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零号室  作者: 清忠
28/30

(第三部 . 第十章) そんなの嫌だよ

泣いているのは、誰なのだろう。

晴人は最初に、それを考えた。

暗闇の中で、誰かが息を殺して泣いていた。声は近くから聞こえるのに、姿は見えない。耳の奥ではなく、胸の奥で響いているような泣き声だった。

手の中には、まだ白い紙があった。

――この世界に、水野晴人という人間はいない。

その一文だけが、紙の中央に黒く沈んでいる。

晴人はそれを見下ろしたまま、しばらく動けなかった。

文字を読んだ瞬間、何かが体から抜け落ちた気がした。記憶ではない。感情でもない。もっと根に近いもの。自分がここに立っていることを、この世界が許してくれていた最後の紐のようなものだった。

暗闇の底で、折り紙を折る音がした。

かさり。

かさり。

晴人は顔を上げた。

白い紙片が、宙に浮かんでいる。

それは一羽の鶴だった。

羽の先がわずかに焦げていた。

折り鶴はゆっくり回転しながら、晴人の目の前まで降りてきた。そして、羽を震わせるようにして形を崩した。

紙に戻る。

そこには、別の文字が浮かんでいた。

――水野結衣を返す。

晴人の喉が動いた。

声にはならなかった。

紙の下に、もう一行が現れる。

――代価として、水野晴人の存在を受け取る。

指先が冷たくなった。

わかっていたはずだった。

さっき、見た。

結衣が生きている世界。

母が笑っている台所。

玄関の写真から、自分だけが消えた家。

瀬奈が自分を知らない喫茶店。

結衣が川沿いで「誰かいた気がした」と呟く未来。

それでも、胸のどこかに小さな声が残っていた。

それで結衣が生きられるなら。

たった一度でいい。

自分が消えるだけで、あの子が朝を迎えられるなら。

晴人は紙を握りしめた。

紙は温かかった。

まるで、生きている手のひらみたいに。

「……ふざけるな」

声が出た。

怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。

「こんなもの、選べるわけがないだろ」

暗闇がわずかに揺れた。

返事はない。

代わりに、前方に細い光が走った。

光は畳の縁のような線になり、次の瞬間、晴人の足元に部屋が生まれた。

水野家の居間だった。

古い木目の床。

低い食卓。

壁にかかった時計。

窓の外には、夏の夕方の薄い光が残っている。

十年前の家。

ただし、焼けていない。

焦げた匂いもない。

火災の痕跡は、どこにもなかった。

食卓の前に、結衣が座っていた。

十二歳ではない。

十三歳くらいに見えた。

髪は少し伸び、制服の袖から出た手首も、晴人の記憶より細長い。机の上には中学校の教科書が開かれている。

その姿を見ただけで、晴人の胸の奥が崩れた。

生きている。

結衣が、生きている。

結衣はシャープペンシルを動かしていた。

ノートの端に小さな折り鶴の絵を描いている。

母が台所から声をかけた。

「結衣、明日の準備できた?」

「うん。だいたい」

「だいたいじゃ困るでしょ」

「ちゃんとやるってば」

結衣は口を尖らせた。

その仕草が、記憶のまますぎて、晴人は息ができなくなった。

母は笑った。

心からの笑い方だった。

晴人が十年間、母の顔から失くしたと思っていたものが、そこに戻っていた。

晴人は一歩、結衣に近づいた。

「結衣」

呼んだ。

やはり届かなかった。

結衣は顔を上げることなく、ノートに線を引き続けた。

晴人は手を伸ばした。

肩に触れようとする。

指先は、何もない空間を通り抜けた。

その瞬間、背後で声がした。

「そんなの嫌だよ」

晴人は振り返った。

そこには、十二歳の結衣が立っていた。

水色のワンピース。

肩で切りそろえられた髪。

手には、半分だけ折られた白い紙。

生きている未来の結衣ではない。

部屋で晴人を待っていた、あの結衣だった。

彼女は晴人ではなく、食卓の前にいる十三歳の自分を見ていた。

目を細めるように。

泣くのを我慢する子供の顔で。

「結衣……」

「嫌だよ」

結衣はもう一度言った。

声は小さかった。

