(第三部 . 第十一章) 忘れられる瀬奈
名前だけが、そこに残っていた。
差出人のないメッセージ。
白い画面の中央に、短い一文が浮かんでいる。
――水野さん、私を忘れないで。
晴人は何度も読み返した。
読み返すたびに、胸の奥で何かが剥がれていく。文字の意味はわかる。そこに込められている焦りも、恐怖も、助けを求める指先の震えも、なぜか痛いほどわかる。
それなのに。
声がない。
如月瀬奈がその言葉を口にしたとき、どんな声になるのか思い出せない。
低いのか。
少し早口なのか。
怒ると語尾が硬くなるのか。
笑うとき、息を少しだけ漏らす癖があったのか。
何も出てこない。
晴人はスマートフォンを握る指に力を込めた。画面の光が指の骨を青白く照らしている。目の前では、結衣が膝を抱えるようにして座っていた。
白い折り紙は、彼女の手の中で半分だけ黒く染まっていた。
「お兄ちゃん」
結衣の声は聞こえる。
聞こえすぎるほど、はっきり聞こえる。
「瀬奈さんのこと、忘れちゃだめ」
「わかってる」
晴人はすぐに答えた。
だが、その返事は浅かった。水面に落ちた軽い木片みたいに、どこにも沈んでいかない。
わかっている。
そう言えるほど、自分は何を覚えているのだろう。
如月瀬奈。
二十七歳。
フリーの記者。
母、如月亜紀を探している。
古い団地、消えた部屋、都市伝説。そういうものを追い続けていた。人の傷に踏み込みすぎるくせに、自分の傷だけは雑に隠す女だった。
そこまでは、思い出せる。
顔も。
姿も。
黒い髪。
薄いコート。
カメラを握る指。
喫茶店の窓際で、冷めたコーヒーを前にしていた横顔。
けれど、声だけがない。
記憶の中の瀬奈は、口を開けたまま、無音でこちらを見ている。
晴人は奥歯を噛んだ。
「戻る」
「どこへ?」
「瀬奈のところへ」
結衣は答えなかった。
その沈黙が、引き止めているようにも、送り出しているようにも見えた。
晴人は立ち上がった。
畳の上に置かれた図面が、いつの間にか黒く濡れたような色に変わっている。三〇四号室の平面図。そこに描かれていなかったはずの零号室の輪郭が、細い墨の線で浮かび上がっていた。
線はまだ動いている。
生き物のように。
部屋を出ようとしたとき、結衣が言った。
「お兄ちゃん」
晴人は振り返る。
結衣は、泣いていなかった。
けれど、泣くよりもずっと苦しそうな顔をしていた。
「名前は、何度も呼んであげて」
「……え?」
「忘れられる人はね、最初に声がなくなるの」
晴人の背中に冷たいものが走った。
結衣は黒く染まった折り紙を見下ろす。
「次に、匂いがなくなる。触った感覚がなくなる。写真の中の輪郭が薄くなる。それでも誰かが名前を呼び続けてくれたら、まだ戻れるかもしれない」
「誰に聞いた」
晴人の声が低くなる。
結衣は顔を上げなかった。
「ここにいると、いろんな人の忘れられ方が聞こえるの」
かさり。
彼女の手の中で、折り紙が勝手にひとつ折れた。
「だから、早く行って」
襖の向こうに、廊下があった。
古い集合住宅の廊下ではなかった。
晴人の足元に続いていたのは、夜の街だった。
雨が降っている。
細く、冷たい雨だった。
傘のない肩に水滴が落ちる。車のライトが濡れたアスファルトの上を滑り、信号機の赤が水たまりの中でぼやけている。
晴人は一歩を踏み出した。
背後で、襖が閉まる音がした。
振り返っても、そこにはもう何もない。
古い団地も。
畳の部屋も。
結衣の姿も。
ただ、夜の歩道に立つ自分だけがいた。
手の中のスマートフォンが震えた。
晴人はすぐ画面を見る。
メッセージは消えていない。
――水野さん、私を忘れないで。
その下に、もう一行が追加されていた。
――私は、ここにいます。
