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零号室  作者: 清忠
29/31

(第三部 . 第十一章) 忘れられる瀬奈

名前だけが、そこに残っていた。

 差出人のないメッセージ。

 白い画面の中央に、短い一文が浮かんでいる。

 ――水野さん、私を忘れないで。

 晴人は何度も読み返した。

 読み返すたびに、胸の奥で何かが剥がれていく。文字の意味はわかる。そこに込められている焦りも、恐怖も、助けを求める指先の震えも、なぜか痛いほどわかる。

 それなのに。

 声がない。

 如月瀬奈がその言葉を口にしたとき、どんな声になるのか思い出せない。

 低いのか。

 少し早口なのか。

 怒ると語尾が硬くなるのか。

 笑うとき、息を少しだけ漏らす癖があったのか。

 何も出てこない。

 晴人はスマートフォンを握る指に力を込めた。画面の光が指の骨を青白く照らしている。目の前では、結衣が膝を抱えるようにして座っていた。

 白い折り紙は、彼女の手の中で半分だけ黒く染まっていた。

「お兄ちゃん」

 結衣の声は聞こえる。

 聞こえすぎるほど、はっきり聞こえる。

「瀬奈さんのこと、忘れちゃだめ」

「わかってる」

 晴人はすぐに答えた。

 だが、その返事は浅かった。水面に落ちた軽い木片みたいに、どこにも沈んでいかない。

 わかっている。

 そう言えるほど、自分は何を覚えているのだろう。

 如月瀬奈。

 二十七歳。

 フリーの記者。

 母、如月亜紀を探している。

 古い団地、消えた部屋、都市伝説。そういうものを追い続けていた。人の傷に踏み込みすぎるくせに、自分の傷だけは雑に隠す女だった。

 そこまでは、思い出せる。

 顔も。

 姿も。

 黒い髪。

 薄いコート。

 カメラを握る指。

 喫茶店の窓際で、冷めたコーヒーを前にしていた横顔。

 けれど、声だけがない。

 記憶の中の瀬奈は、口を開けたまま、無音でこちらを見ている。

 晴人は奥歯を噛んだ。

「戻る」

「どこへ?」

「瀬奈のところへ」

 結衣は答えなかった。

 その沈黙が、引き止めているようにも、送り出しているようにも見えた。

 晴人は立ち上がった。

 畳の上に置かれた図面が、いつの間にか黒く濡れたような色に変わっている。三〇四号室の平面図。そこに描かれていなかったはずの零号室の輪郭が、細い墨の線で浮かび上がっていた。