けれど、今度ははっきり届いた。

「こんなの、嫌だよ」

晴人は言葉を探した。

だが、喉が塞がっている。

目の前には、二人の結衣がいる。

生きている結衣。

死んだはずの結衣。

どちらも、晴人が失ったものだった。

十二歳の結衣は、食卓の前の自分を見つめたまま言った。

「これ、私じゃない」

「違う」

晴人はすぐに首を振った。

「お前だ。結衣だろ」

「ううん」

結衣は静かに笑った。

その笑い方は、十二歳の少女のものとは思えないほど寂しかった。

「私の形をした、誰かだよ」

母の笑い声が、台所から流れてくる。

未来の結衣が宿題をしながら、少しだけ欠伸をした。

窓の外では、自転車のベルが鳴った。

普通の夜。

取り戻せなかったはずの夜。

「どうしてそんなことを言う」

晴人の声は震えていた。

「お前は、生きてるじゃないか」

「うん」

「母さんも笑ってる」

「うん」

「火事も起きてない。あの日が変われば、お前は――」

「お兄ちゃんがいない」

短い言葉だった。

それだけで、晴人は何も言えなくなった。

結衣は晴人を見上げた。

目の奥に、火の色が揺れている。

「この家に、お兄ちゃんがいない」

「俺一人くらい――」

「一人くらいじゃない」

結衣の声が、少しだけ強くなった。

食卓の未来の結衣が、ふと顔を上げた。

何か聞こえたのかもしれない。

だが彼女はすぐに、またノートへ視線を落とした。

「お兄ちゃんは、一人くらいじゃない」

十二歳の結衣は、折りかけの紙を両手で握った。

紙に皺が寄る。

「お兄ちゃんがいない世界で、私だけ生きてるなんて……そんなの、助かったって言わないよ」

晴人は唇を噛んだ。

血の味がした。

「じゃあ、どうしろって言うんだ」

声が荒くなる。

「俺は十年、ずっと考えてきた。あの時、俺が戻っていればって。もっと早く気づいていればって。お前の手を離さなければって」

結衣は黙っていた。

「お前は十二歳だったんだぞ」

言葉が止まらなかった。

「六年二組の、ただの小学生だった。火の中で死ぬ理由なんて、どこにもなかった。俺が十九にもなって、何もできなかっただけだ。だから――」

「だから、お兄ちゃんが消えればいいの?」

結衣の声が、晴人の言葉を切った。

静かだった。

静かすぎて、痛かった。

「私のために?」

晴人は答えられなかった。

食卓の向こうで、未来の結衣が母に呼ばれて立ち上がる。

「結衣、ご飯よ」

「はーい」

彼女はノートを閉じる。

その表紙に、名前が書かれていた。

水野結衣。

その隣には、何もない。

兄の名前を書く余白など、最初から存在しないみたいに。

十二歳の結衣が、それを見て少しだけ目を伏せた。

「ねえ、お兄ちゃん」

「……なんだ」

「私、覚えてるよ」

晴人は呼吸を止めた。

結衣は折り紙を見下ろしている。

「何を」

「あの日のこと」

部屋の光が、ほんのわずかに暗くなった。

未来の居間の輪郭が揺れる。

台所から漂っていた味噌汁の匂いに、焦げた木の匂いが混じった。

「結衣」

「平成二十六年八月十七日」

結衣は日付を口にした。

一音ずつ、確かめるように。

「暑い日だった。夕方なのに、まだ外が明るかった。私、学校の宿題を終わらせてなくて、お母さんに怒られるのが嫌で、部屋でプリントを探してた」

晴人の指先が震えた。

「やめろ」

「台所から、変な音がした」

「やめろ」

「最初は、お鍋を落とした音だと思った。でも違った。何かが割れて、床に広がって、すぐに黒い煙が来た」

「結衣」

晴人は名前を呼んだ。

それ以上聞きたくなかった。

だが結衣は続けた。

「私、逃げようとしたよ」

その言葉は、晴人の胸に深く刺さった。

ずっと、考えないようにしていた。

結衣はどれだけ怖かったのか。

どこまで逃げようとしたのか。

最後に、何を見たのか。

「でも、玄関のほうに行けなかった。煙がすごくて。熱くて。息ができなくて」

景色が変わる。

居間の白い壁が黒く染まり始めた。

畳の端に火の色が走る。

未来の結衣と母の姿が薄くなり、代わりに十年前の部屋が浮かび上がる。

燃える音。

割れるガラス。

誰かの叫び。

晴人の耳の奥で、過去の自分の声が響いた。

――結衣!

