第七章 放課後の音
週が明けると、教室の空気は少しだけ変わっていた。
四月の最初の数日間にあった、そわそわした感じが少し薄くなっている。
誰が誰と話すのか。
昼休みにどの席の周りへ集まるのか。
部活が終わったあと、誰と昇降口へ向かうのか。
そういうものが、少しずつ形になり始めていた。
僕の朝も、少しだけ形になっていた。
席に座る。
ノートを出す。
右隣を見る。
滝さんがいれば、生存確認。
いなければ、ノートの端を見る。
それだけで、前より教室に入りやすくなっている気がした。
今日、滝さんはまだ来ていなかった。
少し珍しい。
僕は自分のノートを開いた。
先週描いたぴょん吉たちが、端に並んでいる。
『体調、報告制。』
『見学中。でも参加中。』
『休むのも活動。』
見返すと、少し変だった。
でも、その変さに助けられている。
僕は今日の端に、小さく何も持っていないぴょん吉を描いた。
片耳折れ。
弱い目。
少しだけ首をかしげている。
横に一言。
『隣、未確認。』
書いたところで、教室の入口が少し騒がしくなった。
滝さんが入ってきた。
いつもより少し早足だった。
鞄を持つ手に、楽譜らしきものが挟まっている。
「おはよう」
滝さんが席に着きながら言った。
「おはよう」
「生存確認」
「確認されました」
「遅延確認」
「滝さんが?」
「少し」
「何かあった?」
「楽譜を探してた」
「見つかった?」
「見つかった。鞄の中にあった」
「探す前からあったんだ」
「盲点」
滝さんは真面目な顔で言った。
僕は少し笑った。
「隣、未確認」
滝さんが僕のノートを見て言った。
「来てなかったので」
「確認されました」
「確認されたんだ」
「遅延確認も完了」
滝さんは自分のノートを開いて、すぐにぴょん吉を描いた。
今日のぴょん吉は、楽譜の山の中から顔だけ出していた。
横に一言。
『楽譜、鞄内に潜伏。』
「潜伏してたんだ」
「してました」
「それは見つからない」
「厳しい状況でした」
そこで、教室の入口から如月さんが顔を出した。
「夏美」
「沙耶」
「楽譜は」
「ありました」
「どこに」
「鞄」
如月さんは少しだけ目を細めた。
「最初に見ろ」
「見ました」
「ちゃんと見ろ」
「厳しい」
「当然だ」
いつものやり取りだった。
如月さんはそのまま帰るかと思ったけれど、僕のノートを見た。
「佐倉」
「はい」
「体調は」
「普通です」
「詳細」
「眠気なし。疲れもあまりなし。この前ちゃんと休んだので軽いです」
「よし」
如月さんは短くうなずいた。
滝さんも横でうなずいた。
「報告制、定着」
「定着してるんですか」
「している」
如月さんが言った。
「自己申告が少し上手くなった」
「評価された」
「油断するな」
「厳しい」
「厳しいのはいいことだ」
如月さんはそう言って、自分の教室へ戻っていった。
僕は少しだけ笑いながら、ノートの端に一言足した。
『報告制、定着。油断禁止。』
滝さんがそれを見て、少し嬉しそうにした。
「佐倉くん版、増えてる」
「感染したかも」
「感染確認」
「それ、喜んでいいのかな」
「たぶん」
朝のホームルームが始まり、いつものように一日が動き出した。
授業は少しずつ本格的になってきていた。
春休み明けの復習ばかりではなく、新しい範囲にも入っていく。
三年生になったのだと、教科書の厚みで実感する。
黒板に書かれる文字も、先生の話す速度も、少しだけ去年と違う気がした。
休み時間になると、クラスのあちこちで部活の話が聞こえた。
仮入部の一年生。
大会の予定。
新しい顧問。
吹奏楽部は新入生歓迎の演奏が近いらしい。
剣道部は春の大会に向けて練習が厳しくなるらしい。
美術部は、仮入部の一年生が少し増えた。
それぞれの部活が、少しずつ動き始めている。
昼休み、如月さんはいつも通り来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
完全に合言葉になっていた。
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
誰も何も言わない。
それが少しおかしかった。
「今日、吹奏楽部は遅いのか」
如月さんが滝さんに聞いた。
「たぶん。新入生歓迎の曲を合わせるから」
「楽譜を忘れるな」
「しっかり持ってる」
「鞄から出せるか」
「出せる」
「本当か」
「たぶん」
「信用が弱い」
滝さんは少しだけ口を尖らせた。
僕は笑いそうになった。
「佐倉は」
如月さんがこっちを見る。
「はい」
「美術部か」
「行きます」
「この前は休んだな」
「はい」
「今日は無理するな」
「はい」
「返事だけで済ませるな」