 線はまだ動いている。

 生き物のように。

 部屋を出ようとしたとき、結衣が言った。

「お兄ちゃん」

 晴人は振り返る。

 結衣は、泣いていなかった。

 けれど、泣くよりもずっと苦しそうな顔をしていた。

「名前は、何度も呼んであげて」

「……え?」

「忘れられる人はね、最初に声がなくなるの」

 晴人の背中に冷たいものが走った。

 結衣は黒く染まった折り紙を見下ろす。

「次に、匂いがなくなる。触った感覚がなくなる。写真の中の輪郭が薄くなる。それでも誰かが名前を呼び続けてくれたら、まだ戻れるかもしれない」

「誰に聞いた」

 晴人の声が低くなる。

 結衣は顔を上げなかった。

「ここにいると、いろんな人の忘れられ方が聞こえるの」

 かさり。

 彼女の手の中で、折り紙が勝手にひとつ折れた。

「だから、早く行って」

 襖の向こうに、廊下があった。

 古い集合住宅の廊下ではなかった。

 晴人の足元に続いていたのは、夜の街だった。

 雨が降っている。

 細く、冷たい雨だった。

 傘のない肩に水滴が落ちる。車のライトが濡れたアスファルトの上を滑り、信号機の赤が水たまりの中でぼやけている。

 晴人は一歩を踏み出した。

 背後で、襖が閉まる音がした。

 振り返っても、そこにはもう何もない。

 古い団地も。

 畳の部屋も。

 結衣の姿も。

 ただ、夜の歩道に立つ自分だけがいた。

 手の中のスマートフォンが震えた。

 晴人はすぐ画面を見る。

 メッセージは消えていない。

 ――水野さん、私を忘れないで。

 その下に、もう一行が追加されていた。

 ――私は、ここにいます。

 位置情報はなかった。

 ただ、添付された一枚の写真があった。

 開く。

 暗い階段。

 非常灯の緑だけが、壁に沈んでいる。

 踊り場の隅に、白い紙が落ちていた。

 折り鶴ではない。

 名刺だった。

 写真の端に、かすれた文字が写っている。

 如月瀬奈。

 その下に、小さく住所が見えた。

 晴人はそれを知っていた。

 瀬奈が一度だけ「仕事場みたいなもの」と言っていた古い雑居ビル。記者としての事務所ではない。ただ、資料を置き、徹夜で記事を書き、眠る場所をなくしたときに戻る部屋。

 晴人は走り出した。

 雨の音が、足音を消す。

 息が上がっても、速度を落とせなかった。

 頭の中で名前を繰り返す。

 如月瀬奈。

 如月瀬奈。

 如月瀬奈。

 声が思い出せなくても、名前だけはまだある。

 それだけを、離してはいけない。

 走りながら、晴人は通話履歴を開いた。

 如月瀬奈。

 その名前があるはずだった。

 何度も電話をした。深夜の喫茶店で資料を確認したあと、駅の改札前で別れたあと、団地の前で待ち合わせ時間を変更したとき。短い通話ばかりだったが、そこには確かに彼女の名前が並んでいた。

 だが画面には、見慣れない番号だけが残っていた。

 名前はない。

 通話時間だけが、そこに残っている。

 三分二十一秒。

 四十八秒。

 七分五秒。

 誰かと話した痕跡はあるのに、その誰かの名前だけが削られている。

 晴人は立ち止まりそうになった。

 だが足を止めたら、そのまま名前も落としてしまいそうで、走り続けた。

「如月瀬奈」

 声に出して言う。

 通行人が一瞬こちらを見る。

 雨の中で知らない女の名前を呟きながら走る男。そう見えたのだろう。

 構わなかった。

「如月瀬奈。二十七歳。フリーの記者。如月亜紀の娘。宮下団地六号棟三〇一号室を追っている。俺を三〇四号室まで連れ戻した。零号室のことを知っている。俺に、逃げるなと言った」

