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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第五章 友達、審査中

 次の日の朝、僕はいつもより少し早く目が覚めた。


 目覚ましが鳴る前だった。


 カーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 昨日、母さんに言われた言葉が頭に残っていた。


 いい友達ね。


 滝さんと如月さん。


 友達。


 そう言われた時、嫌ではなかった。


 でも、すぐに「そうだ」とは言えなかった。


 友達という言葉は、意外と難しい。


 同じクラスになったばかり。


 話すようになって、まだ数日。


 でも、もう毎朝のように生存確認をされている。


 ノートの端には、ぴょん吉が増えている。


 体調まで報告制になった。


 それは、友達なのだろうか。


 それとも、まだ友達になる途中なのだろうか。


 考えても分からなかった。


 僕は布団から起き上がった。


 体は昨日より軽い。


 肩の重さも、少し取れていた。


 母さんの言う通り、横になるだけでも違うらしい。


 階下に下りると、母さんが朝食を用意していた。


「おはよう」


「おはよう」


「体調は?」


 今日は、母さんにもすぐ聞かれた。


「昨日より軽い」


「普通?」


「普通寄り」


「寄り?」


「体調、報告制なので」


「細かくなったわね」


 母さんは少し笑った。


「いいことだと思うわ」


「そう?」


「大丈夫、だけよりずっといい」


 母さんはお茶を置きながら言った。


「大丈夫って言う時ほど、あまり大丈夫じゃないこともあるから」


「それ、如月さんも同じようなこと言ってた」


「やっぱり、いい友達ね」


 また友達と言われた。


 僕は味噌汁を飲みながら、少しだけ黙った。


「まだ審査中」


「何が?」


「友達かどうか」


 母さんは少し驚いた顔をしたあと、やわらかく笑った。


「友達って、審査してからなるもの?」


「分からない」


「気づいたら、なっていることもあるわよ」


「そういうもの?」


「たぶん」


 母さんまで、たぶんと言った。


 少しおかしかった。


「たぶんが増えてる」


「うつったのかしら」


「感染です」


「何の?」


「滝さんの」


 そう言うと、母さんはまた笑った。


 学校へ行く途中、僕はいつもより少しだけ足取りが軽かった。


 体調がいいからかもしれない。


 昨日、少し疲れていると言えたからかもしれない。


 それとも、今日もまた生存確認されると思っているからかもしれない。


 校門をくぐると、昇降口の掲示板の前に一年生が一人立っていた。


 昨日の仮入部に来ていた子だった。


 美術部の案内を見ている。


 困っている筆の絵も、ちゃんとそこにある。


 僕は少しだけ気まずくなって、足早に通り過ぎようとした。


 すると、その一年生がこちらを見た。


「あ、昨日の先輩」


「おはよう」


「この筆、先輩が描いたんですか?」


「一応」


「なんか、いいですね」


「いい?」


「困ってるのに、見てるとちょっと入りたくなります」


 何だそれは。


 でも、悪い意味ではなさそうだった。


「ありがとう」


 そう言うと、一年生は少し笑って、教室の方へ歩いていった。


 僕は掲示板の前で少しだけ立ち止まった。


 困っている筆を見る。


 昨日より、少しましに見えた。


 自分で描いた絵は、時間が経つと恥ずかしくなる。


 でも、誰かが見て何かを感じてくれたなら、少しだけ恥ずかしさが薄くなる。


 そこへ、背後から声がした。


「作品確認、継続中」


 滝さんだった。


 今日は如月さんも一緒にいた。


「おはよう」


「おはよう」


