(第四部 . 第四章 ) 瀬奈の言葉
如月瀬奈の手は、ほとんど重さを持っていなかった。
それなのに、晴人の腕から離れなかった。
黒い扉は、すぐ横で開いている。
扉の向こうには、空の椅子があった。
誰も座っていない椅子。
けれど、そこだけが晴人を待っている。
座れば終わる。
そう思えるほど、その椅子は静かだった。
病院の消毒液の匂い。
焼け跡の灰の匂い。
結衣の部屋の畳の匂い。
それらが、ひとつの空気の中で濁っていた。
床も壁も、もう一つの場所ではない。
いくつもの記憶が、晴人の足元で薄く重なっている。
十九歳の自分が座っていた椅子。
結衣が待っていた部屋。
読まなかった手紙。
渡せなかった誕生日の箱。
そして、瀬奈の名前が滲んだ手の甲。
その全部が、同じ場所にあった。
「水野晴人さん」
瀬奈がもう一度、名前を呼んだ。
声は細かった。
けれど、消えてはいなかった。
晴人は振り向いたまま、息をした。
たったそれだけのことが、ひどく難しかった。
手首のリストバンドには、まだ文字が残っている。
水野晴人。
生存。
返却可。
三つ目の言葉だけが、皮膚の奥まで食い込んでいるみたいだった。
「離せ」
晴人は言った。
声に力はなかった。
「嫌です」
瀬奈は即答した。
震えた声なのに、その返事だけは短く、硬かった。
「お前まで持っていかれる」
「もう持っていかれかけています」
「だったら戻れ」
「戻るために、あなたを掴んでいるんです」
晴人は言葉を失った。
黒い扉の奥で、空の椅子が小さく軋む。
座れ。
ここに残れ。
返せ。
その声は言葉ではない。
だが、胸の奥にはっきり沈んでくる。
晴人は視線を逸らした。
逸らした先に、瀬奈の手があった。
自分の腕を掴んでいる指。
輪郭が薄い。
爪の先から、光が抜けていくみたいに透けている。
それでも、熱があった。
小さく、頼りなく、けれど確かに、生きている人間の熱だった。
「水野さん」
瀬奈は言った。
「私を見てください」
晴人は目を上げた。
瀬奈は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、必死にそこに立っていた。
忘れられかけた人間が、まだ自分の形を保とうとしている顔だった。
「結衣さんを見ないで、とは言いません」
瀬奈はゆっくり言った。
「見てください。ちゃんと。逃げずに」
晴人の喉が動く。
「だったら」
「でも、結衣さんだけを見ないでください」
瀬奈の指に少しだけ力が入った。
「その椅子に座ったら、あなたは結衣さんを見ているようで、自分の罪しか見なくなる」
「罪だろ」
晴人は低く言った。
ずっと胸の底に沈めてきた石だった。
今、ようやく口から出た。
「俺だけが生きた」
「はい」
「俺だけが残った」
「はい」
「俺は、逃げた」
瀬奈は黙った。
肯定も否定もしない。
その沈黙が、晴人にはいちばん怖かった。
違うと言ってほしかったのかもしれない。
お前は悪くないと、言ってほしかったのかもしれない。
けれど瀬奈は、簡単な優しさを差し出さなかった。
だから、次の言葉だけが深く届いた。
「それでも」
瀬奈は息を吸った。
薄くなった胸が、かすかに上下する。
「生き残ったことは、罪じゃない」
部屋の音が止まった。
黒い扉の軋みも。
遠くの泣き声も。
リストバンドの奥で脈打っていた痛みも。
一瞬、すべてが止まった。
晴人は瀬奈を見つめた。
その言葉を、理解できなかった。
理解したくなかった。
もしそれを認めたら、十年間、自分を罰し続けてきた理由が崩れてしまう。
罰がなくなれば、何が残る。
結衣を失ったこと。
何もしなかったこと。
誕生日の手紙を読まなかったこと。
火事の日に戻れなかったこと。
それらは消えない。
消えないまま、生きろと言われている。
その方が、ここに残るよりずっと苦しかった。
「簡単に言うな」
晴人の声が震えた。
「簡単じゃありません」
