第六章 家の電話はまだ早い
次の日、学校へ行くと、昇降口の掲示板の前に滝さんはいなかった。
困っている筆は、相変わらず困っていた。
でも、昨日より少しだけ堂々としているようにも見えた。
絵が変わったわけではない。
ただ、僕の見方が変わったのだと思う。
新入部員を待っている筆。
見学中でも参加中のぴょん吉。
休むのも活動。
たった数日で、ノートの端にずいぶん言葉が増えた。
僕は掲示板の前を通り過ぎ、教室へ向かった。
今日は、昨日より体が軽い。
昨日、部活を休んだおかげかもしれない。
休んだのに、ちゃんと次の日が来る。
当たり前のことだけれど、少しだけ不思議だった。
教室に入ると、滝さんはもう席に座っていた。
ノートを開いている。
いつものように、右下に何か描いているところだった。
「おはよう」
僕が言うと、滝さんは顔を上げた。
「おはよう」
「生存確認」
「確認されました」
「体調は?」
「昨日より軽い」
「本当に?」
「本当に。部活を休んだので」
「よろしい」
滝さんは小さくうなずいた。
それから、ノートの端に描いていたぴょん吉を見せてくれた。
今日のぴょん吉は、布団の中にいた。
片耳だけ外に出ている。
横に一言。
『休養中。だが生存。』
「昨日の僕?」
「たぶん」
「寝てる」
「休むのも活動なので」
「藤野先生の言葉まで採用されてる」
「本採用」
滝さんは少し得意そうにした。
僕は笑った。
昨日、帰ってから本当に少し寝た。
眠るつもりはなかったのに、気づいたら夕方まで寝ていた。
そのぶん、今日は楽だった。
休むことは、何もしないことではない。
そう思えるのは、少しだけ助かる。
「昨日」
滝さんが少し小さな声で言った。
「うん」
「帰宅後確認って言って、ごめん」
一瞬、何のことか分からなかった。
でもすぐに思い出した。
昨日の昇降口。
滝さんが「生存確認、帰宅後?」と言って、僕が「家の電話?」と返した。
そのあと、少し変な空気になった。
「ああ」
「変なこと言った」
「いや、僕も変な返しした」
「家の電話は、まだ早い」
滝さんが真面目な顔で言った。
その言い方がおかしくて、僕は少し笑った。
「早いね」
「かなり」
「家族出るし」
「それが一番困る」
「誰ですかってなる」
「なる」
滝さんはノートの端に小さく何かを書いた。
ぴょん吉が黒電話の前で固まっている。
受話器を持っているけれど、耳には当てていない。
横に一言。
『家電、難易度高。』
「それは本当にそう」
「本採用?」
「本採用」
滝さんは少し笑った。
「でも」
「うん」
「帰ったあと確認できないの、少し不便」
その言葉に、胸の奥が少しだけ止まった。
不便。
それは僕も昨日思った。
学校を出たら、次に会うのは明日。
家に電話をするという手段はある。
でも、それは簡単ではない。
相手の家族が出るかもしれない。
用件を聞かれるかもしれない。
そもそも番号も知らない。
今の僕たちにとって、学校で会える時間がほとんど全部だった。
「確かに」
僕は言った。
「不便」
「うん」
「でも、明日確認で間に合う時もある」
「昨日は?」
「間に合った」
「本当に?」
「寝てたので」
「寝てたならよろしい」
滝さんはうなずいた。
それから、少しだけ声を小さくした。
「でも、しんどい時は、学校にいる間に言ってね」
「うん」
「帰ってから確認できないから」
その言葉は、軽いようで少し重かった。
滝さんは、僕を心配してくれている。
でも、踏み込みすぎないようにしている。
その距離感が、少しありがたくて、少しむずがゆかった。
「分かった」
「確認しました」
そこで、教室の入口から如月さんが顔を出した。
朝から来るのが、だんだん普通になってきている。
「夏美」
「沙耶」
「朝から何を確認している」
