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零号室  作者: 清忠
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(第三部 . 第七章 ) 戻された人


戻ってきた者は、戻った場所を必要とする。


橘礼司は、そう言った。


資料室の蛍光灯は昼なのに頼りなく、机の上の古いファイルだけを白く照らしている。外の雨は止んでいた。けれど窓枠の隙間から、濡れた紙のような匂いが残っていた。


晴人はファイルの表紙を見ていた。


戻された人。


手書きの文字だった。


「これは、誰の記録ですか」


「名前は残っていません」


橘の答えは短かった。


瀬奈がページを開く。


中には、新聞の小さな切り抜きと、数枚の写真が貼られていた。


古い住宅街。

解体前の長屋。

火事ではない。

事故でもない。


そこに書かれていたのは、十七年前に病死したはずの女性が、三日後に自宅へ戻ってきたという話だった。


晴人は一行ずつ読んだ。


夫は泣いて喜んだ。

近所の人間は、奇跡だと言った。

葬儀に出た親族でさえ、なぜ棺が空だったのかを思い出せなくなった。


その代わり、夫婦の息子の記録が消えた。


写真からも。

学校の名簿からも。

母子手帳からも。


「息子は、どうなったんですか」


瀬奈の声が硬い。


橘は首を横に振った。


「分かりません」


「分からない?」


「誰も覚えていなかった。名前も、顔も、何歳だったかも」


晴人はページの写真を見た。


夫婦が並んでいる。

妻は穏やかに笑っている。

夫も笑っている。


けれど二人のあいだに、子ども一人分の隙間があった。


そこだけ、画面の奥行きがおかしい。


晴人は指先でその空白をなぞろうとして、止めた。


「戻すというのは」


声がかすれた。


「誰かを、その空白にすることですか」


橘は答えない。


それで充分だった。


瀬奈がファイルを閉じようとした。

その瞬間、間に挟まっていた白い紙が滑り落ちた。


折り紙だった。


まだ折られていない、まっさらな正方形。


晴人の胸が冷える。


紙の中央には、鉛筆で小さく文字が書かれていた。


名前を置いていけ。


瀬奈が息を呑んだ。


「これは、さっきまでありませんでした」


橘の顔が険しくなる。


「持ってきてしまったのです」


「何を」


「部屋の返事を」


晴人は紙から目を離せなかった。


名前。


人をこの世界につなぎ止めている、最後の線。


水野結衣という名は、もう何度も薄くなった。

母の口から消え、書類から消え、写真の中で輪郭を失った。


それでも晴人の中にだけは、まだ残っている。


だから部屋は、次の名前を求めている。


「もし」


晴人はゆっくり言った。


「俺の名前を置いたら」


瀬奈が顔を上げた。


「水野さん」


「結衣は戻るんですか」


橘は、初めてはっきりと晴人を見た。


その目には、止めたいという感情があった。

だが同時に、止められないと知っている諦めもあった。


「可能性はあります」


瀬奈が立ち上がった。


「そんな言い方をしないでください」


橘は彼女を見なかった。


「でも、戻ってくるのが結衣さんだとは限らない」


晴人の手が止まる。


「どういう意味ですか」


資料室の奥で、紙が鳴った。


かさり。


かさり。


机の上のまっさらな折り紙が、誰も触れていないのに一つ折れた。


瀬奈が後ずさる。


紙はさらに折れる。


角が合わさり、細い首が作られ、羽が開いていく。


小さな白い鶴が、机の中央に立った。


そして、結衣の声で言った。


「お兄ちゃん」


晴人の血が凍った。


折り鶴は、首を少し傾けた。


「名前を置いて」


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