瀬奈はすぐに返した。
「私も、母を探すふりをして、ずっと逃げていました」
如月亜紀。
その名前が、晴人の頭の中でかすかに灯った。
宮下団地六号棟三〇一号室。
如月瀬奈の母。
消えた人。
まだ完全には忘れていない。
晴人はそれを確かめるように、手の甲を見た。
如月瀬奈。
文字は薄い。
けれど、まだ残っている。
「母は、きっと帰りたくなかったんだと思います」
瀬奈の声が揺れた。
「でも、それを認めたくなかった。だから私は、母を助けるためじゃなく、母に捨てられていない証拠を探していたのかもしれません」
晴人は何も言えなかった。
瀬奈の輪郭が、蛍光灯のちらつきに合わせて薄くなる。
そのたびに、晴人の中の記憶も揺れた。
如月瀬奈。
二十七歳。
フリーの記者。
母親は如月亜紀。
言葉にしないと、こぼれていく。
晴人は唇を動かした。
「如月瀬奈」
瀬奈が目を上げる。
「二十七歳。フリーの記者。母親は如月亜紀。宮下団地六号棟三〇一号室を追っている」
「……また個人情報の復唱ですね」
「必要だ」
「はい」
瀬奈は、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方を、晴人は覚えた。
覚え直した。
黒い扉の奥で、何かが動いた。
椅子の影が、ゆっくり伸びる。
影は床を這い、晴人の足首に触れた。
冷たい。
生きている体から体温だけを奪うような冷たさだった。
リストバンドの文字が濃くなる。
返却可。
返却可。
返却可。
同じ言葉が、白い紙の上に何重にも浮かんだ。
晴人は歯を食いしばった。
「俺は返すものなのか」
「違います」
瀬奈は即座に言った。
「部屋に預けるものでもありません」
「じゃあ、何だ」
「人です」
短い言葉だった。
あまりにも当たり前で、だからこそ痛かった。
「水野晴人さんは、物じゃありません」
瀬奈はポケットを探った。
そこから短いペンを取り出す。
さっきまで持っていたのか、今ここで現れたのかはわからない。
零号室の中では、そういう境目がもう曖昧だった。
「やめろ」
晴人は言った。
「その手じゃ、書けない」
「書けます」
「消えるぞ」
「消える前に、書きます」
瀬奈はキャップを外した。
黒い扉が、少しだけ揺れた。
まるで、止めようとしているように。
瀬奈は晴人の手首を取った。
リストバンドの白い部分。
返却可、と印字された場所。
そこに、震える手で文字を書いた。
線は歪んだ。
インクはところどころ薄い。
それでも読めた。
水野晴人。
機械の文字ではない。
誰かが、消えかけながら残した文字だった。
晴人の胸の奥が、鈍く痛んだ。
「あなたは、まだここにいます」
瀬奈が言った。
「私が見ています」
黒い扉の向こうで、空の椅子が激しく軋んだ。
初めて怒ったような音だった。
天井の蛍光灯が明滅する。
白いカーテンが風もないのに膨らむ。
床に積もっていた灰が舞い上がった。
灰の中に、小さな白い紙片が混ざっている。
折り目のついた紙。
焦げた羽。
いくつもの折り鶴の破片。
破片は空中で渦を巻き、晴人と瀬奈の周りを囲んだ。
その一つ一つに、声がある。
お兄ちゃん。
遅いよ。
どうして読まなかったの。
どうして戻らなかったの。
どうして生きているの。
晴人の膝が揺れた。
その声の中に、結衣の声もあった。
結衣ではない声もあった。
部屋が、結衣の形を借りている。
晴人はそれを、初めてはっきり感じた。
瀬奈の言葉が、胸の奥でまだ残っている。
生き残ったことは、罪じゃない。
晴人は瀬奈の腕を掴み返した。
細い腕だった。
消えかけているのに、驚くほど現実だった。
「瀬奈」
名前を呼ぶ。
今度は、声の形が戻ってきた。
怒った時の早口。
呆れた時に短く息を吐く癖。
記事を書く話になると、急に目だけが強くなるところ。
少しずつ、輪郭が戻る。
「忘れない」
晴人は言った。
「私をですか」