位置情報はなかった。
ただ、添付された一枚の写真があった。
開く。
暗い階段。
非常灯の緑だけが、壁に沈んでいる。
踊り場の隅に、白い紙が落ちていた。
折り鶴ではない。
名刺だった。
写真の端に、かすれた文字が写っている。
如月瀬奈。
その下に、小さく住所が見えた。
晴人はそれを知っていた。
瀬奈が一度だけ「仕事場みたいなもの」と言っていた古い雑居ビル。記者としての事務所ではない。ただ、資料を置き、徹夜で記事を書き、眠る場所をなくしたときに戻る部屋。
晴人は走り出した。
雨の音が、足音を消す。
息が上がっても、速度を落とせなかった。
頭の中で名前を繰り返す。
如月瀬奈。
如月瀬奈。
如月瀬奈。
声が思い出せなくても、名前だけはまだある。
それだけを、離してはいけない。
走りながら、晴人は通話履歴を開いた。
如月瀬奈。
その名前があるはずだった。
何度も電話をした。深夜の喫茶店で資料を確認したあと、駅の改札前で別れたあと、団地の前で待ち合わせ時間を変更したとき。短い通話ばかりだったが、そこには確かに彼女の名前が並んでいた。
だが画面には、見慣れない番号だけが残っていた。
名前はない。
通話時間だけが、そこに残っている。
三分二十一秒。
四十八秒。
七分五秒。
誰かと話した痕跡はあるのに、その誰かの名前だけが削られている。
晴人は立ち止まりそうになった。
だが足を止めたら、そのまま名前も落としてしまいそうで、走り続けた。
「如月瀬奈」
声に出して言う。
通行人が一瞬こちらを見る。
雨の中で知らない女の名前を呟きながら走る男。そう見えたのだろう。
構わなかった。
「如月瀬奈。二十七歳。フリーの記者。如月亜紀の娘。宮下団地六号棟三〇一号室を追っている。俺を三〇四号室まで連れ戻した。零号室のことを知っている。俺に、逃げるなと言った」
そこまで言って、晴人は喉の奥を押さえた。
最後の言葉だけ、確信が薄い。
逃げるな。
本当に瀬奈はそう言ったのか。
それとも、晴人が彼女にそう言ってほしかっただけなのか。
記憶の中の彼女は、また無音で口を動かす。
晴人は歯を食いしばった。
近くの交差点で信号が赤に変わった。
車の列が濡れた道路に長い光を伸ばす。晴人は歩道の端で足を止め、もう一度スマートフォンを操作した。
検索履歴。
如月瀬奈。
何も出ない。
ニュース記事。
削除済み。
保存していたはずの都市伝説の記事のリンクを開く。
ページは残っている。
タイトルも残っている。
本文もある。
だが署名欄だけが空白だった。
記事を書いた人間がいない。
文章だけが、誰にも書かれなかったものとして漂っている。
晴人は画面を閉じた。
胸の中で何かがざらつく。
これが、忘れられるということなのか。
死ぬのではない。
壊されるのでもない。
周囲の世界が、少しずつその人の輪郭を必要としなくなる。
名前の入る場所が空白になり、声の残る場所が無音になり、誰かが座っていた椅子だけが「最初から空いていた」と言われる。
晴人は交差点を渡った。
駅前の古い喫茶店が見えた。
瀬奈と何度も会った店だった。
あの窓際の席。
冷めたコーヒー。
資料を広げる彼女の指。
声は思い出せない。
けれど、あの場所なら何か残っているかもしれない。
晴人は扉を開けた。
ベルが鳴る。
店内には客が二人だけいた。雨の音がガラス窓を細かく叩き、照明は夕方のように薄暗い。カウンターの奥で、白髪のマスターがグラスを拭いていた。
「いらっしゃい」
晴人は窓際の席を見た。
空いている。
いつも瀬奈が選んでいた席。
向かい側に自分が座り、彼女は窓を背にして座った。カメラを鞄から出し、録音機を置き、冷める前にコーヒーを飲みきったことがほとんどない。
