った死者の輪郭を利用し、欠けた時間を仮の形で再構成する。

 ――その形を維持するため、周囲の記憶から必要なものを吸い上げる。


 瀬奈の喉が、小さく鳴った。


「これ……母の字です」


 橘は頷いた。


「亜紀さんは、私より先に気づいていた。零号室の中にいる死者は、死者本人ではない。だが、ただの幻でもない。残された人間の記憶と後悔を芯にして、部屋が作ったものだ」


「じゃあ、結衣は」


 晴人は言った。


 言葉の途中で、声が詰まる。


 橘はまっすぐ晴人を見た。


「君の妹ではない、と言えば嘘になる」


 晴人の指が震えた。


「だが、君の妹そのものだと言えば、それも嘘だ」


「そんな言い方で納得できると思ってるんですか」


「納得する必要はない」


 橘の声は静かだった。


「ただ、間違えるな。あの部屋の中で君を呼ぶ声は、君を救うためだけに存在しているわけではない」


 晴人は唇を噛んだ。


 お兄ちゃん。


 遅すぎたよ。


 今度は、助けてくれる?


 結衣の声が頭の奥で重なる。


 あれが部屋の作った声だとしても。


 あの声で呼ばれたら、晴人は振り返ってしまう。


 その弱さを、部屋は知っている。


「母は、どうしてそこまで調べたんですか」


 瀬奈が聞いた。


 声が少し掠れていた。


「新聞記者だったから? 都市伝説に興味があったから? 違う。母はもっと早くから何かを知っていた。あなたも、それを知ってる」


 橘は答えなかった。


 瀬奈の目が鋭くなる。


「母は、何を見たんですか」


 橘は、子供部屋の扉を見た。


 扉の下から漏れていた赤い光が、少し濃くなっている。


「亜紀さんは、戻された人間を見た」


 晴人は顔を上げた。


「戻された人間?」


「死んだはずの者が、日常に戻ってくる例だ」


 瀬奈が息を呑む。


「本当に、そんなことが」


「ある」


 橘は言った。


「少なくとも、そう見える現象はあった」


 晴人の胸の奥で、何かが強く脈打った。


 結衣を戻せる。


 その可能性が、言葉になる前に体を走る。


 同時に、母の声が蘇った。


 結衣って、誰?


