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零号室  作者: 清忠
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(第三部 . 第九章) 晴人のいない世界

「誰もいないよ」

結衣の声は、やさしかった。

やさしいからこそ、晴人の胸をまっすぐ貫いた。

襖の向こうで、台所の蛍光灯が白く揺れている。味噌汁の匂い。焼いた魚の匂い。少し焦げた醤油の匂い。十年前に失ったはずの、水野家の夜の匂いだった。

母は結衣の言葉に安心したように笑った。

「そう。じゃあ、手を洗ってきなさい。もうすぐご飯よ」

「はーい」

十三歳の結衣が、台所の横を小走りに通っていく。

足音が畳を踏む。

軽い。

生きている足音だった。

晴人は手を伸ばした。

「結衣」

声は出た。

けれど、結衣は振り返らなかった。

指先は、彼女の肩をすり抜けた。薄い水の膜を抜けるように、何の抵抗もなく空を切った。

そこにいるのに、触れられない。

そこにいるのに、届かない。

晴人は襖の敷居を越えた。

足元の床が変わる。

橘建築設計事務所の資料室ではない。

水野家の台所だった。

冷蔵庫には、学校からのプリントが磁石で留められている。

六年二組 水野結衣。

その文字を見た瞬間、晴人の喉が詰まった。

ありえない。

その紙は、平成二十六年八月十七日の夜に燃えたはずだった。

結衣が十二歳だった日。

結衣が死んだ日。

だが今、プリントは焦げていない。端も黒くない。紙の白さだけが、まぶしいほど残酷だった。

母が食器棚から茶碗を取り出した。

二つだった。

母の茶碗。

結衣の茶碗。

晴人の茶碗はなかった。

食卓にも、椅子は二脚しかない。昔、晴人が座っていた窓際の席には、小さな棚が置かれていた。

棚の上には、結衣の教科書と折り紙の箱。

晴人はその箱を見つめた。

白い紙が、きれいに揃えて入っている。

その一枚の端だけが、少し焦げていた。

「お兄ちゃん」

背後で声がした。

晴人は振り返った。

結衣が立っていた。

だが、彼女の視線は晴人を通り越している。台所の入口でも、襖のこちら側でもない。もっと遠い、どこにもいない誰かへ向いていた。

「……って、どんな感じなのかな」

母が箸を並べる手を止めた。

「急にどうしたの」

「今日、友達がね、お兄ちゃんに駅まで迎えに来てもらったって言ってたの」

結衣は少し笑った。

羨ましそうな笑いだった。

「いいなって思っただけ」

母は困ったように首を傾けた。

「結衣は一人っ子でしょ」

「うん。知ってる」

「男の子だったら、どんな名前だったかしらね」

母は少し考えるふりをした。

晴人は息を止めた。

母が言った。

「思いつかないわね」

部屋の温度が、すっと落ちた。

思いつかない。

水野晴人という名前は、母の中に欠片も残っていない。

忘れられたのではない。

最初から、置かれていない。

食卓の上で、結衣が手を合わせた。

「いただきます」

母も笑って手を合わせる。

その夕飯は、晴人が十年間、夢の中で何度も求めたものだった。

母が笑っている。

結衣が生きている。

食卓に火の匂いはない。煙もない。泣き声もない。

ただ、晴人だけがいない。

それでもいいのか。

心のどこかで、声がした。

結衣が生きているなら。

母が笑えるなら。

自分がいないくらい、何だというのか。

晴人はその声を否定できなかった。

否定できない自分が、怖かった。

台所の蛍光灯が一度、瞬いた。

次の瞬間、食卓が白い紙みたいに折れた。

端と端が重なり、匂いも、声も、湯気も、紙の内側へ吸い込まれていく。

開いた先に、古い喫茶店があった。

窓の外に、夜の商店街が濡れている。

瀬奈がひとりで座っていた。

テーブルにはノートパソコンと、古い取材ノート。表紙には黒いペンで、零号室取材記録と書かれている。

その下に、いくつもの名前が並んでいた。

如月亜紀。

橘礼司。

橘栞。

水野結衣。

そこに、水野晴人の名前はなかった。

晴人は向かいの席に立った。

「瀬奈」

瀬奈は聞こえない。

「如月瀬奈」

彼女の指が、ほんの少し止まった。

晴人は息を呑む。

だが瀬奈は、窓の外を見ただけだった。

「……変な感じ」

小さく呟く。

店員が近づいた。

「お連れ様がいらしたんですか」

瀬奈は首を横に振った。

「いいえ。私、ひとりですよ」

その一言で、晴人の胸の奥が冷えていく。

彼女は知らない。

最初から出会っていない。

