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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第二十七章 雨の日確認

 朝から雨が降っていた。


 強い雨ではない。


 でも、窓の外がずっと細かく濡れているような雨だった。


 屋根に当たる音も、地面に落ちる音も、はっきりとは聞こえない。


 ただ、空気だけが少し重い。


 そういう雨だった。


 起き上がった時、体も少しだけ重かった。


 木曜日みたいに、動きたくないほどではない。


 金曜日みたいに、周りにすぐ気づかれるほどでもない。


 でも、いつもより少しだけ、体の中に水分が多いような感じがした。


 母さんは朝ご飯の時、僕の顔を少し見た。


「今日は雨ね」


「うん」


「無理しないこと」


「朝から?」


「朝から」


 母さんは当たり前みたいに言った。


「雨の日って、体が重い時あるでしょう」


「日による」


「なら、今日はその日かどうか、ちゃんと見ておきなさい」


「確認ですね」


「確認ね」


 母さんはそう言って、味噌汁を置いた。


 最近、僕の周りでは確認が増えたり減ったりしている。


 曜日確認は減った。


 生存確認は残った。


 そこに雨の日確認まで増えたら、結局減っていない気もする。


 でも、雨の音を聞きながら朝ご飯を食べていると、今日は確認があってもいい日なのかもしれないと思った。


 傘を差して学校へ向かった。


 雨は細いまま降っていた。


 道の端にできた水たまりを避けながら歩く。


 傘に雨粒が当たる音が、頭の上で細かく続いていた。


 そのせいか、道を歩く人の声も、いつもより少しだけぼんやり聞こえた。


 学校に着く頃には、制服の肩が少し濡れていた。


 傘を差しているのに濡れるのは、たぶん差し方が下手なのだと思う。


 昇降口に入ると、床が少し濡れていた。


 何人もの生徒が濡れた傘を畳んで、傘立てに入れている。


 昇降口の端には、生徒たちの傘が入った傘立てが並んでいた。


 その近くで、滝さんが傘を畳んでいた。


 楽器ケースは足元に置いてある。


「おはよう」


「おはよう」


 滝さんは傘を畳み終えると、こちらを見た。


「雨の日確認」


「確認されました」


「生存確認」


「確認されました」


「体調は?」


「少し重い」


 滝さんは小さくうなずいた。


「雨の日、記録」


「記録されました」


「肩」


「え?」


「濡れてる」


 言われて、自分の右肩を見る。


 制服の端が、少しだけ濃い色になっていた。


「傘の角度が下手だった」


「下手確認」


「確認しなくていい」


「必要なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


 その真面目な顔のまま、少しだけ僕の肩を見ている。


 別に、見られて困るほど濡れているわけではない。


 でも、そこを見られていると思うと、少しだけ落ち着かなかった。


「大丈夫。すぐ乾くと思う」


「乾燥待ち」


「それも確認?」


「保留」


「保留された」


 滝さんは小さくうなずいた。


 雨の日の朝は、いつもより少し音が少なかった。


 教室に入っても、窓の外の雨が空気を押さえているように感じた。


 席に座る。


 左隣には、滝さんがいる。


 曜日確認はない。


 でも、雨の日確認はあった。


 滝さんはノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、傘を差していた。


 ただ、傘の端から耳が少しだけ出ていて、そこに雨粒が一つ描かれている。


 横に小さく書かれていた。


『雨の日、確認中。』


「耳、濡れてる」


「傘が小さいので」


「ぴょん吉用なのに?」


「設計ミス」


「設計ミス確認」


「確認されました」


 滝さんは淡々と言った。


 少しだけ笑ってしまった。


 体は少し重い。


 でも、笑えるくらいの重さではある。


 それだけで、少し安心した。


 一時間目が始まっても、雨は止まなかった。


 窓の外は、細かい雨で白くぼやけていた。


 黒板を見る。


 ノートを取る。


 先生の声を聞く。


 いつものことをしているのに、雨の日は少しだけ動きが遅くなる気がした。


 鉛筆を持つ指も、ほんの少し重い。


 ただ、それを悪いものとしてだけ見る必要はないのかもしれない。


 重いなら、重いなりに動けばいい。


 木曜日に早く帰って、金曜日に少しだけ描いて、月曜日に戻って、火曜日に活動ノートを配った。


 少しずつ、止まることにも慣れてきた。


 なら、今日は雨の日の動き方を覚える日なのかもしれない。


 