 戻すということは、奪うということだ。


 わかっている。


 わかっているのに、心のどこかがまだ手を伸ばそうとする。


 晴人は自分の手を握りしめた。


「その人は、どうなったんですか」


 橘はファイルを閉じた。


「その話は、まだするべきではない」


「今するべきです」


 晴人は一歩前へ出た。


「俺の母が、結衣を忘れ始めてる。瀬奈の母親も、その部屋に関わって消えた。あなたは、まだ何かを隠してる」


「隠しているのではない」


「じゃあ何ですか」


「言えば、君は行く」


 橘の目が細くなる。


「戻された人間の話を聞けば、君は必ず、結衣を戻せる道を探す」


 晴人は返事をしなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 橘は深く息を吐いた。


「君はまだ、部屋を憎んでいない」


「憎んでます」


「違う」


 橘は首を振った。


「君はまだ、部屋に期待している」


 その言葉は、晴人の胸を正確に刺した。


 否定したかった。


 けれど否定できなかった。


 結衣に会いたい。


 もう一度だけでいい。


 そう思った。


 何度も思った。


 部屋の恐ろしさを知っても、その気持ちは消えていなかった。


 だから怖いのだ。


 部屋ではなく、自分自身が。


「橘さん」


 瀬奈が低く言った。


「あなたも、そうだったんでしょう」


 橘の表情が止まる。


「娘さんに会えるなら、何でもいいと思った。誰かが忘れても、誰かが壊れても、自分だけはあの子を覚えていたかった。違いますか」


 事務所の蛍光灯が、一度だけ大きく瞬いた。


 白い光が消え、すぐに戻る。


 その一瞬、子供部屋の扉の隙間から、誰かの影が見えた気がした。


 小さな影。


 八歳くらいの子供の背丈。


 晴人の体がこわばる。


 瀬奈も見たのか、言葉を止めた。


 橘だけが、動かなかった。


「……見たのか」


 彼は静かに言った。


 晴人は子供部屋の扉を見つめた。


「今、そこに」


「見るな」


 橘の声が鋭くなった。


「見るな。あそこに焦点を合わせるな」


 瀬奈が一歩下がった。


「何なんですか、あの部屋は」


「栞の部屋だ」


「本当に?」


 橘は答えなかった。


 沈黙のまま、ゆっくり立ち上がる。


 彼は子供部屋の扉の前まで歩いた。


 床板が小さく鳴る。


 扉の向こうから、かすかな音がした。


 紙を折る音。


 角と角を合わせ、爪で折り目をつける音。


 晴人の呼吸が止まった。


 折り紙。


 結衣。


 栞。


 死んだ子供たち。


 部屋は、同じ音を使う。


 同じ痛みを、違う名前で呼ぶ。


「開けるな」


 橘は扉に手を当てた。


 その手は震えていた。


「開ければ、また食われる」


「また?」


 瀬奈が聞いた。


 橘は答えない。


 紙を折る音が、もう一度した。


 ぱたり。


 小さな羽が開くような音。


 晴人の足元に、白いものが落ちた。


 全員の視線が、そこへ向いた。


 白い折り鶴だった。


 子供部屋の中からではない。


 天井から落ちてきたように、床の上に静かに置かれていた。


 首が少し曲がっている。


 羽の片方だけが、わずかに大きい。


 晴人は、その形を知っていた。


 結衣の折り方だった。


「触るな」


 橘が言った。


 晴人の手は、もう伸びかけていた。


 指先が止まる。


 白い鶴は、濡れていない。


 新しい紙の匂いがする。


 でも、端だけが黒く焦げていた。


「どうして、ここに」


 晴人は呟いた。


 橘はゆっくり振り返った。


 その顔から、血の気が引いている。


「私の部屋に、君の後悔が入ってきた」


 瀬奈の表情が硬くなる。


「そんなことがあるんですか」


「本来はない」


 橘は折り鶴から目を離せなかった。


「零号室は、人の後悔ごとに形を変える。扉も、部屋も、記憶も、個別に現れるはずだ。混ざることはない」


「じゃあ、これは」


 晴人が聞く。


 橘の声はかすれていた。


「部屋が、繋がり始めている」


 事務所の空気が、一段と冷えた。


 瀬奈の手の中で、二〇四号室の鍵が小さく鳴る。


 ちりん。


 鈴のような音だった。


 本来、鍵はそんな音を立てない。


 瀬奈が手を開いた。


 真鍮の鍵が、掌の上で震えている。


 タグに書かれた数字が、薄く滲んでいた。


 二〇四。


 その下に、いつの間にか新しい文字が浮かんでいる。


 零。


 瀬奈は息を呑んだ。


「……増えてる」


 晴人は鍵を見た。


 二〇四号室の鍵。


 だがタグには、確かにもう一つの数字が浮かんでいた。


