(第四部 . 第二章 ) 最後の誕生日
封筒は、暗闇の中で白かった。
机の上に置かれているだけなのに、そこだけが薄く発光しているように見えた。
黄色い包装紙は少しだけ破れ、ほどけた白いリボンが畳の上へ落ちている。
その奥に、封筒がある。
お兄ちゃんへ。
結衣の字だった。
子どもの字なのに、晴人にはそれが刃物のように見えた。
読めば、何かが終わる。
読まなければ、何も終わらない。
それだけは、わかった。
「水野さん」
扉の外から瀬奈が呼んだ。
声はまだ聞こえる。
けれど、さっきより少し遠い。
晴人は手の甲を見た。
如月瀬奈。
黒い文字は汗で滲み、輪郭が崩れかけている。
彼は爪でその横を強く押した。
痛みが走る。
まだ、ここにいる。
そう確認してから、晴人は封筒へ目を戻した。
「開けるんですか」
瀬奈が言った。
「開けないと、進めない気がする」
「それは、部屋がそう思わせているだけかもしれません」
「分かってる」
「分かってない声です」
その言い方が、かすかに瀬奈らしかった。
晴人は笑えなかった。
部屋の奥で、結衣が立っている。
十二歳のままの結衣。
水色の服。
細い指。
手の中には、折られていない白い紙が一枚。
その中央には、まっすぐな焦げ跡が走っていた。
折り目になるはずの場所だけが、先に焼かれている。
「結衣」
晴人は低く呼んだ。
「これは、何だ」
結衣は封筒を見なかった。
代わりに、壁のカレンダーを見た。
平成二十六年四月。
二十七日。
赤い丸。
水野結衣、十二歳。
「最後の誕生日」
結衣が言った。
火事の日ではない。
平成二十六年八月十七日ではない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、晴人の喉の奥に煙の味が広がった。
火はまだない。
なのに、胸のどこかが焼けた。
「思い出したくない」
気づけば、晴人はそう呟いていた。
結衣は静かに頷いた。
「だから、ここにあるんだよ」
机の上の折り鶴が、一羽だけ倒れた。
かさり。
小さな音。
それを合図にしたように、部屋の空気が変わった。
畳の匂いが濃くなる。
カーテンの向こうが、淡い夕方の色に染まっていく。
止まっていた時計が、こち、と鳴った。
午後五時三十二分。
暗闇が薄れた。
晴人の目の前で、十年前の部屋が息を吹き返した。
同じ机。
同じ本棚。
同じカレンダー。
けれど、そこに積もっていた埃だけが消えている。
まだ燃えていない部屋。
まだ失われていない部屋。
その真ん中で、結衣が座っていた。
膝の上には折り紙。
白い紙。
少し曲がった折り目。
結衣は眉を寄せながら、鶴の首を折ろうとしている。
けれど、やはりうまくいかない。
首は少し横へ曲がり、羽の片方だけが大きくなる。
「また変になった」
結衣が小さく言った。
その声は、記憶の中よりずっと近かった。
晴人は動けなかった。
これは現在ではない。
分かっている。
それでも、目の前の結衣は息をしている。
紙を折るたびに、細い肩が少し上下する。
唇を尖らせる癖も、失敗した時に左の頬だけ膨らませる癖も、そのままだった。
「お兄ちゃん」
結衣が顔を上げた。
晴人ではない。
十九歳の晴人を見ている。
部屋の入口に、若い自分が立っていた。
黒いパーカー。
肩に掛けた鞄。
髪は今より少し長く、顔つきはどこか尖っている。
大人になりきれないまま、大人のふりだけをしていた頃の自分。
十九歳の晴人は、片手に小さな紙袋を持っていた。
淡い黄色の包装紙。
白いリボン。
机の上にある箱と同じものだった。
「ねえ、見て」
結衣が折り鶴を持ち上げる。
「前より、ちょっとましじゃない?」
十九歳の晴人は部屋に入らなかった。
入口に立ったまま、短く言った。