「行動も合わせます」
言い慣れてきている自分が少し怖い。
滝さんがすぐに言った。
「沙耶対応、安定」
「夏美」
「はい」
「評価するな」
「必要なので」
「それは必要ではない」
「厳しい」
そんなやり取りを聞きながら、僕は弁当を食べた。
昼休みの空気は、前よりずっと楽だった。
最初は、二人の会話を横から見ているだけだった。
今も、全部に入れているわけではない。
でも、たまに呼ばれる。
たまに突っ込まれる。
たまに確認される。
それだけで、少し居場所がある気がした。
「佐倉くん」
滝さんが急に言った。
「うん」
「美術部って、放課後どんな音がする?」
「音?」
「うん」
「美術部は、あんまり音しないと思う」
「鉛筆の音とか」
「ああ」
言われてみると、ある。
鉛筆が紙をこする音。
消しゴムで消す音。
水入れに筆を入れる音。
椅子を少し引く音。
誰かが絵の具のチューブを開ける音。
「小さい音はあるかも」
「聞いてみたい」
「地味だよ」
「地味な音、嫌いじゃない」
滝さんはそう言った。
如月さんが横から言う。
「吹奏楽部は大きい音だろう」
「うん」
「剣道部もうるさい」
「自分で言うんだ」
「竹刀の音は大きい」
滝さんが少し考えた。
「じゃあ、放課後は音が違う」
「そうかも」
「美術部は鉛筆」
「吹奏楽部は楽器」
「剣道部は竹刀」
滝さんはノートの端に小さく三匹のぴょん吉を描いた。
一匹は鉛筆を持っている。
一匹は楽器らしきものを持っている。
一匹は竹刀を持っている。
横に一言。
『放課後、別音。』
「別音」
「別々の音」
「いいね」
僕が言うと、滝さんは少しだけ嬉しそうにした。
「本採用?」
「本採用」
如月さんはその絵を見て言った。
「私のぴょん吉だけ強そうだな」
「沙耶なので」
「理由になっているようで、なっていない」
「でも合ってる」
僕が言うと、如月さんがこちらを見た。
「佐倉」
「はい」
「余計なことを言うようになったな」
「すみません」
「謝るところではない」
そう言って、如月さんは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、笑った。
それを見て、滝さんが目を丸くした。
「沙耶が笑った」
「笑っていない」
「笑った」
「見間違いだ」
「佐倉くん」
「少し笑ってました」
「佐倉」
「すみません」
「謝るところではない」
また同じことを言われた。
僕たちは少し笑った。
放課後になると、三人はそれぞれ別の方向へ向かった。
滝さんは音楽室。
如月さんは武道場。
僕は美術室。
校舎の中で、三つの場所は少しずつ離れている。
同じ学校にいるのに、放課後は別の場所へ行く。
それは当たり前のことだった。
でも、昼休みに「放課後、別音」と聞いたせいで、少しだけ意識してしまった。
美術室に入ると、いつもの匂いがした。
紙。
絵の具。
古い棚。
窓から入る少し乾いた春の空気。
仮入部の一年生は、今日は二人だった。
先週より一人少ない。
でも、二人ともちゃんと来ている。
藤野先生が僕に言った。
「佐倉、今日は無理しなくて大丈夫だからね」
「はい」
「座るのも活動」
「はい」
「覚えた?」
「少し」
先生は笑った。
僕は自分の席に座り、静物画の続きを出した。
瓶と布と木箱。
前に描いた時より、少しだけ影を濃くする。
鉛筆を紙に当てる。
しゃっ、しゃっ、という小さな音がする。
これが、美術部の音。
滝さんに言われなければ、考えたこともなかった。
耳を澄ますと、いろいろな音がある。
隣の部員が消しゴムを使う音。
一年生が紙をめくる音。
藤野先生が棚を開ける音。
水道の方で、水を出す音。
静かな部活だと思っていたけれど、無音ではなかった。
小さな音が、少しずつ重なっている。
窓の外からは、遠くの音楽室の音が聞こえた。
まだ曲にはなっていない。
いくつかの楽器が別々に音を出している。
音階の練習。
短いフレーズ。
少し外れた音。
その中に、滝さんのクラリネットもあるのかもしれない。
僕にはどれがそうなのか分からない。
でも、分からないまま聞いているのも悪くなかった。
さらに遠くから、竹刀の音がした。
乾いた音。
床を踏む音。
誰かの声。
たぶん、剣道部だ。
如月さんは、あの音の中にいる。
美術室の鉛筆の音。
音楽室の楽器の音。
武道場の竹刀の音。
放課後、別音。
滝さんの言葉が、思ったより合っている気がした。
僕はノートの端に、小さなぴょん吉を描いた。
鉛筆を持って、耳をすませているぴょん吉。
横に一言。
『別音、確認中。』
描いてから、少しだけ笑った。
「何描いてるの?」
藤野先生が後ろから覗き込んだ。
「あ、すみません」