 昼休み、如月さんが来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 滝さんが弁当箱を出す。


 僕も弁当を出す。


 如月さんが椅子を持ってくる。


 雨のせいか、教室の声はいつもより少し低かった。


 窓側の席の生徒が、外を見ながら「まだ降ってる」と言っている。


「今日は少し辛そうだな」


 如月さんが白米を食べながら言った。


「分かります?」


「分かる」


「雨の日は、少し体が重いことがあるので」


「なら、そういう日は先に言え」


「言うほどでは」


「その言い方は信用ならない」


 如月さんはすぐに言った。


 言われると思っていたので、少しだけ笑ってしまった。


「本当に、木曜日ほどではないです」


「木曜日ほどになってから言われても困る」


「それはそうですね」


「なら、なるべく先に言え」


「はい」


 如月さんは短くうなずいた。


 滝さんがノートの端に何かを書いている。


「何を書いてるの?」


「雨の日確認、継続」


「増えた」


「必要なので」


 滝さんは真面目に言った。


 如月さんがそれを見て、少しだけ目を細める。


「確認がまた増えているな」


「曜日確認は減ったので」


「差し引きが合っていない」


「確認中」


「そこを確認するな」


 いつものやり取りだった。


 でも、雨の音の中で聞くと、少しだけゆっくりに感じた。


「活動ノートはどうなった?」


 如月さんが聞いた。


「使われてます」


「それは昨日聞いた」


「今日も使われると思います」


「ならよし」


 滝さんがこちらを見る。


「ぴょん吉は?」


「見守り係継続」


「雨の日も?」


 ちょっと考えながら僕は言った。


「たぶん」


「傘必要」


「ぴょん吉に?」


「見守り係なので」


「濡れながら見守るのは大変そう」


「傘、支給」


「誰が?」


「佐倉くん」


「僕なの!?」


「作者なので」


 そう言われると、少し返事に困った。


 作者。


 そんな大きなものではない気がする。


 元々、ぴょん吉は滝さんのキャラクターだ。


 僕はそれを、ノートの端に描かせてもらっているだけだった。


 でも、傘を足すくらいなら、今の僕にもできる。


 


