(第三部 . 第十章) そんなの嫌だよ
泣いているのは、誰なのだろう。
晴人は最初に、それを考えた。
暗闇の中で、誰かが息を殺して泣いていた。声は近くから聞こえるのに、姿は見えない。耳の奥ではなく、胸の奥で響いているような泣き声だった。
手の中には、まだ白い紙があった。
――この世界に、水野晴人という人間はいない。
その一文だけが、紙の中央に黒く沈んでいる。
晴人はそれを見下ろしたまま、しばらく動けなかった。
文字を読んだ瞬間、何かが体から抜け落ちた気がした。記憶ではない。感情でもない。もっと根に近いもの。自分がここに立っていることを、この世界が許してくれていた最後の紐のようなものだった。
暗闇の底で、折り紙を折る音がした。
かさり。
かさり。
晴人は顔を上げた。
白い紙片が、宙に浮かんでいる。
それは一羽の鶴だった。
羽の先がわずかに焦げていた。
折り鶴はゆっくり回転しながら、晴人の目の前まで降りてきた。そして、羽を震わせるようにして形を崩した。
紙に戻る。
そこには、別の文字が浮かんでいた。
――水野結衣を返す。
晴人の喉が動いた。
声にはならなかった。
紙の下に、もう一行が現れる。
――代価として、水野晴人の存在を受け取る。
指先が冷たくなった。
わかっていたはずだった。
さっき、見た。
結衣が生きている世界。
母が笑っている台所。
玄関の写真から、自分だけが消えた家。
瀬奈が自分を知らない喫茶店。
結衣が川沿いで「誰かいた気がした」と呟く未来。
それでも、胸のどこかに小さな声が残っていた。
それで結衣が生きられるなら。
たった一度でいい。
自分が消えるだけで、あの子が朝を迎えられるなら。
晴人は紙を握りしめた。
紙は温かかった。
まるで、生きている手のひらみたいに。
「……ふざけるな」
声が出た。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。
「こんなもの、選べるわけがないだろ」
暗闇がわずかに揺れた。
返事はない。
代わりに、前方に細い光が走った。
光は畳の縁のような線になり、次の瞬間、晴人の足元に部屋が生まれた。
水野家の居間だった。
古い木目の床。
低い食卓。
壁にかかった時計。
窓の外には、夏の夕方の薄い光が残っている。
十年前の家。
ただし、焼けていない。
焦げた匂いもない。
火災の痕跡は、どこにもなかった。
食卓の前に、結衣が座っていた。
十二歳ではない。
十三歳くらいに見えた。
髪は少し伸び、制服の袖から出た手首も、晴人の記憶より細長い。机の上には中学校の教科書が開かれている。
その姿を見ただけで、晴人の胸の奥が崩れた。
生きている。
結衣が、生きている。
結衣はシャープペンシルを動かしていた。
ノートの端に小さな折り鶴の絵を描いている。
母が台所から声をかけた。
「結衣、明日の準備できた?」
「うん。だいたい」
「だいたいじゃ困るでしょ」
「ちゃんとやるってば」
結衣は口を尖らせた。
その仕草が、記憶のまますぎて、晴人は息ができなくなった。
母は笑った。
心からの笑い方だった。
晴人が十年間、母の顔から失くしたと思っていたものが、そこに戻っていた。
晴人は一歩、結衣に近づいた。
「結衣」
呼んだ。
やはり届かなかった。
結衣は顔を上げることなく、ノートに線を引き続けた。
晴人は手を伸ばした。
肩に触れようとする。
指先は、何もない空間を通り抜けた。
その瞬間、背後で声がした。
「そんなの嫌だよ」
晴人は振り返った。
そこには、十二歳の結衣が立っていた。
水色のワンピース。
肩で切りそろえられた髪。
手には、半分だけ折られた白い紙。
生きている未来の結衣ではない。
部屋で晴人を待っていた、あの結衣だった。
彼女は晴人ではなく、食卓の前にいる十三歳の自分を見ていた。
目を細めるように。
泣くのを我慢する子供の顔で。
「結衣……」
「嫌だよ」
結衣はもう一度言った。
声は小さかった。
けれど、今度ははっきり届いた。
「こんなの、嫌だよ」
晴人は言葉を探した。
だが、喉が塞がっている。
目の前には、二人の結衣がいる。
生きている結衣。
