第十九章 月曜日の確認
月曜日の朝は、少しだけ足が早くなった。
急いでいるつもりはない。
でも、土曜日と日曜日を挟んだせいか、学校へ向かう道がいつもより少し長く感じた。
確認予定がある。
そう思うと、ただ学校へ行くだけなのに、少しだけ目的地がはっきりしている気がした。
教室に入ると、まだ人は少なかった。
窓側から二列目、後ろから三番目。
左隣の席は空いている。
僕は椅子に座り、鞄を机の横にかけた。
机の上にノートを出す。
週末のページを開くと、土曜日の文字と日曜日の文字が並んでいた。
『土曜日、生存。』
『無理しない、確認。』
『日曜日、未確認継続。』
『月曜、確認予定。』
文字だけ見ると、何かの報告書みたいだった。
でも、その横にはぴょん吉がいる。
土曜日のぴょん吉は、誰もいない廊下で掲示板を見上げている。
日曜日のぴょん吉は、月曜日の教室に座っている。
左隣の席を少し気にしているような顔だった。
自分で描いたのに、少しだけ落ち着かない。
月曜日が来た。
確認予定の日になった。
「おはよう」
左から声がした。
滝さんだった。
「おはよう」
滝さんは席に着くと、鞄を机の横にかけた。
それから、いつものようにこちらを見た。
「月曜、生存確認」
「生存しました」
「週末確認予定」
「提出します」
「お願いします」
滝さんは真面目な顔でノートを開いた。
僕も自分のノートを少しだけ滝さんの方へ向ける。
滝さんは、そこに書かれた文字を順番に見た。
「寝た?」
「寝た」
「無理しなかった?」
「たぶん」
「たぶんは保留」
「大きくは崩れなかった」
「確認しました」
滝さんは小さくうなずいた。
「掲示勤務は?」
「まだ未確認」
「じゃあ、あとで確認」
「はい」
「月曜、生存確認」
「今しました」
「再確認」
「生存しています」
「確認しました」
滝さんはノートの端に小さく書いた。
『月曜、生存確認。』
その横に、ぴょん吉を一匹描く。
ぴょん吉は少し眠そうな顔をしている。
「眠そう」
「月曜なので」
「そのぴょん吉、僕?」
「たぶん」
「たぶん」
僕は少し笑った。
土日を挟んだ左隣は、少しだけ久しぶりだった。
でも、声を聞くとすぐに戻ってくる。
反対側の隣は、まだちゃんとそこにあった。
朝のホームルームが終わると、教室の空気が少しだけ月曜日になった。
週末の話をしている人もいる。
部活の話をしている人もいる。
僕は少しだけ廊下の方を見た。
滝さんがそれに気づく。
「掲示?」
「うん」
「確認する?」
「二時間目のあとで」
「確認前、待機」
「週末明けなので」
「理由になってる」
「感染しました」
「確認しました」
滝さんは少し笑った。
二時間目が終わったあと、僕たちは廊下へ出た。
美術室の近くの掲示板まで歩く。
土曜日と日曜日を越えても、掲示は同じ場所にあった。
紙の端が、ほんの少しだけ浮いている。
画びょうの一つが、少し斜めになっていた。
でも、筆もぴょん吉も、ちゃんとそこにいた。
困っているけれど進行中の筆。
その外から覗いているぴょん吉。
誰もいない週末にも、ここに残っていた線。
それを実際に見ると、少しだけ胸の奥が静かになった。
「いた」
滝さんが言った。
「いたね」
僕は斜めになっていた画鋲を直しながら言った。
「掲示勤務、継続確認」
「勤務ってまだ続くんだ」
「月曜なので」
「理由になってる?」
「なってます」
滝さんは掲示を見上げた。
「土日、越えた」
「うん」
「ちゃんと残ってる」
「残ってた」
僕は掲示を見た。
自分がいない間も、線はここにあった。
それが少し不思議で、でも土曜日に想像したより、ずっと普通のことにも見えた。
紙に描いたものは、描いた人が見ていない間もそこに残る。
そんな当たり前のことを、改めて確認しているみたいだった。
「佐倉くん」
「うん」
「学校に残る線、確認?」
「確認」
「書いておく?」
「あとで」
「確認しました」
滝さんは笑いながら小さくうなずいた。
その笑顔に少し心がざわついた。
(なんだろ、この気持ち)
今まであまりになかった感覚。
実はたまに感じていた感覚。
(分からないなあ…)
その時、掲示板の前に一年生が一人来た。
山城くんの弟だった。
とりあえずその気持ちのことを考えるのは一旦やめた。
弟君は僕たちに気づくと、少し照れたように頭を下げる。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう」
山城くんの弟は、掲示の筆を見た。
「これ、まだ貼ってあるんですね」
「うん」
「何か、あると安心します」
そう言ってから、少し恥ずかしそうに目をそらした。
「安心?」
僕が聞くと、山城くんの弟は小さくうなずいた。
