第二十章 次の線
火曜日の朝は、月曜日より少しだけ普通だった。
週末を越えたばかりの昨日は、学校に戻ってきた感じがまだ少し残っていた。
でも、一日過ぎると、教室の机も、黒板も、廊下のざわめきも、いつもの形に戻っている。
僕は席に座って、鞄を机の横にかけた。
左隣には、まだ滝さんはいない。
机の上にノートを出す。
昨日のページには、月曜日の教室にいるぴょん吉がいた。
その横には、掲示板に残る筆と、山城くんの弟が描いた少し違う筆。
『月曜、生存確認。』
『掲示勤務、継続確認。』
『次の線、未確認。』
次の線。
書いた時は何となくだった。
でも、一晩経って見返すと、少しだけ大げさに見える。
次と言っても、何を描くのかは決まっていない。
それでも、昨日の美術室で見た三本の筆が頭に残っていた。
僕が描いた筆とは違う。
でも、確かに同じところから始まっている。
線は、思っていたより遠くへ行くらしい。
「おはよう」
左から声がした。
滝さんだった。
「おはよう」
滝さんは席に着くと、いつものようにこちらを見た。
「火曜日確認」
「確認されました」
「生存確認」
「確認されました」
「体調は?」
「普通。眠気少し。月曜日よりはまし」
「火曜日なので」
「理由になるんだ」
「なります」
滝さんは小さくうなずいた。
それからノートを開く。
今日のぴょん吉は、机の上に小さな紙を置いていた。
横に一言。
『火曜日、確認開始。』
「毎日確認するの?」
「必要なので」
「必要かな」
「必要」
滝さんは真面目な顔で言った。
僕は少し笑った。
昨日より、月曜日の重さは少し減っていた。
でも、確認されることはまだ少し特別だった。
朝のホームルームが終わると、担任の先生が部活動の連絡をした。
「正式入部の届けが出そろってきているから、各部は一年生への説明をしっかりするように。道具の管理や活動場所の使い方も、最初に伝えておくこと」
その言葉を聞いて、美術部のことを思い出した。
山城くんの弟。
ほかの一年生たち。
机の上に紙を置いて、少し遠慮しながら線を引いていた姿。
美術室には、まだ分からないことがたくさんある。
紙の置き場所。
鉛筆の種類。
絵の具の場所。
水入れを洗う場所。
僕も最初は、どこに何があるのかよく分からなかった。
でも、いつの間にか少しずつ覚えていた。
そういうものを、誰かに渡すこともあるのかもしれない。
二時間目の休み時間、滝さんがノートを閉じながら聞いた。
「昨日の筆、どうなった?」
滝さんの特徴として少し分かったことがある。
そういえば、とか、そういう接続の言葉をほとんど言わない。
慣れてきたけれど、慣れていない人はちょっとびっくりするかもしれない。
「山城くんの弟が描いたやつ?」
考えながら、僕はそう答えた。
「うん。筆、増えた後」
「たぶん、美術室にあると思う」
「増殖後、保管」
「増殖って言い方は近づいたけど違う」
「確認しました」
滝さんは小さくうなずいた。
「佐倉くん」
「うん」
「嬉しかった?」
「何が?」
「筆、描いてもらったこと」
そう聞かれて、少し考えた。
嬉しかった。
でも、ただ嬉しいだけではなかった。
自分の描いたものが、自分の手から少し離れて、誰かの線になっていく。
それは少し不思議で、少し落ち着かなくて、でも嫌ではなかった。
「嬉しかったと思う」
「思う」
「まだ確認中」
「確認しました」
滝さんはそう言って、ノートの端に小さく書いた。
『嬉しい、確認中。』
「それも書くんだ」
「必要なので」
「何でも必要になる」
「必要なものが多い」
口を少しへの字に曲げながら滝さんは言った。
滝さんは前にも同じようなことを言っていた。
でも、今日は少しだけその意味が分かる気がした。
昼休み、如月さんが来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
火曜日の昼休み。
昨日よりも、いつもの形に近かった。
「筆、増えたみたいだよ」
滝さんが言った。
「またその話か」
如月さんが弁当を開けながら言う。
「増殖後確認」
「増殖と言うな」
「沙耶も似たようなこと言った」
「言っていない」
「言ったことにする」
「するな」
滝さんは少し笑った。
僕も少し笑った。
「その筆なら、まだ美術室にあると思うよ」
滝さんには先ほどもう言っているが、僕は再度言った。
如月さんがこちらを見た。
「昨日の続きか」
「はい」
「まだ気になるのか」
「気になりますね」
「なら、ちゃんと見ればいい」
「ちゃんと見る」
「自分のものではなくなったなら、なおさらだ」
如月さんはそう言って、卵焼きを食べた。
また少し難しい言い方だった。
でも、昨日ほど重くは感じなかった。
自分の手を離れたから、もう見なくていいわけではない。
自分の手を離れたからこそ、ちゃんと見た方がいい。