 そこまで言って、晴人は喉の奥を押さえた。

 最後の言葉だけ、確信が薄い。

 逃げるな。

 本当に瀬奈はそう言ったのか。

 それとも、晴人が彼女にそう言ってほしかっただけなのか。

 記憶の中の彼女は、また無音で口を動かす。

 晴人は歯を食いしばった。

 近くの交差点で信号が赤に変わった。

 車の列が濡れた道路に長い光を伸ばす。晴人は歩道の端で足を止め、もう一度スマートフォンを操作した。

 検索履歴。

 如月瀬奈。

 何も出ない。

 ニュース記事。

 削除済み。

 保存していたはずの都市伝説の記事のリンクを開く。

 ページは残っている。

 タイトルも残っている。

 本文もある。

 だが署名欄だけが空白だった。

 記事を書いた人間がいない。

 文章だけが、誰にも書かれなかったものとして漂っている。

 晴人は画面を閉じた。

 胸の中で何かがざらつく。

 これが、忘れられるということなのか。

 死ぬのではない。

 壊されるのでもない。

 周囲の世界が、少しずつその人の輪郭を必要としなくなる。

 名前の入る場所が空白になり、声の残る場所が無音になり、誰かが座っていた椅子だけが「最初から空いていた」と言われる。

 晴人は交差点を渡った。

 駅前の古い喫茶店が見えた。

 瀬奈と何度も会った店だった。

 あの窓際の席。

 冷めたコーヒー。

 資料を広げる彼女の指。

 声は思い出せない。

 けれど、あの場所なら何か残っているかもしれない。

 晴人は扉を開けた。

 ベルが鳴る。

 店内には客が二人だけいた。雨の音がガラス窓を細かく叩き、照明は夕方のように薄暗い。カウンターの奥で、白髪のマスターがグラスを拭いていた。

「いらっしゃい」

 晴人は窓際の席を見た。

 空いている。

 いつも瀬奈が選んでいた席。

 向かい側に自分が座り、彼女は窓を背にして座った。カメラを鞄から出し、録音機を置き、冷める前にコーヒーを飲みきったことがほとんどない。

「すみません」

 晴人はカウンターへ近づいた。

「如月瀬奈という女性を覚えていますか」

 マスターの手が止まった。

 晴人は一瞬、期待した。

 だが男は少し困った顔で首を傾げた。

「お客さんですか」

「記者です。よくここで人と会っていた。黒い髪で、カメラを持っていて――」

「うちは常連さんが多いですけど、その名前は聞いたことがないですね」

 マスターは申し訳なさそうに笑った。

 その笑い方が、晴人には残酷だった。

「この席に、よく座っていました」

 晴人は窓際を指さす。

「俺も、何度か一緒に」

「そうでしたか」

 男は曖昧に頷いた。

 だが目の奥には、何の記憶も浮かんでいなかった。

「お一人で来られていたのでは?」

 晴人の指先が冷たくなった。

「……俺が?」

「ええ。たしか、何度か。古い団地の資料を見ていらしたような」

 瀬奈と来た時間が、晴人一人の記憶に書き換えられている。

 彼女が座っていた椅子だけが、最初から空白だったことにされている。

 晴人は窓際のテーブルへ歩いた。

 椅子の背に触れる。

 何もない。

 けれど、テーブルの裏側に小さな傷があった。

 瀬奈がペン先で無意識につけた傷。

 彼女は考え込むと、手に持ったペンで物の端を軽く叩く癖があった。

 晴人はその癖を覚えている。

 声はない。

 でも、仕草は残っている。

 晴人はテーブルの下に手を入れた。

 指先に紙が触れた。

 セロハンテープで貼りつけられた、小さなメモだった。

 剥がす。

 そこには、雑な字で一行だけ書かれていた。

 ――もし私の名前が消えたら、四階の部屋に来て。

 署名はない。

 だが、瀬奈の字だった。

 晴人はメモを握りしめ、店を出た。

 雑居ビルは、駅から少し離れた裏通りにあった。

 五階建ての細い建物。

 一階はシャッターの降りた古本屋。二階は看板の消えた整体院。三階には、小さな出版社の名前が残っている。瀬奈の部屋は、その上だった。

 階段の入口に、自動販売機が一台だけ光っていた。

 青白い光の中で、缶コーヒーの見本だけがやけに鮮明に見える。

 晴人は階段を駆け上がった。

 写真と同じ踊り場。

 非常灯。

 湿った壁。

 そして、踊り場の隅。

 そこに、名刺はなかった。

 代わりに、白い折り鶴が一羽置かれていた。

 羽の片方に、黒いインクで文字が書かれている。

 瀬奈。

 晴人は鶴を拾った。

 指に触れた紙は、雨に濡れていない。

 むしろ、体温を持っているように温かかった。

 四階の廊下に出ると、薄い蛍光灯が一本だけ点滅していた。

 瀬奈の部屋の扉は、半分開いていた。

「瀬奈」

 晴人は名前を呼んだ。

 返事はない。

 もう一度呼ぶ。

「如月瀬奈」

 扉の向こうで、何かが落ちる音がした。

 晴人は中へ入った。

 狭い部屋だった。

 机が一つ。

 床まで積まれた資料箱。

 壁には古い団地の写真、新聞記事の切り抜き、手書きの相関図が貼られている。宮下団地、六号棟、三〇一号室。旧南品川第三団地、二〇四号室。橘建築設計事務所。零号室。黒い糸で結ばれた文字が、壁一面に広がっていた。

 部屋の中央に、瀬奈が立っていた。

 晴人は息を止めた。

 彼女はそこにいる。

 確かにいる。

 黒い髪。

 濡れたコート。

 青ざめた顔。

 胸の前で、古いカメラを抱きしめている。

 けれど、その輪郭が薄い。

 ガラスの向こうに立つ人間みたいに、部屋の空気から少し浮いて見えた。

 瀬奈は何かを言った。

 唇が動く。

 晴人には聞こえない。

「すまない」

 晴人は一歩近づく。

「声が、聞こえない」

 瀬奈の表情が崩れた。

 笑おうとしたのか、怒ろうとしたのか、わからない。彼女は机の上のメモ帳をつかみ、震える手で文字を書いた。

 紙が差し出される。

 ――私、まだここにいる?