「美術室の場所、もう分かるんですけど、これがあると、ああこっちだって思うので」
掲示は、まだ仕事をしていた。
ただ目立つだけじゃなくて、誰かの入口になっていた。
僕は返事を少し迷ってから言った。
「ありがとう」
ちゃんと受け取れたかは分からない。
でも、否定はしなかった。
滝さんが横で小さく言う。
「受け取り、進行中」
「言わなくていい」
「必要なので」
山城くんの弟は不思議そうに僕たちを見ていた。
それから、一礼して美術室の方へ歩いていった。
昼休み、如月さんが来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
滝さんが弁当箱を出す。
僕も弁当を出す。
如月さんが椅子を持ってくる。
土日を挟んでも、この流れは変わらなかった。
それだけで少し安心した。
「月曜、生存確認しました」
滝さんが言った。
「報告することか?」
如月さんが言う。
「必要なので」
「佐倉」
「はい」
「無理はしなかったか」
「大きくは崩れませんでした」
「大きくは、か」
「はい」
「ならよい」
如月さんは短く言って、弁当を開けた。
その言い方はあっさりしているのに、ちゃんと確認されている感じがした。
僕は少しだけ肩の力が抜けた。
「掲示は?」
如月さんが聞いた。
「残ってました」
「そうか」
「当然なんですけど、見たら少し安心しました」
「なら、それでいい」
「それでいい?」
「当然のことでも、自分で見て確認したなら意味はある」
如月さんは卵焼きを一つ食べてから、続けた。
「描いた後の線は、見る人に任せるしかない」
「任せる」
「全部、自分で抱えなくていい」
その言葉に、少しだけ箸が止まった。
滝さんもこちらを見ている。
全部、自分で抱えなくていい。
それは少し難しい言葉だった。
でも、嫌ではなかった。
「軽く言いますね」
僕が言うと、如月さんは少しだけ目を細めた。
「軽くは言っていない」
「そうですね」
「なら受け取れ」
「またそれ」
「何度でも言う」
滝さんがノートの端に何かを書き始めた。
「何を書いてるの?」
「受け取り、月曜版」
「何それ」
滝さんはノートを少し見せた。
そこには、ぴょん吉が小さな紙を提出している絵があった。
横に一言。
『生存宿題、提出済み。』
なんかちょっと深い。
「宿題になってる」
「昨日から」
「採用はしない」
如月さんがすぐに言った。
「でも提出済み」
「提出先はどこだ」
「月曜日」
「広いな」
「確認しました」
滝さんは真面目にうなずいた。
僕は笑ってしまった。
笑うと、週末の少しぼんやりした感じが、ようやくほどけていく気がした。
午後の授業は、思っていたより普通だった。
月曜日の教室。
黒板。
教科書。
先生の声。
左隣の気配。
週末を越えたからといって、何かが大きく変わったわけではない。
でも、何も変わっていないわけでもなかった。
掲示は残っていた。
山城くんの弟は、美術室の場所をもう分かっているのに、掲示を見ると安心すると言った。
僕の線は、少しだけ学校に残っていた。
そして、月曜に確認された。
それだけで、今日の学校は少し違って見えた。
放課後、美術室へ行くと、一年生たちはもう何人か来ていた。
山城くんの弟もいる。
先週より、座り方が少しだけ自然になっていた。
まだ遠慮はある。
でも、お客さんではなくなっている。
机の上には紙と鉛筆。
何を描くか迷いながら、それぞれが小さく線を引いている。
藤野先生は窓際で用具を整理していた。
「佐倉、週末は休めた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大きくは崩れませんでした」
「それならよかった」
先生は少し笑った。
僕は自分の席に座り、鉛筆を持った。
すると、山城くんの弟が少し遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、佐倉先輩」
「先輩って、まだ慣れないな」
そう答えると、山城くんの弟は少し笑った。
「あの、掲示の筆、真似して描いてみてもいいですか」
「掲示の?」
「はい。困ってるけど、前に進んでる感じが好きで」
僕は少し驚いた。
自分が描いたものを、誰かが真似して描こうとしている。
「いいと思う」
「本当ですか」
「うん。」
一拍おいて、僕は
「同じじゃなくていいと思う」
と言っていた。
何でこの言葉が出てきたのか自分でも分からなかった。
でも、しっかりそう思った。
「同じじゃなくて?」
「君の筆でいいと思う」
山城くんの弟は、少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうにうなずいて、紙に小さな筆を描き始めた。
