(第四部 . 第一章 ) 自分の家にあった部屋
扉の向こうにあったのは、知らない場所ではなかった。
晴人は敷居の前で立ち止まった。
自分のアパートの玄関から、ほんの一歩先にあるはずの廊下。その先には狭いキッチンがあり、洗面所があり、夜でも薄暗い寝室がある。それだけの部屋だった。二十九歳の男が一人で暮らすには、広くも狭くもない、どこにでもある東京の部屋。
そのはずだった。
けれど今、扉の向こうには畳があった。
古い畳。
日に焼けたカーテン。
低い本棚。
小さな学習机。
そして、紙を折る音。
かさり。
その音だけで、晴人の胸の奥がゆっくり締めつけられた。
十年前、火事のあとに失ったと思っていた音だった。
結衣はよく折り紙をしていた。うまくはなかった。角はずれるし、折り目は曲がるし、鶴の首はいつも少しおかしな方向を向いた。それでも結衣は、できあがるたびに晴人の机へ置きに来た。
――お兄ちゃん、また変な顔になった。
そう言って笑う声を、晴人はもう忘れたつもりでいた。
だが、忘れてなどいなかった。
ただ、開けないようにしていただけだ。
「水野さん」
背後から、瀬奈の声がした。
晴人は振り返らなかった。
振り返ったら、あの文字をまた見ることになる。
如月瀬奈、入室済み。
玄関の床に滲んでいた黒い文字。扉の下から這い出すように現れたその名前を見た瞬間から、晴人の中で瀬奈の声が少しずつ薄くなっていた。
彼女が怒る時の早口。
呆れた時に短く息を吐く癖。
記事を書く話になると、急に目だけが強くなるところ。
覚えている。
そう思った次の瞬間、輪郭がすこし崩れる。
「入らないでください」
瀬奈が言った。
その声はすぐ後ろにあるのに、古い壁の向こうから聞こえるみたいに遠かった。
「中にいるんだろ」
「誰がですか」
晴人は答えなかった。
答えたら、その名前に引き寄せられる気がした。
扉の向こうの部屋では、机の上に折り紙が積まれていた。赤、青、黄色、白。どれもきれいに揃っていない。端が少し折れていたり、角が欠けていたりする。その上に、不格好な折り鶴が何羽も並んでいる。
首の曲がった鶴。
片方の羽だけ大きな鶴。
足が開かず、立てない鶴。
どれも、結衣の手だった。
晴人は一歩だけ中へ入った。
畳が沈んだ。
その感触が足の裏から、記憶の奥へ染み込んでいく。
火の匂いはしない。
それなのに、喉が焼けた。
「戻って」
瀬奈の声が少し強くなった。
「そこは、あなたの家じゃありません」
晴人はゆっくり息を吐いた。
「分かってる」
「分かってない声です」
瀬奈らしい言い方だった。
その一言で、晴人はかろうじて現実の端を掴んだ。
彼は左手を見る。
手の甲には、黒いペンの文字が残っていた。
如月瀬奈。
何度も書いたせいで、文字は少し滲んでいる。けれど、まだ読める。
「如月瀬奈」
晴人は声に出した。
背後で、瀬奈が小さく息を呑む。
「二十七歳。フリーの記者。母親は如月亜紀。宮下団地六号棟三〇一号室を追っている」
「……個人情報の復唱みたいですね」
「忘れないためだ」
瀬奈は黙った。
扉の外で、彼女の影が揺れた。そこにいる。まだいる。完全には消えていない。
晴人はそれを確かめてから、部屋の奥へ目を戻した。
学習机の上に、一つだけ、他のものと違う箱が置かれていた。
淡い黄色の包装紙。
白いリボン。
それは、部屋の中で妙に新しかった。
ぬいぐるみも、本棚も、カーテンも、すべて少し古びている。十年前の空気に薄く埃をかぶっている。けれど、その箱だけは今しがた誰かが置いたように、包装紙の角がぴんと立っていた。
箱の端に、文字がある。
結衣へ。
その下に、もう一つ。
兄より。
晴人の指先が冷たくなった。
自分の字だった。
十九歳の自分が書いた字。
今より乱暴で、今よりまっすぐな線。失う前の字だった。
「それに触らないで」
瀬奈が言った。
晴人は手を伸ばしていたことに気づいた。
指先が、包装紙のすぐ前で止まっている。
触れたら、何かが始まる。
それがわかった。
けれど、何が始まるのかはわからない。
「お兄ちゃん」
部屋の奥で、少女の声がした。
晴人は顔を上げた。
水野結衣が、机の横に立っていた。
十二歳のままの結衣。
薄い水色の服。肩で切りそろえられた髪。細い指。その手には、まだ折られていない白い紙が一枚ある。
結衣は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、長い時間を待っていた人のように、静かに晴人を見ていた。
「帰ってきたんだね」
その言葉は、助けてでも、どうしてでもなかった。
だから余計に、晴人の胸へ深く刺さった。
「ここは、結衣の部屋じゃない」
晴人は言った。
言葉にしなければ、信じてしまいそうだった。
「結衣の部屋は、燃えた」
「うん」
結衣は短く答えた。
否定しなかった。
そのことが、部屋の温度を一段下げた。
「じゃあ、ここは何だ」
結衣は白い紙を胸の前で持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「お兄ちゃんが、見なかった部屋」
晴人は息を止めた。
見なかった。
見られなかったのではない。
見なかった。
その言い方が、あまりにも静かだった。
「責めてるのか」
「責めてないよ」
「だったら」
「でも、待ってた」
紙を折る音がした。
結衣の手は動いていない。
机の上の折り鶴が、一羽だけ、羽をわずかに震わせた。
