(第三部 . 第八章 ) 契約
契約書は、紙の形をしていなかった。
それは、折り鶴の羽の内側に浮かんだ黒い文字だった。
――誰の名前にする?
資料室の空気が、その一行を読んだ瞬間に変わった。
湿った紙の匂いが消える。
代わりに、畳の匂いがした。
古い団地の資料室にいるはずなのに、晴人の足元から、乾いた藺草の匂いがゆっくり立ち上がってくる。棚と棚のあいだに開いた細い隙間。その奥にある暗がりが、まるで呼吸しているみたいに膨らんだ。
瀬奈が一歩、晴人の前に出た。
「見ないで」
声は小さかった。
けれど、強かった。
晴人は答えられなかった。
視線が、折り鶴から離れない。
白い紙の羽に浮かんだ文字は、墨のように濃く、まだ濡れているみたいだった。だが、そこから水滴は落ちなかった。代わりに、文字の輪郭だけが少しずつ滲み、別の形へ変わっていく。
――水野結衣を返すことができる。
晴人の胸の奥で、何かが音を立てた。
返す。
その言葉だけが、ほかのすべての音を遠ざけた。
母の声も。
瀬奈の呼吸も。
橘礼司の警告も。
ただ、その一語だけが、火の中から差し出された手のように、晴人の意識を掴んだ。
「水野君」
橘の声が低く響いた。
「それ以上読むな」
晴人は振り返らなかった。
「……読まなければ、消えますか」
自分の声は、他人のもののようだった。
橘は答えなかった。
それで十分だった。
読まなくても、消えない。
見つけてしまった時点で、もう何かが始まっている。
瀬奈が折り鶴に手を伸ばした。
「私が捨てる」
「触るな」
橘が鋭く言った。
瀬奈の指が止まる。
「契約に近づくな。触れれば、君の名前も候補に入る」
「候補?」
瀬奈が橘を睨んだ。
「人間を、候補って言うんですか」
橘は目を伏せなかった。
「零号室は、そう扱う」
その言い方は冷たかった。
けれど、冷たく言わなければ壊れてしまう人間の声だった。
晴人はようやく橘を見た。
老人の手は震えていた。
ほんのわずかに。
紙を扱う癖のある細い指。設計図を何百枚も引いてきたはずの指。その指が、今は自分の膝の上で力なく曲がっている。
橘礼司も、これを見たことがある。
晴人はそう思った。
「あなたも、契約を見たんですね」
橘の顔に、古い傷のような影が落ちた。
瀬奈が息を呑む。
橘は否定しなかった。
「見た」
短い答えだった。
「いつですか」
「ずっと昔だ」
「娘さんのために?」
その瞬間、橘の目だけが動いた。
橘栞。
八歳で死んだ、橘の娘。
晴人はその名前を口にしなかった。口にしたら、資料室の奥に開いた隙間が、さらに大きくなる気がした。
橘は静かに息を吐いた。
「質問する順番を間違えるな、水野君」
「何を間違えてるんですか」
「戻せるかどうかを聞く前に、何が戻ってくるのかを聞け」
折り鶴の文字が、また動いた。
晴人の視線が吸い寄せられる。
――水野結衣。
――平成十四年四月二十七日生。
――平成二十六年八月十七日死亡。
――十二歳。
――六年二組。
一行ずつ、正確な情報が浮かんでいく。
それは戸籍に書かれるような、無機質な文字だった。
だが晴人には、その一つひとつが刃物のように見えた。
結衣が生まれた日。
結衣が死んだ日。
十二歳。
六年二組。
母が忘れてしまったはずの情報を、零号室は覚えている。
いや、違う。
覚えているのではない。
保管している。
人間から奪った記憶を、そこにしまっている。
「やめて」
瀬奈が言った。
晴人に向けた言葉なのか、部屋に向けた言葉なのか、自分でもわかっていない声だった。
「晴人、これは罠だよ」
「わかってる」
「わかってない」
彼女は即座に言った。
「わかってたら、そんな目で見ない」
晴人は何も言えなかった。
そんな目。
どんな目だ。
希望を見ている目か。
罪を逃がす出口を見つけた目か。
それとも、死んだ妹をもう一度殺す覚悟をまだ持てない目か。
資料室の奥の隙間から、細い風が吹いた。
棚の上に積まれていた古い図面が、一枚だけめくれる。
ぱさり。
床に落ちた図面には、部屋の形が描かれていた。
四角い和室。
押し入れ。
窓のない壁。
そして、中央に小さな文字。
零号室。
橘が低く呻いた。