死んだはずの結衣。
どちらも、晴人が失ったものだった。
十二歳の結衣は、食卓の前の自分を見つめたまま言った。
「これ、私じゃない」
「違う」
晴人はすぐに首を振った。
「お前だ。結衣だろ」
「ううん」
結衣は静かに笑った。
その笑い方は、十二歳の少女のものとは思えないほど寂しかった。
「私の形をした、誰かだよ」
母の笑い声が、台所から流れてくる。
未来の結衣が宿題をしながら、少しだけ欠伸をした。
窓の外では、自転車のベルが鳴った。
普通の夜。
取り戻せなかったはずの夜。
「どうしてそんなことを言う」
晴人の声は震えていた。
「お前は、生きてるじゃないか」
「うん」
「母さんも笑ってる」
「うん」
「火事も起きてない。あの日が変われば、お前は――」
「お兄ちゃんがいない」
短い言葉だった。
それだけで、晴人は何も言えなくなった。
結衣は晴人を見上げた。
目の奥に、火の色が揺れている。
「この家に、お兄ちゃんがいない」
「俺一人くらい――」
「一人くらいじゃない」
結衣の声が、少しだけ強くなった。
食卓の未来の結衣が、ふと顔を上げた。
何か聞こえたのかもしれない。
だが彼女はすぐに、またノートへ視線を落とした。
「お兄ちゃんは、一人くらいじゃない」
十二歳の結衣は、折りかけの紙を両手で握った。
紙に皺が寄る。
「お兄ちゃんがいない世界で、私だけ生きてるなんて……そんなの、助かったって言わないよ」
晴人は唇を噛んだ。
血の味がした。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
声が荒くなる。
「俺は十年、ずっと考えてきた。あの時、俺が戻っていればって。もっと早く気づいていればって。お前の手を離さなければって」
結衣は黙っていた。
「お前は十二歳だったんだぞ」
言葉が止まらなかった。
「六年二組の、ただの小学生だった。火の中で死ぬ理由なんて、どこにもなかった。俺が十九にもなって、何もできなかっただけだ。だから――」
「だから、お兄ちゃんが消えればいいの?」
結衣の声が、晴人の言葉を切った。
静かだった。
静かすぎて、痛かった。
「私のために?」
晴人は答えられなかった。
食卓の向こうで、未来の結衣が母に呼ばれて立ち上がる。
「結衣、ご飯よ」
「はーい」
彼女はノートを閉じる。
その表紙に、名前が書かれていた。
水野結衣。
その隣には、何もない。
兄の名前を書く余白など、最初から存在しないみたいに。
十二歳の結衣が、それを見て少しだけ目を伏せた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……なんだ」
「私、覚えてるよ」
晴人は呼吸を止めた。
結衣は折り紙を見下ろしている。
「何を」
「あの日のこと」
部屋の光が、ほんのわずかに暗くなった。
未来の居間の輪郭が揺れる。
台所から漂っていた味噌汁の匂いに、焦げた木の匂いが混じった。
「結衣」
「平成二十六年八月十七日」
結衣は日付を口にした。
一音ずつ、確かめるように。
「暑い日だった。夕方なのに、まだ外が明るかった。私、学校の宿題を終わらせてなくて、お母さんに怒られるのが嫌で、部屋でプリントを探してた」
晴人の指先が震えた。
「やめろ」
「台所から、変な音がした」
「やめろ」
「最初は、お鍋を落とした音だと思った。でも違った。何かが割れて、床に広がって、すぐに黒い煙が来た」
「結衣」
晴人は名前を呼んだ。
それ以上聞きたくなかった。
だが結衣は続けた。
「私、逃げようとしたよ」
その言葉は、晴人の胸に深く刺さった。
ずっと、考えないようにしていた。
結衣はどれだけ怖かったのか。
どこまで逃げようとしたのか。
最後に、何を見たのか。
「でも、玄関のほうに行けなかった。煙がすごくて。熱くて。息ができなくて」
景色が変わる。
居間の白い壁が黒く染まり始めた。
畳の端に火の色が走る。
未来の結衣と母の姿が薄くなり、代わりに十年前の部屋が浮かび上がる。
燃える音。
割れるガラス。
誰かの叫び。
晴人の耳の奥で、過去の自分の声が響いた。
――結衣!
