(第四部 . 第五章 ) 原初の部屋
折り鶴だった紙は、廊下の床でまだわずかに震えていた。
白い紙。
いくつもの折り目。
その上に浮かび上がった、見覚えのない図面。
晴人は紙を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
玄関の電球は弱く揺れている。雨の音が、薄いドアの向こうから低く続いていた。廊下にはまだ灰が散っている。さっきまでそこにあった黒い扉の跡は、どこにもない。
けれど、紙の上には残っていた。
廊下。
部屋。
扉。
扉。
扉。
線は細く、古い鉛筆で引かれたように薄い。だが中心の空白だけは、どの線よりも濃く見えた。何も描かれていない四角。番号も、寸法も、壁の厚みもない。ただ、そこだけ紙が深く沈んでいるようだった。
原初の部屋。
その文字を見ていると、胸の奥が冷えていく。
知らない言葉ではない気がした。
けれど、思い出したくない言葉でもあった。
「水野さん」
瀬奈の声がした。
さっきより近い。けれど、まだ少しだけ遠い。
晴人は顔を上げた。
瀬奈は玄関の壁にもたれていた。濡れてもいないのに、雨の中を歩いてきた人みたいに顔色が悪い。手の甲には、自分で書いた名前が残っている。
如月瀬奈。
文字は薄くなっていた。
だが、まだ読める。
「座れ」
「命令ですか」
「お願いだ」
瀬奈は少しだけ笑った。
その笑い方は、消えかけたものが無理に形を保っているようで、晴人は見ていられなかった。
「じゃあ、少しだけ」
彼女は玄関の段差に腰を下ろした。靴を脱ぐ余裕もない。ただ、扉の外に落ちていた灰が靴底に付いて、廊下に薄い跡を作っている。
晴人は紙を彼女に見せた。
「これを見たことはあるか」
瀬奈は首を横に振った。
「ありません。でも……」
「でも?」
「線の引き方が、普通の図面じゃないです」
瀬奈の指が紙の上をなぞる。
触れていないのに、線がその指に反応するようにかすかに濃くなった。
「これは建物を描いているんじゃない」
瀬奈は言った。
「たぶん、通った扉を描いています」
晴人は紙を見下ろした。
いちばん外側の線。
そこに小さく、三〇四とあった。
中町ハイツ三〇四号室。
最初に開けた扉。
図面にはなかったはずの扉。
別の線の端には、宮下団地六号棟三〇一号室に似た形があった。瀬奈の母、如月亜紀の名に繋がる場所。
さらに別の線には、橘建築設計事務所の資料室を思わせる細長い部屋。
そして、今いる晴人のアパート。
すべての線が、中心の空白へ向かっている。
晴人は息を呑んだ。
「扉が、全部そこへ向いているのか」
瀬奈は答えなかった。
答えないことが、ほとんど肯定だった。
紙の端が、湿ったように少し丸まる。
廊下のどこかで、水滴が落ちる音がした。
ぽつん。
ここは室内のはずだった。
天井から水など落ちる場所はない。
晴人が顔を上げると、玄関の奥にあるはずのキッチンのドアが、少しだけ開いていた。
普段なら、そこには狭い台所がある。
シンクと、古い冷蔵庫と、一人分の食器しか入っていない棚。
今、その隙間の向こうは暗かった。
黒いのではない。
遠い。
部屋の奥ではなく、どこかの長い廊下が続いているような暗さだった。
瀬奈が立ち上がろうとした。
「動くな」
「無理です」
「瀬奈」
名前を呼ぶと、彼女の輪郭が少しだけ戻った。
晴人はそれを確認してから、ゆっくりキッチンのドアへ近づいた。
手をかける。
冷たい。
自分の家のドアノブなのに、誰かの墓石に触れているみたいだった。
晴人はドアを開けた。
そこにキッチンはなかった。
細い廊下があった。
左右に、扉が並んでいる。
どれも違う扉だった。
古い木の扉。団地の鉄扉。ふすま。病院の引き戸。事務所のガラス戸。焼け焦げた非常口。
