第二十一章 次の音
水曜日の朝は、少しだけ音のことを考えていた。
もちろん、教室にはまだ音楽室の音なんてない。
聞こえるのは、椅子を引く音と、鞄を机に置く音と、誰かが朝から元気に笑っている声くらいだ。
それでも、昨日の帰りに滝さんが言った言葉が、まだ頭の中に残っていた。
次の音。
曲はまだ決まっていない。
でも、少しずつ始まっている。
僕は席に座り、鞄を机の横にかけた。
机の上にノートを出す。
昨日のページには、活動ノートの端から顔を半分だけ出しているぴょん吉がいた。
その横には、少し案内している筆。
『次の線、少し確認。』
『手元に残る線、未確認。』
『次の音、未確認。』
最後の一行を見て、少しだけ手が止まった。
僕のことではない。
滝さんのことだ。
なのに、ノートに書いてある。
それが少し不思議だった。
「おはよう」
左から声がした。
滝さんだった。
「おはよう」
滝さんは席に着くと、いつものようにこちらを見た。
「水曜日確認」
「確認されました」
「生存確認」
「確認されました」
「体調は?」
「普通。ほぼいつも通りの眠気」
「確認しました」
「滝さんは?」
聞いてから、少しだけ自分で驚いた。
いつも確認されるのは僕の方だったから。
滝さんも一瞬だけ目を動かした。
「昨日の候補が、少し残ってる」
「候補?」
「次にやる曲。まだ決定ではない」
「決まってないんだ」
「未決定」
「でも、気になる?」
「少し」
滝さんはそう言って、机の上にノートを開いた。
今日のぴょん吉は、音符の横に座っていた。
ただ、音符は少し曲がっている。
「音符、曲がってる」
「まだ決まってないので」
「曲が決まってないと、音符も曲がるんだ」
「たぶん」
「たぶん」
僕は少し笑った。
滝さんも、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ小さかった。
朝のホームルームが終わって、一時間目が始まる。
授業中、滝さんはいつも通り前を向いていた。
でも、時々、机の端で指が小さく動いていた。
鉛筆を持っているわけではない。
何かを数えているようにも見える。
音をなぞっているようにも見える。
僕は黒板を見ながら、それに気づいてしまった。
気づいてから、少しだけ黒板の文字が入ってこなくなった。
別に、じっと見ていたわけではない。
ただ、視界の端に入っただけだ。
そう思ったのに、次にその指が止まった時も、僕は気づいた。
水曜日確認。
生存確認。
体調確認。
いつの間にか、僕は滝さんの方も確認しているのかもしれない。
そう思って、少しだけ落ち着かなくなった。
二時間目の休み時間、滝さんはノートを閉じた。
「佐倉くん」
「うん」
「何か見てた」
「見てた?」
「見てた」
「何を?」
「私の指」
思わず黙った。
滝さんは真面目な顔でこちらを見る。
「見てました」
「確認しました」
「何か、動いてたから」
「候補」
「候補を指で?」
「音の並びだけ」
「曲じゃなくて?」
「まだ曲じゃない」
「曲じゃない音」
「候補の音」
「なるほど。分からないけど、なるほど」
滝さんは少しだけ頷いた。
「まだ指が覚えてない」
「指が覚えるんだ」
「少しだけ」
「頭じゃなくて?」
「頭も。でも、指も」
僕は自分の手を見た。
鉛筆を持つ時、線の向きや強さを、手が先に覚えていることがある。
頭で考えるよりも先に、少しだけ手が動く。
それに近いのかもしれない。
「線も、手が覚える時ある」
僕が言うと、滝さんは少しだけ目を上げた。
「同じ?」
「同じかは分からないけど」
「近い?」
「近い気はする」
「確認しました」
滝さんはノートの端に小さく書いた。
『指、確認中。』
「指だけ?」
「まだ曲じゃないので」
「厳密」
「必要なので」
滝さんは真面目に言った。
僕は少し笑った。
昼休み、如月さんが来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
水曜日の昼休みは、火曜日より少しだけ落ち着いていた。
でも、滝さんは箸を持ったまま、机の端を少しだけ見ていた。
如月さんがすぐに気づいた。
「夏美」
「うん」
「今日は半分音楽室にいるな」
「半分?」
「弁当を食べろ」
「食べてる」
「止まっている」
滝さんは自分の箸を見た。
確かに止まっていた。
