(第四部 . 第三章 ) 生き残った人
次の部屋は、音から始まった。
ぴ、と短い電子音。
それから、遠くで誰かが泣いている声。
晴人は暗闇の中でまばたきをした。
さっきまで畳の上にあったはずの折り鶴は、もう見えなかった。結衣の机も、黄色い包装紙も、封筒も消えている。
代わりに、白い天井があった。
薄汚れた蛍光灯。
消毒液の匂い。
冷えた空気。
病院だ、と晴人は思った。
思った瞬間、喉の奥がきつく縮んだ。
ここを知っている。
知っているはずなのに、ずっと知らないふりをしてきた場所だった。
足元には、灰で汚れた床が広がっていた。廊下ではなく、処置室でもなく、いくつもの場所が混ざり合ったような部屋だった。壁の片側には病院のカーテンが揺れている。反対側には、火事のあとの仮設テントみたいな白い布が張られている。
その中央に、椅子が一脚だけ置かれていた。
椅子には、誰かが座っている。
薄い毛布を肩にかけた、十九歳の水野晴人だった。
現在の晴人は、息をすることを忘れた。
十九歳の自分は、うつむいていた。髪の先が焦げ、頬には煤がついている。両手は膝の上で固く握られていた。手の甲に小さな擦り傷がある。爪の間は黒かった。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、座っていた。
まるで、そこに置き忘れられた荷物のように。
現在の晴人は近づこうとして、足が動かないことに気づいた。
右手首に、白いものが巻かれていた。
病院のリストバンド。
そこに、黒い文字が印字されている。
水野晴人。
十九歳。
生存。
その三つの文字だけが、やけに濃く見えた。
晴人はリストバンドを見つめた。
生存。
生きている。
助かった。
残された。
どの言葉も、同じ意味のはずだった。
けれど、そのどれもが違っていた。
彼は指をかけて、リストバンドを引きちぎろうとした。
切れない。
薄い紙のように見えるのに、皮膚の下に縫い込まれているみたいに外れなかった。
力を入れると、手首の奥が痛んだ。
「水野さん」
遠くから声がした。
瀬奈の声だった。
晴人は振り返る。
部屋の入口に、瀬奈が立っていた。
いや、立っているように見えた。輪郭は薄く、蛍光灯のちらつきに合わせて少しずつ透けている。彼女の足元だけ、床に影が落ちていない。
晴人は左手を見た。
手の甲に書いた文字が、まだ残っている。
如月瀬奈。
けれど、さっきより薄い。
水に濡れたわけでもないのに、墨が紙の裏へ染みていくように、ゆっくり消えかけていた。
「入ってくるな」
晴人は言った。
声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「あなたが奥へ行くなら、行きます」
「消えるぞ」
「もう消えています」
瀬奈はそう言って、少しだけ笑った。
笑ったはずなのに、晴人にはその笑い方を思い出せなかった。
胸の奥が冷たくなる。
彼は手の甲の文字を親指で押さえた。
消えるな。
消えるな。
そう思っても、文字は薄くなる。
部屋の中央で、十九歳の晴人が顔を上げた。
現在の晴人と目が合った。
自分の顔なのに、他人のようだった。
若い。
青白い。
そして、何より空っぽだった。
十九歳の晴人の膝の上に、透明な袋が置かれている。
証拠品を入れるような、薄いビニールの袋。
中には、焦げた折り鶴が一羽だけ入っていた。
羽の片方が欠けている。
首は曲がっている。
立てない鶴。
結衣の折り方だった。
現在の晴人は、一歩だけ近づいた。
その瞬間、部屋の奥で母の声がした。
泣いている声ではなかった。
むしろ、泣くことさえできない人の声だった。
「結衣は」
そこで途切れる。
誰かが低い声で何かを告げた。
言葉は聞き取れない。
聞き取れないのに、意味だけはわかった。
確認されました。
戻りません。
間に合いませんでした。
晴人は耳を塞ごうとした。
手首のリストバンドが目に入る。
生存。
その文字が、蛍光灯の下で光っていた。
十九歳の晴人は、何も言わなかった。
ただ袋の中の折り鶴を見つめていた。
母が近づいてくる足音がする。
父の声が遠くで誰かと話している。
救急隊員の靴音。
濡れたタオルが絞られる音。
誰も、晴人を責めていなかった。
そのことが、一番苦しかった。
責めてくれればよかった。
殴ってくれればよかった。
どうしてお前だけ、と言ってくれればよかった。
けれど誰も言わなかった。
だから晴人は、自分で言うしかなかった。
「どうして俺だけなんだ」
声に出したのは、現在の晴人だった。
十九歳の晴人は、ゆっくりこちらを見た。
同じ口で、同じ言葉を繰り返す。
「どうして俺だけなんだ」
部屋の空気が重く沈んだ。
蛍光灯が一度だけ明滅する。
白い壁に、黒い文字が浮かんだ。
生き残った人。
晴人はその文字を見つめた。
違う。
喉の奥で、何かが震えた。
生き残ったんじゃない。
逃げ残った。
結衣の手紙に書かれていた言葉が、まだ胸の中で燃えている。
お兄ちゃんは悪くない。
でも、あのとき戻ってきてほしかった。
その二つは、同時に存在していた。