 0。


 橘が低く言った。


「もう、特定の部屋だけではない」


 晴人は、足元の折り鶴を見つめた。


 結衣の鶴。


 橘の事務所。


 瀬奈の母が消えた二〇四号室。


 別々だったはずの線が、一本の暗い糸で結ばれ始めている。


「部屋が食べ始めるって、こういうことですか」


 瀬奈が言った。


「人の記憶だけじゃなくて、部屋同士も?」


「後悔に境界がなくなる」


 橘は答えた。


「そうなると、誰の扉かわからなくなる。誰の記憶なのか、誰の死者なのか、誰の痛みなのかも」


 瀬奈は自分のノートを取り出した。


 母のメモを挟んでいた黒いノート。


 彼女は震える指でページをめくる。


「何してる」


 晴人が聞く。


「確認」


 瀬奈は短く答えた。


 ページをめくる音だけが、事務所に響く。


 一枚。


 また一枚。


 そして、彼女の手が止まった。


 晴人は隣から覗き込んだ。


 そこには、瀬奈が自分で書いたはずの調査メモがあった。


 旧南品川第三団地。


 二〇四号室。


 如月亜紀。


 その名前の部分だけが、薄くなっていた。


 消しゴムで擦ったように。


 完全には消えていない。


 だが、紙の白さの中へ沈みかけている。


「嘘でしょ」


 瀬奈の声が震えた。


 彼女は次のページをめくった。


 母の好きだった煙草の銘柄。


 母が最後に着ていたコートの色。


 子供の頃に歌ってくれた子守歌の一節。


 そこにも、薄い空白ができていた。


 晴人の胸が冷たくなる。


 瀬奈はページに指を置いた。


「ここ、何を書いたか覚えてる」


 自分に言い聞かせるような声だった。


「覚えてる。母が歌ってくれた曲。雨の日に。布団の中で。私は眠れなくて、母が……」


 言葉が止まった。


 瀬奈の目が大きく開く。


 彼女は口を動かした。


 けれど、続きが出てこない。


「瀬奈」


 晴人が呼ぶ。


 瀬奈は顔を上げなかった。


「待って」


 彼女は小さく言った。


「今、思い出せる。大丈夫。大丈夫だから」


 瀬奈はページを押さえたまま、目を閉じた。


 唇がわずかに動く。


 歌詞を探している。


 母の声を探している。


 雨の日の布団の匂いを探している。


 だが、何も出てこなかった。


 事務所の蛍光灯が、また瞬いた。


 白い光が細く揺れる。


 そのたびに、ノートの文字が少しずつ薄くなっていくように見えた。


「閉じろ」


 橘が言った。


「でも」


「閉じろ。見続けるな。消える瞬間を認識すると、消え方が早くなる」


 瀬奈は反射的にノートを閉じた。


 手が震えている。


 晴人はその手を掴んだ。


 瀬奈が振り払わなかった。


 彼女の指先は、氷のように冷たい。


「覚えてる」


 瀬奈は言った。


 誰に向けた言葉かわからなかった。


「私は、覚えてる」


 晴人は頷いた。


「覚えてる」


 瀬奈はようやく顔を上げた。


 その目は濡れていなかった。


 泣くことすら、今は怖いのだろう。


 泣いている間に、何かを忘れてしまうかもしれないから。


 橘は奥の棚へ向かった。


 鍵のかかった引き出しを開ける。


 そこから、厚い封筒を取り出した。


 赤い紐で縛られた古い資料。


 表面には、墨で短い文字が書かれていた。


 帰還例。


 晴人の視線が、その文字に吸い寄せられる。


「さっき言っていた、戻された人間の記録ですか」


 橘は答えずに封筒を持ってきた。


 だが、テーブルに置く前に手を止めた。


「これを見れば、君たちは次の場所へ行く」


「行きます」


 瀬奈が言った。


 声は震えていたが、逃げてはいなかった。


「母の記憶が消え始めているなら、なおさら行くしかない」


 橘は晴人を見た。


「君もか」


 晴人は足元の折り鶴を見た。


 結衣の鶴。


 焦げた羽。


 その小さな紙片が、どんな言葉よりも強く彼を引っ張っていた。


「俺は、知りたい」


「知るだけで済むと思うな」


「思ってません」


「嘘だ」


 橘の声が静かに刺さった。


「君はまだ、自分だけは踏みとどまれると思っている」


 晴人は答えなかった。


 瀬奈が横から言った。


「それでも、知らないまま奪われるよりはいい」


 橘は長く沈黙した。


 やがて、封筒をテーブルに置いた。


 紐を解く音が、やけに大きく聞こえた。


 中から出てきたのは、一束の新聞切り抜きだった。


 どれも古い。


 紙は茶色く変色し、文字の端が滲んでいる。


 最初の記事には、こう書かれていた。


 ――病死した女児、三日後に自宅で発見。


 瀬奈が息を止めた。