たぶん、そういうことだ。
「次の線、か」
如月さんが言った。
僕は少しだけ驚いた。
誰にもこのことは言った覚えがない。
「何で知ってるんですか」
「夏美が朝、言っていた」
「言った?」
僕が滝さんを見ると、滝さんは少しだけ目をそらした。
「少し」
「少しとは」
「佐倉くん、次の線って書いてたって」
「見られてた」
「確認しました」
「確認されてない」
如月さんが箸を置いた。
「名前はいいと思うぞ」
「名前?」
「次の線、というやつだ」
「いいんですか」
「ただし、無理をする理由にはするな」
「先に釘を刺されました」
「必要だからな」
如月さんは短く言った。
その言い方があまりにもいつも通りで、少しだけ安心した。
次に進むことは大事。
でも、それを理由に無理をするな。
如月さんは、いつもその二つを同時に言う。
滝さんがノートの端に何かを書いた。
『次の線、無理禁止。』
「禁止になった」
「必要なので」
「如月さん発?」
「発」
「採用しない」
如月さんはすぐに言った。
「でも、書いた」
「消せ」
「保留」
「保留にするな」
三人で少し笑った。
放課後、美術室へ行くと、藤野先生が机の上に何枚か紙を広げていた。
いつもの画用紙ではない。
少し小さめの紙。
それから、薄いノートのように綴じられたものもある。
「佐倉、ちょうどよかった」
「はい」
「少し相談してもいい?」
「相談ですか」
「一年生向けに、活動ノートを作ってみようと思って」
「活動ノート」
僕は机の上の紙を見た。
表紙には、まだ何も描かれていない。
中には、活動日や道具の場所を書く欄がある。
美術室の簡単な見取り図も入れるらしい。
「美術部って、自由な分だけ最初は迷いやすいのよ」
藤野先生は、表紙だけの小さな冊子を机に置いた。
「何を描いてもいいって言われると、逆に困る子もいるでしょう。だから、道具の場所とか、最初にできることとか、そういうのをまとめておこうと思って」
「案内ですか」
「そう。掲示は入口だったでしょう。今度は、美術室の中で使うもの」
掲示は入口。
昨日、先生が言っていた言葉だ。
入ってきたら、今度は中で描く線が始まる。
その続きが、机の上に置かれていた。
「これを僕が?」
「全部じゃないわよ。文字や説明は私が作る。でも、ちょっとしたカット絵とか、表紙の端の絵とか、佐倉に相談したくて」
「表紙の端」
「いきなり真ん中じゃなくていいの。端に少しあるだけで、見やすくなることもあるから」
端。
その言葉に、ぴょん吉を思い出した。
ノートの端。
掲示の端。
今度は、活動ノートの端。
少しずつ場所が変わっている。
「筆ですか?」
「筆でもいいし、ぴょん吉でもいいし、別のものでもいい」
「ぴょん吉もありなんですか」
「もう外に出たんでしょう?」
藤野先生は少し笑った。
母さんも似たようなことを言っていた。
ノートの中だけではなくなった。
掲示に出て、今度は活動ノートにも出るかもしれない。
それは少し落ち着かなかった。
でも、完全に嫌ではない。
「考えてみます」
「うん。今日は無理に書描かなくていいわ」
藤野先生はそう言って、活動ノートの見本を一冊、僕の前に置いた。
僕は表紙を開いた。
一ページ目には、美術部の活動について。
二ページ目には、道具の場所。
三ページ目には、活動日の確認。
最後のページには、自由にメモを取れる余白があった。
「これ、一年生が持つんですか」
「完成したら、みんなに配れるようにするつもり」
「みんなに」
「人数分コピーして、簡単に綴じるくらいだけどね。余ったら美術室にも置いておけるし」
家に持って帰る子もいるかもしれない。
そう思うと、少しだけ手が止まった。
掲示は学校に残るものだった。
でも、活動ノートは誰かの手元に残る。
鞄の中に入る。
家に持って帰られる。
もしかしたら、机の引き出しに仕舞われる。
見られる線。
届く線。
学校に残る線。
次は、手元に残る線。
そう思った。
山城くんの弟が、美術室に入ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
昨日より少しだけ声が自然だった。
ほかの一年生たちも、少し遅れて入ってくる。
藤野先生は活動ノートの見本を見せながら説明した。
「これ、まだ仮なんだけど、一年生用に作ろうと思っているの」
「すごい」
「もらえるんですか?」
「完成したら、みんなに配れるようにするつもり」
一年生たちは少し嬉しそうだった。
その反応を見て、僕は少し驚いた。
まだ何も描いていない紙なのに、誰かにとってはもらえるものになる。
それなら、端に描く線にも、ちゃんと意味がいる。
でも、意味を重くしすぎると描けなくなる。
僕は鉛筆を持った。
まずは、表紙の端に小さく筆を描いてみる。
困っている筆ではなく、少しだけ案内している筆。
でも、堂々としすぎない。