 僕が返すと、滝さんは掲示板を見た。


「まだ困ってる」


「一晩で解決しないと思う」


「長期戦」


「筆も大変」


 如月さんが掲示板を見る。


「一年が見ていたな」


「うん」


「効果があったのか」


「分からないけど、いいって言われた」


「ならよい」


 如月さんはなんでかちょっと嬉しそう言った。


「保留じゃなかった?」


 滝さんが聞く。


「反応を確認した。採用だ」


「本採用」


「本採用」


 滝さんが嬉しそうに言った。


 僕は少しだけ照れた。


「そこまでの絵じゃないけど」


「佐倉」


 如月さんが僕を見る。


「はい」


「褒められたら、一度受け取れ」


「はい」


「そのあとで反省しろ」


「厳しい」


「厳しいのはいいことだ」


 いつもの言葉。


 でも、今日は少しだけ違って聞こえた。


 褒められたら、一度受け取る。


 簡単そうで、難しい。


 僕は掲示板の紙をもう一度見た。


「じゃあ、受け取ります」


「よろしい」


 滝さんが小さく笑った。


「沙耶対応、上達中」


「判定されてる」


「確認しました」


 教室に入ると、朝の空気は昨日よりさらに馴染んでいた。


 席に座ると、滝さんがノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、困っている筆の横に立っていた。


 片耳折れ。


 顔大きめ。


 体小さめ。


 手には小さな旗を持っている。


 横に一言。


『本採用、受け取れ。』


「命令形」


「沙耶監修」


「監修していない」


 いつの間にか近くに来ていた如月さんが言った。


 滝さんは少しだけ肩をすくめた。


「でも、沙耶っぽい」


「勝手に私っぽくするな」


「厳しい」


「当然だ」


 如月さんは自分の教室へ戻る前に、僕を見た。


「体調は」


 朝の恒例みたいになってきた。


「昨日より軽いです」


「普通か?」


「普通寄り」


「寄り、とは」


「少しだけ眠いけど、体は軽い」


「よし」


 如月さんは短くうなずいた。


 滝さんもノートの端に書いた。


『普通寄り。』


「それ、記録するほど?」


「体調、報告制なので」


「制度がちゃんと動いてる」


「運用開始」


 僕は少し笑った。


 朝のホームルームが始まり、如月さんは自分の教室へ戻っていった。


 担任の先生が連絡事項を話す。


 仮入部期間のこと。


 委員会のこと。


 来週から授業が本格的に進むこと。


 その中に、体育の話もあった。


「今日の五時間目は体育だ。体操服を忘れた者は申し出るように」


 体育。


 その言葉が出ると、少しだけ教室の空気が動いた。


 男子の何人かは嬉しそうだった。


 女子の何人かは面倒そうだった。


 僕は、少しだけノートの端を見た。


 体育は苦手だ。


 嫌いというより、扱いが難しい。


 見学が多い。


 できる範囲で参加する日もある。


 無理はしない。


 それは分かっている。


 でも、四月の新しいクラスで体育を見学するのは、少し気が重い。


 目立つからだ。


 クラス替え直後は、まだみんながお互いをよく知らない。


 そんな時に一人だけ見学していると、どうしても理由を聞かれる。


 聞かれること自体が悪いわけではない。


 でも、説明するたびに自分の体のことを確認させられるようで、少し疲れる。


 滝さんが小さく聞いた。


「体育、見学?」


「たぶん」


「たぶん?」


「先生に確認してから」


「そっか」


 滝さんはそれ以上聞かなかった。


 その沈黙が、少しありがたかった。


 午前の授業が終わり、昼休みになった。


 如月さんは今日も来た。


 もう、来るのが当たり前みたいになっている。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 同じやり取り。