「候補の音が残ってる」
「候補?」
如月さんが聞く。
「次にやる曲。まだ決まってない」
「決まっていないのに残るのか」
「残る」
「面倒だな」
「面倒」
滝さんは素直に頷いた。
如月さんは少しだけため息をついた。
「なら、食べてから考えろ」
「食べながら考える」
「こぼすぞ」
「確認しました」
滝さんは真面目な顔で弁当を食べ始めた。
僕は少し笑った。
如月さんは滝さんの箸を見てから、今度は僕を見た。
「佐倉」
「はい」
「お前も、人のことを言えないぞ」
「僕ですか」
「夏美の指ばかり見ていただろう」
思わず返事が遅れた。
見ていた。
でも、見ようとして見ていたわけではない。
視界の端に入っただけだ。
そう言い訳しようとして、やめた。
「……少しだけです」
「少しでも、見ていたなら見ていたんだ」
「はい」
何も言い返せなかった。
滝さんがこちらを見る。
「見てた?」
「見てました」
「指?」
「指」
「確認しました」
「確認しなくていい」
「必要なので」
滝さんはまた少しだけ笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけざわついた。
昨日も似たようなことがあった。
掲示板の前で、滝さんが笑った時。
あの時も、少しだけ心が変な動きをした。
でも、これに名前をつけるには、まだ早い気がした。
僕は弁当に目を落とした。
如月さんがこちらを見ていたけれど、何も言ってこなかった。
放課後、美術室では活動ノートの表紙案の続きをしていた。
昨日描いた案内している筆を、少し小さくしてみる。
ぴょん吉は顔の半分だけ出す。
でも、顔を出しすぎると、表紙の端が少し騒がしくなる。
引っ込めすぎると、今度はぴょん吉だと分からない。
半分。
それが意外と難しかった。
藤野先生が、僕の紙を見て言った。
「迷ってるわね」
「半分が難しいです」
「全部描くより?」
「はい」
「隠すところを決める方が、難しい時もあるわよ」
「隠すところ」
「見せたいものがあるから、隠すところも決まるの」
僕は表紙の端に描いたぴょん吉を見た。
顔の半分。
耳。
目。
少しだけ覗いている感じ。
全部出ていないのに、そこにいると分かる。
それは、少しだけ今日の音にも似ている気がした。
全部は聞こえない。
曲にもまだなっていない。
でも、何かが始まっていることだけは分かる。
少し時間が経ち、各々やることに取り組んでいる時に
「佐倉、悪いんだけど」
藤野先生が棚の方を見ながら言った。
「準備室からコピー用紙を取ってきてもらえる? 活動ノートの試し刷りに使いたいの」
「はい」
「重かったら無理しないで。少しでいいから」
「分かりました」
僕は立ち上がって、美術室を出た。
廊下は放課後の音で少しにぎやかだった。
どこかの教室から笑い声がする。
体育館や武道場の方からは、遠く掛け声のようなものが聞こえる。
剣道部かもしれない。
如月さんも、今ごろ道場で竹刀を振っているのだろうか。
そんなことを考えながら、準備室へ向かった。
コピー用紙を抱えて戻る途中、音楽室の方からクラリネットらしき音が聞こえた。
曲、というほど長くはない。
短い音の並びが、少し止まって、また最初から鳴る。
それが何度か続いた。
僕は足を止めた。
この音が滝さんのものかどうか、僕には分からない。
音楽室には何人もいるだろうし、同じ楽器を吹く人もいるのかもしれない。
それなのに、僕は最初に滝さんの顔を思い浮かべていた。
そのことに気づいて、少しだけ落ち着かなくなった。
音はまた止まった。
少し間があって、また同じところから始まる。
うまくいっているのか、いっていないのかも分からない。
ただ、やめてはいない。
それだけは分かった。
僕は抱えていたコピー用紙を少し持ち直した。
ずっと立っていると、覗いているみたいになる。
そう思って、音楽室の方を見ないまま、美術室へ戻った。
「大丈夫だった?」
藤野先生が聞いた。
「はい」
「少し顔が違うけど」
「顔ですか」
「何かあった?」
先生はそう言って、廊下の方を見た。
「音楽室の音が」
「ああ、吹奏楽部ね」
「短い音が何回か」
「練習中はそういう音がずっと聞こえるわね」
「そうなんですね」
僕はコピー用紙を机に置いた。
短い音。
何度も戻る音。
誰の音かは分からない。
でも、僕は滝さんのことを考えていた。