「この部屋ではないはずだ」
「何がですか」
瀬奈が訊いた。
「契約は、零号室の中でしか成立しない」
「じゃあ、ここは……」
瀬奈の言葉が止まった。
晴人も気づいた。
資料室の床が、少しずつ変わっている。
薄い灰色の床材の上に、畳の目が浮かんでいた。
棚の影が長く伸びる。
蛍光灯の光が薄れ、どこからか夕方のような赤い光が差し込む。
窓はない。
それなのに、部屋の端だけが夕焼けに染まっていく。
「ここを、部屋にしてるんだ」
瀬奈が呟いた。
橘は机の端を掴んだ。
「違う。ここに開いているんじゃない。向こうが、こちらを取り込もうとしている」
折り鶴が、床の上で震えた。
羽がわずかに開く。
そこから、別の紙片が滑り出した。
一枚。
また一枚。
薄い紙が畳もどきの床に広がっていく。
戸籍謄本。
住民票。
小学校の名簿。
火災報告書。
家族写真の裏に書かれた日付。
すべて、結衣に関するものだった。
晴人は膝をつきかけた。
瀬奈が腕を掴む。
「だめ」
「離して」
「離さない」
「瀬奈」
「私の母も、たぶん同じものを見た」
その言葉で、晴人は止まった。
瀬奈の手が震えていた。
だが、彼女は離さなかった。
「母は、誰かを戻せると思ったんだと思う。自分のせいで失った誰かを。だから、奥まで行った。だから、帰れなくなった」
「如月亜紀さんが、誰を戻そうとしたのか知ってるのか」
「知らない」
瀬奈は首を振った。
「知らないから、怖いんだよ」
晴人は瀬奈を見た。
彼女の瞳に、資料室の赤い光が映っていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと削られたもの。
十五年かけて、毎日少しずつ形を失ってきた人間の目だった。
「晴人」
瀬奈は静かに言った。
「今ここで選んだら、あなたはたぶん、自分が何を選んだのかも忘れる」
「忘れたほうがいいこともある」
口にした瞬間、瀬奈の手に力が入った。
痛いほどだった。
「それ、本気で言ってる?」
晴人は答えなかった。
瀬奈の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。
「忘れたほうがいいなら、どうしてあなたは今まで生きてきたの」
資料室の赤い光が、さらに濃くなった。
晴人の喉が詰まる。
生きてきた。
その言葉が、こんなに重いものだとは思わなかった。
十九歳の夏。
火の中で結衣を見失った。
それから十年。
母が台所で結衣の茶碗を洗っていた日。
父が仏壇の前で黙っていた夜。
晴人が、妹の名前を呼ばないまま過ごした朝。
それらは全部、苦しかった。
だが、苦しみがあったから、結衣がそこにいたことだけは消えなかった。
母が忘れた今、その苦しみさえ奪われたら、結衣はどこに残るのだろう。
折り鶴から、また文字が浮かんだ。
――必要なのは、ひとり分の名前。
――名前は、存在の鍵。
――鍵を置けば、扉は開く。
橘が机に手をついた。
「零号室は、死者を生者に変えることはできない」
その声には、何かを噛み殺したような響きがあった。
「ただ、場所を入れ替える。記憶の中にいる者と、現実にいる者の場所を」
「場所を……」
晴人は呟いた。
「じゃあ、結衣が戻るなら、誰かが向こうへ行く」
「そうだ」
「向こうって、どこですか」
橘は答えるまでに時間をかけた。
「忘れられた場所だ」
その言葉は、資料室の奥の隙間から吹く風よりも冷たかった。
「人の記憶にも、記録にも残らない場所。名前を呼ぶ人間がいなくなった者が、最後に落ちる場所」
瀬奈の顔色が変わる。
「母は、そこにいるんですか」
橘は目を閉じた。
「わからない」
「またそれですか」
「本当にわからない。だが、如月亜紀さんは最後に、そこへ向かう扉を開いた」
瀬奈が一歩近づく。
「なぜ止めなかったんですか」
橘は黙った。
答えはなかった。
あるいは、答えがありすぎて言えないのかもしれなかった。
床に広がった紙の中に、一枚だけ色の違うものがあった。
白ではない。
薄い灰色の紙。
そこには、まだ何も書かれていなかった。
だが晴人が見つめると、紙の中央にゆっくり文字が浮かんだ。