新しく入ってきた一年生と同じくらい、少しだけ緊張している。
その横に、ぴょん吉を描くか迷った。
ぴょん吉まで入れると、少し賑やかすぎるかもしれない。
でも、筆だけだと少し硬い。
僕は表紙の端に、ぴょん吉の耳と目と顔の半分だけを小さく描いてみた。
全部出すのではなく、少しだけ。
まだ様子を見ている感じ。
「覗いてる」
山城くんの弟が横から言った。
「見えた?」
「はい。顔の半分だけなのに、ぴょん吉っぽいです」
「ぴょん吉って分かるんだ」
「分かります」
そう言われて、少しだけ驚いた。
もう、ぴょん吉は僕と滝さんだけの名前ではない。
少なくとも、この美術室では、何人かが知っている。
「でも、こっちの筆も好きです」
山城くんの弟が言った。
「案内してる感じがします」
「案内してる筆」
「はい。困ってるけど、ちょっと先に歩いてる感じです」
その言葉は、少し嬉しかった。
昨日よりも、ちゃんと受け取れた気がする。
「ありがとう」
僕が言うと、山城くんの弟は少し照れたように笑った。
藤野先生がこちらを見て、うなずいた。
「いいわね。表紙の方向はそれで考えてみましょうか」
「まだ仮です」
「仮でいいのよ。仮から始まるものは多いから」
仮から始まる。
未確認から始まる。
そんなことを思った。
部活の終わり頃、活動ノートの表紙には、いくつかの案が並んでいた。
一つ目は、案内している筆。
二つ目は、筆とぴょん吉の耳。
三つ目は、パレットと小さな足跡。
どれもまだ完成ではない。
でも、次の線の候補にはなっていた。
美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。
今日は楽器ケースを持っている。
「お疲れ」
「お疲れ」
「次の線、どうだった?」
「少し確認」
「おお」
「活動ノートを作ることになりそう」
「活動ノート」
「一年生向け。道具の場所とか、活動日のこととか」
「佐倉くんの絵も入る?」
「たぶん」
「たぶん確認」
「まだ仮なので」
滝さんは少しだけ目を細めた。
「手元に残る線」
「え?」
「掲示は学校に残る。ノートは手元に残る」
僕は少し驚いた。
自分が美術室で考えていたことと、似た言葉だった。
「同じこと、少し考えてた」
「確認しました」
「何で分かったの?」
「佐倉くん、そういう顔してた」
「どういう顔?」
「また少し重く受け取ってる顔」
「そんな顔ある?」
「ある」
滝さんは真面目に言った。
そこへ如月さんも来た。
「何の話だ」
「手元に残る線」
滝さんが答える。
「また線か」
「また線です」
僕が言うと、如月さんはこちらを見た。
「無理は禁止だぞ」
「昼にも言われました」
「何度でも言う」
「確認しました」
「お前まで言うな」
如月さんは少しだけため息をついた。
でも、少し笑っていた。
三人で校門へ向かう。
火曜日の夕方は、昨日より少し軽かった。
月曜日に確認されたものが、火曜日には少しだけ前に進んでいる。
そんな感じがした。
校門の手前で、滝さんが少しだけ立ち止まった。
「佐倉くん」
「うん」
「吹奏楽部も、次の曲が始まった」
「次の曲?」
「うん」
「どんな曲?」
「まだ未確認」
「未確認なんだ」
「でも、少し難しい」
滝さんはそう言って、楽器ケースを少し持ち直した。
「次の音?」
僕が聞くと、滝さんは少しだけ目を丸くした。
それから、小さくうなずいた。
「たぶん」
「たぶん」
「でも、たぶん次の音」
その言葉を聞いて、胸の奥に少しだけ音が残った。
次の線。
次の音。
どちらもまだ未確認。
でも、少しずつ始まっている。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「火曜日確認は?」
「されました」
「毎日なの?」
「毎日みたい」
「いいことね」
「いいのかな」
「いいと思うわよ」
母さんは笑った。
「今日は何か描いた?」
「活動ノートの表紙案」
「活動ノート?」
「一年生向けに作るかもしれない」
「あら、いいじゃない」
「手元に残る線になるかもしれない」
「また難しいこと言ってる」
「言ってるかな」
「言ってるわね」
母さんはそう言って、少し笑った。
夜、部屋でノートを開いた。
今日のぴょん吉は、活動ノートの端から顔の上半分だけ出している。
その横には、少し案内している筆。
前より困ってはいない。
でも、完全に慣れているわけでもない。
僕はその下に書いた。
『次の線、少し確認。』
少し考えて、もう一行足した。
『手元に残る線、未確認。』
さらに、少しだけ迷ってから書く。
『次の音、未確認。』
未確認が増えていく。
でも、不思議と嫌ではなかった。
確認予定がある未確認は、少しだけ前に進んでいる。
白いノートの端で、ぴょん吉が耳だけ出していた。
その隣で、筆は少しだけ先を見ていた。