 放課後、美術室へ行くと、雨音が少しだけ強くなっていた。


 窓に細い雨が当たっている。


 部屋の中は、いつもより静かだった。


 外の運動部の声も少ない。


 廊下の足音も、少し湿って聞こえる。


 一年生たちは、活動ノートを机の上に置いていた。


 雨の日だからか、紙の端が少しだけ柔らかそうに見える。


 山城くんの弟が、活動ノートの表紙を指で押さえながら言った。


「雨の日って、紙が少しやわらかいですね」


「分かる」


「線も、にじみそうです」


「鉛筆なら大丈夫だと思うけど」


「でも、なんか湿ってる感じがします」


 僕は活動ノートの表紙を見た。


 案内している筆。


 小さな道。


 顔を半分だけ出したぴょん吉。


 余白。


 雨の日に見ると、線の感じも少し違って見える。


「にじむ線も悪くないわよ」


 藤野先生が言った。


「にじむ線、ですか」


「雨の日の線って、少しやわらかく見えることがあるの」


「濡れてもいいんですか」


「濡らしすぎは駄目だけどね」


 先生は笑った。


「でも、天気が変わると、同じ絵でも見え方が変わるのよ」


 同じ絵でも、見え方が変わる。


 それは活動ノートにも、ぴょん吉にも、たぶん人にも言えることなのかもしれない。


 晴れている時の線。


 雨の日の線。


 同じ線なのに、少しだけ違って見える。


「佐倉先輩」


 山城くんの弟が言った。


「ぴょん吉、雨の日はどうするんですか」


「どうする?」


「見守り係なので、雨でも見守りますよね」


「たぶん」


「じゃあ、傘がいります」


「昼にも言われた」


「誰にですか」


「滝さん」


「滝先輩、分かってますね」


 山城くんの弟は真面目に言った。


「うん」


 僕は少しだけ返事が遅れた。


「元々、ぴょん吉は滝さんのキャラクターなんだ」


「え、そうなんですか?」


「うん。僕は、それをノートの端に描かせてもらってるだけ」


「でも、佐倉先輩のぴょん吉って感じもします」


「そうかな」


「はい。滝先輩が作って、佐倉先輩が動かしてる感じです」


 動かしている。


 その言い方が、少しだけ胸に残った。


 滝さんが作ったものを、僕が描いている。


 それはただの落書きのはずなのに、そう言われると、少し特別なものみたいに聞こえた。


 滝さんのものに、僕の線が少しだけ混ざっている。


 そう考えてしまって、慌てて活動ノートに目を戻した。


「……じゃあ、傘はちゃんと描かないとね」


「はい」


 山城くんの弟は嬉しそうにうなずいた。


「じゃあ、小さく傘を足してみる?」


「いいんですか」


「メモ欄なら」


 山城くんの弟は活動ノートのメモ欄を開いた。


 僕はその端に、小さくぴょん吉を描いた。


 片耳が少し傘から出ている。


 でも、前よりはちゃんと雨を避けられている。


「耳、出てます」


「全部入らなかった」


「ぴょん吉らしいです」


「そう?」


「はい」


 山城くんの弟は嬉しそうに活動ノートを見た。


 雨の日のぴょん吉が、一冊増えた。


 それだけのことなのに、少しだけ雨が軽くなった気がした。


 部活の途中で、音楽室の方からクラリネットの音が聞こえた。


 雨の日の音は、いつもより少し遠く聞こえた。


 壁の向こうから聞こえているはずなのに、雨の向こう側から届いているみたいだった。


 少し明るい曲。


 でも、途中が難しい曲。


 滝さんが吹いているのかどうかは、やっぱり分からない。


 それでも、その音が雨に混ざっていることだけは分かった。


 音も、雨の日には少しにじむのかもしれない。


 