 でも、毎回少しだけ安心する。


 僕も弁当を出した。


 如月さんは座るなり言った。


「体育があるな」


「あります」


「見学か」


「たぶん」


「たぶんではなく、確認しろ」


「はい」


「無理に参加するな」


「はい」


 滝さんが弁当を開けながら言った。


「体調、報告制に体育項目が追加されました」


「新項目か」


「必要なので」


「それは必要だ」


「採用?」


「採用」


 早い。


 でも、これはたぶん本当に必要なのだと思った。


「体育の先生には、話してあるのか」


 如月さんが聞いた。


「前の学年から引き継ぎはあると思う」


「自分でも言え」


「はい」


「先生が知っていると思って黙るな」


「はい」


「返事だけで済ませるな」


「行動も合わせます」


 僕がそう答えると、滝さんがまた小さく笑った。


「沙耶対応、かなり上達」


「評価されてる」


「本採用」


「また採用された」


 如月さんは呆れたように息を吐いた。


「お前たちは、すぐ採用する」


「必要なので」


 滝さんが言う。


 如月さんは何か言いかけて、やめた。


 そして、弁当を食べながら少しだけ口元を緩めた。


 五時間目の体育は、校庭だった。


 体操服に着替え、クラス全員で外へ出る。


 春の風が少しだけ強い。


 校庭の端には、まだ桜の花びらが残っていた。


 準備運動の前に、僕は体育の先生のところへ行った。


「あの、佐倉です」


「ああ、聞いてる。今日はどうする?」


「見学でお願いします」


「分かった。無理はしなくていい」


「はい」


 それだけだった。


 思っていたより簡単だった。


 先生は出席簿に何かを書き込んで、僕に校庭の端のベンチを指した。


「気分が悪くなったら、すぐ言うこと」


「はい」


 僕はベンチへ向かった。


 何人かの視線を感じた。


 でも、思っていたほどではない。


 クラスメイトたちは準備運動の方に意識が向いていた。


 少しだけほっとした。


 ベンチに座ると、校庭全体がよく見えた。


 滝さんは女子の列に並んでいる。


 運動が得意そうには見えないけれど、動きは丁寧だった。


 髪を後ろで軽く結んでいて、教室とは少し雰囲気が違う。


 如月さんは別のクラスなので、ここにはいない。


 もし同じ体育だったら、たぶんものすごく姿勢のいい準備運動をするのだろうと思った。


 授業は短距離走の測定だった。


 見学でよかったと思った。


 全力で走るのは、今の僕には厳しい。


 走れないわけではない。


 でも、全力を出したあとが怖い。


 無理をした時、体はすぐには怒らない。


 少しあとから、まとめて来る。


 それが厄介だった。


 僕はベンチで、クラスメイトが走るのを見ていた。


 滝さんの番が来た。


 スタートラインに立つ。


 少し緊張しているように見えた。


 笛が鳴る。


 滝さんは走った。


 速くはない。


 でも、最後までちゃんと走った。


 ゴールしたあと、少し息を切らしながらこちらを見た。


 目が合った。


 滝さんは小さく片手を上げた。


 僕も、少しだけ手を上げ返した。


 それだけだった。


 でも、少し嬉しかった。


 授業が終わる頃、滝さんがベンチの方へ来た。


「生存確認、体育後」


「僕は見学だったけど」


「見学も体力を使う」


「そうかな」


「気を使う」


 その言葉に、少し驚いた。


 滝さんは、やっぱり変なところを見ている。


 でも、そこは合っていた。


 見学は体力を使わない。


 でも、気を使う。


「合ってる」


「確認しました」


 滝さんは少し笑った。


「佐倉くんは?」


「何が?」


「体育、見てて嫌だった?」


 少し答えに迷った。


 でも、体調報告制がある。


 たぶん、こういうのも報告していいのかもしれない。


「少しだけ」


「うん」


「走れないのが嫌というより、見られるのが嫌」


「うん」


「でも、今日は思ったより大丈夫だった」


「そっか」


 滝さんはそれ以上、何も言わなかった。


 代わりに、ポケットから小さな紙を出した。


 そこには、ベンチに座るぴょん吉が描かれていた。


 横に一言。


『見学中。でも参加中。』


「いつ描いたの?」


「体育終わってから急いで」


「早い」


「簡易版」


「でも、いいね」


「本採用?」


「本採用」


 滝さんは少しだけ嬉しそうにした。


 教室に戻ると、少しだけ疲れが出た。


 体育に参加していないのに、肩が重い。


 やっぱり気を使ったのだと思う。


 帰りのホームルームが終わる頃には、今日は美術部に行くか少し迷った。


 行けないほどではない。


 でも、昨日も少し疲れていた。


 今日も体育で気を使った。


 こういう時に無理をすると、あとで来る。


 母さんの言葉。


 如月さんの言葉。


 滝さんの「見学も体力を使う」という言葉。


 いろいろ頭の中に出てきた。


 僕は鞄を持って、美術室へ向かう前に、少しだけ立ち止まった。


 行くか。


 休むか。


 どちらも大げさなことではない。


 でも、僕には少し難しい選択だった。


 その時、廊下の向こうから藤野先生が歩いてきた。


「佐倉」


「あ、先生」


「今日、体育あったでしょ」


