第二十二章 未確認前
木曜日の朝は、少しだけ体が重かった。
重いと言っても、起き上がれないほどではない。
階段を下りる時に少しだけ足が遅くなるくらい。
朝ご飯を食べる時に、箸を持つ手がいつもより少しだけゆっくりになるくらい。
それくらいなら、普通の範囲だと思った。
だから、僕はいつも通り学校へ行った。
教室に入ると、まだ人は少なかった。
窓側から二列目、後ろから三番目。
左隣の席は、まだ空いている。
僕は椅子に座り、鞄を机の横にかけた。
机の上にノートを出す。
昨日のページには、耳をすませているぴょん吉がいた。
その前には、少し曲がった音符。
横には、案内している筆。
『次の音、少し確認。』
『誰の音かは、未確認。』
その下で、少しだけ手が止まった跡がある。
誰の音かは、未確認。
でも、僕はその音を滝さんのものとして聞いていた気がした。
そのことは、昨日ノートには書かなかった。
書かなかったのに、ノートを見返すと、そこに残っているような気がした。
不思議だった。
書いていないものまで、残ることがあるらしい。
「おはよう」
左から声がした。
滝さんだった。
「おはよう」
滝さんは席に着くと、いつものようにこちらを見た。
「木曜日確認」
「確認されました」
「生存確認」
「確認されました」
「体調は?」
「普通」
そう答えると、滝さんは少しだけ黙った。
「普通?」
「普通」
「いつもの普通と違う」
「違う?」
「少し遅い」
「何が?」
「返事」
返事まで確認されるとは思っていなかった。
僕は少しだけ笑おうとしたけれど、笑いきれなかった。
「眠いだけだと思う」
「眠気確認」
「確認されました」
「候補」
「候補?」
「体調の候補」
「何それ」
「まだ崩れてないけど、崩れるかもしれない」
「怖い言い方」
滝さんはノートを開いた。
今日のぴょん吉は、半分だけ布団に入っていた。
その横に、小さく書かれている。
『木曜日、確認中。』
「昨日の音」
滝さんが言った。
「うん」
「まだ確認できない」
「曲が決まってないから?」
「うん。確認するものが、まだ決まってない」
「それ、未確認前?」
言ってから、自分でも少し変な言葉だと思った。
滝さんは少し考えてから、ゆっくりうなずいた。
「未確認前」
滝さんはそう言って、ノートの端に書いた。
『未確認前。』
「採用された」
「採用」
その文字を見ていたら、滝さんがこちらを見た。
「佐倉くんの体調も、未確認前」
「そっちにも使うの?」
「使える」
「便利な言葉になった」
「便利」
滝さんは真面目な顔で言った。
「崩れる前かもしれない」
「まだ大丈夫だよ」
「まだ、は保留」
「保留されました」
「確認が必要」
滝さんは小さくうなずいた。
僕は返事をしながら、少しだけ困った。
本当に大丈夫だと思っていた。
でも、滝さんにそう言われると、少しだけ自信がなくなる。
自分の体なのに、たまに自分が一番信用できない時がある。
それが少し悔しかった。
一時間目は普通に終わった。
二時間目も、たぶん普通だった。
ただ、ノートを取る時、いつもより文字が少しだけ小さくなった。
黒板を見上げる回数も、少し減った。
先生の声は聞こえている。
内容も分かる。
でも、全部が一枚薄い紙を通して聞こえてくるみたいだった。
大丈夫。
そう思った。
まだ大丈夫。
そう思ってから、朝の滝さんの声を思い出した。
まだ、は保留。
僕は小さく息を吐いた。
保留は、便利だけど少し困る。
昼休み、如月さんが来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
木曜日の昼休みは、少しだけ教室が騒がしかった。
週の真ん中を越えたせいか、みんなの声も少し緩んでいる。
僕は弁当を開けて、箸を持った。
いつも通り食べるつもりだった。
でも、一口目を飲み込むのに、少しだけ時間がかかった。
滝さんがすぐにこちらを見た。
如月さんも、遅れて僕の箸を見た。
「佐倉」
「はい」
「箸が遅い」
如月さんが言った。
「普通です」
「普通ではない」
「今日は少しだけ遅い」
滝さんも言う。
「観察されてる」
「必要なので」
滝さんは真面目な顔で言った。
如月さんがこちらを見る。
「朝からか」
「少しだけ」
「なぜ言わない」
「言うほどではないと思って」
「それが信用ならない」
「信用」
「お前の“まだ大丈夫”は、信用しない」
如月さんの声は、少しだけ低かった。
怒っているというより、先に釘を刺している感じだった。