契約。
たった二文字。
瀬奈が息を止める。
橘が一歩下がった。
晴人は、その紙から目を離せなかった。
次の行が現れる。
――返還対象。
その下に、名前が浮かぶ。
水野結衣。
晴人の体が固まった。
さらに下。
――代替対象。
空白。
そこだけが、ぽっかりと白かった。
白すぎて、穴のように見えた。
「書くな」
橘が言った。
「声にも出すな。心の中で思うだけでも危ない」
「そんなことで成立するんですか」
瀬奈の声が震えていた。
「契約は、署名ではなく選択で成立する」
「じゃあ、逃げ場なんてないじゃないですか」
「だから言っている。読むなと」
晴人は契約書を見つめた。
返還対象、水野結衣。
代替対象、空白。
空白は、誰かの名前を待っている。
誰でもいいのだろうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、紙の白い部分がわずかに震えた。
晴人は息を呑んだ。
心を読まれている。
いや、心を読まれているのではない。
心の弱い場所を、先に知っている。
母。
父。
瀬奈。
橘。
名前を持つ者なら、誰でも鍵になる。
晴人は奥歯を噛んだ。
「ふざけるな」
言葉は、低く漏れた。
契約書の空白が、少し暗くなる。
「誰かを差し出して結衣を戻せっていうのか」
返事はなかった。
だが、資料室の奥で、女の子の笑い声がした。
今度は、結衣に似ていなかった。
もっと古い声だった。
何人もの子どもの声を重ねて、結衣の形に整えたような声。
瀬奈が晴人の腕を引いた。
「出よう」
「まだだ」
「晴人」
「まだ、聞いてない」
「何を」
晴人は契約書を睨んだ。
「結衣は、本当に戻るのか」
その瞬間、部屋の赤い光が消えた。
暗闇。
瀬奈が小さく息を呑んだ。
次に明かりが戻ったとき、資料室ではなかった。
晴人は、古いアパートの廊下に立っていた。
見覚えのある廊下だった。
中町ハイツ。
三〇四号室へ続く、あの狭い通路。
蛍光灯が頼りなく点滅している。
壁には、以前見たときにはなかった落書きがあった。
白いチョークのような線で、子どもの字が書かれている。
かえして。
晴人は振り返った。
瀬奈も、橘もいない。
ただ、廊下の奥に一人の少女が立っていた。
水野結衣。
十二歳のままの結衣。
彼女は水色のワンピースを着ていなかった。
小学校の白いブラウスと紺色のスカート。
胸には名札がついている。
水野結衣。
六年二組。
晴人の膝から力が抜けそうになった。
「結衣……」
少女は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、廊下の奥から晴人を見ていた。
「お兄ちゃん」
声は本物だった。
少なくとも、晴人にはそう聞こえた。
「契約、読んだの?」
晴人は一歩踏み出した。
「結衣なのか」
結衣は首を傾けた。
記憶の中と同じ仕草。
だが、その目の奥に、晴人の知らない疲れがあった。
十二歳の子どもが持つには、あまりに深い疲れ。
「わたしは、ここにある結衣だよ」
「ここにある……?」
「お兄ちゃんが覚えてる結衣。お母さんが忘れた結衣。紙の中に残った結衣。火の中に置いていかれた結衣」
晴人は息を忘れた。
結衣は廊下の壁に手を触れた。
蛍光灯が一度、瞬く。
「全部、ばらばらなの」
「何が」
「わたし」
その言葉は、廊下の空気に触れた瞬間、細かく砕けたように聞こえた。
「お兄ちゃんが覚えてるわたしと、記録の中のわたしと、死んだ日のわたしは、同じ形をしてない。零号室は、それを一つにして戻せるって言う」
「戻れるのか」
聞いたあとで、晴人は自分を殴りたくなった。
だが、言葉はもう出てしまっていた。
結衣は静かに頷いた。
「戻れるよ」
晴人の胸が、痛いほど跳ねた。
結衣は続けた。
「でも、戻る場所がいる」
「場所……」
「誰かが持っている場所。名前。部屋。写真。朝ごはんの席。靴箱。お母さんが呼ぶ声。そういうものを、ひとり分もらうの」
晴人は言葉を失った。
結衣は淡々と話した。
まるで、自分のことではないみたいに。
「そうしたら、わたしはそこに入れる」
「その人はどうなる」
結衣は答えなかった。