責めていない。
でも待っていた。
許している。
でも、傷ついていた。
その静けさに、晴人は耐えられなかった。
十九歳の自分が立ち上がる。
透明な袋を持ったまま、ゆっくり部屋の奥へ歩き出した。
奥には、もう一つの扉があった。
病院の白い扉ではない。
黒く焦げた木の扉。
端が焼け、取っ手だけが異様に新しい。
零号室の扉だった。
十九歳の晴人は、その前で止まった。
現在の晴人も、同じように止まった。
扉の下から、灰がこぼれている。
そして、その灰の中から、結衣の声がした。
「お兄ちゃん」
近い。
あまりにも近い。
晴人は唇を噛んだ。
「俺が残ればいいのか」
誰に聞いたのかわからなかった。
結衣に。
十九歳の自分に。
零号室に。
それとも、ずっと自分の中にいた何かに。
返事はなかった。
ただ、手首のリストバンドに、新しい文字が浮かぶ。
水野晴人。
生存。
返却可。
晴人はその文字を見た。
意味はわかった。
わかってしまった。
この部屋は、晴人に生存を返させようとしている。
生きているという事実を、ここへ置いていけと言っている。
そうすれば、楽になる。
もう逃げ残った人間でいなくて済む。
誰かの名前を守れなかった兄でいなくて済む。
結衣の誕生日を忘れた男でいなくて済む。
瀬奈の声を忘れかけている自分を、見なくて済む。
晴人は笑いそうになった。
ひどく楽な誘いだった。
「水野さん」
瀬奈の声がした。
今度は、もっと近かった。
晴人は振り返らない。
「来るな」
「嫌です」
「命令してるんじゃない。頼んでる」
「それでも嫌です」
瀬奈の足音がした。
一歩。
扉の中へ。
彼女が入ってくるたび、手の甲の文字が薄くなる気がした。
晴人は叫びたいのをこらえた。
「お前まで、ここに入る必要はない」
「あります」
「ない」
「私が忘れられても、あなたが覚えていてくれるんでしょう」
晴人は言葉を失った。
瀬奈は、頼りない輪郭のまま立っている。
目だけが、消えていなかった。
「だったら、あなたが消えたら困ります」
その言葉が、胸に刺さった。
でも遅かった。
黒い扉が、ひとりでに開き始めている。
向こう側には、火の色がなかった。
代わりに、静かな畳の部屋が見えた。
誰もいない結衣の部屋。
学習机。
低い本棚。
開かれていない手紙。
そして、机の上に置かれた空の椅子。
そこに座ればいいのだと、晴人は思った。
結衣が待っていた十年を、今度は自分が待てばいい。
外で誰が忘れてもいい。
母が結衣を忘れ、父の顔が写真から消え、瀬奈の声が遠くなり、自分の名前が世界から落ちていくなら。
最初から、ここに残ればよかった。
晴人は黒い扉の前に立った。
手首のリストバンドが、熱を持つ。
生存。
返却可。
彼は爪を立てた。
今度は少しだけ裂けた。
赤い線が手首に走る。
痛い。
よかった。
まだ痛い。
でも、その痛みさえ、この部屋に置いていける気がした。
「水野さん、だめです」
瀬奈が言った。
晴人は小さく首を振った。
「俺が生きていたから、全部始まった」
「違います」
「違わない」
晴人は黒い扉の向こうを見た。
空の椅子が、待っている。
結衣の声が、耳元で囁いた。
お兄ちゃん。
今度は、逃げないでね。
晴人は目を閉じた。
逃げない。
なら、ここに残る。
それが一番、わかりやすい罰だった。
瀬奈が何かを言った。
しかし、その声は途中で欠けた。
晴人は、もう彼女の声の形を思い出せなかった。
ただ、手の甲に残った薄い文字だけが、彼女がそこにいることを教えている。
如月瀬奈。
晴人はその文字を見た。
そして、ゆっくり手を下ろした。
「ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、自分でもわからなかった。
結衣に。
瀬奈に。
母に。
十九歳の自分に。
それとも、二十九歳まで生きてしまった自分に。
黒い扉の奥で、空の椅子が少しだけ軋んだ。
座れ、と言っているみたいだった。
晴人は一歩、踏み出した。
その瞬間、背後から腕を掴まれた。
強くはなかった。
むしろ、今にも消えてしまいそうな手だった。
けれど、その手は確かに熱を持っていた。
晴人は振り返った。
瀬奈が、そこにいた。
顔は青白く、唇は震えていた。
それでも彼女は、晴人の腕を離さなかった。
「まだ、終わらせないでください」
その声が、かろうじて形を持って届いた。
晴人は何も言えなかった。
黒い扉が、二人のすぐ横で静かに開いている。
十九歳の晴人は、いつの間にか消えていた。
椅子だけが残っている。
空の椅子。
生き残った人が座るはずだった場所。
瀬奈は晴人の腕を掴んだまま、息を吸った。
何かを言おうとしている。
晴人には、それが聞こえるかどうかわからなかった。
けれど彼女は、消えかけた声で、確かに彼の名前を呼んだ。
「水野晴人さん」
その名前が、リストバンドの文字よりも深く、晴人の中に入ってきた。
黒い扉の向こうで、空の椅子がもう一度軋んだ。
晴人はまだ、一歩分だけ向こう側にいた。
瀬奈の手だけが、彼をこちら側に繋いでいた。