僕は箸を持ったまま、少しだけ黙った。
「本当に、大きくは崩れてないです」
「大きく崩れてからでは遅い」
如月さんは短く言った。
滝さんがノートを開く。
何かを書いた。
『未確認前。』
その横に、半分だけ布団に入っているぴょん吉。
「出た」
僕が言うと、滝さんは小さくうなずいた。
「崩れる前」
「ちょっと怖い」
「怖いから確認」
如月さんが滝さんのノートを見た。
「何だ、その言葉は」
「未確認前」
「説明しろ」
「確認する前。崩れる前。決まる前」
「雑だな」
「でも便利」
滝さんは真面目に言った。
如月さんは少しだけため息をついた。
「便利かどうかは知らないが、今日の佐倉には合っている」
「合ってしまった」
少し笑いながら僕が言うと、如月さんがすぐに返す。
「笑いごとではない」
「はい」
「今日は部活を早めに切り上げろ」
「え」
「え、ではない」
「活動ノートが」
「逃げない」
如月さんは言い切った。
滝さんも、静かにうなずいた。
「活動ノートは逃げない」
「二人で言わなくても」
「必要なので」
「必要だからな」
滝さんと如月さんの言葉が、少しだけ重なった。
僕は何も言い返せなくなった。
活動ノートの表紙は、まだ途中だった。
案内している筆も、顔を半分だけ出しているぴょん吉も、もう少し直したかった。
でも、今ここで「大丈夫」と押し切るのは、たぶん違う。
それくらいは分かった。
昼休みの終わりに、滝さんが言った。
「佐倉くん」
「うん」
「今日の確認」
「何?」
「描かない確認」
「描かない確認」
「描かなくても、進行中」
その言葉は、少しだけ変だった。
でも、少しだけ救われる言葉でもあった。
放課後、美術室へ行くと、藤野先生は活動ノートの見本を机に置いていた。
昨日より少しだけ紙が増えている。
表紙案も、横に並んでいた。
「佐倉、来たわね」
「はい」
僕が席に座ろうとすると、藤野先生が少しだけこちらを見た。
「顔色、少し悪い?」
「そうですかね」
「でも、本人に聞くとだいたい大丈夫って言うのよね」
藤野先生は、少し困ったように笑った。
僕は返事に詰まった。
「今日は短めにしましょう」
「でも、表紙が」
「活動ノートは逃げないわよ」
三回目だった。
同じ言葉を別の人から言われると、さすがに少し笑ってしまう。
「みんな同じこと言いますね」
「みんなが同じことを言う時は、聞いた方がいいと思うわよ」
「はい」
藤野先生は机の上から、表紙案を一枚取った。
「今日は見るだけにしておきなさい」
「見るだけ」
「描かない日があっても、目は動くでしょう」
「目は」
「でも、疲れたら目も休ませること」
「はい」
僕は席に座って鉛筆を持った。
見るだけ、と言われてもつい鉛筆は持ってしまう。
昨日の表紙案を見る。
案内している筆。
顔を半分だけ出しているぴょん吉。
小さな余白。
直したいところはある。
でも、今日は線を増やすより、線を見ておく方がいいのかもしれない。
僕は鉛筆を置いた。
それだけのことなのに、少しだけ負けた気がした。
でも、同時に少しだけ安心もした。
描かないと決めることも、こんなに力がいるのかと思った。
「偉い」
鉛筆を置いたタイミングで藤野先生が言った。
「何もしてないです」
「何もしないって決めたでしょう」
「それで偉いんですか」
「今日はそれでいいのよ」
先生はそう言って、表紙案を一枚ずつ重ねた。
「じゃあ、今日はここまで。帰りなさい」
「早いですね」
「早く帰すのが目的だから」
その言い方があまりにまっすぐで、少し笑ってしまった。
「分かりました」
僕は鞄を持った。
山城くんの弟が、少し心配そうにこちらを見た。
「佐倉先輩、帰るんですか?」
「今日は少し早めに」
「大丈夫ですか」
「未確認前らしい」
「未確認前?」
「崩れる前」
山城くんの弟は、少しだけ真面目な顔になった。
「良く分からないですが、それなら帰った方がいいです」
弟君は色々とよく出来た子だな、と思った。
「うん」
「筆、見ておきます」
「筆?」
「案内してるやつです」
そう言って、山城くんの弟は少し笑った。
「今日は代わりに見ておきます」
僕は少しだけ驚いた。
代わりに見ておく。
昨日、自分の手を離れた線は、ちゃんと見た方がいいと思った。
でも、自分が見られない時に、誰かが見てくれることもあるらしい。
「ありがとう」
昨日より少しだけ、ちゃんと言えた気がした。
美術室を出ると、廊下に滝さんが居た。
今日は音楽室へ向かう途中らしく、楽器ケースを持っている。
滝さんは僕を見つけると
「早い」