そのことの方が、音より少し気になっていた。
美術部が終わる頃、活動ノートの表紙案は少しだけ形になっていた。
案内している筆。
顔を半分だけ出したぴょん吉。
その横に、小さく余白。
まだ完成ではない。
でも、昨日よりは少しだけ進んでいる。
部活後美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。
今日は少し疲れた顔をしていた。
楽器ケースを持つ手も、いつもより少し低い。
「お疲れ」
「お疲れ」
「次の音、どうだった?」
僕が聞くと、滝さんは少しだけ目を動かした。
「まだ次じゃない」
「まだ?」
「候補」
「候補の音?」
「うん」
「今日、音楽室から聞こえた」
滝さんがこちらを見た。
「聞こえてた?」
「うん。曲っていうより、短いやつ」
「候補の一部」
「候補なんだ」
「まだ決まってない」
「じゃあ、次の音の手前?」
「手前」
「まだ始まる前なんだ」
「でも、少し鳴ってる」
滝さんはそう言って、楽器ケースを持ち直した。
僕は少し迷ってから言った。
「滝さんの音かは、分からなかったけど」
「分からなかったのに?」
「……最初に、滝さんかなって思った」
言ってから、少しだけ後悔した。
変なことを言った気がした。
でも、嘘ではなかった。
滝さんは少しだけ黙った。
その沈黙が、思っていたより長く感じた。
「確認、未完了」
滝さんが言った。
「未完了で」
「うん。未完了」
滝さんは小さくうなずいた。
いつもの確認の言葉なのに、少しだけ逃げ道みたいにも聞こえた。
でも、その逃げ道があって、僕は少しだけ助かった。
そこへ如月さんが来た。
「何が未完了なんだ」
「音」
滝さんが答える。
「また音か」
「候補の音」
「候補なら、まだ決まっていないんだろう」
「うん」
「なら、焦るな」
如月さんは短く言った。
滝さんは少しだけ頷いた。
「焦ってない」
「少し焦っている顔だ」
「顔」
「佐倉も変な顔をしている」
「僕もですか」
「二人ともだ」
如月さんはそれだけ言って、歩き出した。
僕と滝さんは少しだけ顔を見合わせた。
どちらからともなく、少し笑った。
三人で校門へ向かう。
水曜日の夕方は、少しだけ音が多かった。
遠くで運動部の声がする。
どこかの教室から机を動かす音がする。
滝さんの楽器ケースが、歩くたびに小さく揺れる。
その全部の中で、僕はさっきの短い音の並びを思い出していた。
誰の音かは分からない。
でも、最初に浮かんだのは滝さんだった。
そのことを、まだどう扱えばいいのか分からなかった。
校門のところで、滝さんが言った。
「明日も、候補」
「明日も?」
「たぶん」
「まだ決まらない?」
「分からない」
「分からないこと多いね」
「多い」
滝さんは小さくうなずいた。
「でも、少し鳴ってる」
「うん」
「確認しました」
「それは確認なんだ」
「少しだけ」
滝さんはそう言って、駅の方へ歩き出した。
如月さんはその横で、
「少しだけなら、よし」
と短く言った。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は何か描いた?」
「活動ノートの続き」
「進んだ?」
「少し」
「よかったわね」
「あと、音が聞こえた」
「音?」
「音楽室から」
「吹奏楽部?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「誰の音か分からなかったから」
母さんは少しだけ僕を見た。
「でも、気になったのね」
「うん」
「そう」
母さんはそれ以上、聞かなかった。
鍋の蓋を開けて、湯気の中をのぞいている。
その沈黙が、少しありがたかった。
夜、部屋でノートを開いた。
今日のぴょん吉は、耳をすませている。
その前には、少し曲がった音符。
横には、案内している筆がいる。
僕はその下に書いた。
『次の音、少し確認。』
少し考えて、もう一行足した。
『誰の音かは、未確認。』
そこまで書いて、手が止まった。
誰の音かは、未確認。
でも、僕はその音を滝さんのものとして聞いていた気がした。
そのことは、まだ書かなかった。
白いノートの端で、ぴょん吉が耳をすませていた。
その隣で、筆は少しだけ先を見ていた。
音も線も、まだ途中だった。
でも、途中だからこそ、明日も確認するものがある。




