第二十六章 確認の残り方
活動ノートが一年生の手元に渡ってから、数日が過ぎた。
その間に、滝さんの曜日確認は少しずつ減っていった。
なくなった、というより、毎朝わざわざ言わなくても分かるようになったのだと思う。
月曜日なら月曜日の空気がある。
火曜日なら火曜日の軽さがある。
水曜日なら、水曜日の少しだけ真ん中にいる感じがある。
そういうものを、いちいち言葉にしなくても、教室に入って、いつもの席に座って、左隣から「おはよう」と聞こえれば、それだけで分かるようになっていた。
ただ、生存確認だけは残った。
「おはよう」
左から声がした。
滝さんだった。
「おはよう」
僕が返すと、滝さんはいつものようにこちらを見た。
「生存確認」
「確認されました」
「体調は?」
「普通」
「普通確認」
「確認されました」
曜日は言わない。
でも、それだけで朝がいつもの形になる。
僕も、それを変だとは思わなくなっていた。
滝さんは席に着くと、ノートを開いた。
今日のぴょん吉は、小さな活動ノートを机に置いていた。
開いているページには、まだ何も書かれていない。
でも、その横に鉛筆が一本置いてある。
「今日は活動ノート?」
「使用中」
「まだ書いてない」
「これからなので」
「なるほど」
滝さんは小さくうなずいた。
「線も、使われる前と使われた後で違う」
「難しいこと言う」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「未確認」
その言い方が久しぶりで、少しだけ懐かしく感じた。
少し前までは、何でも未確認だった。
今も未確認なことは多い。
でも、その中のいくつかは、少しずつ日常になっていた。
一時間目が始まる。
黒板を見る。
ノートを取る。
先生の声を聞く。
左隣で、滝さんが鉛筆を動かす音がする。
その音も、前より少しだけ聞き慣れてきた気がする。
聞き慣れたからといって、気にならないわけではない。
ただ、気になることが当たり前になっているだけだった。
それはいいことなのか、悪いことなのか、まだ分からない。
昼休み、如月さんが来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
この流れも、いつの間にか当たり前になっていた。
最初は、如月さんが来るたびに少し緊張していた気がする。
今は、来ない方が少し変に感じる。
「今日は曜日確認はないのか」
如月さんが唐揚げを食べながら言った。
滝さんは箸を止めずに答えた。
「減少中」
「減ったのか」
「うん」
「なぜ」
「毎朝言わなくても、曜日は分かるようになった」
「当たり前だ」
「当たり前確認」
「するな」
如月さんはすぐに返した。
僕は少し笑った。
「でも、生存確認は残ってます」
僕が言うと、如月さんがこちらを見る。
「それは残しておけ」
「残すんですか」
「お前には必要だろう」
「信用がない」
「信用はしている」
「そのあとが怖いですね」
「だから確認する」
如月さんは短く言って、また弁当に目を落とした。
滝さんはノートの端に何かを書いている。
「何を書いてるの?」
「残る確認」
「また増えた」
「必要なので」
「何が残るの?」
僕が聞くと、滝さんは少し考えた。
「生存確認」
「そこなんだ」
「あと、活動ノート」
「活動ノートも?」
「使われてる」
滝さんがそう言ったところで、僕は美術室のことを思い出した。
活動ノートは、配った日だけのものではなくなっていた。
放課後に美術室へ行くと、それはすぐに分かった。
一年生たちは、活動ノートを普通に机の上に置いていた。
道具の場所を確認する時に開く。
先生に言われたことをメモ欄に少し書く。
紙の端に、名前を書いている子もいる。
最初に渡した時の緊張した感じは、もう少し薄れていた。
でも、薄れたからこそ、ちゃんと使われている感じがした。
「佐倉先輩」
山城くんの弟が、自分の活動ノートを見せてきた。
「ここ、書いてみました」
開かれていたのは、最後のメモ欄だった。
そこには、小さな字で、
『筆は案内係。ぴょん吉は見守り係。』
と書かれていた。
「見守り係」
僕が読むと、山城くんの弟は少し恥ずかしそうに笑った。
「勝手に決めました」
「いいと思う」
「本当ですか」
「うん。ぴょん吉、見守ってそうだし」
「ですよね」
山城くんの弟は、少し嬉しそうだった。
自分が描いたぴょん吉に、誰かが役割を付けている。
それは少し不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、そう見えるのならそれでいいと思った。
「佐倉」
藤野先生が声をかけてきた。
「活動ノート、ちゃんと使われてるでしょう」
「はい」
「手元に渡ると、少し変わるのよ」
「変わりますね」
「作った人のものだけではなくなるから」
先生は当たり前みたいに言った。
当たり前なのに、少しだけ胸に残った。
作った人のものだけではなくなる。
それは、少し怖い。
でも、前よりは怖くなかった。
山城くんの弟がメモ欄に書いた言葉を見る。
筆は案内係。
ぴょん吉は見守り係。
僕がそこまで決めたわけではない。
