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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第二十三章 止める人

 金曜日の朝は、昨日より少しだけ体が軽かった。


 劇的に何かが変わったわけではない。


 ただ、階段を下りる時の足取りが、昨日より少しだけ普通に近い。


 朝ご飯を食べる時も、箸の動きは止まらなかった。


 それだけのことなのに、少し安心した。


 早く帰ったことが、ちゃんと意味を持っていたらしい。


 そう思うと、少し悔しかった。


 もっと描きたかった。


 活動ノートの表紙も、案内している筆も、顔を半分だけ出しているぴょん吉も、まだ途中だった。


 でも、途中のまま止まったから、今日は学校に行ける。


 そう考えると、昨日帰されたことに文句は言えなかった。


 教室に入ると、まだ朝の空気が薄く残っていた。


 窓側から二列目、後ろから三番目。


 左隣の席は、まだ空いている。


 僕は席に座って、鞄を机の横にかけた。


 机の上にノートを出す。


 昨日のページには、半分だけ布団に入っているぴょん吉がいた。


 その横には、何も描かずに立っている筆。


 少し曲がった音符も、隣で休んでいる。


『木曜日、未確認前。』


『崩れる前に帰る。』


『描かない確認。』


 描かない確認。


 書いた時は少し変な言葉だと思った。


 でも、朝になって見返すと、思っていたより悪くなかった。


 描かなかったから、今日も描ける。


 たぶん、そういうことなのだと思う。


「おはよう」


 左から声がした。


 滝さんだった。


「おはよう」


 滝さんは席に着くと、いつものようにこちらを見る。


「金曜日確認」


「確認されました」


「生存確認」


「確認されました」


「体調は?」


「昨日よりいい」


 滝さんは少しだけ間を置いた。


「昨日より」


「うん」


「未確認前、終了?」


「終了でいいのかな」


「経過観察」


「まだ続くんだ」


「必要なので」


 滝さんはノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、布団から出ている。


 でも、まだ少し眠そうな顔をしていた。


 横に小さく書かれている。


『金曜日、経過観察。』


「まだ眠そう」


「完全復帰ではないので」


「厳しい」


「必要なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


 それから、少しだけこちらを見た。


「昨日、帰った効果」


「確認されました」


「効果あり?」


「たぶん」


「たぶんは保留」


「効果あり、で」


「確認しました」


 滝さんはノートの端に書いた。


『帰った効果、確認。』


 僕はそれを見て、少しだけ笑った。


 帰った効果。


 言葉にされると、昨日の早退が少しだけ負けではなくなる気がした。


 まあ元々、勝ちも負けもないのだけれど。


 一時間目も二時間目も、昨日より普通に受けられた。


 黒板を見る回数も戻っている。


 ノートの文字も、昨日より少しだけ自信ありげだ。


 それでも、時々自分の体の方を確かめるようになった。


 息が浅くなっていないか。


 手が遅くなっていないか。


 文字が小さくなっていないか。


 確認されるだけじゃなく、自分でも少し確認する。


 それは少し面倒だった。


 でも、昨日よりは怖くなかった。


 