「謝らなくていいわよ」
「ぴょん吉です」
「増えてるわね」
「増えてます」
「今日は何?」
「放課後の音です」
先生は少しだけ耳をすませるようにした。
遠くから、楽器の音が聞こえる。
さらに遠くで、竹刀の音。
先生は小さくうなずいた。
「いいわね」
「何がですか」
「同じ学校なのに、放課後はみんな違う音の中にいる感じ」
「滝さんが言ってました」
「滝さん、面白いこと言うのね」
「はい」
「佐倉も、それに気づけたならいいじゃない」
そう言われて、僕は少しだけノートの端を見た。
気づけた。
たしかに、少し前なら聞こえていなかった音かもしれない。
美術室にいる時、僕は美術室の中だけを見ていた。
でも今は、遠くの音楽室や武道場まで、少しだけ気になる。
それは、滝さんと如月さんを知ったからだ。
部活が終わる頃、体はそこまで重くなかった。
今日は座りながら描く時間を増やしたからかもしれない。
無理をしない。
それを少しだけ守れた。
片付けをして、昇降口へ向かう。
廊下に出ると、音楽室の音はもう少しまとまっていた。
曲の一部らしきものが聞こえる。
明るいような、少し忙しいようなメロディー。
吹奏楽部は、まだ続いているらしい。
武道場の方からは、竹刀の音が響いている。
剣道部も、まだ終わっていない。
僕は昇降口で靴を履き替えた。
今日は一人で帰ることになりそうだった。
少しだけ残念だと思った。
でも、この前ほど寂しくはなかった。
音が聞こえていたからかもしれない。
同じ学校のどこかに、二人がいる。
そう思うだけで、少し違った。
校門へ向かう途中、後ろから走ってくる足音がした。
「佐倉くん」
滝さんだった。
楽器ケースを持っている。
少し息が上がっていた。
「部活は?」
「休憩」
「抜けてきたの?」
「ちょっとだけ」
「大丈夫?」
「楽譜を取りに行く途中」
「また?」
「今度は本当に必要」
滝さんは真面目な顔で言った。
僕は少し笑った。
「美術部、終わった?」
「うん」
「体調は?」
「普通。少し疲れたけど、この前より大丈夫」
「報告確認」
「帰る前に報告できた」
「制度、正常運用」
滝さんは少し満足そうにうなずいた。
それから、少しだけ耳をすませるようにした。
「美術室の音、聞こえた?」
「聞こえた」
「どんな?」
「鉛筆の音と、消しゴムの音と、紙の音」
「地味」
「地味だよ」
「でも、いい」
「滝さんの音は分からなかった」
「え?」
「クラリネット、どれか分からなかった」
そう言うと、滝さんは少しだけ目を丸くした。
それから、少し笑った。
「今度、分かるように吹きます」
「そんなことできるの?」
「たぶん」
「たぶんか」
「かなり難しい」
「じゃあ、無理しなくていい」
「でも、いつか分かったら本採用」
「何が?」
「音」
滝さんはそう言って、鞄から小さな紙を出した。
昼休みに描いていた三匹のぴょん吉だった。
『放課後、別音。』
その下に、新しく一言が足されていた。
『でも、同じ学校。』
それを見て、少し胸が温かくなった。
「いいね」
「本採用?」
「本採用」
滝さんは小さく笑った。
「じゃあ、私戻る」
「うん」
「また明日」
「また明日」
「生存確認、予約済み」
「確認されます」
滝さんは音楽室の方へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は少しだけ思った。
放課後は、みんな別々の音の中にいる。
でも、同じ学校にいる。
それだけで、少し近い気がした。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は部活?」
「行った」
「体調は?」
「少し疲れたけど、普通」
「ちゃんと言えたわね」
「報告制なので」
母さんは笑った。
「今日は何かあった?」
「放課後の音を聞いた」
「音?」
「美術部の鉛筆の音と、吹奏楽部の楽器の音と、剣道部の竹刀の音」
「いいじゃない」
「そう?」
「うん。学校っぽい」
学校っぽい。
たしかにそうかもしれない。
同じ校舎の中で、それぞれ違うことをしている。
その音が重なって、一日の終わりを作っている。
僕は部屋に戻って、ノートを開いた。
今日のぴょん吉を描く。
耳をすませているぴょん吉。
遠くに三つの小さな記号。
鉛筆。
楽器。
竹刀。
横に一言。
『放課後、別音。』
その下に、滝さんが書いた言葉を思い出して書き足す。
『でも、同じ学校。』
書いてから、少しだけ眺めた。
友達かどうかは、まだ審査中。
でも、同じ学校の違う音の中に、思い浮かぶ人がいる。
それは、たぶん悪くない。
白いノートの端が、また少しだけ広がった気がした。