でも、そう見えたなら、それも線の残り方なのだと思った。
部活の途中で、音楽室の方から音が聞こえた。
最近は、前より少し曲らしく聞こえる。
同じところを何度も繰り返しているのは分かる。
でも、ただの候補ではなくなった感じがあった。
僕には、どこが難しいのかまでは分からない。
それでも、少し明るい曲だということだけは何となく分かった。
明るいのに、途中が難しい曲。
滝さんが言っていた言葉を思い出す。
明るい方が、難しい時もある。
その音が滝さんの音かどうかは、やっぱり分からない。
でも、以前よりも、分からないことに慣れてきた気がした。
全部確認できなくても、そこにあると分かるものがある。
音も、線も、たぶんそういうものなのかもしれない。
美術部が終わって廊下に出ると、滝さんが待っていた。
今日も楽器ケースを持っている。
如月さんも、少し遅れて来た。
「お疲れ」
「お疲れ」
滝さんがこちらを見る。
「活動ノートは?」
「使われてた」
「使用確認」
「確認されました」
「ぴょん吉は?」
「見守り係になってた」
滝さんは少しだけ目を動かした。
「見守り係」
「山城くんの弟が書いてた」
「採用」
「勝手に?」
「合ってるので」
滝さんは真面目な顔で言った。
僕は少し笑った。
「滝さんの曲は?」
「少し進んだ」
「曲っぽくなってた」
「聞こえた?」
「うん。でも滝さんの音かは分からない」
「未確認」
「未確認」
久しぶりにその言葉を同じように言って、少しだけ笑った。
滝さんも、ほんの少し笑った。
如月さんがこちらを見る。
「まだ未確認なのか」
「音なので」
滝さんが答える。
「音なら仕方ないのか」
「仕方ない」
「便利な言い方だな」
「便利」
滝さんは小さくうなずいた。
三人で校門へ向かう。
日が少し長くなってきた気がした。
夕方なのに、空の色が前より少し明るい。
五月の終わりが、少しずつ近づいているのかもしれない。
校門のところで、如月さんが空を見上げた。
「そろそろ雨が増えるな」
「雨?」
「もう少ししたら、梅雨だろう」
「梅雨」
その言葉で、少しだけ空気が湿った気がした。
まだ雨は降っていない。
でも、遠くにその気配だけがある。
「雨の日は体調が崩れやすいのか」
如月さんが僕を見る。
そんなことも分かるのか、とちょっと感心してしまった。
と言ってもこれは一般常識の範囲なのかもしれないが。
「日によります」
「曖昧だな」
「体が曖昧なので」
「それは困る」
如月さんは短く言った。
滝さんがこちらを見る。
「雨の日、生存確認」
「増えるの?」
「必要なら」
「まだ雨降ってないよ」
「予告確認」
「そんな確認ある?」
「ある」
滝さんは真面目にうなずいた。
僕は少し笑った。
曜日確認は減った。
でも、生存確認は残った。
それに、雨の日確認まで増えるかもしれない。
減ったのか増えたのか、少し分からなかった。
でも、それを嫌だとは思わなかった。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
「活動ノート、使われてた」
「もう?」
「うん。ぴょん吉が見守り係になった」
「見守り係?」
「一年生がそう書いてた」
母さんは少しだけ笑った。
「いいじゃない」
「いいのかな」
「役目をもらったみたいで」
「役目」
「そういうの、嬉しいでしょう」
言われて、少し考えた。
嬉しい。
たぶんそうだ。
でも、それだけではない。
自分の描いたものが、自分の知らないところで少しずつ名前をもらっていく。
それは少し落ち着かなくて、でも嬉しい。
「雨、増えるかな」
僕が言うと、母さんは窓の方を見た。
「そろそろね」
「雨の日って、体調悪くなっちゃうよね」
母さんはため息をつきながら
「まあ、日によるわよね」
と言っていた。
「如月さんにも同じようなこと言ってた」
「あら」
母さんは笑った。
「じゃあ、雨の日は無理しないことね」
「またそれ」
「必要なので」
母さんがそう言った。
滝さんの真似なのか、たまたまなのか分からなかった。
こんなことまで話したっけ?とちょっと考えたけど
僕は笑ってしまった。
夜、ノートを開いた。
今日のぴょん吉は、活動ノートの端に座っていた。
胸には、小さく『見守り係』と書かれた札を下げている。
その横で、筆は道の前に立っている。
音符は、少しだけ曲らしく並んでいた。
僕はその下に書いた。
『曜日確認、減少。』
少し考えて、もう一行足す。
『生存確認、継続。』
さらに、美術室で見たメモ欄を思い出して書いた。
『ぴょん吉、見守り係。』
確認の形は、少しずつ変わっている。
活動ノートも、少しずつ使われ方が変わっている。
曲も、候補から少しずつ曲になっている。
全部が少しずつ変わっているのに、ちゃんと残っているものもある。
白いノートの端で、ぴょん吉は見守り係の札を下げたまま座っていた。
その隣で、筆はまだ道の先を全部は描いていない。
音符は、少しだけ前より明るく並んでいる。
五月の終わりが、少しずつ近づいていた。
まだ雨は降っていない。
でも、次の季節の気配だけが、窓の外に少しだけ残っていた。




