(第三部 . 第十二章) もう開けないで
駅前から自分の部屋へ戻るまでの道を、晴人はほとんど覚えていなかった。
ただ、握っていたはずの瀬奈の手の感触が、途中で紙のように薄れ、玄関に着いたときにはもう何も残っていなかったことだけは覚えている。
玄関の先に、零号室があった。
晴人の部屋の廊下は、狭い。
キッチンの横を通り、洗面所の前を抜ければ、すぐ寝室へ続く。そこに知らない扉が入り込む余地などない。
それでも、扉はあった。
白い壁の途中に、古い木の扉。
赤いクレヨンの0。
そして扉の下には、黒い文字が滲んでいた。
如月瀬奈、入室済み。
晴人は携帯を握ったまま動けなかった。
数秒前まで、瀬奈からのメッセージが画面に残っていた。
――私を忘れないで。
その文字を見ている間にも、瀬奈の声が記憶の中で薄れていった。
少し低かったのか。
早口だったのか。
怒ると語尾がどうなるのか。
思い出そうとするほど、霧のようにほどけていく。
携帯が震えた。
橘礼司からだった。
晴人は通話ボタンを押した。
「橘さん」
向こう側で、強い息遣いが聞こえた。
「水野さん、どこにいますか」
「家です」
沈黙。
それだけで、橘が何を察したのか分かった。
「見えているんですね」
晴人は扉を見た。
ノブの下から、細い光が漏れている。
三〇四号室で見た光と同じではない。
もっと淡く、もっと古い。
「瀬奈さんが中にいる」
「開けないでください」
橘の声は、命令ではなく懇願だった。
「でも」
「もう、開けないでください」
晴人の喉が詰まる。
「中にいるんです」
「分かっています」
「分かっているなら」
「開ければ、次に何を失うか分からない」
晴人は扉へ一歩近づいた。
床がきしむ。
「瀬奈さんまで消えるかもしれない」
「開けても消えます」
橘の声が低く沈んだ。
「閉じていても、部屋は食べ続けます」
晴人は止まった。
電話の向こうで、橘が何かを落とした音がした。
紙の束が崩れる音。
「水野さん、聞いてください。今見えている扉は、あなたのために開いたものではありません。あなたを使って、別の人を呼ぶための扉です」
「別の人?」
橘は答えなかった。
代わりに、かすれた声で言った。
「結衣さんの部屋が見えても、入ってはいけない」
その瞬間、扉の向こうで音がした。
かさり。
紙を折る音。
晴人の胸の奥が、痛みに似た力で引かれる。
ノブが、内側から少しだけ回った。
扉が開く。
細い隙間。
中から、懐かしい匂いが流れてきた。
古い畳。
洗ったばかりのシーツ。
結衣が使っていた、甘い香りのする消しゴム。
晴人は電話を耳から離した。
橘がまだ何か叫んでいる。
聞こえない。
扉の向こうにあったのは、晴人の今の部屋ではなかった。
水野家の、昔の子ども部屋だった。
低い本棚。
小さな机。
窓際に吊るされた、色褪せた風鈴。
机の上には、未完成の折り鶴が一羽。
その隣に、ランドセルが置かれていた。
赤いランドセル。
六年二組。
水野結衣。
名前のシールだけが、はっきり残っている。
晴人は、息をするのを忘れた。
部屋の奥から、少女の声がした。
「お兄ちゃん」
晴人の足が、敷居へ向かって動いた。
電話の向こうで、橘礼司が最後に叫んだ。
「水野さん、それは結衣さんの部屋じゃない!」
扉が、もう少し開いた。