「私は押し入れの前で転んだ」
結衣は言った。
「足が痛かった。でもそれより、煙が怖かった。目が痛くて、何も見えなくて」
晴人は拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「お兄ちゃんの声が聞こえた」
結衣が顔を上げた。
その瞳に、火の色が濃く映っている。
「玄関のほうから。私の名前を呼んでた」
晴人の喉から、かすれた息が漏れた。
「俺は……」
「来ようとしてくれた」
結衣は小さく頷いた。
「知ってるよ」
「違う」
晴人は首を振った。
「俺は途中で――」
「倒れたんでしょ」
晴人の動きが止まった。
結衣は知っている。
晴人が自分でも曖昧にしてきた記憶を、結衣は知っている。
「煙を吸って、倒れた。お兄ちゃん、玄関のところで動けなくなった」
火の中の廊下が現れる。
十九歳の晴人が、床に片膝をついている。
顔を袖で押さえ、何度も結衣の名前を呼んでいる。
その手が、玄関の壁を掴んだまま滑る。
あと数歩だった。
けれど、その数歩が届かなかった。
晴人は目を閉じた。
十年間、そこだけを何度も思い出してきた。
届かなかった数歩。
伸ばせなかった手。
救えなかった妹。
「だから私、戻ったの」
結衣の声がした。
晴人は目を開けた。
意味が、すぐには届かなかった。
「戻った?」
「うん」
結衣は少しだけ笑った。
「お兄ちゃんを起こしに」
燃える廊下の中で、別の影が動いた。
小さな影。
十二歳の結衣だった。
彼女は煙の中を這うように進み、倒れかけている十九歳の晴人に近づいた。
晴人の記憶にはなかった場面。
いや。
本当は、あったのかもしれない。
奥底に押し込め、見ないふりをしていた場面。
結衣の小さな手が、晴人の袖を掴む。
――お兄ちゃん。
声がした。
晴人は震えた。
「やめろ」
自分の声なのか、十九歳の自分の声なのか、わからなかった。
小さな結衣は、必死に晴人の腕を引いた。
その背後で、天井の板が赤く膨らんでいる。
火が走る。
梁が軋む。
それでも結衣は逃げなかった。
「私、お兄ちゃんを助けたかった」
目の前の結衣が言った。
「だから、戻った」
「嘘だ」
晴人の声は掠れていた。
「そんなこと、あるわけない」
「あるよ」
結衣は静かに言った。
「だって、私は死んだから」
その一言で、燃える音が消えた。
部屋が、完全な静寂に沈む。
晴人は何も言えなかった。
結衣はまっすぐ晴人を見ていた。
怖がってはいなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、とても悲しそうだった。
「私、知ってるよ」
彼女は言った。
「自分が死んだこと」
晴人の膝から力が抜けた。
畳に手をつく。
冷たい。
さっきまで燃えていたはずの床は、氷みたいに冷たかった。
「いつから」
やっと、それだけを絞り出した。
「最初から」
結衣は答えた。
「お兄ちゃんがあの部屋に来たときから、知ってた」
「じゃあ……なんで」
晴人は顔を上げた。
「なんで、何も言わなかった」
結衣は答えるまでに少し時間をかけた。
折り紙を開き、また折り直す。
角が合わない。
指先が少し震えている。
「言ったら、お兄ちゃん、また助けようとするでしょ」
「当たり前だ」
「だから言わなかった」
結衣は小さく首を振った。
「お兄ちゃんは、いつも自分だけを罰する」
晴人は言葉を失った。
「私が死んだのは、お兄ちゃんのせいじゃない」
「違う」
「違わない」
「俺が戻れなかった」
「戻ろうとしてくれた」
「助けられなかった」
「助けようとしてくれた」
「でも、お前は死んだ」
「うん」
結衣は頷いた。
否定しなかった。
その静かな肯定が、晴人をいちばん深く傷つけた。
「私は死んだ」
結衣は言った。
「でも、それをお兄ちゃんが全部背負わなくていい」
晴人は笑いそうになった。
笑えるはずもないのに、喉の奥が歪んだ。
「どうやって背負わずにいろって言うんだ」
声が低くなる。