「はい」


「部活、無理しなくていいわよ」


 先生は何でもないように言った。


「顔に出てます?」


「少し」


「母さんにもよく言われます」


「でしょうね」


 先生は笑った。


「来たいなら来てもいい。でも、休むのも活動のうち」


「休むのも?」


「そう。絵を描くには、描ける状態の自分も必要だから」


 その言葉は、すっと入ってきた。


 描ける状態の自分。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 僕は少しだけ迷ってから、言った。


「今日は帰ります」


「うん。それがいいと思う」


「すみません」


「謝らない」


「はい」


「明日、また来ればいいのよ」


「はい」


 美術室へ行かずに帰る。


 それだけのことなのに、少しだけ罪悪感があった。


 でも、前よりは軽かった。


 昇降口へ向かうと、滝さんと如月さんがいた。


 今日は二人とも部活前らしい。


 滝さんは楽器ケースを持っていて、如月さんは竹刀袋を肩にかけている。


「あれ」


 滝さんが言った。


「美術部は?」


「今日は休む」


 言うと、滝さんが少し目を丸くした。


 如月さんはすぐにうなずいた。


「よい判断だ」


「早い」


「採用」


 珍しく如月さんが言った


「何が採用されたの」


「休む判断」


 如月さんは真面目に言った。


 滝さんも少し安心したように笑った。


「体調、報告制が機能してる」


「そうかも」


「帰ったら休む?」


「うん」


「生存確認、帰宅後?」


「家の電話?」


 言ってから、少しだけ変な空気になった。


 まだ家に電話するほどの関係ではない。


 そもそも、滝さんの家の番号も知らない。


 だから、学校を出たら、次に会うのは基本的に明日だ。


 スマホどころか携帯電話すらない。


 今の時代は、それが普通だった。


 でも、今の会話で、ほんの少しだけその普通が不便に感じた。


 滝さんも同じことを思ったのか、少しだけ視線を落とした。


「あ、明日確認で」


「うん。明日確認されます」


「仮予約」


「分かりました」


 如月さんが横から言った。


「夏美、部活に遅れるぞ」


「うん」


 滝さんは僕を見た。


「また明日」


「うん。また明日」


「今日は、ちゃんと休んで」


「うん」


「体調、報告制なので」


「分かってる」


 僕はそう答えて、二人と別れた。


 校門を出る時、少しだけ振り返った。


 滝さんと如月さんは、それぞれの部活へ向かって歩いていた。


 僕は一人で帰る。


 少し前なら、それは普通のことだった。


 でも今日は、少しだけ違って感じた。


 帰り道、春の風が吹いていた。


 桜の花びらは、もうかなり少なくなっている。


 四月はまだ始まったばかりなのに、桜はもう終わりに向かっている。


 季節は、思っているより早く進む。


 三年生の一年も、きっとそうなのだろう。


 家に帰ると、母さんはすぐに言った。


「早いわね」


「部活、休んだ」


「えらい」


「えらいの?」


「えらいわよ。無理しなかったんだから」


 そう言われると、少し変な感じがした。


 頑張ったわけではない。


 むしろ、休んだ。


 でも、母さんはそれを褒めた。


「体育あったから」


「疲れた?」


「少し。あと、気を使った」


「見学?」


「うん」


「そうね。見学も疲れるわよね」


 母さんも、滝さんと同じことを言った。


 僕は少しだけ笑った。


「何?」


「同じこと言われた」


「誰に?」


「滝さん」


「やっぱり、いい友達ね」


 またその言葉だった。


 でも、今日は昨日より少しだけ受け取りやすかった。


「たぶん」


 僕は答えた。


「たぶん、いい友達」


 母さんはそれ以上何も言わず、ただ笑った。


 部屋に戻って、僕はノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、ベンチに座っていた。


 滝さんが描いたものを思い出しながら、自分でも描いてみる。


 やっぱり弱い。


 でも、今日はそれでよかった。


 横に一言。


『見学中。でも参加中。』


 その下に、もう一つ。


『休むのも活動。』


 藤野先生の言葉だ。


 書いてから、少しだけ肩の力が抜けた。


 休むことは、何もしないことではない。


 明日また描くために、今日休む。


 そう考えると、少し楽だった。


 僕はノートを閉じて、布団に横になった。


 眠るほどではないと思っていた。


 でも、横になったらすぐにまぶたが重くなった。


 遠くで、母さんが台所にいる音が聞こえる。


 学校では、今ごろ滝さんが楽器を吹いているかもしれない。


 如月さんは竹刀を振っているかもしれない。


 僕だけが家にいる。


 でも、不思議と置いていかれた感じはしなかった。


 明日、また確認される。


 体調を聞かれる。


 たぶん、少しだけ怒られる。


 それが、今は少しだけ心強かった。


 友達かどうかは、まだ審査中。


 でも、白いノートの端には、もうその途中の線が残っている。


 僕はそれを思いながら、少しだけ眠った。


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