「またそれかよ」
声が、胸に刺さった。
今の晴人は思わず息を呑む。
そんな言い方をしたのか。
自分が。
結衣は鶴を持ったまま、少しだけ笑った。
「だって、上手になりたいんだもん」
「いくつ作るんだよ」
「千羽」
「本気で?」
「うん」
結衣は真面目な顔で頷いた。
「千羽折ったら、お願いごとが叶うんでしょ」
十九歳の晴人は返事をしなかった。
目だけが、ほんの少し揺れた。
覚えている。
この時、晴人は知っていた。
結衣が何をお願いしようとしていたのか。
父と母が、夜になると台所で小さな声で言い争っていること。
自分がこの家を出たがっていること。
結衣が、それを知らないふりで知っていること。
全部、知っていた。
知っていて、見ないふりをした。
「今日、早く帰ってくる?」
結衣が聞いた。
窓の外では夕方の光が薄くなっている。
四月の風がカーテンを揺らした。
誕生日の夕方。
ケーキは冷蔵庫にある。
母は台所で、少しだけ豪華に見せようとした夕飯を作っている。
父はまだ帰っていない。
晴人は紙袋を握りしめた。
「分からない」
「でも、今日……」
「分かってる」
十九歳の晴人の声が硬くなった。
「誕生日だろ」
結衣は目を伏せた。
折り鶴の羽を指で撫でる。
「別に、すごいことしてほしいわけじゃないよ」
「じゃあ、いいだろ」
「ただ……」
結衣は少し迷ってから言った。
「一緒にいてほしいだけ」
その言葉を、今の晴人は知っている。
知っているはずなのに、聞いた記憶がなかった。
なぜなら、その時の自分は、聞こえないふりをしたからだ。
十九歳の晴人は視線を逸らした。
紙袋を背中側へ隠す。
その中には、折り紙の本と、少し高い和紙のセットが入っている。
自分で選んだ。
駅前の文具店で、何度も棚の前を行ったり来たりしながら選んだ。
結衣が喜ぶ顔を想像して、少しだけ恥ずかしくなった。
だから渡せなかった。
喜ばれることが怖かった。
必要とされることが、もっと怖かった。
「子どもじゃないんだから」
十九歳の晴人が言った。
結衣の指が止まる。
「誕生日くらいで、そんな顔するなよ」
部屋が静かになった。
台所から聞こえていた包丁の音も、廊下の蛍光灯の唸りも、一瞬だけ消えた。
結衣は折り鶴を膝の上に置いた。
「……ごめん」
小さな声だった。
晴人はその声を覚えていなかった。
覚えていないことにしていた。
十九歳の晴人は唇を噛む。
何か言い直そうとした。
紙袋を差し出そうとした。
けれど、その前に携帯電話が震えた。
短い着信音。
画面を見た十九歳の晴人の表情が、逃げ道を見つけた人間のものになった。
「出る」
「今?」
「すぐ戻る」
嘘だった。
言った瞬間から、嘘だと分かっていた。
十九歳の晴人は部屋を出ようとした。
結衣が立ち上がる。
「お兄ちゃん」
呼び止める声。
その声は、火事の日に聞いた叫びとは違う。
もっと小さい。
もっと日常の中にある声。
だからこそ、残酷だった。
「あとで、鶴、見てくれる?」
十九歳の晴人は振り返らなかった。
「ああ」
返事だけした。
廊下へ出る。
玄関へ向かう。
紙袋を持ったまま。
プレゼントを渡さないまま。
背後で、結衣が何かを言った。
小さすぎて、聞こえない。
いや、聞かなかった。
晴人は玄関の扉を開ける。
夕方の空気が入ってくる。
少し冷たい四月の風。
その瞬間、部屋の中から紙の音がした。
かさり。
折り鶴が、机から落ちた音だった。
十九歳の晴人は、それでも戻らなかった。
扉が閉まる。
音がした。
がちゃん。
その音が、現在の部屋にも響いた。
晴人は膝から力が抜けそうになった。
「俺は……」
声にならない。
扉の外で、瀬奈が名前を呼ぶ。
「水野さん」
遠い。