「お前のいない十年を、俺は生きた。母さんが結衣の名前を呼ばなくなっていくのを見た。父さんが写真を裏返すところも見た。結衣の部屋を片づけられないくせに、誰も中に入らなくなった家で、俺だけがずっと覚えていた」
言葉が途切れる。
息が乱れる。
「覚えているしかなかったんだ」
結衣は何も言わなかった。
「忘れたら、お前が本当にいなくなる気がした」
畳の上に、水滴が落ちた。
自分の涙だと気づくまで、少し時間がかかった。
「でも覚えていたら、ずっとお前は火の中にいた」
晴人は顔を伏せた。
「俺が覚えている限り、お前はずっとあの日から出られない」
結衣は静かに近づいた。
小さな足音が、畳の上で止まる。
そして、彼女は晴人の前に膝をついた。
その手が、晴人の頬に触れた。
今度は、すり抜けなかった。
冷たい手だった。
けれど、確かに触れていた。
「違うよ」
結衣は言った。
「お兄ちゃんが覚えていてくれたから、私はただの火事の記録にならなかった」
晴人は目を開けた。
「ただの被害者じゃなかった」
結衣の指が、晴人の涙を拭う。
「お母さんの娘で、お父さんの娘で、お兄ちゃんの妹だった。それを、誰かが覚えていてくれた」
「でも」
「でも、それと、お兄ちゃんが消えることは違う」
結衣ははっきり言った。
「私は、お兄ちゃんの代わりに生きたくない」
その言葉が、部屋の中心に落ちた。
暗闇が軋む。
天井の見えない場所で、何かが歯を食いしばるような音を立てた。
結衣は顔を上げ、闇を見た。
「聞いてるんでしょ」
誰に向けた声なのか、晴人にはすぐわかった。
部屋だ。
零号室。
「私は選ばない」
結衣は言った。
「お兄ちゃんを消してまで、生きるなんて選ばない」
暗闇の奥に、無数の扉が浮かび上がった。
どの扉にも、取っ手がない。
中央に文字だけが刻まれている。
水野晴人。
如月瀬奈。
如月亜紀。
橘礼司。
橘栞。
知らない名前。
消えかけた名前。
最初から薄い名前。
そのすべてが、黒い水の中に沈むように揺れていた。
晴人は立ち上がろうとした。
だが体が動かない。
畳の下から、冷たい指のようなものが足首を掴んでいる。
黒い水面に、別の景色が映った。
水野家の台所。
母が立っている。
食器棚の前で、茶碗を二つだけ手にしている。
晴人はそれを見て、胸が嫌な音を立てるのを感じた。
二つ。
母の茶碗と、父の茶碗。
結衣の茶碗がない。
食卓の隅にあったはずの、薄い花柄の小さな茶碗。六年生になってからも結衣が使い続けていた茶碗。割れたら嫌だからと、母が何度も新しいものに替えようとして、それでも結衣が「まだ使える」と笑っていた茶碗。
それがない。
母は棚の奥を探すように手を伸ばした。
だが、何を探しているのか自分でもわからない顔をしている。
「……変ね」
母が呟いた。
「何か、足りない気がする」
晴人は息を呑んだ。
水面の中の母は、しばらく食器棚を見つめていた。やがて諦めたように首を振り、二つの茶碗だけを食卓に置いた。
その横を、結衣に似た影が通り過ぎる。
いや、影だけだった。
輪郭はある。
でも名前がない。
顔がない。
母はその影に気づかない。
晴人は叫ぼうとした。
声が出ない。
黒い水面が波打ち、次の景色に変わる。
喫茶店だった。
窓際の席に、瀬奈が座っている。
テーブルの上には、レコーダーと古いノート。ノートの表紙には、如月亜紀の名前がある。
瀬奈はそれを開こうとしていた。
だが、ページは白紙だった。
文字が消えている。
写真もない。
母の筆跡も、取材メモも、部屋の番号も。
瀬奈は白紙のノートを見下ろしたまま、唇だけを動かす。
何かを言っている。
だが晴人には聞こえない。
いや、音がないのではない。
声の形だけが、抜き取られている。
瀬奈の口が、もう一度動いた。
――お母さん。
そう言ったのだと、晴人にはわかった。
だが、声がなかった。
黒い水面がまた揺れる。
橘建築設計事務所の資料室。
橘礼司が古い図面の前に座っている。
白い手袋をした指が、震えていた。
机の上には、小さな写真立てが伏せられている。
橘はそれを起こそうとする。