 昼休み、如月さんが来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 滝さんが弁当箱を出す。


 僕も弁当を出す。


 如月さんが椅子を持ってくる。


 金曜日の昼休みは、少しだけ教室が明るかった。


 明日が休みだからか、周りの声も少し浮いている。


 僕は弁当を開けて、箸を持った。


 今日は一口目が普通に飲み込めた。


 その瞬間、滝さんがこちらを見る。


 少し遅れて、如月さんもこちらを見た。


「……何でしょう」


「箸」


 如月さんが言った。


「今日は普通です」


「昨日よりはな」


「昨日よりは、確認」


 滝さんが言う。


「二人とも細かい」


「細かく見ないと、お前は誤魔化す」


 如月さんは唐揚げを食べながら言った。


「誤魔化してるつもりはないんですけど」


「つもりがなくても同じだ」


「厳しい」


「必要だからな」


 その言い方は、いつも通りだった。


 でも、今日は少しだけ違って聞こえた。


 昨日、僕を帰らせた人。


 今日、僕が普通に弁当を食べているか見ている人。


 如月さんは、止める人だった。


「昨日、早く帰ったら少し楽でした」


 僕が言うと、如月さんは短くうなずいた。


「当然だ」


「当然なんですね」


「当然だ」


 如月さんはもう一度言った。


 でも、それから少しだけ箸を止めた。


「止める方も、楽ではない」


 その言葉に、僕は顔を上げた。


 滝さんも、如月さんを見ている。


「止める方?」


「そうだ」


 如月さんは視線を弁当箱に落としたまま続けた。


「お前は止めないと無理をする」


「そんなにですか」


「そんなにだ」


「信用ないですね」


「信用しているから止める」


 言い返せなかった。


 信用しているから止める。


 少し変な言い方なのに、如月さんが言うと妙にまっすぐだった。


「佐倉は、自分のことになると判断が甘い」


「そんなに見てます?」


 軽く返したつもりだった。


 でも、如月さんはすぐには答えなかった。


 箸を持ったまま、少しだけ黙る。


「見ていなければ止められない」


 短い言葉だった。


 でも、思っていたよりまっすぐ届いた。


「……そういうものですか」


「そういうものだ」


 如月さんはそれだけ言って、また箸を動かした。


 それ以上、大げさなことは言わなかった。


 でも、短い言葉が残った。


 見ていなければ止められない。


 僕は少しだけ困って、滝さんの方を見た。


 滝さんは何も言わなかった。


 でも、いつものようにすぐ「確認しました」とは言わなかった。


 少しだけ、如月さんの言葉を見ているようだった。


「止める人、確認」


 しばらくして、滝さんが小さく言った。


「採用しない」


 如月さんがすぐに返した。


「まだ書いてない」


「なら書くな」


「保留」


「保留にするな」


 いつものやり取りに戻った。


 僕は少し笑った。


 でも、如月さんの言葉は、まだどこかに残っていた。


 信用しているから止める。


 見ていなければ止められない。


 止められることは、少し悔しい。


 でも、止める方も簡単ではない。


 それは、昨日まで考えていなかったことだった。


 