廊下の奥で、また蛍光灯が点滅した。
遠くから、火災報知器の音が聞こえた気がした。
「結衣」
晴人は声を低くした。
「お前は、それを望んでるのか」
結衣の顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「わからない」
初めて、子どもの声に戻った。
「お母さんに、もう一回名前を呼んでほしい。お兄ちゃんに、もう一回怒ってほしい。お父さんに、ただいまって言いたい。そう思う」
晴人の胸が締めつけられる。
「でも」
結衣は自分の手を見た。
指先が、紙のように薄く透けていた。
「誰かの名前を食べて戻るのは、怖い」
廊下の奥の闇が、ふっと濃くなった。
結衣の背後に、襖の縁のような白い線が浮かぶ。
「お兄ちゃん」
結衣が顔を上げる。
「契約書には、まだ名前を書かないで」
「じゃあ、どうすればいい」
「見て」
「何を」
結衣は、晴人の胸元を指差した。
「零号室は、もう決めてる」
その瞬間、晴人の胸ポケットが熱くなった。
彼は反射的に手を入れた。
そこには、入れた覚えのない紙があった。
小さく折られた契約書。
開く前から、指先が震えた。
晴人は紙を広げた。
返還対象。
水野結衣。
代替対象。
そこには、もう名前が書かれていた。
水野晴人。
廊下の音が消えた。
晴人は、文字を見つめたまま動けなかった。
自分の名前。
見慣れた三文字。
何度も書いてきた名前。
それが、まるで他人の死亡欄に置かれた文字のように、冷たく紙の上にあった。
「違う」
晴人は呟いた。
「俺は、選んでない」
結衣は小さく首を振った。
「お兄ちゃんが選んだんじゃない」
「じゃあ、誰が」
「部屋が、いちばん欲しがってる名前」
晴人の背中を、冷たいものが滑り落ちた。
「どういう意味だ」
結衣は答えなかった。
その代わり、廊下の壁に貼られた古い掲示板を見た。
そこには一枚の家族写真が貼られていた。
水野家の写真。
父。
母。
結衣。
三人が笑っている。
晴人だけが、写っていなかった。
最初から、その場所に誰も立っていなかったように。
写真の右端には、空白すらなかった。
「これが……契約の先?」
晴人の声は掠れていた。
結衣は答えない。
廊下の奥で、扉が開いた。
中から、母の声が聞こえる。
優しい、いつもの声。
「結衣、ごはんできたよ」
晴人は息を止めた。
母が、結衣の名前を呼んだ。
それだけで、胸が壊れそうになった。
結衣の目に涙が浮かぶ。
だが、その涙は頬を伝う前に消えた。
「行けば、戻れるのか」
晴人は訊いた。
結衣は小さく頷いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「零号室は、いつも少しだけ嘘をつくから」
その言葉が終わる前に、廊下全体が大きく揺れた。
掲示板の写真が剥がれ、床に落ちる。
写真の裏に、黒い文字が浮かんでいた。
――水野晴人の名前を置けば、水野結衣は戻る。
次の行。
――誰も、彼を失ったことに気づかない。
さらに次の行。
――だから、誰も傷つかない。
晴人は紙を握り潰した。
「ふざけるな」
声が震えた。
誰も傷つかない。
そんなはずがない。
誰にも覚えられていない痛みは、痛みではないと言うのか。
存在しなかったことになれば、失われたことにもならないと言うのか。
それなら、結衣の死はどうなる。
母が忘れた今、あの子の痛みは消えたのか。
違う。
消えていない。
消えたように扱われているだけだ。
「お兄ちゃん」
結衣の声が近づいた。
彼女はいつの間にか、晴人の目の前に立っていた。
「わたし、帰りたいと思ったことあるよ」
晴人は顔を上げる。
「でも、お兄ちゃんがいない家には帰りたくない」
その一言で、晴人の中の何かが崩れた。
彼は結衣の肩に手を伸ばした。
触れられると思った。
だが、指は空を掴んだ。
結衣の体は、薄い紙の影のように揺れただけだった。
「待て」
結衣が後ろへ下がる。
「結衣」
「まだ来ないで」
廊下の奥の扉が、さらに開いた。
その向こうに、明るい台所が見えた。
食卓。
湯気の立つ味噌汁。
母の背中。
結衣のために置かれた茶碗。