だが、写真立ての中は空だった。
名前もない。
顔もない。
橘栞という少女がいた痕跡だけが、紙の焼け跡のように薄く残っている。
橘はそれを見つめ、何度も口を開いた。
しかし、娘の名前を呼べない。
呼ぼうとしても、最初の音が出てこない。
晴人は理解した。
部屋は、誰かを返す。
でも、空いた場所には必ず別の誰かが落ちる。
生き返るという言葉の裏側で、別の人間が静かに消える。
それは死ではない。
死よりも、もっと残酷な消え方だった。
誰にも悼まれない。
誰にも探されない。
最初から存在しなかったものとして、世界の余白から削り取られる。
「見せるな」
晴人は歯を食いしばった。
「もう、見せるな」
黒い水面の奥で、文字が浮かんだ。
――選べ。
晴人の名前。
瀬奈の名前。
母の名前。
如月亜紀の名前。
橘礼司の名前。
そして、結衣の名前。
名前たちは同じ水面に並び、薄い光を放っている。
どれか一つを沈めれば、どれか一つが浮かび上がる。
そういう仕組みなのだと、部屋は黙って告げていた。
「俺の名前でいい」
晴人は言った。
結衣が振り返った。
その顔が、痛いほど強張っている。
「お兄ちゃん」
「他の誰かじゃない。俺でいい」
「だめ」
「俺が決める」
「だめ」
「お前に決めさせる話じゃない」
「違う」
結衣は首を振った。
「それは、私に死ねって言うのと同じだよ」
晴人は言葉を失った。
結衣の声は震えていた。
「お兄ちゃんが消えた世界で、私だけが笑っていたら……私は毎日、自分が誰かを殺して生きているって思う」
「そんなふうには――」
「思うよ」
結衣は遮った。
「私なら、絶対に思う」
黒い水面に、十三歳の結衣が映る。
母と笑っている。
学校へ行く。
制服を着る。
桜の下を歩く。
誕生日にケーキのろうそくを吹き消す。
そのたびに、彼女の後ろに白い空席がある。
誰も見ていない空席。
誰も名前を呼ばない空席。
でも、その空席だけが彼女を見ている。
「そんな世界で生きる私を、お兄ちゃんは見たい?」
結衣は静かに聞いた。
晴人は答えられなかった。
見たい。
生きている結衣を見たい。
何よりも、見たい。
だが、その結衣の笑顔の奥に、自分が消えた穴が開き続けるのだとしたら。
それでも救いだと言えるのか。
晴人の手の中で、契約の紙が脈打った。
まるで急かすように。
まるで、迷う時間すら惜しいと言うように。
結衣はその紙を見た。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……なんだ」
「私、あの部屋にいる間、何度も見たよ」
「何を」
「誰かが、誰かを取り戻そうとするところ」
晴人は黙った。
結衣の視線は、遠くに向いていた。
十二歳の少女の目ではない。
長い時間を、部屋の奥で見続けた者の目だった。
「泣いてる人が来るの。みんな、似てる。もう一度会いたい、やり直したい、あの日に戻りたいって言う」
黒い水面に、知らない人たちの影が浮かんだ。
若い女。
杖をついた老人。
制服姿の少年。
小さな子供の靴を握る父親。
誰もが扉の前に立っていた。
「部屋は、優しい声を出すの」
結衣は言った。
「返してあげるって。直してあげるって。今度こそ間に合わせてあげるって」
晴人は、橘礼司の言葉を思い出した。
――あの部屋は、人を救わない。
「でも返ってきた人は、どこかが欠けてる」
結衣の手の中で、折り紙が震えた。
「返したほうも、欠けてる。周りの人も、欠けていく。誰か一人が助かるたびに、別の誰かが世界から落ちる」
結衣は晴人を見た。
「それでも、みんな気づくのが遅い」
晴人は紙を握る手に力を入れた。
「俺も、同じだって言いたいのか」
「ううん」
結衣は首を振った。
「お兄ちゃんは、まだ戻れる」
その言葉の直後、どこかで扉が閉まる音がした。
一つではない。
二つ。
三つ。
暗闇の中の扉が、次々に音を立てて閉じていく。
閉じるたびに、誰かの名前が薄くなる。
晴人は見た。
如月瀬奈の名前が、わずかに滲んだ。
インクが水に溶けるように。
「結衣」