「私は押し入れの前で転んだ」

結衣は言った。

「足が痛かった。でもそれより、煙が怖かった。目が痛くて、何も見えなくて」

晴人は拳を握った。

爪が手のひらに食い込む。

「お兄ちゃんの声が聞こえた」

結衣が顔を上げた。

その瞳に、火の色が濃く映っている。

「玄関のほうから。私の名前を呼んでた」

晴人の喉から、かすれた息が漏れた。

「俺は……」

「来ようとしてくれた」

結衣は小さく頷いた。

「知ってるよ」

「違う」

晴人は首を振った。

「俺は途中で――」

「倒れたんでしょ」

晴人の動きが止まった。

結衣は知っている。

晴人が自分でも曖昧にしてきた記憶を、結衣は知っている。

「煙を吸って、倒れた。お兄ちゃん、玄関のところで動けなくなった」

火の中の廊下が現れる。

十九歳の晴人が、床に片膝をついている。

顔を袖で押さえ、何度も結衣の名前を呼んでいる。

その手が、玄関の壁を掴んだまま滑る。

あと数歩だった。

けれど、その数歩が届かなかった。

晴人は目を閉じた。

十年間、そこだけを何度も思い出してきた。

届かなかった数歩。

伸ばせなかった手。

救えなかった妹。

「だから私、戻ったの」

結衣の声がした。

晴人は目を開けた。

意味が、すぐには届かなかった。

「戻った?」

「うん」

結衣は少しだけ笑った。

「お兄ちゃんを起こしに」

燃える廊下の中で、別の影が動いた。

小さな影。

十二歳の結衣だった。

彼女は煙の中を這うように進み、倒れかけている十九歳の晴人に近づいた。

晴人の記憶にはなかった場面。

いや。

本当は、あったのかもしれない。

奥底に押し込め、見ないふりをしていた場面。

結衣の小さな手が、晴人の袖を掴む。

――お兄ちゃん。

声がした。

晴人は震えた。

「やめろ」

自分の声なのか、十九歳の自分の声なのか、わからなかった。

小さな結衣は、必死に晴人の腕を引いた。

その背後で、天井の板が赤く膨らんでいる。

火が走る。

梁が軋む。

それでも結衣は逃げなかった。

「私、お兄ちゃんを助けたかった」

目の前の結衣が言った。

「だから、戻った」

「嘘だ」

晴人の声は掠れていた。

「そんなこと、あるわけない」

「あるよ」

結衣は静かに言った。

「だって、私は死んだから」

その一言で、燃える音が消えた。

部屋が、完全な静寂に沈む。

晴人は何も言えなかった。

結衣はまっすぐ晴人を見ていた。

怖がってはいなかった。

泣いてもいなかった。

ただ、とても悲しそうだった。

「私、知ってるよ」

彼女は言った。

「自分が死んだこと」

晴人の膝から力が抜けた。

畳に手をつく。

冷たい。

さっきまで燃えていたはずの床は、氷みたいに冷たかった。

「いつから」

やっと、それだけを絞り出した。

「最初から」

結衣は答えた。

「お兄ちゃんがあの部屋に来たときから、知ってた」

「じゃあ……なんで」

晴人は顔を上げた。

「なんで、何も言わなかった」

結衣は答えるまでに少し時間をかけた。

折り紙を開き、また折り直す。

角が合わない。

指先が少し震えている。

「言ったら、お兄ちゃん、また助けようとするでしょ」

「当たり前だ」

「だから言わなかった」

結衣は小さく首を振った。

「お兄ちゃんは、いつも自分だけを罰する」

晴人は言葉を失った。

「私が死んだのは、お兄ちゃんのせいじゃない」

「違う」

「違わない」

「俺が戻れなかった」

「戻ろうとしてくれた」

「助けられなかった」

「助けようとしてくれた」

「でも、お前は死んだ」

「うん」

結衣は頷いた。

否定しなかった。

その静かな肯定が、晴人をいちばん深く傷つけた。

「私は死んだ」

結衣は言った。

「でも、それをお兄ちゃんが全部背負わなくていい」

晴人は笑いそうになった。

笑えるはずもないのに、喉の奥が歪んだ。

「どうやって背負わずにいろって言うんだ」

声が低くなる。

「お前のいない十年を、俺は生きた。母さんが結衣の名前を呼ばなくなっていくのを見た。父さんが写真を裏返すところも見た。結衣の部屋を片づけられないくせに、誰も中に入らなくなった家で、俺だけがずっと覚えていた」