 放課後、美術室へ行くと、活動ノートの表紙案が机の上に置かれていた。


 昨日、僕が途中で帰った後も、そのまま残されていたらしい。


 案内している筆。


 顔を半分だけ出しているぴょん吉。


 小さな余白。


 そこに、薄く鉛筆の線が足されていた。


 僕の線ではない。


 でも、消しゴムで軽く消せるくらいの、遠慮した線だった。


「佐倉先輩」


 山城くんの弟が声をかけてきた。


「昨日、先輩が帰ったあと、この表紙案を少し見てました」


「表紙案を?」


「はい。案内してる筆のところです」


 山城くんの弟は、少し迷ってから表紙の端を指した。


「何か、少し寂しそうに見えて」


「寂しそう?」


「先に行く感じなのに、横が空いてるので」


 僕は表紙案を見た。


 案内している筆の横には、確かに余白がある。


 顔を半分だけ出しているぴょん吉は少し離れている。


 昨日はそれでいいと思っていた。


 でも、今日は少しだけ遠く見えた。


「それで、線を足した?」


「少しだけです。勝手にすみません」


「いや、いいと思う」


「本当ですか」


「うん。めちゃくちゃ遠慮してる線だけど」


 山城くんの弟は、少し恥ずかしそうに笑った。


「消せるようにしました」


「気を遣いすぎ」


「佐倉先輩も、たぶんそうします」


「……するかも」


 僕は少し笑った。


 自分の手を離れた線を、誰かが見てくれていた。


 昨日、僕が見られなかった時間にも、表紙案はここにあった。


 そして、少しだけ変わっていた。


「佐倉、今日はどう?」


 藤野先生が聞いた。


「昨日より大丈夫です」


「昨日より、ね」


「はい」


「じゃあ、今日も無理はしないこと」


「無理はしません」


「ちゃんと守るのよ」


「はい」


 藤野先生は、それだけ言って机の向こうへ戻った。


 僕は席に座り、鉛筆を持った。


 昨日は置いた鉛筆を、今日は持つ。


 それだけで少し嬉しかった。


 でも、今日は急がない。


 まず、山城くんの弟が足した線を見た。


 案内している筆の横に、小さな道のような線がある。


 それを少しだけ整える。


 ぴょん吉の顔の向きを、ほんの少し筆の方へ向ける。


 全部は変えない。


 大きく描き直さない。


 少しだけ。


 そう思いながら線を引いていると、もう少し直したい場所が見えてきた。


 筆の角度。


 ぴょん吉の目。


 道の線の細さ。


 手を伸ばせば、まだ描ける。


 でも、今日はそこまでにした。


 僕は鉛筆を置いた。


 置いてから、自分で少し驚いた。


 いつもなら、もっと線を足していた気がする。


「今日は早いわね」


 藤野先生が言った。


「もう少し描きたくなってしまったので」


「それで置いたの?」


「はい。今日はそこまでにしておこうと思って」


 藤野先生は、少しだけ表紙案を見てから笑った。


「偉いじゃない」


「偉いんですか」


「描くことより、やめることの方が難しいこともあるのよ」


 そう言われると、少しだけ返事に困った。


 ただ鉛筆を置いただけなのに、少し大きなことをしたみたいに聞こえた。


「今日は、それでいいと思うわ」


 藤野先生はそう言って、表紙案を机の端に寄せた。


 山城くんの弟も、表紙案を見て言った。


「筆、寂しそうじゃなくなりました」


「そう?」


「はい。なんか一緒に行く感じです」


 一緒に行く感じ。


 その言葉を聞いて、少しだけ胸の奥が軽くなった。


 美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。


 今日は楽器ケースを持っている。


 如月さんも少し遅れて来た。


「お疲れ」


「お疲れ」


 滝さんがこちらを見る。


「今日は描いた?」


「少しだけ」


「少しだけ確認」


「本当に少しだけ」


「偉い」


「先生にも言われた」


「私も言う」


「二回目」


「必要なので」


 滝さんは真面目な顔で言った。


 如月さんがこちらを見る。


「今日は無理していないな」


「たぶん」


「たぶん?」


「……少しだけ描いて、やめました」


「ならよし」


 如月さんは短く言った。


 その一言が、思ったより嬉しかった。


「候補はどうだった?」


 僕が滝さんに聞くと、滝さんは少しだけ楽器ケースを持ち直した。


「候補、少し減った」


「減った?」


「三つから二つ」


「まだ決まらない?」


「まだ」


「じゃあ、確認前?」


「少しだけ」


「未確認前は?」


「今日は使いすぎない」


「使いすぎって分かってたんだ」


「便利すぎるので」


 滝さんは少しだけ笑った。


 その笑い方は、昨日より少しだけ軽かった。


 三人で校門へ向かった。


 金曜日の夕方は、少しだけ浮いていた。


 明日が休みだからか、校舎の外へ向かう人たちの声も少し明るい。


 でも、僕は昨日より落ち着いて歩けていた。


 鞄は昨日より軽く感じる。


 実際に中身が減ったわけではない。


 たぶん、体の方が少し戻ったのだと思う。


 校門のところで、如月さんが言った。


「土日は休め」


「命令ですか」


「命令だ」


「また命令」


「必要だからな」


 滝さんがノートを出すふりをした。


「土日、休む確認」


「書かなくていい」


 如月さんが言う。


「帰ってから書く」


「書くな」


「保留」


「保留にするな」


 僕は少し笑った。


「休みます」


 僕が言うと、如月さんは小さくうなずいた。


「ならよし」


 滝さんもこちらを見る。


「土日、確認予定」


「月曜日に?」


「月曜日に」


「また月曜確認」


「必要なので」


 月曜日。


 土日を挟んだ先に、また確認予定がある。


 少し前なら、それを不安に思っていたかもしれない。


 でも今日は、少しだけ違った。


 休むことも、次に進むための途中なのかもしれない。


 そう思えた。


 


 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「今日は普通の時間ね」


「うん」


「昨日より顔色がいいわね」


「昨日より、らしい」


「誰かに言われた?」


「全員に」


「また全員」


 母さんは笑った。


「今日は描けた?」


「少しだけ」


「よかったわね」


「止まったから、少し描けた」


 そう言うと、母さんは少しだけ静かに笑った。


「いいことね」


「いいことなのかな」


「いいことよ」


 母さんはそう言って、鍋をかき混ぜた。


 夜、ノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、布団から出ている。


 でも、まだ少し眠そうな顔をしている。


 その隣で、筆は小さな道を指している。


 音符は、昨日より少しまっすぐになっていた。


 僕はその下に書いた。


『未確認前、経過観察。』


 少し考えて、もう一行足す。


『止まったから、少し描けた。』


 さらに、昼休みの言葉を思い出して書いた。


『止める人、確認。』


 止められることは、少し悔しい。


 でも、止めてくれる人がいることは、たぶん悪いことではない。


 白いノートの端で、ぴょん吉はまだ少し眠そうに立っていた。


 その隣で、筆は少しだけ先を指している。


 音も線も、まだ途中だった。


 でも、昨日より少しだけ、進むための止まり方を覚えた気がした。


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