「家電の難易度」
「何だそれは」
滝さんはノートを見せた。
黒電話の前で固まるぴょん吉。
『家電、難易度高。』
如月さんはそれを見て、少しだけ黙った。
「高いな」
「沙耶も認めた」
「家に電話するのは、用件が必要だ」
「用件」
「無事かどうかを聞くためだけに電話するのは、やや難しい」
「生存確認なのに?」
「生存確認は学校で済ませろ」
「厳しい」
「現実だ」
如月さんはそう言って、僕を見た。
「佐倉」
「はい」
「だから、帰る前に言え」
「何をですか」
「疲れているかどうかだ」
「ああ」
「家に帰ってからでは、夏美は確認できない」
滝さんが少しだけ目を丸くした。
自分で言ったことを、如月さんにまっすぐ言われると恥ずかしいらしい。
「沙耶」
「何だ」
「それ、私が言いたかったこと」
「なら最初から言え」
「厳しい」
「厳しいのはいいことだ」
僕は少し笑った。
でも、如月さんの言葉はたしかに正しかった。
帰る前に言う。
学校にいる間に言う。
それなら、家の電話はいらない。
今の僕たちには、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「分かりました」
僕が言うと、如月さんは短くうなずいた。
「ならよい」
滝さんもノートの端に書き足した。
『帰る前に報告。』
「また制度が増えた」
「体調、報告制の細則」
「細則」
「沙耶監修」
「していない」
如月さんはそう言って、自分の教室へ戻っていった。
朝のホームルームが始まるまで、滝さんはしばらく黒電話ぴょん吉を見ていた。
僕も、自分のノートの端に小さく電話を描いてみた。
でも、黒電話は意外と難しい。
受話器の形がうまく描けない。
丸いダイヤルも、何だか歪む。
「黒電話って、描くと変になるね」
僕が言うと、滝さんは覗き込んだ。
「かなり変」
「言い方」
「でも、いる」
「弱い黒電話」
「弱電」
「それ、意味変わらない?」
「たぶん」
滝さんは少し笑った。
僕も笑った。
朝のホームルームでは、担任の先生が仮入部期間の予定を確認した。
美術部には、昨日の二人のほかにも何人か見に来るかもしれないらしい。
少しだけ緊張した。
また一年生に説明するかもしれない。
人前で話すのは得意ではない。
でも、昨日ほど嫌ではなかった。
困っている筆を見て来てくれた子がいる。
それだけで、少しだけ勇気が出る。
午前中の授業は、国語と理科だった。
理科の実験の説明で、先生が試験管の絵を黒板に描いた。
それを見た瞬間、滝さんのノートの端にいた、試験管に入ったぴょん吉を思い出した。
笑いそうになった。
でも、耐えた。
隣を見ると、滝さんも少しだけ口元を押さえていた。
たぶん、同じことを思い出している。
目が合った。
すぐにお互い前を向いた。
こういう時、少し困る。
同じものを思い出してしまうと、授業中でも笑いそうになる。
前なら、そんなことはなかった。
授業は授業。
ノートはノート。
落書きは落書き。
そう分かれていた。
でも今は、ノートの端に描かれたものが、授業中にひょいと顔を出す。
白いページの端から、教室の真ん中まで出てくる。
それは少し危ない。
でも、少し楽しい。
昼休み、如月さんは今日も来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
もう合言葉みたいになっていた。
滝さんは弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんは椅子を持ってくる。
誰も特に確認しないのに、自然と三人で昼を食べる形になっていた。
それが、少し不思議だった。
「佐倉」
如月さんが言った。
「はい」
「体調は」
「普通です」
「詳細」