そして、晴人の席がない食卓。
晴人は動けなかった。
懐かしくて、恐ろしい光景だった。
「見て、お兄ちゃん」
結衣の声が遠くなる。
「これが、わたしが戻った世界だよ」
足元の畳が裂けた。
いや、廊下の床が裂けたのかもしれない。
景色の境目がわからなくなる。
資料室の赤い光。
中町ハイツの蛍光灯。
火事の夜の黒煙。
全部が重なって、晴人の視界を埋めていく。
遠くで瀬奈の声がした。
「晴人!」
誰かが腕を掴む。
現実の感触。
強い痛み。
晴人は引き戻された。
目を開けると、資料室の床に膝をついていた。
瀬奈が彼の肩を掴んでいる。
顔が近い。
彼女の呼吸が乱れていた。
「聞こえる?」
晴人はすぐには答えられなかった。
喉の奥に、焦げた匂いが残っている。
掌を見る。
そこには何もない。
契約書も、写真も、黒い文字もない。
だが胸ポケットに触れると、紙の感触があった。
晴人はゆっくり取り出した。
小さな折り鶴。
その腹の部分に、ひとつだけ名前が書かれていた。
水野晴人。
瀬奈がそれを見た瞬間、表情を失った。
橘が目を閉じる。
「……やはりか」
「知ってたんですか」
瀬奈の声は、怒りを通り越して静かだった。
橘は答えた。
「零号室は、最も強い後悔を持つ者から名前を取ろうとする」
晴人は折り鶴を見つめた。
自分の名前が、少し滲んでいる。
まるで、まだ完全には固定されていないみたいだった。
「俺の名前を置けば」
声が、喉で引っかかった。
「結衣は戻るんですか」
瀬奈が目を見開いた。
「晴人」
橘は何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
晴人は笑いそうになった。
笑えるはずもないのに。
「本当に、戻るんですね」
「戻るかもしれない」
橘はようやく言った。
「だが、その世界に君はいない」
「それでも、結衣は生きてる」
「生きているように見えるだけかもしれない」
「母は、結衣を思い出す」
「君を忘れる」
その言葉が、資料室に落ちた。
重く。
冷たく。
晴人は目を閉じた。
母が結衣の名前を呼ぶ声が、まだ耳の奥に残っている。
結衣、ごはんできたよ。
十年間、聞きたかった声。
二度と聞けないと思っていた声。
その声の中に、自分の居場所がないとしても。
「晴人」
瀬奈が言った。
「今、決めないで」
晴人は目を開けた。
瀬奈の手が、まだ彼の肩にある。
その手の温度だけが、現実だった。
「お願いだから、今だけは決めないで」
瀬奈の声は、初めて祈りに近かった。
晴人は折り鶴を握った。
破ろうとした。
だが、紙は破れなかった。
力を込めても、羽は曲がるだけだった。
橘が静かに言った。
「破れない。契約は、拒否されるまで残る」
「拒否すれば消えるんですか」
「完全には消えない」
「じゃあ、どうすればいい」
橘は晴人を見た。
「選ばないことだ」
「それは、拒否と違うんですか」
「違う。拒否は、部屋への答えになる。選ばないことは、まだ人間の側にいるという意思だ」
瀬奈が小さく息を吐いた。
晴人は折り鶴を見下ろす。
自分の名前。
水野晴人。
この名前を、結衣のために置いていけるのか。
置いていくべきなのか。
答えは出なかった。
ただ、心のどこかで、もう答えを知っているような気もした。
だからこそ怖かった。
資料室の奥で、隙間がまた開いた。
今度は、細い線ではなかった。
襖一枚ぶん。
暗がりの向こうから、台所の明かりが漏れている。
瀬奈が晴人の手首を掴んだ。
橘が低く言う。
「見るな」
だが、晴人はもう見ていた。
襖の向こうで、母が振り返る。
彼女は柔らかく笑っていた。
十年前より少し若く見えた。
その隣に、結衣が立っている。
生きている結衣。
十二歳ではない。
少しだけ背が伸びた、十三歳の結衣。
彼女は晴人の知らない制服を着ていた。
母が言った。
「結衣、誰か来たの?」
結衣は襖のこちらを見た。
目が合う。
その瞳に、晴人の姿は映っていなかった。
結衣は少し困ったように首を傾けた。
そして言った。
「ううん」
晴人の心臓が止まったようだった。
結衣は、こちらを見たまま続ける。
「誰もいないよ」