声が震えた。
「今のは」
「部屋が、次の名前を探してる」
結衣は言った。
「お兄ちゃんが選ばないなら、他の人を引っ張る」
「誰を」
聞いた瞬間、答えはもうそこにあった。
黒い水面の中で、瀬奈の姿が揺れている。
彼女はどこかの階段に立っていた。
古い団地の階段。
手すりの塗装が剥げ、足元には雨水が溜まっている。
瀬奈はスマートフォンを耳に当てていた。
何かを必死に言っている。
晴人の名を呼んでいる。
だが、その声はまだ届かない。
届く前に、何かが少しずつ削っている。
声の輪郭を。
記憶の手触りを。
如月瀬奈という人間が、誰かの中に残してきた跡を。
結衣が振り返る。
「お兄ちゃん」
「結衣」
「ここ、怒ってる」
その言葉と同時に、部屋が傾いた。
食卓が歪む。
壁の時計が逆回りを始める。
未来の結衣の姿が、紙に描かれた絵のように薄くなり、裂けていく。
母の笑い声が引き伸ばされる。
長く、細く、誰かの悲鳴のように。
晴人は結衣に手を伸ばした。
「逃げろ」
「違うよ」
結衣は首を振った。
「逃げるのは、お兄ちゃん」
「また同じことを言うのか」
「うん」
結衣は少しだけ笑った。
「だって、お兄ちゃん、また私を助けようとしてる」
晴人の足元から黒い水が染み出す。
水の中には、いくつもの紙が沈んでいた。
戸籍。
写真。
手紙。
名札。
誰かが誰かを覚えていた証拠。
その紙の端から、文字が剥がれていく。
「結衣!」
晴人は叫んだ。
結衣の体が、足元から薄くなり始めていた。
だが結衣は怖がっていなかった。
むしろ、晴人のほうを心配するような顔をしている。
「まだ、終わってないよ」
「何がだ」
「お兄ちゃんがここにいる限り、部屋は次の名前を探す」
結衣の目が、晴人のポケットへ向いた。
スマートフォンが震えていた。
晴人はそれを取り出した。
画面が点滅している。
着信。
名前は表示されない。
不明な発信者。
だが、晴人はその番号を知っている気がした。
何度も見た番号のはずだ。
夜の喫茶店で。
古い団地の階段で。
資料室の埃の中で。
誰かと一緒に、この番号を見た。
誰かがこの番号から、自分に連絡してきた。
晴人は通話ボタンを押した。
「もしもし」
返ってきたのは、ノイズだった。
ざらざらとした音。
古いテープが擦れるような音。
その奥で、誰かが何かを言っている。
女の声だった。
たぶん。
知っている声だった。
たぶん。
『……み……の……さん……』
晴人は眉を寄せた。
「誰だ」
言った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
誰だ。
自分は今、誰に向かってそう言ったのか。
結衣の顔色が変わった。
「お兄ちゃん」
通話の向こうで、声が途切れ途切れに続く。
『わた……しを……わすれ……』
ノイズが強くなる。
晴人は耳に強く押し当てた。
「もう一度言ってくれ」
『水野……さん……私……』
声が消えた。
通話は切れていない。
だが、そこにはもう誰の声もなかった。
画面を見る。
不明な発信者。
発信履歴にも、名前はない。
晴人はゆっくり顔を上げた。
結衣が、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「ねえ、お兄ちゃん」
彼女は言った。
「瀬奈さんの声、思い出せる?」
晴人はすぐに答えようとした。
如月瀬奈。
フリーの記者。
母の如月亜紀を探している。
強引で、口が悪くて、でも他人の痛みにだけは妙に敏感で。
彼女の姿は思い出せる。
黒い髪。
薄いコート。
カメラを握る指。
喫茶店で冷めたコーヒーを前にしていた横顔。
だが、声が出てこない。
声だけが、思い出せない。
晴人は口を開いた。
何も言えなかった。
結衣は目を伏せた。
その手の中で、折りかけの白い紙が、ひとりでに黒く染まり始めた。
スマートフォンがもう一度震える。
今度は着信ではない。
短いメッセージだった。
差出人は空白。
本文だけが表示されている。
――水野さん、私を忘れないで。