「昨日より軽い。眠気は少し。疲れはあまりないです」
「よろしい」
「だんだん報告が長くなってる」
僕が言うと、滝さんがうなずいた。
「体調、報告制が成長している」
「成長する制度」
「運用改善」
「どこで覚えたの、そういう言葉」
「分からない」
滝さんは真面目な顔で答えた。
如月さんは弁当を食べながら言った。
「帰る前も忘れるな」
「はい」
「今日は美術部へ行くのか」
「行くつもりです」
「無理は?」
「しないつもりです」
「つもりでは弱い」
「無理はしません」
「ならよい」
滝さんが小さく拍手した。
「沙耶対応、完了」
「拍手するな」
「心の中で」
「今、音がした」
「少しだけ」
滝さんと如月さんのやり取りを見ながら、僕は少しだけ考えた。
この昼休みは、いつから当たり前になったのだろう。
まだ一週間も経っていない。
それなのに、如月さんが来ないと少し変な感じがする。
滝さんがぴょん吉を描かないと少し物足りない。
僕が体調を聞かれないと、たぶん少し落ち着かない。
友達という言葉は、まだ審査中。
でも、審査している間にも、毎日は進んでいる。
昼休みの途中、滝さんがふと思い出したように言った。
「そういえば、佐倉くん」
「うん」
「家の電話って、黒電話?」
「違うよ」
「違うんだ」
「さすがに普通の電話」
「普通」
「固定電話」
「うちも」
「じゃあ、ぴょん吉は何で黒電話?」
「描きやすいから」
「受話器難しくなかった?」
「難しい」
「じゃあ何で」
「電話っぽいから」
滝さんは当然のように言った。
如月さんが横から言う。
「今の電話を描け」
「今の電話、四角い」
「それでいいだろう」
「ぴょん吉と相性が悪い」
「相性とは」
「丸み」
「知らん」
僕は少し笑った。
でも、家の電話の話題が、朝ほど気まずくならなかったことに気づいた。
黒電話ぴょん吉のおかげかもしれない。
それとも、如月さんが現実だと言い切ってくれたからかもしれない。
電話はまだ早い。
でも、それを笑えるくらいにはなった。
放課後、美術室へ行くと、仮入部の一年生が三人来ていた。
昨日より一人増えた。
藤野先生は少し嬉しそうだった。
「佐倉、今日も少し手伝ってくれる?」
「はい」
「でも、疲れたらすぐ座ってね」
「はい」
「返事だけで済ませない」
「行動も合わせます」
自然にそう答えると、藤野先生が少し驚いた顔をした。
「何か、言い慣れてるわね」
「最近、よく言われるので」
「いいことね」
「たぶん」
先生は笑った。
僕は一年生に紙を配り、簡単な鉛筆の使い方を説明した。
説明と言っても、大したことではない。
濃く描きすぎると消しにくいこと。
最初は薄く形を取ること。
失敗してもすぐ消さなくていいこと。
そういう話をした。
一年生の一人が、僕の手元を見ながら言った。
「先輩、描くの早いですね」
「そうかな」
「最初の線、迷わない感じがします」
言われて、少しだけ固まった。
迷わない。
そんなことはない。
僕は、最初の線が苦手だ。
白い紙に一筆目を入れるのは、今でも少し怖い。
でも、人からはそう見えないこともあるらしい。
「迷うよ」
僕は言った。
「かなり」
「そうなんですか?」
「うん。でも、迷ってるとずっと白いままだから」
言ってから、自分で少し驚いた。
それは、藤野先生に言われたことと、ぴょん吉を描き始めてから思ったことが混ざった言葉だった。
「薄くてもいいから、一本引くと少し楽になる」
一年生はうなずいた。
そして、紙に薄く線を引いた。
その様子を見て、僕は少しだけほっとした。
自分が言った言葉で、誰かが線を引いた。
大げさだけれど、それは少し嬉しかった。
部活の途中で、肩が少し重くなった。
昨日よりはましだ。
でも、無理をするとあとで来る。
僕は一度、椅子に座った。
藤野先生がこちらを見る。