それでも、まだ聞こえる。
晴人は手の甲を押さえた。
如月瀬奈。
忘れるな。
今、ここで沈んだら、瀬奈まで連れていかれる。
分かっている。
けれど、目の前の記憶から目を離せなかった。
場面が変わる。
夜の部屋。
机の上には、黄色い箱が置かれている。
開けられていない。
白いリボンも結ばれたまま。
その横に、封筒があった。
お兄ちゃんへ。
結衣は机に向かっている。
鉛筆を握り、何度も消しゴムで消しながら、ゆっくり文字を書いている。
今の晴人は、背後からそれを見ていた。
覗いてはいけないものを覗いている気がした。
でも、目を逸らせない。
結衣は一行書いて、手を止める。
そして、机の端に置いた折り鶴を見る。
首の曲がった白い鶴。
羽の片方だけ大きい。
結衣はそれを見て、少し笑った。
笑って、すぐに泣きそうな顔になった。
鉛筆の先が紙に触れる。
封筒の中の手紙が、現在の机の上でひとりでに開いた。
晴人は息を止めた。
文字が浮かび上がる。
結衣の字。
少し右へ傾いた、丸い字。
お兄ちゃんへ。
今日は、わがままを言ってごめんなさい。
お兄ちゃんが忙しいの、結衣は知っています。
でも、今日はちょっとだけ、さみしかったです。
晴人の視界が滲んだ。
紙の上の文字は、それでも続く。
プレゼントはいりません。
ほんとうは、うそです。
ちょっとほしいです。
でも、プレゼントより、お兄ちゃんが帰ってきてくれるほうがいいです。
晴人は息を吸えなかった。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
結衣の声が、手紙を読むように聞こえた。
鶴が上手に折れるようになったら、一番最初にお兄ちゃんに見せます。
だから、今度はちゃんと見てください。
怒っていてもいいです。
忙しくてもいいです。
でも、見ないふりはしないでください。
手紙の最後の一行で、文字が少し震えていた。
お兄ちゃんがいなくなると、結衣はどこにいればいいか分かりません。
晴人は目を閉じた。
閉じても、文字は消えなかった。
むしろ、まぶたの裏に焼きついた。
見ないふりはしないでください。
その一文だけが、何度も響いた。
「読んだのか」
晴人は結衣に聞いた。
意味のない質問だった。
結衣が書いた手紙だ。
けれど、そう聞かずにはいられなかった。
現在の結衣は、机の横に立っていた。
白い紙を胸に抱いたまま、静かに晴人を見ている。
「お兄ちゃんは、読まなかったよ」
晴人は唇を震わせた。
「どこにあった」
「机の上」
「俺は……」
「見たよ」
結衣の声は責めていなかった。
責めていないから、逃げ場がなかった。
「見たけど、読まなかった」
晴人は頭を振った。
覚えている。
夜遅く帰った。
部屋の電気は消えていた。
母は台所で座ったまま眠っていた。
ケーキの箱は開けられていて、ろうそくは使われていなかった。
結衣の部屋の前で、晴人は立ち止まった。
机の上の黄色い箱を見た。
その横の封筒も見た。
お兄ちゃんへ。
そこまで読んだ。
読めた。
けれど、封は開けなかった。
朝になれば読めばいい。
そう思った。
明日、謝ればいい。
明日、渡せばいい。
明日、鶴を見ればいい。
明日。
明日。
明日は、いくらでも来ると思っていた。
「逃げたんだ」
晴人は言った。
声がひどく掠れていた。
結衣は何も言わない。
机の上の白い鶴が、かすかに揺れる。
「火事の日だけじゃない」
晴人は続けた。
「その前から、俺は逃げてた」
扉の外で、瀬奈が息を呑んだ。
その音だけが、今の世界に残っていた。
晴人は手の甲を見た。
如月瀬奈。
文字はまだある。
でも、少し薄い。
汗か、血か、涙か分からないもので滲んでいる。
「水野さん」
瀬奈が言った。