それぞれの扉の前に、小さな紙片が落ちている。
折り鶴の羽。
折り目のついた白い紙。
ところどころ焦げている。
晴人は一歩も入らずに、その場で止まった。
廊下の一番近い扉に、三〇四と書かれている。
次の扉には、六号棟三〇一。
その先に、二〇四。
さらに奥に、資料室。
名前ではなく、場所だけが並んでいた。
晴人がこれまで開けてきた扉。
瀬奈が追ってきた扉。
橘礼司が閉じようとしてきた扉。
全部が、ひとつの廊下に並んでいる。
「水野さん」
瀬奈が背後で言った。
「入るなら、私も行きます」
「だめだ」
「だめと言うなら、理由を言ってください」
「お前が消える」
「ここにいても消えます」
短い沈黙。
雨の音だけが、少し強くなった。
晴人は振り返った。
瀬奈は手の甲をこちらへ見せた。
そこには如月瀬奈の文字がある。
その下に、小さく、彼女自身の字で書き足されていた。
まだ、いる。
晴人は喉の奥が詰まった。
「勝手に書くな」
「忘れられる側にも、抵抗する権利があります」
「減らず口は戻ったな」
「完全復活ではありません」
瀬奈は薄く笑った。
「だから、今のうちに行きます」
晴人は紙を握った。
中心の空白が、かすかに熱を持っている。
部屋ではない。
廊下でもない。
きっと、これまで通ってきたすべての扉の折り目だ。
折り紙は、平らな紙を折ることで形を作る。
どの面を表に出すかで、鶴にも、箱にも、何か別のものにもなる。
零号室も同じなのかもしれない。
建物が変わるのではない。
記憶の折り目が変わる。
その折り目の奥に、同じ空白が隠れている。
晴人はその考えを口にしなかった。
言葉にすると、部屋に聞かれる気がした。
二人は廊下へ入った。
足元の床は、畳でも、フローリングでも、コンクリートでもなかった。歩くたびに感触が変わる。古い団地の冷たい床。病院の廊下。焼け跡のざらついた灰。晴人のアパートの安い床材。
一歩ごとに、場所が変わっている。
けれど廊下は一本だった。
右手にある扉の一つから、子どもの笑い声がした。
結衣の声に似ていた。
晴人は足を止めかけた。
瀬奈がすぐに言った。
「結衣さんだけを見ないでください」
その言葉は、前にも聞いた。
自分の家の部屋で、彼女が言った言葉。
晴人は唇を噛んだ。
「分かってる」
「分かってる声じゃありません」
「便利だな、その言い方」
「本当のことです」
瀬奈は少し息を切らしていた。
それでも歩いている。
彼女の影は時々薄くなり、扉の隙間へ吸い込まれそうになる。晴人はそのたびに彼女の名前を呼んだ。
「如月瀬奈」
「はい」
「二十七歳」
「はい」
「フリーの記者」
「はい」
「母親は如月亜紀」
そこで、瀬奈の返事が少し遅れた。
「……はい」
晴人は歩く速度を落とした。
「大丈夫か」
「名前を言われると、痛いです」
「痛い?」
「でも、たぶん必要な痛みです」
瀬奈は自分の手の甲を見た。
「消える時って、痛くないんです。だから、痛いほうがいい」
晴人は何も言えなかった。
廊下の奥で、白いものが揺れた。
一羽の折り鶴だった。
宙に浮いている。
羽の片方だけ大きく、首は少し曲がっている。
結衣の折り鶴。
その鶴は、晴人たちが近づくと、ゆっくり奥へ飛んだ。
飛ぶというより、折り目に沿って滑っていくようだった。
晴人は追いかけなかった。
歩幅を保ったまま、鶴の行く先を見た。
焦ってはいけない。
この部屋は、急ぐ人間の足元を奪う。
それを、もう何度も見てきた。
やがて廊下の突き当たりに出た。
そこには、扉が一つだけあった。
何の変哲もない白い扉。
番号もない。
表札もない。
覗き穴もない。
ただ、中央に折り目のような細い線が縦に走っていた。
まるで扉そのものが、一枚の紙を二つに折って作られているみたいだった。
その前で、折り鶴が落ちた。