言葉が途切れる。

息が乱れる。

「覚えているしかなかったんだ」

結衣は何も言わなかった。

「忘れたら、お前が本当にいなくなる気がした」

畳の上に、水滴が落ちた。

自分の涙だと気づくまで、少し時間がかかった。

「でも覚えていたら、ずっとお前は火の中にいた」

晴人は顔を伏せた。

「俺が覚えている限り、お前はずっとあの日から出られない」

結衣は静かに近づいた。

小さな足音が、畳の上で止まる。

そして、彼女は晴人の前に膝をついた。

その手が、晴人の頬に触れた。

今度は、すり抜けなかった。

冷たい手だった。

けれど、確かに触れていた。

「違うよ」

結衣は言った。

「お兄ちゃんが覚えていてくれたから、私はただの火事の記録にならなかった」

晴人は目を開けた。

「ただの被害者じゃなかった」

結衣の指が、晴人の涙を拭う。

「お母さんの娘で、お父さんの娘で、お兄ちゃんの妹だった。それを、誰かが覚えていてくれた」

「でも」

「でも、それと、お兄ちゃんが消えることは違う」

結衣ははっきり言った。

「私は、お兄ちゃんの代わりに生きたくない」

その言葉が、部屋の中心に落ちた。

暗闇が軋む。

天井の見えない場所で、何かが歯を食いしばるような音を立てた。

結衣は顔を上げ、闇を見た。

「聞いてるんでしょ」

誰に向けた声なのか、晴人にはすぐわかった。

部屋だ。

零号室。

「私は選ばない」

結衣は言った。

「お兄ちゃんを消してまで、生きるなんて選ばない」

暗闇の奥に、無数の扉が浮かび上がった。

どの扉にも、取っ手がない。

中央に文字だけが刻まれている。

水野晴人。

如月瀬奈。

如月亜紀。

橘礼司。

橘栞。

知らない名前。

消えかけた名前。

最初から薄い名前。

そのすべてが、黒い水の中に沈むように揺れていた。

晴人は立ち上がろうとした。

だが体が動かない。

畳の下から、冷たい指のようなものが足首を掴んでいる。

黒い水面に、別の景色が映った。

水野家の台所。

母が立っている。

食器棚の前で、茶碗を二つだけ手にしている。

晴人はそれを見て、胸が嫌な音を立てるのを感じた。

二つ。

母の茶碗と、父の茶碗。

結衣の茶碗がない。

食卓の隅にあったはずの、薄い花柄の小さな茶碗。六年生になってからも結衣が使い続けていた茶碗。割れたら嫌だからと、母が何度も新しいものに替えようとして、それでも結衣が「まだ使える」と笑っていた茶碗。