困っている筆。
でも、少し前に進もうとしている筆。
線は僕のものとは違う。
少し丸くて、少し元気がある。
でも、確かに同じ筆だった。
藤野先生がそれを見て言った。
「いいわね」
「いいんですかね」
「いいのよ。線は、真似されると少し広がるから」
「広がる」
「そのまま写すだけじゃなくて、その人の線になるでしょう」
藤野先生は山城くんの弟の紙を見て、少し笑った。
「掲示は入口だったのかもしれないわね」
「入口」
「入ってきたら、今度は中で描く線が始まるの」
僕はその言葉をゆっくり聞いた。
掲示は入口。
中で描く線。
それは、次の話のように聞こえた。
僕は自分の紙に鉛筆を置く。
今まで描いていた静物画の続き。
でも、今日は少しだけ違う気持ちで線を引いた。
見られる線。
届く線。
学校に残る線。
そして、誰かの手で少し広がる線。
線は、思っていたより遠くへ行くらしい。
部活が終わる頃、山城くんの弟の紙には、少し困った顔の筆が三本もいた。
一番左の筆は、かなり困っている。
真ん中の筆は、少しだけ前を見ている。
右の筆は、何かを決めたような顔をしている。
「進化してる」
僕が言うと、山城くんの弟は照れたように笑った。
「三段階にしてみました」
「いいと思う」
「ありがとうございます」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ不思議な気持ちになった。
自分が最初に描いたものが、別の誰かの中で少し違う形になっている。
それは寂しいことではなかった。
むしろ、少し嬉しいことだった。
美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。
今日は楽器ケースを持っている。
「お疲れ」
「お疲れ」
「掲示勤務、どうだった?」
相変わらず滝さんは独特な言い方をする。
「継続中」
「おお」
「あと、筆が増えた」
「増えた?」
「山城くんの弟が描いてた」
「筆、繁殖?」
「言い方」
「増殖?」
「近づいたけど違う」
滝さんは少し笑った。
「線、広がった?」
「たぶん」
「確認しました」
「まだたぶんだけどいいの?」
「今日はたぶんでもよい日」
「そういう日があるんだ」
「月曜日なので」
理由になっているのか分からなかったけれど、僕は少し笑った。
そこへ如月さんも来た。
「何の話だ」
「筆が増えた話」
滝さんが答える。
「増えるのか」
「増えました」
詳細を僕が言うと、如月さんは少しだけ眉を動かした。
「それなら、よかったんじゃないか」
「よかった、ですか」
「見て終わりじゃなかったんだろう」
「はい」
「なら十分だ」
如月さんはそれだけ言って、歩き出した。
短い言葉だった。
でも、胸の奥に少し残った。
見て終わりじゃなかった。
掲示は貼られて、残って、誰かに見られて、今度は別の手で描かれた。
何かが終わったわけではない。
むしろ、少しだけ次が始まっている。
三人で校門へ向かった。
月曜日の夕方は、金曜日より少しだけ現実に戻っている感じがした。
でも、それは嫌な感じではなかった。
校門のところで、滝さんが言った。
「月曜、確認完了」
「完了?」
「でも、次の確認がある」
「何の?」
「明日」
「明日」
「火曜日確認」
「毎日増えるね」
「必要なので」
滝さんは小さくうなずいた。
如月さんが隣でため息をつく。
「お前たちは確認をしすぎだ」
「「必要なので」」
僕と滝さんの声が少し重なった。
如月さんはもう一度ため息をついた。
でも、少しだけ笑っていた。
家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「確認された?」
母さんは慣れてきたようだ。
「された」
「提出できた?」
「生存宿題?」
「そう」
「提出済み」
母さんは笑った。
「じゃあ、よかった」
「掲示も残ってた」
「そう」
「筆もぴょん吉も」
「ちゃんと勤務してた?」
「継続中だった」
「それもよかったわね」
母さんはそう言って、鍋をかき混ぜた。
家でも、確認が続いている。
それは少しおかしくて、少し安心することだった。
夜、部屋でノートを開いた。
今日のぴょん吉は、月曜日の教室にいた。
左隣の席の方を見ている。
その横には、掲示板に残る筆と、山城くんの弟が描いた少し違う筆。
僕はその下に書いた。
『月曜、生存確認。』
『掲示勤務、継続確認。』
少し考えて、もう一行足した。
『次の線、未確認。』
未確認。
でも、怖いだけではない。
確認予定がある未確認は、少しだけ前に進んでいる。
白いノートの端で、ぴょん吉が次のページを見ていた。
その隣で、筆は困っているけれど、ちゃんと進行中だった。




