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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第二十五章 手元に渡る線

 火曜日の朝は、少しだけ落ち着かなかった。


 体調が悪いわけではない。


 むしろ、木曜日や金曜日のことを思えば、かなり普通に近かった。


 階段を下りる時も、足は重くない。


 朝ご飯も、ちゃんと食べられた。


 それでも、胸の奥に小さな紙が一枚挟まっているような感じがした。


 活動ノート。


 昨日、藤野先生が試し刷りをすると言っていた。


 まだ本格的に配るかどうかは分からない。


 でも、配る手前まで来ている。


 そう思うと、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 教室に入ると、火曜日の空気があった。


 昨日よりは少しだけ軽い。


 でも、週の始まりから完全に抜けたわけでもない。


 僕はいつもの席に座った。


 左隣は、まだ静かだった。


 鞄を机の横にかけて、ノートを出す。


 昨日のページには、布団を片づけ終えたぴょん吉がいた。


 少し眠そうな顔をしたまま、小さな道の前に立っている。


 その横で、筆は小さな道の方を指していた。


 道の先は、まだ白いままだった。


 音符は、昨日よりまっすぐになっていた。


『週明けの余白。』


『次の線、配る手前。』


『次の音、始まる手前。』


 手前。


 昨日はそう書いた。


 でも、手前にいる時間は、思っていたより落ち着かない。


 始まってしまえば、たぶん少し楽になる。


 でも、始まる前は、まだいくらでも考えられてしまう。


「おはよう」


 左から声がした。


 滝さんだった。


「おはよう」


 滝さんは席に着くと、いつものようにこちらを見た。


「火曜日確認」


「確認されました」


「生存確認」


「確認されました」


「体調は?」


「普通」


 滝さんは少しだけ間を置いた。


「普通?」


「昨日より普通」


「経過観察、さらに継続」


「まだ続くんだ」


「必要なので」


 滝さんはノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、小さな冊子を前にして立っていた。


 でも、まだ冊子には触っていない。


 横に小さく書かれている。


『火曜日、配布前。』


「触ってない」


「配布前なので」


「厳密」


「必要なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


「活動ノート、今日?」


「たぶん」


「たぶん確認」


「まだ分からないから」


「配布前確認」


「確認されました」


 そう答えたあと、僕は少しだけノートを見た。


 滝さんのぴょん吉は、冊子を前にして待っている。


 その姿が、今の僕に少し似ている気がした。


 触れる手前。


 渡る手前。


 始まる手前。


 手前ばかりだった昨日から、少しだけ先へ進む日なのかもしれない。


 一時間目も二時間目も、授業は普通に過ぎた。


 ただ、気づくと活動ノートのことを考えていた。


 試し刷りしたら、表紙の線はどう見えるのだろう。


 山城くんの弟が足した線は、ちゃんと残っているだろうか。


 ぴょん吉の顔は、半分だけ出ている感じに見えるだろうか。


 そんなことを考えていると、黒板の文字を少し写し損ねた。


 慌てて続きを書く。


 手元のノートに並ぶ文字は、少しだけ斜めになっていた。


 


 昼休み、如月さんが来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 滝さんが弁当箱を出す。


 僕も弁当を出す。


 如月さんが椅子を持ってくる。


 火曜日の昼休みは、昨日より少しだけ賑やかだった。


 週明けの眠たさが抜けてきたのか、周りの声も少し戻っている。


「活動ノートは今日か」


 如月さんが弁当を開けながら聞いた。


「たぶん」


「たぶんか」


「試し刷りまでは行くと思います」


「配るのか?」


「それは先生次第ですね」


「気負うなよ」


 如月さんは白米を食べながら言った。


「気負ってるように見えます?」


「少しな」


「顔ですか」


「全体だ」


「全体」


「顔だけではない」


 妙に細かい訂正だった。


 僕は少し笑った。


 滝さんがこちらを見る。


「配布前確認」


「それ、朝もされた」


「昼も必要」


「そんなに?」


「配る前なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


 如月さんが小さく息を吐く。


「他の人に渡ったら、渡ったで終わりではないぞ」


「え?」


「一年生が使うんだろう」


「はい」


「なら、渡ってから始まる部分もある」


 如月さんは短く言った。


 その言葉に、少しだけ箸が止まった。


 配ったら終わり。


 どこかでそう思っていたのかもしれない。


 でも、よく考えたら違う。


 活動ノートは、配ってから使われる。


 線は、手元に渡ってから残る。


「また難しいこと言いますね」


「普通のことだ」


「普通ですか」


「普通だ」


 如月さんはそれ以上言わなかった。


 滝さんがノートの端に何かを書いている。


「何を書いてるの?」


「渡ってから確認」


「また確認増えた」


「必要なので」


 僕は少し笑った。


 でも、如月さんの言葉はちゃんと残っていた。


 渡ってから始まる部分もある。


 それは、少し怖くて、少し嬉しい言葉だった。


 