 晴人は頷いた。

「いる」

 瀬奈はもう一度書く。

 ――見えてる?

「見えてる」

 ――名前は?

 晴人は即答した。

「如月瀬奈」

 その瞬間、瀬奈の肩から少しだけ力が抜けた。

 だが安心は長く続かなかった。

 その前に、晴人は瀬奈の部屋を見回した。

 ここには彼女の時間が積もっている。

 床に置かれた紙袋の中には、古い住宅地図が丸めて詰め込まれていた。書き込みのある地図の端には、瀬奈が何度も引いた赤線が残っている。赤線は宮下団地から橘建築設計事務所へ伸び、そこから旧南品川第三団地へ折れ、また別の解体予定の集合住宅へ繋がっていた。

 机の上のノートパソコンは開いたままだった。

 画面には未保存の文書が表示されている。

 タイトルは「零号室と消失記録」。

 署名欄は、空白。

 本文の途中に、瀬奈が打ちかけたらしい文が残っていた。

 ――忘れられることは、死よりも静かに始まる。

 晴人はその一文を読んで、手を止めた。

 瀬奈がいつこれを書いたのかはわからない。

 けれど、その文はまるで今の彼女自身を記録しているようだった。

 棚の上に、一枚の写真立てがあった。

 小さな女の子と、若い女性が写っている。

 如月瀬奈と、如月亜紀。

 母娘の写真。

 女の子はカメラに向かって、不満そうに口を尖らせている。隣の如月亜紀は、そんな娘の肩に手を置き、少し困ったように笑っている。

 晴人は写真を手に取った。

 瀬奈が息を呑むのがわかった。

 写真の中で、如月亜紀の顔ははっきりしていた。

 だが隣にいるはずの少女の輪郭だけが、薄くなっている。

 髪の線がぼやけ、目元がにじみ、指先が背景に溶けかけていた。

 晴人は写真を瀬奈に見せなかった。

 見せなくても、彼女にはわかっていた。

 瀬奈はメモ帳に短く書いた。

 ――母は、私を忘れる?