「すみません」
晴人はカウンターへ近づいた。
「如月瀬奈という女性を覚えていますか」
マスターの手が止まった。
晴人は一瞬、期待した。
だが男は少し困った顔で首を傾げた。
「お客さんですか」
「記者です。よくここで人と会っていた。黒い髪で、カメラを持っていて――」
「うちは常連さんが多いですけど、その名前は聞いたことがないですね」
マスターは申し訳なさそうに笑った。
その笑い方が、晴人には残酷だった。
「この席に、よく座っていました」
晴人は窓際を指さす。
「俺も、何度か一緒に」
「そうでしたか」
男は曖昧に頷いた。
だが目の奥には、何の記憶も浮かんでいなかった。
「お一人で来られていたのでは?」
晴人の指先が冷たくなった。
「……俺が?」
「ええ。たしか、何度か。古い団地の資料を見ていらしたような」
瀬奈と来た時間が、晴人一人の記憶に書き換えられている。
彼女が座っていた椅子だけが、最初から空白だったことにされている。
晴人は窓際のテーブルへ歩いた。
椅子の背に触れる。
何もない。
けれど、テーブルの裏側に小さな傷があった。
瀬奈がペン先で無意識につけた傷。
彼女は考え込むと、手に持ったペンで物の端を軽く叩く癖があった。
晴人はその癖を覚えている。
声はない。
でも、仕草は残っている。
晴人はテーブルの下に手を入れた。
指先に紙が触れた。
セロハンテープで貼りつけられた、小さなメモだった。
剥がす。
そこには、雑な字で一行だけ書かれていた。
――もし私の名前が消えたら、四階の部屋に来て。
署名はない。
だが、瀬奈の字だった。
晴人はメモを握りしめ、店を出た。
雑居ビルは、駅から少し離れた裏通りにあった。
五階建ての細い建物。
一階はシャッターの降りた古本屋。二階は看板の消えた整体院。三階には、小さな出版社の名前が残っている。瀬奈の部屋は、その上だった。
階段の入口に、自動販売機が一台だけ光っていた。
青白い光の中で、缶コーヒーの見本だけがやけに鮮明に見える。
晴人は階段を駆け上がった。
写真と同じ踊り場。
非常灯。
湿った壁。
そして、踊り場の隅。
そこに、名刺はなかった。
代わりに、白い折り鶴が一羽置かれていた。
羽の片方に、黒いインクで文字が書かれている。
瀬奈。
晴人は鶴を拾った。
指に触れた紙は、雨に濡れていない。
むしろ、体温を持っているように温かかった。
四階の廊下に出ると、薄い蛍光灯が一本だけ点滅していた。
瀬奈の部屋の扉は、半分開いていた。
「瀬奈」
晴人は名前を呼んだ。
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「如月瀬奈」
扉の向こうで、何かが落ちる音がした。
晴人は中へ入った。
狭い部屋だった。
机が一つ。
床まで積まれた資料箱。
壁には古い団地の写真、新聞記事の切り抜き、手書きの相関図が貼られている。宮下団地、六号棟、三〇一号室。旧南品川第三団地、二〇四号室。橘建築設計事務所。零号室。黒い糸で結ばれた文字が、壁一面に広がっていた。
部屋の中央に、瀬奈が立っていた。
晴人は息を止めた。
彼女はそこにいる。
確かにいる。
黒い髪。
濡れたコート。
青ざめた顔。
胸の前で、古いカメラを抱きしめている。
けれど、その輪郭が薄い。
ガラスの向こうに立つ人間みたいに、部屋の空気から少し浮いて見えた。
瀬奈は何かを言った。
唇が動く。
晴人には聞こえない。
「すまない」
晴人は一歩近づく。
「声が、聞こえない」
瀬奈の表情が崩れた。
笑おうとしたのか、怒ろうとしたのか、わからない。彼女は机の上のメモ帳をつかみ、震える手で文字を書いた。
紙が差し出される。
――私、まだここにいる?