 放課後、美術室へ行くと、藤野先生が机の上に小さな冊子を何冊か並べていた。


 白い紙を重ねて、左上をホチキスで留めただけの簡単なものだ。


 でも、表紙がついているだけで、ちゃんと活動ノートに見えた。


 僕は入口で少し立ち止まった。


 案内している筆。


 小さな道。


 顔を半分だけ出しているぴょん吉。


 右下の余白。


 そして、山城くんの弟が足した線も残っていた。


 コピーされた線は、元の鉛筆の線より少しだけ薄くなっている。


 でも、消えてはいなかった。


「佐倉、ちょうどよかった」


 藤野先生が言った。


「試し刷り、できたんですね」


「うん。まずは数冊だけね」


 先生は活動ノートを一冊持ち上げた。


「思ったより見やすいわ。表紙の余白もいい感じ」


「本当ですか」


「本当。詰め込みすぎていないのがいいのよ」


 詰め込みすぎていない。


 その言葉に、少しだけ安心した。


 描かなかったところ。


 埋めなかったところ。


 残した余白。


 それも、ちゃんと表紙の一部になっている。


「今日は一年生に見せて、問題なさそうならこの形で配りましょう」


「もう今日、配るんですか」


「ええ。見本と言っても、使えるものだから」


 配る。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の紙が少し揺れた。


 手元に渡る。


 昨日まで、そうなる手前だった線が、今日、本当に誰かの手元へ行く。


 山城くんの弟が美術室に入ってきた。


 ほかの一年生たちも、少し遅れて入ってくる。


 藤野先生は活動ノートを手に取ると、一年生たちに向かって言った。


「これ、今日から使う活動ノートです」


 一年生たちが机の前に集まる。


「道具の場所や活動日のことを書いてあります。最後にメモ欄もあるから、気づいたことがあったら使ってね」


「これ、もらえるんですか?」


 一年生の一人が聞いた。


「もちろん。自分のものとして使っていいわよ」


 自分のもの。


 その言葉で、僕は少しだけ息を止めた。


 掲示板は、学校に残るものだった。


 でも、活動ノートは違う。


 鞄に入る。


 家に持って帰られる。


 誰かの机に置かれるかもしれない。


 もしかしたら、使い終わった後も、しばらく引き出しに残るかもしれない。


 僕の線は、学校の中だけではなくなる。


 そう思うと、嬉しいより先に、少し怖かった。


 山城くんの弟が活動ノートを受け取った。


 表紙を見て、すぐに顔を上げる。


「これ、僕の線も残ってる」


 小さな声だった。


 でも、僕にはちゃんと聞こえた。


「消さなかった」


 僕が言うと、山城くんの弟は少し驚いた顔をした。


「いいんですか」


「いいと思ったから残したよ」


「でも、僕が勝手に足した線です」


「でも、あった方がよかった」


 そう言うと、山城くんの弟は活動ノートの表紙をもう一度見た。


 案内している筆の横に、小さな道がある。


 その道は、僕が最初に描いたものではない。


 でも、今は表紙の中にちゃんとある。


「ありがとうございます」


 山城くんの弟が言った。


 僕は少しだけ返事に困ってから、うなずいた。


「こちらこそ」


「こちらこそ?」


「その線があったから、寂しそうじゃなくなった」


 山城くんの弟は、少し照れたように笑った。


 その笑い方を見て、少しだけ胸の奥が軽くなった。


 僕だけの線ではなくなっている。


 それは、怖いだけではないらしい。


 藤野先生がこちらを見て、少しだけうなずいた。


 何か言われたわけではない。


 でも、それだけで少し安心した。


 部活の時間は、いつもより少し不思議だった。


 一年生たちは、それぞれ活動ノートを開いている。


 道具の場所を確認する子。


 メモ欄に日付を書く子。


 表紙のぴょん吉を指差して、小さく笑っている子。


 机の上に、同じ表紙が何冊もある。


 でも、持っている人が違うと、少しずつ違って見えた。


 紙の角を丁寧に押さえる子。


 すぐに鞄にしまう子。


 何度も表紙を見返す子。


 同じ線なのに、手元に渡ると、少しずつ違うものになる。


 それが、不思議だった。


「佐倉」


 藤野先生が近づいてきた。


「はい」


「いい形になったわね」


「僕だけのじゃないです」


「そうね」


 先生は小さく笑った。


「だから、いい形になったのかもしれないわ」


 僕は活動ノートを見た。


 自分の線。


 山城くんの弟の線。


 先生の言葉。


 一年生の手。


 全部が少しずつ混ざっている。


 ノートの端に描いていたぴょん吉が、ここまで来た。


 そう思うと、少しだけ変な感じがした。


 