白い紙に戻る。
紙の上には何も書かれていない。
けれど、晴人が持っていた図面の中心の空白と、同じ形をしていた。
「ここが、原初の部屋」
瀬奈が言った。
晴人は首を横に振った。
「まだ、部屋に見えない」
「じゃあ、何に見えますか」
「折る前の紙」
瀬奈は黙った。
その沈黙が、妙に深かった。
晴人は白い扉に手を伸ばす。
その時、扉の向こうから声がした。
「お兄ちゃん」
結衣の声だった。
近い。
すぐそこにいる。
扉一枚の向こうで、白い紙を持って待っているような近さだった。
晴人の指が止まる。
瀬奈が小さく息を吸った。
「水野さん」
「分かってる」
「結衣さんだけを見ない」
「ああ」
晴人は目を閉じた。
結衣。
瀬奈。
母。
父。
橘礼司。
橘栞。
如月亜紀。
消えた人たち。
忘れた人たち。
扉の向こうにいるのは、誰か一人ではない。
たぶん、すべての扉の奥に置いてきたものだ。
晴人は目を開けた。
「開ける」
瀬奈はうなずいた。
「はい」
「もし俺が何かを見失ったら」
「名前を呼びます」
「お前が見失ったら」
「水野さんが呼んでください」
晴人は短く息を吐いた。
「如月瀬奈」
「水野晴人」
二人は互いの名前を確認した。
そして、晴人は白い扉を開けた。
音はしなかった。
扉の向こうに、部屋はなかった。
街があった。
夜でも昼でもない光の中に、細い道路が伸びている。
古いアパートの廊下が、団地の階段に繋がり、商店街のシャッターに続き、その先で病院の待合室へ曲がっている。
ありえない場所が、ありえない順番で並んでいた。
窓のない部屋の隣に、雨の降る路地がある。
畳の部屋の奥に、誰もいない駅のホームが見える。
焦げた非常口の向こうで、子どもの自転車が倒れている。
そこを、人影が歩いていた。
ゆっくり。
目的もなく。
顔が薄い。
名前のない人たち。
晴人は息を忘れた。
一人の老人が、すぐ近くを通り過ぎる。
戸籍のない男。
かつて晴人を、春人と呼んだ男。
老人は晴人を見ない。
見えていないのか、見ようとしていないのか、わからない。
その後ろを、小さな女の子が歩いている。
手には折り紙を持っていた。
晴人は一歩踏み出しかけた。
瀬奈が腕を掴む。
「待って」
声が震えていた。
彼女は街の奥を見ている。
そこに、一人の女性が立っていた。
長い髪。
細い肩。
どこか瀬奈に似た横顔。
如月亜紀。
しかし、女性はすぐに人影の中へ紛れた。
瀬奈の指が晴人の腕に食い込む。
「お母さん」
その声は、小さすぎて街に吸われた。
晴人は白い扉の縁を握った。
これが部屋なのか。
原初の部屋。
部屋というには広すぎる。
街というには静かすぎる。
墓というには、人がまだ歩いている。
背後で、白い扉が少しずつ閉まり始めた。
晴人は振り返る。
帰り道が、紙の折り目のように細くなっている。
瀬奈が言った。
「水野さん」
「ああ」
「たぶん、ここにいる人たちは」
彼女は最後まで言わなかった。
言わなくても、分かった。
忘れられた人たち。
誰かの記憶から落ちた人たち。
扉の向こうへ置いていかれた名前たち。
街の奥で、鐘のような音が鳴った。
一度。
白い扉が、完全に閉じた。
晴人と瀬奈は、原初の部屋の中にいた。
いや。
部屋ではない。
記憶でできた街の入口に、立っていた。
その時、足元で紙の擦れる音がした。
さっき扉の前で開いた白い紙が、またひとりでに折れ始めている。鶴にはならなかった。箱にもならなかった。紙は細く、細く折り重なり、やがて一枚の小さな街路図のような形になった。
中央に、黒い点が浮かぶ。
現在地。
その下に、薄い文字が現れた。
記憶の街。
瀬奈が息を呑む。
晴人はその文字を見つめたまま、街の奥から聞こえてくる紙を折る音を聞いていた。