晴人は頷いた。
「いる」
瀬奈はもう一度書く。
――見えてる?
「見えてる」
――名前は?
晴人は即答した。
「如月瀬奈」
その瞬間、瀬奈の肩から少しだけ力が抜けた。
だが安心は長く続かなかった。
その前に、晴人は瀬奈の部屋を見回した。
ここには彼女の時間が積もっている。
床に置かれた紙袋の中には、古い住宅地図が丸めて詰め込まれていた。書き込みのある地図の端には、瀬奈が何度も引いた赤線が残っている。赤線は宮下団地から橘建築設計事務所へ伸び、そこから旧南品川第三団地へ折れ、また別の解体予定の集合住宅へ繋がっていた。
机の上のノートパソコンは開いたままだった。
画面には未保存の文書が表示されている。
タイトルは「零号室と消失記録」。
署名欄は、空白。
本文の途中に、瀬奈が打ちかけたらしい文が残っていた。
――忘れられることは、死よりも静かに始まる。
晴人はその一文を読んで、手を止めた。
瀬奈がいつこれを書いたのかはわからない。
けれど、その文はまるで今の彼女自身を記録しているようだった。
棚の上に、一枚の写真立てがあった。
小さな女の子と、若い女性が写っている。
如月瀬奈と、如月亜紀。
母娘の写真。
女の子はカメラに向かって、不満そうに口を尖らせている。隣の如月亜紀は、そんな娘の肩に手を置き、少し困ったように笑っている。
晴人は写真を手に取った。
瀬奈が息を呑むのがわかった。
写真の中で、如月亜紀の顔ははっきりしていた。
だが隣にいるはずの少女の輪郭だけが、薄くなっている。
髪の線がぼやけ、目元がにじみ、指先が背景に溶けかけていた。
晴人は写真を瀬奈に見せなかった。
見せなくても、彼女にはわかっていた。
瀬奈はメモ帳に短く書いた。
――母は、私を忘れる?
晴人は答えられなかった。
瀬奈はもう一度書く。
――もし母が私を忘れたら、私は何のために探していたんだろう。
晴人は写真立てを元の場所に戻した。
声があれば、彼女は怒ったかもしれない。
「勝手に諦めたみたいな顔をしないで」と言ったかもしれない。
そう思うのに、その声がどういう音だったのか、やはり思い出せなかった。
晴人は机の上の油性ペンを取り、写真立ての裏側に小さく書いた。
如月瀬奈。
瀬奈が目を見開く。
「消えないように」
晴人は言った。
「どこにでも書く」
瀬奈は一瞬だけ、泣きそうに顔を歪めた。
そして乱暴にペンを奪い、壁の相関図の隅に同じ名前を書いた。
如月瀬奈。
その下に、さらに書く。
如月亜紀の娘。
晴人はそれを見て、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
彼女は自分の名前だけでなく、母との関係まで世界に縫いつけようとしている。
忘れられる前に。
ほどける前に。
私はここにいた。
私は、あの人の娘だった。
そう言う代わりに、彼女は壁に文字を書いていた。
廊下の向こうで、足音がした。
晴人が振り返ると、四階の別室から中年の男が顔を出していた。三階の小出版社の社員だろうか。手には鍵束を持っている。