僕は小さくうなずいた。
大丈夫です、ではなく、座っています、という報告のつもりだった。
先生も小さくうなずいた。
それだけで済んだ。
体調を言葉にするのは難しい。
でも、行動で伝える方法も少しずつ覚えていけばいいのかもしれない。
部活が終わり、昇降口へ向かう。
今日は滝さんと如月さんがいなかった。
吹奏楽部と剣道部がまだ続いているのだろう。
少しだけ寂しいと思った。
思ってから、自分で驚いた。
昨日までなら、一人で帰るのは普通だった。
今も普通のはずだ。
でも、今日は何となく、校門までの道が少し長い。
帰る前に報告。
如月さんの言葉を思い出す。
でも、報告する相手がいない。
こういう時、家の電話がまだ早いというのは、やっぱり少し不便だった。
僕は靴を履き替え、校門へ向かった。
校門のところで、少しだけ立ち止まる。
誰もいない。
当たり前だ。
僕は小さく息を吐いて、心の中で言った。
今日は少し疲れた。
でも、大丈夫。
ちゃんと帰る。
誰に言ったのかは分からない。
でも、言わないよりは少しましだった。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「体調は?」
「少し疲れた。でも大丈夫」
母さんは少しだけ笑った。
「いい報告ね」
「体調、報告制なので」
「制度、続いてるのね」
「続いてる」
僕は鞄を置いた。
「今日は部活行ったの?」
「行った。一年生が三人来た」
「よかったじゃない」
「うん」
「疲れた?」
「少し。でも途中で座った」
「えらい」
「座っただけで?」
「座れたのがえらいの」
母さんはそう言った。
昨日と似ている。
休んだことを褒められて、今日は座ったことを褒められた。
頑張ることだけが褒められるわけではない。
その考え方は、まだ少し慣れない。
でも、少しだけ楽だった。
部屋に戻って、僕はノートを開いた。
今日は何を描こうか少し迷った。
黒電話。
家電、難易度高。
帰る前に報告。
でも、報告する相手がいなかった。
僕はシャーペンを持ち、ノートの端に小さなぴょん吉を描いた。
校門の前に立っているぴょん吉。
少しだけ首をかしげている。
横に一言。
『報告相手、不在。』
書いてから、少しだけ寂しくなった。
でも、それだけでは終わらせたくなかった。
その下に、もう一文書く。
『それでも帰宅。』
少し硬い。
でも、悪くない。
誰かに確認されなくても、帰れた。
誰かに聞かれなくても、自分で報告できた。
それも、たぶん必要なことだ。
夜、夕飯のあと、母さんが電話を使っていた。
親戚と話しているらしい。
受話器を持って、台所の横で少し長く話している。
僕はその様子を見ながら、朝の黒電話ぴょん吉を思い出した。
家の電話は、家族のものでもある。
自分だけのものではない。
だから、誰かにかけるには少し勇気がいる。
相手の家にも、相手の家族がいる。
その当たり前のことが、急に大きく感じられた。
部屋に戻り、もう一度ノートを開く。
さっきのぴょん吉の横に、小さな電話を描き足した。
黒電話ではなく、家にあるような普通の固定電話。
四角くて、あまりかわいくない。
でも、今の僕たちにはこっちの方が本物だった。
横に一言。
『まだ早い。でも、いつか。』
書いてから、少しだけ顔が熱くなった。
何が、いつかなのか。
自分でもよく分からない。
ただ、今日はそう書きたくなった。
家の電話はまだ早い。
でも、学校で会える。
朝に確認される。
昼に体調を聞かれる。
帰る前に報告する。
今は、それで十分なのだと思う。
十分なのに、少しだけ不便。
不便なのに、少しだけ嬉しい。
白いノートの端は、また少し賑やかになった。
僕はその端を見ながら、明日の生存確認を少しだけ待っている自分に気づいた。