 美術部の活動が終わる頃になっても、雨はまだ降っていた。


 最近は、部活終わりに滝さんと顔を合わせることが増えていた。


 体調確認から始まったそれは、いつの間にか校門までの短い習慣になっていた。


 廊下を歩いて昇降口へ向かう。


 昇降口の端には、生徒たちの傘が入った傘立てが並んでいる。


 その前に、滝さんがいた。


 楽器ケースを足元に置いて、自分の傘を探しているところだった。


「お疲れ」


「お疲れ」


「まだ降ってる」


「降ってるね」


 滝さんは自分の傘を手に取ってから、こちらを見た。


「生存確認」


「ここでも?」


「雨の日なので」


「確認されました」


 最近は、理由が良く分からなくてもそのまま流すことが増えた。


 いわゆる『慣れ』というやつだ。


「音、聞こえた?」


「うん」


「どうだった?」


「雨に混ざってた」


 滝さんは少しだけ目を動かした。


「混ざってた?」


「うん。いつもより少し遠かった」


「遠い確認」


「確認されました」


 そこへ、少し遅れて如月さんが来た。


「二人とも早いな」


「まだ降ってる」


 滝さんが言った。


「見れば分かるだろ」


 如月さんはそう言いながら、自分の傘を取った。


 三人で昇降口を出る。


 雨はまだ細く降っていた。


 傘を差すと、いつもより少し歩きにくい。


 隣に滝さんはいるのに、傘の分だけ顔が見えにくかった。


「佐倉くん」


「うん」


「肩、濡れてる」


「え?」


 言われて、自分の右肩を見る。


 朝と同じところが、また少し濃い色になっていた。


「朝も濡れてた」


「傘、下手なのかも」


「少しこっち」


 滝さんが、自分の傘をこちらへ傾けた。


 傘の端から落ちる雨粒が、僕の肩の少し外側に落ちる。


 その分だけ、滝さんが近くなった。


 楽器ケースを持つ手。


 雨で少し湿った前髪。


 傘の下に入った声。


 いつもの距離のはずなのに、雨の中だと少し違って感じた。


「あ、大丈夫」


 反射みたいに言ってしまった。


 滝さんがこちらを見る。


「大丈夫?」


「うん。そんなに濡れてないから」


「でも、濡れてる」


「少しだけだから」


「少しでも、濡れてる」


 滝さんは真面目に言った。


 その真面目さが、なぜか少し困った。


 如月さんが横から言った。


「傘くらいちゃんと差せ」


「はい」


 助かったような、余計に見られたような気がした。


 滝さんは少しだけ傘を戻した。


 傘の下から外れると、雨の音が少しだけ大きくなった気がした。


「傘、要確認」


「そこまで確認しなくていい」


「雨の日なので」


「雨の日、強い」


「強い」


 滝さんは小さくうなずいた。


 三人で校門へ向かった。


 晴れの日より、足元を見る時間が多い。


 水たまりを避ける。


 傘の端がぶつからないように歩く。


 それだけなのに、さっきの傘の近さが、しばらく肩のあたりに残っていた。


 校門のところで、如月さんが言った。


「今日は帰ったら、ちゃんと休め」


「また命令ですか」


「命令だ」


「雨だから?」


「雨だからだ」


 分かりやすい理由だった。


 でも、分かりやすく言ってくれる方が、今日はありがたかった。


「分かりました」


 僕がうなずくと、滝さんもこちらを見る。


「雨の日、生存確認」


「今日の分は、もうされた気がする」


「明日も」


「明日も雨?」


「分からない」


「未確認?」


「未確認」


 滝さんは小さくうなずいた。


 その言葉に、少しだけ安心した。


 明日の雨は分からない。


 明日の体調も分からない。


 さっき、滝さんの傘が近づいた時にどうして慌てたのかも、まだよく分からない。


 でも、分からないものが全部、不安なわけではなかった。


 雨の日の線。


 雨に混ざる音。


 少し濡れた肩。


 傘の下に一瞬だけ入った声。


 どれも、まだ名前をつけるには早い気がした。


 だから今日は、そのまま持って帰ることにした。


 


 家に帰ると、母さんが玄関で僕を見た。


「おかえり」


「ただいま」


「肩、濡れてるわよ」


「また言われた」


「また?」


「朝と帰りに滝さんにも言われた」


「あら」


 母さんは少し笑った。


「傘、ちゃんと差してる?」


「差してるつもり」


「つもりね」


「確認しないで」


「必要なので」


 またそれだった。


 母さんは最近、滝さんの言い方を覚えたのかもしれない。


 僕は少し笑いながら、制服の肩を見た。


 少しだけ濡れている。


 でも、それほど冷たくはなかった。


 夜、ノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、傘を差していた。


 片耳が少しだけ傘から出ていて、その先に雨粒が一つついている。


 その横で、筆は少し濡れたまま立っている。


 音符は、雨粒の間に並んでいた。


 僕はその下に書いた。


『雨の日確認、開始。』


 少し考えて、もう一行足す。


『肩、濡れる。』


 さらに、音楽室の音を思い出して書いた。


『音、雨に混ざる。』


 雨が降ると、線も音も少しだけにじむ。


 でも、にじんだから消えるわけではなかった。


 白いノートの端で、ぴょん吉は傘を差している。


 耳は少し濡れているけれど、ちゃんと立っている。


 その隣で、筆は濡れたまま、道の先を少しだけ指していた。


 雨の日の確認は、たぶん今日で終わりではない。


 でも、今日の雨は、思っていたより悪くなかった。


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