「何をしているんですか」
男は不審そうに晴人を見た。
「この部屋は空き室ですよ」
晴人の背中が固まった。
「空き室?」
「ええ。ずっと」
「ここに人が住んでいたはずです。如月瀬奈という――」
「知りませんね」
男は即座に言った。
迷いがなかった。
嘘をついている顔でもない。
「記者の女性です。何度かここに出入りしていた」
「そんな人はいませんよ」
男は晴人の肩越しに部屋の中を覗いた。
視線は、瀬奈の体を通り過ぎた。
まるでそこに誰もいないように。
瀬奈が一歩後ずさった。
机に背中がぶつかる。
音はした。
だが男は反応しない。
「勝手に入られると困ります。管理会社に連絡しますよ」
晴人は瀬奈を見る。
彼女は唇を噛んでいた。
声が出ないのではない。
声が、世界に届いていない。
「すぐ出ます」
晴人は男にそう言い、部屋の中へ一歩踏み込んだ。
瀬奈の手首をつかもうとして、指が空を切った。
触れない。
晴人は凍りついた。
もう一度、手を伸ばす。
今度は、瀬奈の指先がわずかに晴人の手に触れた。
冷たかった。
濡れた紙のような冷たさ。
それでも触れた。
瀬奈の目に、かすかな光が戻る。
晴人はその手を強く握った。
「行くぞ」
声は聞こえないはずなのに、瀬奈は頷いた。
二人は階段を降りた。
途中、男がまだ何かを言っていた。晴人は聞かなかった。瀬奈の手は、握っていないとすぐに薄くなった。指の感触が少しずつ消え、骨の位置が曖昧になる。
如月瀬奈。
晴人は心の中で繰り返す。
如月瀬奈。
如月瀬奈。
雑居ビルを出ると、雨は強くなっていた。
瀬奈は傘を持っていない。けれど雨粒は彼女の肩に当たらなかった。落ちる途中で輪郭を避けるように、少しだけ曲がって地面へ落ちていく。
人波は、彼女を避けない。
避ける必要がないからだ。
通行人の一人が瀬奈の肩を通り抜けた。
瀬奈の体が大きく揺れた。
晴人は彼女を引き寄せる。
「見えていないんだ」
瀬奈は小さく頷いた。
そして左手で、晴人の胸元を叩いた。
書くものを探している。
晴人は鞄から手帳とペンを取り出した。結衣の名前、火事の日付、橘礼司の住所、零号室の断片。忘れないために書き足してきたページの隅に、瀬奈は震える字で書いた。
――いつから?
「わからない」
瀬奈は続けて書く。
――朝、編集者が私を忘れてた。
晴人は眉を寄せた。
瀬奈は乱れた字でさらに書いた。
――記事の署名が消えた。メールの差出人が空白になった。部屋の契約書から名前が消えた。
ペン先が紙を破りそうになる。
――母の写真から、私だけが薄くなってた。
晴人はその一文を見つめた。
如月亜紀。
母を探していた娘が、先に母の記憶から落ちていく。
それは、晴人がいままで見てきたどの消失よりも残酷だった。
瀬奈はペンを持つ手を止めた。
顔を上げる。
声は聞こえない。
けれど、唇の動きだけでわかった。
――私のせい?
「違う」
晴人は即座に言った。
瀬奈は首を振った。
――あなたが結衣さんを戻そうとしたから?