「お前も」
「も、ですか」
「俺もだ」
瀬奈は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ唇を噛んだ。
「それでいいです」
黒い扉が大きく開いた。
空の椅子が見える。
しかし今、その椅子は遠かった。
たった一歩の距離のはずなのに、何十メートルも先にあるように見えた。
瀬奈の手が、晴人の腕を引く。
強くはない。
けれど、今度は晴人も逆らわなかった。
一歩。
こちら側へ。
足元の床が沈む。
手首のリストバンドが熱を持った。
返却可。
その文字に亀裂が入る。
ひび割れたインクが、ぽろぽろと剥がれていく。
下から、瀬奈の手書きの文字だけが残った。
水野晴人。
晴人はその文字を見た。
誰かに呼ばれた名前。
誰かが残そうとした名前。
それだけで、まだ戻れる気がした。
黒い扉の奥から、結衣の声がした。
今度は、囁きではなかった。
遠くで、少しだけ泣きそうな声だった。
「お兄ちゃん」
晴人は目を閉じた。
逃げるのではない。
背を向けるのでもない。
今は、ここに残らない。
そう決めるだけだった。
「結衣」
晴人は言った。
「俺は、まだ戻る」
返事はない。
ただ、足元に一羽の折り鶴が落ちた。
白い鶴。
首が少し曲がっている。
片方の羽だけ大きい。
結衣の折り鶴だった。
その羽の裏には、何も書かれていない。
何も書かれていないことが、かえって答えのように見えた。
瀬奈が晴人の腕を引いた。
今度は、はっきりと。
黒い扉が閉まり始める。
椅子の脚が、床を掻くような音を立てた。
待て。
そう聞こえた。
晴人は振り返らなかった。
瀬奈と一緒に、白いカーテンの向こうへ踏み出した。
光が割れた。
次の瞬間、二人は晴人のアパートの廊下に倒れ込んでいた。
玄関の電球が、かすかに揺れている。
外では雨が降っていた。
いつ降り出したのか、晴人にはわからなかった。
部屋の奥に、結衣の畳の部屋はない。
黒い扉もない。
けれど、床には灰が落ちていた。
灰の中に、白い折り鶴が一羽。
晴人は起き上がろうとして、腕に重みを感じた。
瀬奈が、まだ掴んでいる。
彼女の手は薄かった。
でも、消えてはいなかった。
「水野さん」
瀬奈が言った。
「はい」
晴人は反射的に答えた。
瀬奈は目を細めた。
「ちゃんと、聞こえましたか」
「聞こえた」
「じゃあ、もう一度言います」
瀬奈は廊下の床に座り込んだまま、息を整えた。
声は弱い。
それでも、さっきより近かった。
「生き残ったことは、罪じゃありません」
晴人は何も言わなかった。
言えなかった。
代わりに、手首を見た。
もう、そこに病院のリストバンドはなかった。
ただ、瀬奈が書いた文字だけが皮膚の上に残っている。
水野晴人。
その横に、小さく別の文字が浮かび上がった。
まだ終わっていない。
晴人は息を呑んだ。
「瀬奈」
「何ですか」
「これ、俺が書いたんじゃない」
瀬奈は晴人の手首を見る。
文字はさらに広がっていく。
水野晴人。
まだ終わっていない。
そして、その下に細い線が伸びた。
線は皮膚の上を這い、床へ落ち、灰の中へ続いていく。
灰が動いた。
白い折り鶴が、ゆっくり開いていく。
鶴ではなくなる。
ただの紙に戻る。
折り目だけが残った白い紙。
その上に、黒い線が浮かび上がった。
廊下。
部屋。
扉。
いくつもの線が重なって、やがて一つの図面になった。
晴人はその紙を拾い上げる。
三〇四号室でもない。
宮下団地でもない。
橘建築設計事務所の資料室で見た図面とも違う。
どの建物にも見える。
どの建物にも見えない。
中央に、四角い空白があった。
部屋番号はない。
ただ、鉛筆のような薄い字で、一行だけ書かれていた。
原初の部屋。
瀬奈が息を呑む。
晴人は紙を握りしめた。
黒い扉は消えた。
空の椅子も消えた。
けれど、次に向かう場所だけが、廊下の冷たい光の中に残されていた