と言った。
「早く帰されました」
「確認しました」
「滝さんは部活?」
「うん。候補」
「今日も候補」
「たぶん」
滝さんは少しだけ僕の顔を見た。
「大丈夫?」
「大きくは崩れてない」
「大きくは、禁止」
「禁止増えた」
「必要なので」
滝さんは真面目に言った。
少し遅れて、如月さんが廊下の向こうから歩いてきた。
道着ではないけれど、髪は少しきつく結び直してある。
「帰るのか」
「帰ります」
「よし」
「即答ですね」
「今日はそれでいい」
如月さんはそう言って、僕の鞄を一瞬見た。
「重くないか」
「大丈夫です」
言ってから、二人の視線が少し強くなったのを感じた。
「重くないです」
言い直すと、如月さんは小さくうなずいた。
「なら行け」
「命令」
「命令だ」
滝さんが小さく言った。
「帰る確認」
「されました」
「途中まで」
「え?」
「校門まで」
滝さんはそう言って、僕の横に並んだ。
「部活は?」
「少し遅れる」
「いいの?」
「校門までなら」
如月さんが少しだけ滝さんを見る。
「夏美」
「うん」
「送ったら戻れ」
「戻る」
「佐倉」
「はい」
「送られたら帰れ」
「帰ります」
「よし」
三人で廊下を歩いた。
いつもなら、部活終わりに並ぶ道を、今日は少し早い時間に歩いている。
窓の外はまだ明るい。
運動部の声も、吹奏楽部の音も、これから大きくなる時間だった。
僕だけが、少し早くその中から抜ける。
それは少し寂しかった。
でも、今日はそれでいいと言われた。
廊下の向こうから、楽器の音が少しだけ聞こえた。
音楽室の方だと思った。
僕は、ほんの少しだけそちらを見てしまう。
誰の音か分かるわけではない。
それでも、昨日聞いた短い音の並びを思い出した。
滝さんの音かもしれないと思った、あの音。
「佐倉くん」
滝さんが言った。
「うん」
「今日は聞かなくていい」
「音?」
「うん」
滝さんは楽器ケースを持ち直した。
「佐倉くん、帰る日だから」
その言い方は、いつも通り淡々としていた。
でも、ちゃんとこちらを見ていた。
僕は少しだけ返事に迷ってから、うなずいた。
「帰ります」
「確認しました」
「滝さんは候補?」
「うん」
「決まるといいね」
「まだ未確認前」
滝さんはそう言って、少しだけ笑った。
朝に僕が言った言葉を、もう普通に使っている。
「採用されすぎてる」
「便利なので」
「便利ならよかった」
「うん」
滝さんは小さくうなずいた。
如月さんが少し後ろから言った。
「帰れ」
「はい」
僕は二人に軽く手を上げて、校門を出た。
いつもより早い帰り道は、少し静かだった。
まだ夕方というには明るい。
空の色も、いつも見る帰り道とは少し違う。
鞄が少しだけ重く感じた。
でも、持てないほどではない。
そう思ってから、また自分で止めた。
持てないほどではない。
大きくは崩れていない。
まだ大丈夫。
そう思うことには慣れている。
でも今日は、そのまま押し切らない方がいい気がした。
家に帰ると、母さんが少し驚いた顔をした。
「早いわね」
「帰された」
「誰に?」
「ほぼ全員に」
「全員」
「滝さんと如月さんと藤野先生」
「あら」
母さんは少しだけ目を細めた。
「それは、ちゃんと帰ってきて正解ね」
「そうなる?」
「なるわね」
母さんは僕の額に手を当てた。
熱はない。
でも、母さんはすぐに言った。
「しっかり横になりなさい」
「はい」
「返事が早い」
「今日はそういう日なので」
「いい日ね」
いい日なのかは分からなかった。
でも、悪い日ではない気がした。
夕飯まで少し横になった。
眠るつもりはなかったのに、気づいたら少し眠っていた。
目が覚めると、部屋の光が変わっていた。
大きく崩れたわけではない。
でも、早く帰らなかったら、もう少し重くなっていたかもしれない。
そう思うと、少しだけ怖くなった。
同時に、止められてよかったとも思った。
夜、ノートを開いた。
今日はあまり描かない。
ぴょん吉は、半分だけ布団に入っている。
筆はその横で、そっと立っている。
音符はまだ少し曲がっている。
僕は短く書いた。
『木曜日、未確認前。』
少し考えて、もう一行足す。
『崩れる前に帰る。』
さらに、滝さんの言葉を思い出して書いた。
『描かない確認。』
描かない日も、次の線の途中なのかもしれない。
そう思った。
白いノートの端で、ぴょん吉は布団から顔を半分だけ出していた。
その隣で、筆は何も描かずに立っていた。
音も線も、今日は少し休んでいた。
でも、それでも途中だった。