三〇四号室の前で名刺を渡したことも、夜の団地で同じ廊下を歩いたことも、資料室で彼女の手が自分を止めたことも、すべてなかったことになる。

瀬奈は画面に文章を打ち込んだ。

零号室に関わった人間は、何かを取り戻す代わりに、別の何かを差し出している可能性がある。

そこで指が止まる。

彼女はノートの余白に、無意識のように一文字だけ書いた。

水。

晴人は身を乗り出した。

「消すな」

瀬奈は聞こえない。

彼女は首を傾げ、その文字に二重線を引いた。

水の一文字が、黒い線の下に沈んでいく。

晴人は手を伸ばした。

届かない。

紙の上に残った線だけが、折り鶴の折り目のように硬く残っていた。

喫茶店の窓が、また白い紙のように折れた。

次に開いたのは、夜の川沿いだった。

街灯の下で、二十二歳になった結衣が立っている。

大人になった結衣。

晴人の記憶には存在しない結衣。

髪は肩の下まで伸び、手には紙袋を持っていた。その中から、白い折り紙の角が見えている。

彼女は川面を見つめていた。

しばらくして、紙袋から折り鶴を一羽取り出す。

片方の羽だけが少し大きい。

相変わらず下手だな、と晴人は思った。

思った瞬間、胸が潰れた。

結衣は白い鶴を手のひらに乗せたまま、ぽつりと言った。

「変なの」

晴人は彼女の横に立った。

「時々ね」

結衣は誰に話すでもなく続けた。

「誰かに謝らなきゃいけない気がするの」

晴人は動けなかった。

「でも、その誰かの顔も、名前も、思い出せない」

折り鶴の羽が、彼女の指先で揺れる。

「私、何を忘れてるんだろう」

晴人は口を開いた。

「俺だよ」

声が震えた。

「お前の兄だよ」

結衣は川面を見たままだった。

「晴人だよ」

自分の名前を口にした瞬間、空気が小さく震えた。

折り鶴の羽に、黒い点が浮かぶ。

一文字。

水。

結衣がそれに気づいた。

「え……」

次の瞬間、黒い点は滲んで消えた。

結衣はゆっくりこちらを向いた。

今度こそ、目が合った。

その瞳に、晴人が映った。

一瞬だけ。

本当に一瞬だけ。

結衣の唇が小さく動く。

「お……」

兄ちゃん。

そう続くはずだった。

だが、結衣の目から光が抜けた。

彼女は困ったように眉を寄せる。

そして、初めて会った人を見るように言った。

「あなた、誰?」

川の音が戻った。

街灯がまた灯る。

結衣の手の中の折り鶴は、白いままだった。

名前もない。

記憶もない。

晴人は一歩、後ろへ下がった。

足元の地面が崩れる。

川沿いの道が畳に変わり、畳が灰に変わった。

灰の中から、無数の紙が舞い上がる。

戸籍。

卒業証書。

保険証。

社員証。

水野晴人という名前を持っていたはずの紙たち。

だが、どの紙にも名前はなかった。

顔写真の欄も、白く抜けていた。

一枚だけ、晴人の手に落ちる。

戸籍の一部だった。

水野家。

父。

母。

長女 水野結衣。

それだけ。

長男の欄はない。

余白すらない。

晴人は紙を握り潰した。

紙は音もなく灰になった。

闇の向こうで、いくつもの声がした。

母の声。

瀬奈の声。

橘礼司の声。

結衣の声。

――水野晴人?

――記録にありません。

――会ったこと、ありますか。

――誰ですか。

――最初から、いませんよ。

晴人は耳を塞いだ。

けれど声は、頭の内側から響いていた。

名前が剥がされていく。

体からではない。

世界から。

水野晴人という存在が、誰かの記憶から消えるのではなく、世界の最初のページから黒く塗り潰されていく。

その先に、白い扉が立っていた。

取っ手はない。

鍵穴もない。

ただ、中央に一行だけ文字が浮かんでいる。

――差し出す名を選べ。

その下に、晴人の名前が現れた。

水野晴人。

黒かった文字が、少しずつ薄くなる。

晴人はそれを見つめた。

その向こうで、結衣が川沿いに立っている。

彼女はまだ、こちらを見ていた。

だが、その瞳にもう晴人は映っていない。

結衣は小さく首を傾げた。

「誰かいた気がしたのに」

その声を最後に、すべての景色が遠ざかった。

台所。

喫茶店。

川沿い。

白い戸籍。

全部が、折り鶴の羽の中へ吸い込まれていく。

晴人の手の中には、いつの間にか白い紙があった。

そこには、契約の最後の一文だけが残っていた。

――この世界に、水野晴人という人間はいない。

晴人はその文字を読んだ。

読んでしまった。

すると、遠くで誰かが泣いた。

それが誰の声なのか、晴人にはわからなかった。


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