 美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。


 今日は楽器ケースを持っている。


 如月さんも少し遅れて来た。


「お疲れ」


「お疲れ」


 滝さんがこちらを見る。


「活動ノートは?」


「配った」


「配布確認」


「確認されました」


「嬉しい?」


 そう聞かれて、少し考えた。


 嬉しい。


 それはたぶん本当だ。


 でも、それだけではない。


「たぶん」


「たぶん?」


「嬉しいけど、少し怖い」


「手元に残るから?」


 滝さんがすぐに言った。


 僕は少し驚いた。


「うん」


「残っていい線だと思う」


 滝さんは淡々と言った。


 でも、その言葉はすぐには流れていかなかった。


 残っていい線。


 そう言われると、胸の奥が少しだけ静かになった。


 静かになったはずなのに、今度は別のところが少しだけ落ち着かなくなる。


 滝さんは、ただ前を見ていた。


 いつもみたいに、特別なことを言った顔はしていない。


 それなのに、僕はその横顔を少し長く見てしまった。


「佐倉くん?」


 滝さんがこちらを見る。


「あ、いや」


 何か言わないといけない気がした。


 でも、すぐに言葉が出てこなかった。


「ありがとう」


 ようやくそれだけ言うと、滝さんは小さくうなずいた。


「確認しました」


「そこも確認なんだ」


「必要なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


 その真面目さに少し助けられたところで、如月さんがこちらを見た。


「渡ったのか」


「はい」


「なら、次は使われるだけだな」


「次が早い」


「渡したなら、そうなる」


 如月さんは短く言った。


 昼休みに言っていたことと同じだった。


 渡ってから始まる部分もある。


 活動ノートは、もう僕の手元だけにはない。


「滝さんは?」


 僕が聞くと、滝さんは楽器ケースを少し持ち直した。


「今日、少し曲になった」


「候補じゃなくて?」


「候補じゃなくなった」


「次の音、始まった?」


「少し」


 滝さんは小さくうなずいた。


「まだ難しい?」


「難しい」


「明るいのに?」


「明るいから」


「そっか」


 全部は分からなかった。


 でも、分からないままでも、少しだけ分かるところがあった。


 線も、音も、手前から少しだけ進んでいる。


 進んだら終わりではなくて、進んだ場所からまた続きが始まる。


 三人で校門へ向かった。


 火曜日の夕方は、昨日より少しだけ輪郭がはっきりしていた。


 月曜日の余白が、少しずつ埋まっていく。


 でも、全部は埋まらない。


 残しておいた余白に、次の何かが入ってくる。


 そんな気がした。


 校門のところで、滝さんが言った。


「手元に渡る線」


「うん」


「次の音、少し開始」


「うん」


「両方、確認」


「確認されました」


 如月さんが少しだけため息をついた。


「何でも確認するな」


「必要なので」


「便利すぎるな」


「便利」


 滝さんは小さくうなずいた。


 僕は少し笑った。


 笑いながら、鞄の中に入っている自分のノートを思い出した。


 白いノート。


 そこに描いていた線。


 それが、今日、誰かの鞄の中にも入った。


 そう思うと、少しだけ不思議だった。


 


 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


「活動ノート、配った」


「あら、もう?」


「うん」


「緊張した?」


「した」


「でしょうね」


 母さんは笑った。


「でも、よかったじゃない」


「うん。よかった」


 今日は、素直にそう言えた。


 少し怖い。


 少し嬉しい。


 でも、それも含めて、よかった。


「誰か、喜んでくれた?」


「一年生が」


「それはよかったわね」


「あと、山城くんの弟の線も残した」


「山城くんの弟?」


「一年生。少し線を足してくれた子」


「そう」


 母さんは魚を焼くオーブンを見ながら、少しだけ笑った。


「一人で作ったものじゃないのね」


「うん」


「いいじゃない」


「いいのかな」


「いいと思うわよ」


 母さんは簡単に言った。


 でも、その簡単さが少しありがたかった。


 夜、ノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、小さな冊子を抱えていた。


 その横で、筆は少しだけ前を歩いている。


 音符は、昨日より少しだけ弾んでいるように見えた。


 僕はその下に書いた。


『手元に渡る線、確認。』


 少し考えて、もう一行足す。


『消さなかった線、確認。』


 さらに、滝さんの言葉を思い出して書いた。


『次の音、少し開始。』


 線は、僕の手を離れても消えなかった。


 むしろ、誰かの手元に渡ったことで、少しだけ残り方が変わった。


 白いノートの端で、ぴょん吉は小さな冊子を抱えていた。


 その隣で、筆は少しだけ前を歩いている。


 音も線も、もう手前ではなかった。


 でも、始まったからこそ、また次の途中が増えていくのだと思った。


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