 晴人は記事を読んだ。


 小さな地方紙の記事だった。


 亡くなったはずの少女が、葬儀の翌々日に自宅の子供部屋で見つかった。


 本人に外傷はなく、死亡診断書も発行済み。


 家族は「最初から死んでいなかった」と証言。


 だが病院関係者の記録には、死亡確認の記載が残っていた。


 日付は、橘の娘が亡くなった年より少し前だった。


「これが、最初?」


 瀬奈が聞く。


「私が把握している中ではな」


 橘は言った。


 晴人は記事の下に貼られた写真を見た。


 古い家族写真。


 父親。


 母親。


 戻ってきたという少女。


 そして、その隣にもう一人分の空白があった。


 人が立っていたはずの場所だけ、写真の粒子が潰れている。


 顔どころか、体の輪郭もない。


 ただ、そこに誰かがいたという不自然な余白だけが残っていた。


「誰かが消えた」


 晴人は呟いた。


 橘は頷いた。


「少女が戻った代わりに、兄が消えた」


 瀬奈が顔を上げる。


「兄?」


「家族は、その兄の存在を覚えていなかった。学校の記録も、近所の記憶も、写真も、すべて消えていた。ただ一つ、病院の古い受付簿にだけ、兄の名前らしきものが残っていた」


「らしきもの?」


 橘は切り抜きの下に挟まれていたコピーを出した。


 そこには、手書きの受付簿が写っていた。


 氏名欄の一部が黒く滲んでいる。


 姓だけが読めた。


 名前は、ほとんど消えていた。


 まるで、紙の上で燃えたように。


「戻された者には、必ず代わりがいる」


 橘の声は低かった。


「部屋は、空席を嫌う。誰かを戻せば、誰かを空席にする」


 晴人は写真の中の空白を見つめた。


 そこにいたはずの兄。


 名前を失った人間。


 誰にも思い出されないまま、空白になった存在。


 それは、未来の自分かもしれなかった。


 あるいは、母かもしれない。


 瀬奈かもしれない。


 晴人は息を吸った。


 吸った空気が、肺の途中で止まる。


 そのとき、足元の折り鶴が、ひとりでに動いた。


 羽が、わずかに開く。


 紙の折り目が軋むような小さな音。


 そして、鶴の腹の部分に、黒い点が浮かんだ。


 焦げではない。


 文字だった。


 ゆっくりと、紙の内側から滲み出すように現れる。


 晴人は膝をついた。


「触るなと言った」


 橘の声が飛ぶ。


 晴人は触れなかった。


 ただ、文字を読んだ。


 そこには、子供の字で短く書かれていた。


 ――お兄ちゃん。


 晴人の喉が鳴る。


 次の文字が浮かぶ。


 ――まだ、思い出してないよ。


 瀬奈が息を呑んだ。


 橘の顔が強張る。


 晴人は折り鶴から目を離せなかった。


 文字はそこで止まらなかった。


 最後に、もう一行だけ浮かび上がった。


 ――火の中で、私を呼んだのは誰?


 晴人の視界が、白く揺れた。


 火。


 煙。


 崩れる天井。


 結衣の声。


 自分の声。


 誰かの手。


 記憶が、破れたフィルムのように点滅する。


 お兄ちゃん。


 こっち。


 早く。


 違う。


 誰かが、自分の名前を呼んでいた。


 結衣ではない。


 でも、結衣の声に似ていた。


 晴人は頭を押さえた。


「晴人」


 瀬奈が肩を掴む。


 その手の感触で、かろうじて現実に戻った。


 橘は折り鶴を見つめていた。


 その顔には、恐怖に近いものが浮かんでいる。


「今のは、君の記憶だ」


 彼は言った。


「部屋が、君の中から引き出している」


「俺の……」


「君が忘れているものだ」


 晴人はゆっくり顔を上げた。


 自分の心臓の音が、耳の奥で鳴っている。


 橘は封筒の中から、最後の一枚を取り出した。


 それは、まだ誰の手にも触れられていないように新しい紙だった。


 他の資料とは違う。


 白すぎる。


 新しすぎる。


 だが表紙には、古い筆跡で題が書かれていた。


 戻された人。


 晴人はその文字を見た。


 胸の奥で、どこかの扉がゆっくり開く音がした。


 橘が言った。


「この記録の中に、君の妹と同じ形で戻った者がいる」


 瀬奈が顔を上げた。


 晴人は何も言えなかった。


 子供部屋の扉の向こうで、紙を折る音がもう一度した。


 ぱたり。


 そして、誰かが笑った。


 それは結衣の声にも、栞の声にも聞こえた。


 だが、本当はそのどちらでもないのだと、晴人は思った。


 部屋が、声を真似ている。


 死者を留めるために。


 生きている者の記憶を、少しずつ食べながら。


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