 晴人は答えられなかった。

 瀬奈はもう一度書く。

 ――もし母が私を忘れたら、私は何のために探していたんだろう。

 晴人は写真立てを元の場所に戻した。

 声があれば、彼女は怒ったかもしれない。

 「勝手に諦めたみたいな顔をしないで」と言ったかもしれない。

 そう思うのに、その声がどういう音だったのか、やはり思い出せなかった。

 晴人は机の上の油性ペンを取り、写真立ての裏側に小さく書いた。

 如月瀬奈。

 瀬奈が目を見開く。

「消えないように」

 晴人は言った。

「どこにでも書く」

 瀬奈は一瞬だけ、泣きそうに顔を歪めた。

 そして乱暴にペンを奪い、壁の相関図の隅に同じ名前を書いた。

 如月瀬奈。

 その下に、さらに書く。

 如月亜紀の娘。

 晴人はそれを見て、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

 彼女は自分の名前だけでなく、母との関係まで世界に縫いつけようとしている。

 忘れられる前に。

 ほどける前に。

 私はここにいた。

 私は、あの人の娘だった。

 そう言う代わりに、彼女は壁に文字を書いていた。

 廊下の向こうで、足音がした。

 晴人が振り返ると、四階の別室から中年の男が顔を出していた。三階の小出版社の社員だろうか。手には鍵束を持っている。

「何をしているんですか」

 男は不審そうに晴人を見た。

「この部屋は空き室ですよ」

 晴人の背中が固まった。

「空き室?」

「ええ。ずっと」

「ここに人が住んでいたはずです。如月瀬奈という――」

「知りませんね」

 男は即座に言った。

 迷いがなかった。

 嘘をついている顔でもない。

「記者の女性です。何度かここに出入りしていた」

「そんな人はいませんよ」

 男は晴人の肩越しに部屋の中を覗いた。

 視線は、瀬奈の体を通り過ぎた。

 まるでそこに誰もいないように。

 瀬奈が一歩後ずさった。

 机に背中がぶつかる。

 音はした。

 だが男は反応しない。

「勝手に入られると困ります。管理会社に連絡しますよ」

 晴人は瀬奈を見る。

 彼女は唇を噛んでいた。

 声が出ないのではない。

 声が、世界に届いていない。

「すぐ出ます」

 晴人は男にそう言い、部屋の中へ一歩踏み込んだ。

 瀬奈の手首をつかもうとして、指が空を切った。

 触れない。

 晴人は凍りついた。

 もう一度、手を伸ばす。

 今度は、瀬奈の指先がわずかに晴人の手に触れた。

 冷たかった。

 濡れた紙のような冷たさ。

 それでも触れた。

 瀬奈の目に、かすかな光が戻る。

 晴人はその手を強く握った。

「行くぞ」

 声は聞こえないはずなのに、瀬奈は頷いた。

 二人は階段を降りた。

 途中、男がまだ何かを言っていた。晴人は聞かなかった。瀬奈の手は、握っていないとすぐに薄くなった。指の感触が少しずつ消え、骨の位置が曖昧になる。

 如月瀬奈。

 晴人は心の中で繰り返す。

 如月瀬奈。

 如月瀬奈。

 雑居ビルを出ると、雨は強くなっていた。

 瀬奈は傘を持っていない。けれど雨粒は彼女の肩に当たらなかった。落ちる途中で輪郭を避けるように、少しだけ曲がって地面へ落ちていく。

 人波は、彼女を避けない。

 避ける必要がないからだ。

 通行人の一人が瀬奈の肩を通り抜けた。

 瀬奈の体が大きく揺れた。

 晴人は彼女を引き寄せる。

「見えていないんだ」

 瀬奈は小さく頷いた。

 そして左手で、晴人の胸元を叩いた。

 書くものを探している。

 晴人は鞄から手帳とペンを取り出した。結衣の名前、火事の日付、橘礼司の住所、零号室の断片。忘れないために書き足してきたページの隅に、瀬奈は震える字で書いた。

 ――いつから?

「わからない」

 瀬奈は続けて書く。

 ――朝、編集者が私を忘れてた。

 晴人は眉を寄せた。

 瀬奈は乱れた字でさらに書いた。

 ――記事の署名が消えた。メールの差出人が空白になった。部屋の契約書から名前が消えた。

 ペン先が紙を破りそうになる。

 ――母の写真から、私だけが薄くなってた。

 晴人はその一文を見つめた。

 如月亜紀。

 母を探していた娘が、先に母の記憶から落ちていく。

 それは、晴人がいままで見てきたどの消失よりも残酷だった。

 瀬奈はペンを持つ手を止めた。

 顔を上げる。

 声は聞こえない。

 けれど、唇の動きだけでわかった。

 ――私のせい?

「違う」

 晴人は即座に言った。

 瀬奈は首を振った。

 ――あなたが結衣さんを戻そうとしたから?