それがない。

母は棚の奥を探すように手を伸ばした。

だが、何を探しているのか自分でもわからない顔をしている。

「……変ね」

母が呟いた。

「何か、足りない気がする」

晴人は息を呑んだ。

水面の中の母は、しばらく食器棚を見つめていた。やがて諦めたように首を振り、二つの茶碗だけを食卓に置いた。

その横を、結衣に似た影が通り過ぎる。

いや、影だけだった。

輪郭はある。

でも名前がない。

顔がない。

母はその影に気づかない。

晴人は叫ぼうとした。

声が出ない。

黒い水面が波打ち、次の景色に変わる。

喫茶店だった。

窓際の席に、瀬奈が座っている。

テーブルの上には、レコーダーと古いノート。ノートの表紙には、如月亜紀の名前がある。

瀬奈はそれを開こうとしていた。

だが、ページは白紙だった。

文字が消えている。

写真もない。

母の筆跡も、取材メモも、部屋の番号も。

瀬奈は白紙のノートを見下ろしたまま、唇だけを動かす。

何かを言っている。

だが晴人には聞こえない。

いや、音がないのではない。

声の形だけが、抜き取られている。

瀬奈の口が、もう一度動いた。

――お母さん。

そう言ったのだと、晴人にはわかった。

だが、声がなかった。

黒い水面がまた揺れる。

橘建築設計事務所の資料室。

橘礼司が古い図面の前に座っている。

白い手袋をした指が、震えていた。

机の上には、小さな写真立てが伏せられている。

橘はそれを起こそうとする。

だが、写真立ての中は空だった。

名前もない。

顔もない。

橘栞という少女がいた痕跡だけが、紙の焼け跡のように薄く残っている。

橘はそれを見つめ、何度も口を開いた。

しかし、娘の名前を呼べない。

呼ぼうとしても、最初の音が出てこない。

晴人は理解した。

部屋は、誰かを返す。

でも、空いた場所には必ず別の誰かが落ちる。

生き返るという言葉の裏側で、別の人間が静かに消える。

それは死ではない。

死よりも、もっと残酷な消え方だった。

誰にも悼まれない。

誰にも探されない。

最初から存在しなかったものとして、世界の余白から削り取られる。

「見せるな」

晴人は歯を食いしばった。

「もう、見せるな」

黒い水面の奥で、文字が浮かんだ。

――選べ。

晴人の名前。

瀬奈の名前。

母の名前。

如月亜紀の名前。

橘礼司の名前。

そして、結衣の名前。

名前たちは同じ水面に並び、薄い光を放っている。

どれか一つを沈めれば、どれか一つが浮かび上がる。

そういう仕組みなのだと、部屋は黙って告げていた。

「俺の名前でいい」

晴人は言った。

結衣が振り返った。

その顔が、痛いほど強張っている。

「お兄ちゃん」

「他の誰かじゃない。俺でいい」

「だめ」

「俺が決める」

「だめ」

「お前に決めさせる話じゃない」

「違う」

結衣は首を振った。

「それは、私に死ねって言うのと同じだよ」

晴人は言葉を失った。

結衣の声は震えていた。

「お兄ちゃんが消えた世界で、私だけが笑っていたら……私は毎日、自分が誰かを殺して生きているって思う」

「そんなふうには――」

「思うよ」

結衣は遮った。

「私なら、絶対に思う」

黒い水面に、十三歳の結衣が映る。

母と笑っている。

学校へ行く。

制服を着る。

桜の下を歩く。

誕生日にケーキのろうそくを吹き消す。

そのたびに、彼女の後ろに白い空席がある。

誰も見ていない空席。

誰も名前を呼ばない空席。

でも、その空席だけが彼女を見ている。

「そんな世界で生きる私を、お兄ちゃんは見たい?」

結衣は静かに聞いた。

晴人は答えられなかった。

見たい。

生きている結衣を見たい。

何よりも、見たい。

だが、その結衣の笑顔の奥に、自分が消えた穴が開き続けるのだとしたら。

それでも救いだと言えるのか。

晴人の手の中で、契約の紙が脈打った。

まるで急かすように。

まるで、迷う時間すら惜しいと言うように。

結衣はその紙を見た。

「ねえ、お兄ちゃん」

「……なんだ」

「私、あの部屋にいる間、何度も見たよ」

「何を」

「誰かが、誰かを取り戻そうとするところ」

晴人は黙った。

結衣の視線は、遠くに向いていた。

十二歳の少女の目ではない。

長い時間を、部屋の奥で見続けた者の目だった。

「泣いてる人が来るの。みんな、似てる。もう一度会いたい、やり直したい、あの日に戻りたいって言う」

黒い水面に、知らない人たちの影が浮かんだ。

若い女。

杖をついた老人。

制服姿の少年。

小さな子供の靴を握る父親。

誰もが扉の前に立っていた。

「部屋は、優しい声を出すの」

結衣は言った。

「返してあげるって。直してあげるって。今度こそ間に合わせてあげるって」

晴人は、橘礼司の言葉を思い出した。

――あの部屋は、人を救わない。

「でも返ってきた人は、どこかが欠けてる」