「戻ってください」
「まだだ」
「まだって、何がですか」
晴人は机の上の手紙を見た。
文字はそこで終わっていなかった。
紙の下の方に、もう一行ある。
焦げ跡のせいで、半分しか読めない。
八月十七日になったら――
そこから先は、黒く焼けていた。
晴人の心臓が大きく鳴った。
四月二十七日。
最後の誕生日。
そして、その紙の端に、まだ来ていないはずの八月十七日が書かれている。
時間の順番が壊れている。
だが、今はそこを追ってはいけない。
そう思った。
これは、答えではない。
次の扉だ。
結衣は静かに言った。
「その先は、まだ見ちゃだめ」
「どうして」
「今のお兄ちゃんは、戻れなくなる」
晴人は拳を握った。
「もう十分だ」
自分に言ったのか、結衣に言ったのか分からない。
「十分見た」
「ううん」
結衣は首を横に振った。
「お兄ちゃんは、まだ自分のことを見てない」
その言葉と同時に、部屋の壁が暗くなった。
カレンダーの赤い丸が、火のように滲む。
四月二十七日。
その日付の下に、黒い線が一本、ゆっくり走った。
八月十七日。
誕生日と火事の日が、見えない糸で結ばれていく。
晴人の足元に、折り鶴が落ちた。
白い鶴。
首が曲がっている。
羽の片方だけ大きい。
結衣の鶴だった。
その羽の裏に、鉛筆の文字があった。
お兄ちゃんは悪くない。
晴人はそれを見た瞬間、胸を掴まれた。
悪くない。
そう言われることが、こんなにも苦しいとは知らなかった。
「やめろ」
晴人は呟いた。
「そんなこと、書くな」
結衣は何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうに目を細めた。
「水野さん!」
瀬奈の声が鋭くなった。
扉の外の光が大きく揺れる。
晴人は振り返った。
瀬奈の姿が薄い。
さっきよりも、ずっと。
彼女は扉の枠を掴んでいる。
けれど、その指先が壁の向こうに溶けかけていた。
「瀬奈」
晴人は名前を呼んだ。
呼べた。
まだ呼べた。
瀬奈は苦しそうに息を吐いた。
「今、私を忘れないでください」
「忘れない」
「違います」
瀬奈の目が、強く晴人を射抜いた。
「結衣さんを見ないで、とは言ってません。あなた自身を、そこで失くさないでください」
晴人は返事ができなかった。
結衣。
瀬奈。
自分。
三つの名前が、部屋の中でそれぞれ違う方向へ引っ張られている。
どれか一つを掴めば、どれか一つを落とす気がした。
その時、机の上の封筒が燃え始めた。
炎は小さかった。
青白く、音もない。
紙の端が黒く丸まっていく。
晴人は慌てて手を伸ばした。
熱くない。
炎なのに、冷たい。
指先に触れた瞬間、最後の文字だけが残った。
今度は、逃げないでね。
第三十一章の終わりに聞いた言葉。
そして今、その意味が変わった。
結衣から逃げるな、ではない。
過去から逃げるな、でもない。
自分が逃げた事実から、逃げるな。
晴人は膝をついた。
畳に手をつく。
そこに、十九歳の自分の足跡が残っているように見えた。
部屋を出ていく足跡。
戻らなかった足跡。
プレゼントを渡さなかった足跡。
手紙を読まなかった足跡。
全部、自分のものだった。
「俺は……生き残ったんじゃない」
晴人は小さく言った。
喉の奥が震えた。
「逃げ残ったんだ」
その言葉を口にした瞬間、部屋の照明が落ちた。
完全な暗闇。
瀬奈の声も、結衣の気配も、一瞬で遠のいた。
ただ、畳の上に一羽の折り鶴だけが残っている。
羽の裏の文字が、暗闇の中で白く浮かび上がった。
お兄ちゃんは悪くない。
その下に、別の文字がゆっくり現れる。
では、誰が生き残ったのか。
晴人は顔を上げた。
答えはまだない。
けれど次の部屋が、もう開こうとしていた。