「違う」
今度は少し遅れた。
瀬奈はその遅れを見逃さなかった。
晴人は視線を逸らす。
雨がアスファルトを打っている。
水たまりの中で、信号の赤が割れていた。
「俺が、名前を置こうとした」
瀬奈の手が止まる。
「結衣を戻すために、自分の存在を代価にする世界を見た」
言葉にした瞬間、それが現実に近づく気がした。
晴人は自分の声を聞きながら、どこか遠い場所から自分を見ているようだった。
「でも、まだ選んでない。契約はしていない」
瀬奈はしばらく晴人を見ていた。
怒るかもしれないと思った。
殴られても仕方がないと思った。
しかし彼女は、手帳に短く書いただけだった。
――馬鹿。
晴人は何も言えなかった。
瀬奈はその下に、もう一行書く。
――でも、まだ戻れるなら戻る。
その字は震えていた。
強がっているのがわかる。
晴人は手帳を握った。
「戻す。必ず」
瀬奈は首を横に振る。
そして、別の言葉を書いた。
――私より、母を見つけて。
「瀬奈」
――如月亜紀を見つけて。あの人が零号室のことを最初に追っていた。私が消えても、母の記録が残っていれば、まだ間に合う。
「消える前提で話すな」
瀬奈はペンを止める。
少しだけ笑った。
晴人にはその笑い声が聞こえない。
それが、ひどく怖かった。
彼女は手帳に書く。
――声、まだ思い出せない?
晴人は答えられなかった。
瀬奈は予想していたように頷いた。
――なら、顔は?
晴人は彼女を見た。
見えている。
まだ見えている。
黒い髪。
濡れていないコート。
青ざめた頬。
強い目。
でも。
細部が揺れる。
目尻の形。
唇の薄さ。
左頬にあったはずの小さなほくろ。
あったのか、なかったのか。
確信が持てない。
「見えてる」
晴人は嘘をついた。
瀬奈は、その嘘にも気づいた。
彼女は何も書かなかった。
ただ、晴人の手帳を取り返し、最後のページを開いた。
そこに、大きな字で自分の名前を書く。
如月瀬奈。
一画一画、押しつけるように。
紙がへこむほど強く。
書き終えると、彼女はペンを晴人に渡した。
晴人はその隣に、同じ名前を書いた。
如月瀬奈。
その下にもう一度。
如月瀬奈。
さらにもう一度。
雨の中、二人は立ったまま、同じ名前を書き続けた。
通行人が傘を差して通り過ぎる。
誰も見ない。
誰も気づかない。
世界の隅で、二人だけが消えかけた名前にしがみついていた。
やがて、瀬奈がペンを止めた。
彼女は手帳の前のページをめくり、そこに貼られていた一枚の写真を指さした。
宮下団地六号棟三〇一号室。
如月亜紀が最後に調査していた部屋。
そのドアの写真だった。
晴人は息を呑んだ。
ドアの横に、何かが写っている。
前に見たときは、何もなかったはずだ。
薄い影。
人の形。
そして、ドアの表札部分に、小さな文字が浮かび上がっている。
如月瀬奈。
「どういうことだ」
瀬奈は写真を見たまま、唇を動かした。
声はない。
だが言葉はわかった。
――呼ばれてる。
晴人のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
今度は発信者の名前が表示されている。
橘礼司。
晴人はすぐに通話を取った。
「橘さん」
電話の向こうで、ひどく荒い息が聞こえた。
いつもの穏やかで整った声ではない。老いた男が、何かから逃げる途中で必死に電話をかけているような声だった。
『水野さん』
「瀬奈が消えかけています。どうすれば――」
『家に帰ってはいけません』
晴人は言葉を失った。
雨の音だけが、耳の周りで大きくなる。
「どういう意味ですか」
『あなたの部屋に、出ました』
「何が」
橘礼司の息が、受話口の向こうで詰まる。
『零号室です』
晴人は無意識に瀬奈の手を握り直した。
瀬奈は電話の声を聞けていない。ただ、晴人の顔色だけを見て、何かが起きたことを察したようだった。
橘礼司は、絞り出すように言った。
『もう、開けないでください』
その直後、晴人のスマートフォンに画像が送られてきた。
自分の部屋の玄関だった。
誰が撮ったものなのか、わからない。
薄暗い廊下。
濡れた傘立て。
靴箱の横。
そこに、晴人の記憶にはない白いドアがあった。
ドアの下から、光が漏れている。
そして、その前に一羽の折り鶴が置かれていた。
黒い羽に、白い文字が浮かんでいる。
――如月瀬奈、入室済み。