結衣の手の中で、折り紙が震えた。

「返したほうも、欠けてる。周りの人も、欠けていく。誰か一人が助かるたびに、別の誰かが世界から落ちる」

結衣は晴人を見た。

「それでも、みんな気づくのが遅い」

晴人は紙を握る手に力を入れた。

「俺も、同じだって言いたいのか」

「ううん」

結衣は首を振った。

「お兄ちゃんは、まだ戻れる」

その言葉の直後、どこかで扉が閉まる音がした。

一つではない。

二つ。

三つ。

暗闇の中の扉が、次々に音を立てて閉じていく。

閉じるたびに、誰かの名前が薄くなる。

晴人は見た。

如月瀬奈の名前が、わずかに滲んだ。

インクが水に溶けるように。

「結衣」

声が震えた。

「今のは」

「部屋が、次の名前を探してる」

結衣は言った。

「お兄ちゃんが選ばないなら、他の人を引っ張る」

「誰を」

聞いた瞬間、答えはもうそこにあった。

黒い水面の中で、瀬奈の姿が揺れている。

彼女はどこかの階段に立っていた。

古い団地の階段。

手すりの塗装が剥げ、足元には雨水が溜まっている。

瀬奈はスマートフォンを耳に当てていた。

何かを必死に言っている。

晴人の名を呼んでいる。

だが、その声はまだ届かない。

届く前に、何かが少しずつ削っている。

声の輪郭を。

記憶の手触りを。

如月瀬奈という人間が、誰かの中に残してきた跡を。

結衣が振り返る。

「お兄ちゃん」

「結衣」

「ここ、怒ってる」

その言葉と同時に、部屋が傾いた。

食卓が歪む。

壁の時計が逆回りを始める。

未来の結衣の姿が、紙に描かれた絵のように薄くなり、裂けていく。

母の笑い声が引き伸ばされる。

長く、細く、誰かの悲鳴のように。

晴人は結衣に手を伸ばした。

「逃げろ」

「違うよ」

結衣は首を振った。

「逃げるのは、お兄ちゃん」

「また同じことを言うのか」

「うん」

結衣は少しだけ笑った。

「だって、お兄ちゃん、また私を助けようとしてる」

晴人の足元から黒い水が染み出す。

水の中には、いくつもの紙が沈んでいた。

戸籍。

写真。

手紙。

名札。

誰かが誰かを覚えていた証拠。

その紙の端から、文字が剥がれていく。

「結衣!」

晴人は叫んだ。

結衣の体が、足元から薄くなり始めていた。

だが結衣は怖がっていなかった。

むしろ、晴人のほうを心配するような顔をしている。

「まだ、終わってないよ」

「何がだ」

「お兄ちゃんがここにいる限り、部屋は次の名前を探す」

結衣の目が、晴人のポケットへ向いた。

スマートフォンが震えていた。

晴人はそれを取り出した。

画面が点滅している。

着信。

名前は表示されない。

不明な発信者。

だが、晴人はその番号を知っている気がした。

何度も見た番号のはずだ。

夜の喫茶店で。

古い団地の階段で。

資料室の埃の中で。

誰かと一緒に、この番号を見た。

誰かがこの番号から、自分に連絡してきた。

晴人は通話ボタンを押した。

「もしもし」

返ってきたのは、ノイズだった。

ざらざらとした音。

古いテープが擦れるような音。

その奥で、誰かが何かを言っている。

女の声だった。

たぶん。

知っている声だった。

たぶん。

『……み……の……さん……』

晴人は眉を寄せた。

「誰だ」

言った瞬間、胸の奥が冷たくなった。

誰だ。

自分は今、誰に向かってそう言ったのか。

結衣の顔色が変わった。

「お兄ちゃん」

通話の向こうで、声が途切れ途切れに続く。

『わた……しを……わすれ……』

ノイズが強くなる。

晴人は耳に強く押し当てた。

「もう一度言ってくれ」

『水野……さん……私……』

声が消えた。

通話は切れていない。

だが、そこにはもう誰の声もなかった。

画面を見る。

不明な発信者。

発信履歴にも、名前はない。

晴人はゆっくり顔を上げた。

結衣が、泣きそうな顔でこちらを見ている。

「ねえ、お兄ちゃん」

彼女は言った。

「瀬奈さんの声、思い出せる?」

晴人はすぐに答えようとした。

如月瀬奈。

フリーの記者。

母の如月亜紀を探している。

強引で、口が悪くて、でも他人の痛みにだけは妙に敏感で。

彼女の姿は思い出せる。

黒い髪。

薄いコート。

カメラを握る指。

喫茶店で冷めたコーヒーを前にしていた横顔。

だが、声が出てこない。

声だけが、思い出せない。

晴人は口を開いた。

何も言えなかった。

結衣は目を伏せた。

その手の中で、折りかけの白い紙が、ひとりでに黒く染まり始めた。

スマートフォンがもう一度震える。

今度は着信ではない。

短いメッセージだった。

差出人は空白。

本文だけが表示されている。

――水野さん、私を忘れないで。


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