「違う」

 今度は少し遅れた。

 瀬奈はその遅れを見逃さなかった。

 晴人は視線を逸らす。

 雨がアスファルトを打っている。

 水たまりの中で、信号の赤が割れていた。

「俺が、名前を置こうとした」

 瀬奈の手が止まる。

「結衣を戻すために、自分の存在を代価にする世界を見た」

 言葉にした瞬間、それが現実に近づく気がした。

 晴人は自分の声を聞きながら、どこか遠い場所から自分を見ているようだった。

「でも、まだ選んでない。契約はしていない」

 瀬奈はしばらく晴人を見ていた。

 怒るかもしれないと思った。

 殴られても仕方がないと思った。

 しかし彼女は、手帳に短く書いただけだった。

 ――馬鹿。

 晴人は何も言えなかった。

 瀬奈はその下に、もう一行書く。

 ――でも、まだ戻れるなら戻る。

 その字は震えていた。

 強がっているのがわかる。

 晴人は手帳を握った。

「戻す。必ず」

 瀬奈は首を横に振る。

 そして、別の言葉を書いた。

 ――私より、母を見つけて。

「瀬奈」

 ――如月亜紀を見つけて。あの人が零号室のことを最初に追っていた。私が消えても、母の記録が残っていれば、まだ間に合う。

「消える前提で話すな」

 瀬奈はペンを止める。

 少しだけ笑った。

 晴人にはその笑い声が聞こえない。

 それが、ひどく怖かった。

 彼女は手帳に書く。

 ――声、まだ思い出せない?

 晴人は答えられなかった。

 瀬奈は予想していたように頷いた。

 ――なら、顔は?

 晴人は彼女を見た。

 見えている。

 まだ見えている。

 黒い髪。

 濡れていないコート。

 青ざめた頬。

 強い目。

 でも。

 細部が揺れる。

 目尻の形。

 唇の薄さ。

 左頬にあったはずの小さなほくろ。

 あったのか、なかったのか。

 確信が持てない。

「見えてる」

 晴人は嘘をついた。

 瀬奈は、その嘘にも気づいた。

 彼女は何も書かなかった。

 ただ、晴人の手帳を取り返し、最後のページを開いた。

 そこに、大きな字で自分の名前を書く。

 如月瀬奈。

 一画一画、押しつけるように。

 紙がへこむほど強く。

 書き終えると、彼女はペンを晴人に渡した。

 晴人はその隣に、同じ名前を書いた。

 如月瀬奈。

 その下にもう一度。

 如月瀬奈。

 さらにもう一度。

 雨の中、二人は立ったまま、同じ名前を書き続けた。

 通行人が傘を差して通り過ぎる。

 誰も見ない。

 誰も気づかない。

 世界の隅で、二人だけが消えかけた名前にしがみついていた。

 やがて、瀬奈がペンを止めた。

 彼女は手帳の前のページをめくり、そこに貼られていた一枚の写真を指さした。

 宮下団地六号棟三〇一号室。

 如月亜紀が最後に調査していた部屋。

 そのドアの写真だった。

 晴人は息を呑んだ。

 ドアの横に、何かが写っている。

 前に見たときは、何もなかったはずだ。

 薄い影。

 人の形。

 そして、ドアの表札部分に、小さな文字が浮かび上がっている。

 如月瀬奈。

「どういうことだ」

 瀬奈は写真を見たまま、唇を動かした。

 声はない。

 だが言葉はわかった。

 ――呼ばれてる。

 晴人のスマートフォンが震えた。

 画面を見る。

 今度は発信者の名前が表示されている。

 橘礼司。

 晴人はすぐに通話を取った。

「橘さん」

 電話の向こうで、ひどく荒い息が聞こえた。

 いつもの穏やかで整った声ではない。老いた男が、何かから逃げる途中で必死に電話をかけているような声だった。

『水野さん』

「瀬奈が消えかけています。どうすれば――」

『家に帰ってはいけません』

 晴人は言葉を失った。

 雨の音だけが、耳の周りで大きくなる。

「どういう意味ですか」

『あなたの部屋に、出ました』

「何が」

 橘礼司の息が、受話口の向こうで詰まる。

『零号室です』

 晴人は無意識に瀬奈の手を握り直した。

 瀬奈は電話の声を聞けていない。ただ、晴人の顔色だけを見て、何かが起きたことを察したようだった。

 橘礼司は、絞り出すように言った。

『もう、開けないでください』

 その直後、晴人のスマートフォンに画像が送られてきた。

 自分の部屋の玄関だった。

 誰が撮ったものなのか、わからない。

 薄暗い廊下。

 濡れた傘立て。

 靴箱の横。

 そこに、晴人の記憶にはない白いドアがあった。

 ドアの下から、光が漏れている。

 そして、その前に一羽の折り鶴が置かれていた。

 黒い羽に、白い文字が浮かんでいる。

 ――如月瀬奈、入室済み。


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