白い鶴。
羽の端が黒く焦げている。
晴人はその焦げ跡から目を離せなかった。
あの日、焼け跡で見つけた半分の鶴。
黒くなった紙の端。
母が声を出せずに泣いていたこと。
父が、何も言わずに灰の中を掘っていたこと。
そして自分は、立っていただけだった。
十九歳だった。
大人になったつもりでいた。
なのに何もできなかった。
「水野さん」
瀬奈が呼んだ。
今度は、はっきり聞こえた。
晴人はゆっくり振り返る。
瀬奈はまだ扉の外にいた。片手で扉の枠を掴み、もう片方の手で自分の腕を押さえている。彼女の輪郭は薄く揺れていた。雨の中に立つ影みたいに。
「一人で奥へ行かないでください」
「ここに入れば、お前がもっと消えるかもしれない」
「入らなくても消えます」
瀬奈の声は震えていた。
それでも、目だけは逃げていなかった。
「だから、あなたが今ここで何を見るかが大事なんです」
「どういう意味だ」
「結衣さんだけを見ないでください」
晴人は言葉を失った。
瀬奈は扉の枠を強く握った。
「その部屋は、あなたに結衣さんを見せている。でも、本当に奪おうとしているのは、たぶん別のものです」
「別のもの?」
瀬奈は答える前に、一瞬だけ自分の手を見る。
指先が薄い。
晴人の胸が冷える。
「今、私のことを見失わないでください」
晴人は手の甲の文字をもう一度見た。
如月瀬奈。
そして、その横に爪で強く線を引いた。
痛みが走る。
よかった。
まだ痛む。
まだ現実の体がある。
「忘れない」
晴人は言った。
瀬奈は少しだけ目を伏せた。
「その言葉、信用したいです」
「信用しろ」
「無理です」
短い返事だった。
けれどその言い方が、いつもの瀬奈に近かった。
晴人はほんの少しだけ息を吐いた。
部屋の奥で、結衣が言った。
「お兄ちゃん」
声が、静かに二人の間へ入ってきた。
「机、見て」
晴人は振り向いた。
黄色い箱。
白いリボン。
兄より。
その横に、小さなカレンダーが掛かっていた。
平成二十六年四月。
二十七日の日付に、赤い丸がついている。
水野結衣、十二歳。
鉛筆でそう書かれていた。
晴人の喉が詰まる。
四月二十七日。
結衣の誕生日。
火事の日ではない。
平成二十六年八月十七日ではない。
それなのに、その日付を見た瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
忘れていたのは、火事の日だけではなかった。
その前にも、何かがあった。
何かを渡せなかった。
何かを言えなかった。
何かから逃げた。
「誕生日……」
晴人が呟くと、部屋の空気が変わった。
机の上の折り鶴たちが、風もないのに少しだけ揺れる。
壁の時計が音を立てた。
こち。
さっきまで止まっていた針が、一分だけ進む。
午後六時十八分。
結衣は箱のそばに立ったまま、白い紙を見下ろしていた。
「これ、覚えてる?」
晴人は答えられなかった。
覚えている。
いや、覚えていない。
買った気がする。
渡した気もする。
渡せなかった気もする。
どれも、本当のようだった。
どれも、嘘のようだった。
瀬奈が扉の外で小さく言う。
「水野さん、焦らないで」
晴人はうなずけなかった。
目の前にある箱が、彼の記憶の奥をゆっくり押している。
見ないで済ませた場所。
開けないで済ませた箱。
その中に、結衣が死ぬ前の何かが入っている。
晴人は、今度こそ手を伸ばした。
包装紙に触れる。
冷たかった。
紙なのに、氷のようだった。
結衣が言った。
「まだ、開けないで」
晴人の指が止まった。
「お前が見ろって言ったんだろ」
「見てほしかっただけ」
「どう違う」
結衣は答えない。
代わりに、白い紙を机の上に置いた。
折られていない紙。
その中央に、細い焦げ跡が一本走っている。
折り目になるはずの場所だけが、先に焼かれているみたいだった。
晴人はその線を見た。
まっすぐな線。
紙を二つに分ける線。
こちら側と、あちら側を分ける線。
「この部屋は、何をさせたいんだ」
晴人は呟いた。
結衣は静かに首を横に振る。
「部屋じゃないよ」
「じゃあ、誰が」
結衣は、晴人を見た。
その目は、十二歳の妹の目ではなかった。
あまりにも悲しく、あまりにも知りすぎていた。
「お兄ちゃんが、まだ決めてないから」
晴人の息が止まる。
何を。
誰を。
どちらを。
問いが喉まで上がってきた。
その時、黄色い箱のリボンが、ひとりでにほどけた。
音はしなかった。
ただ、白いリボンが蛇のように机の上を滑り、端から落ちた。
包装紙が少しだけ開く。
中に入っていたのは、玩具ではなかった。
白い封筒だった。
表に、結衣の字がある。
お兄ちゃんへ。
晴人は、その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
この手紙を、知っている。
読んだことがある。
いや、読まなかった。
読めなかった。
結衣の声が、暗くなり始めた部屋に落ちた。
「今度は、逃げないでね」
灯りが消えた。
机の上の封筒だけが、ぼんやり白く浮かんでいる。
扉の外で、瀬奈が晴人の名前を呼んだ。
その声は、もう少し遠くなっていた。
晴人は手の甲の文字を握りしめるように押さえた。
如月瀬奈。
忘れるな。
忘れるな。
そして、目の前の封筒には、もう一つの名前があった。
水野結衣。
晴人は、どちらの名前からも目をそらせなかった。
暗闇の中で、カレンダーの赤い丸だけが、火のように浮かんでいた。




