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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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17/30

第十七章 金曜日の未確認

 金曜日の朝の教室には、少しだけ週末の気配が混じっていた。


 まだ今日の授業は残っている。


 それなのに、誰かの笑い声も、机を引く音も、昨日より少し軽く聞こえる。


 僕は席に座り、鞄を机の横にかけた。


 左隣には、まだ滝さんはいない。


 机の上にノートを出すと、昨日のページが少しだけ重く見えた。


 昨日のページには、掲示の端から顔を出すぴょん吉と、少し前に進もうとしている筆がいた。


『掲示勤務、初日。』


『届く線、少し確認。』


 届く線。


 自分で書いた言葉なのに、見返すと少し落ち着かなかった。


 でも、昨日よりは嫌ではない。


 山城くんの弟が、掲示を見て美術部に来た。


 筆が前より進んで見えたと言った。


 ぴょん吉がかわいいと言った。


 正式入部の紙も出した。


 全部が掲示の力だとは思わない。


 でも、少しだけ自分の線がそこに混ざっていた気がする。


 それは、まだうまく受け取れないけれど、悪くないことだと思った。


「おはよう」


 左から声がした。


 滝さんだった。


「おはよう」


 滝さんは席に着くと、鞄を机の横にかけた。


「反対側、五日目」


「確認されました」


「生存確認」


「確認されました」


「体調は?」


「普通。眠気少し。金曜日」


「金曜日」


「週末前なので」


「精神項目、金曜日追加」


「また増えた」


「必要なので」


 滝さんはそう言って、ノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、小さな掲示板の前に立っていた。


 その横に、少し困った顔の筆がいる。


 さらにその下に一言。


『掲示勤務、二日目。』


「もう二日目になってる」


「昨日が初日なので」


「勤務制が定着してる」


「定着中」


「反対側も?」


「反対側も定着中」


 滝さんは少しだけ笑った。


 僕も少し笑った。


 昨日より、左から聞こえる声に違和感はなかった。


 反対側の隣。


 その言葉はまだ少し特別だけれど、席そのものはもうだいぶ普通になってきている。


「掲示、今日も見る?」


 滝さんが聞いた。


「見ると思う」


「確認?」


「掲示勤務確認」


「使いこなしてる」


「感染したので」


「確認しました」


 滝さんは小さくうなずいた。


 朝のホームルームが終わると、教室の空気が少しだけ金曜日になった。


 週の終わり。


 明日は学校がない。


 そのせいか、授業前のざわめきも少ない気がする。


 でも、僕の中には少し別の落ち着かなさがあった。


 掲示は、今日も廊下に貼られている。


 授業を受けている間も。


 昼休みも。


 放課後も。


 そして土日も、たぶんそのまま学校に残る。


 僕が家に帰っても、掲示は学校に残る。


 誰かが見るかもしれない。


 誰も見ないかもしれない。


 それは、少し不思議だった。


 二時間目が終わったあと、廊下に出ると、美術部の掲示の前に一年生が二人立っていた。


 昨日来ていたうちの二人だと思う。


 名前はまだ覚えていない。


 その二人が掲示を見ながら、小さく話していた。


「こっちが筆?」


「たぶん」


「こっちのウサギ、こっそり見てる」


 そこまで聞こえて、僕は少しだけ足を止めた。


 滝さんも隣で止まった。


 一年生たちは僕たちには気づいていない。


 掲示を見て、少し笑って、何かを話している。


 それだけだった。


 でも、それだけで十分だった。


 僕の線が、僕のいないところで誰かの話の中に入っている。


 そう思うと、胸の奥が少しむずがゆかった。


「佐倉くん」


 滝さんが小さく言った。


「うん」


「届く線、二日目」


「まだ確認中」


「厳しい」


「完全確認ではないので」


「私の言い方」


「感染したので」


 滝さんは少し笑った。


 僕も笑った。


 でも、掲示からは少し離れたままだった。


 近づいていくのは、まだ少し落ち着かない。


 自分が描いたものを誰かが見ているところを見るのは、直接褒められるのとは違う落ち着かなさがある。


 見たい。


 でも、見られたくない。


 変な感じだった。


 昼休み、如月さんが来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 滝さんが弁当箱を出す。


 僕も弁当を出す。


 如月さんが椅子を持ってくる。


 この流れは、もうほとんど決まった形になっていた。


 席替えの前と左右は違う。


 でも、昼休みはちゃんと続いている。


「掲示勤務二日目」


 滝さんが言った。


「何だそれは」


 如月さんが眉を少し動かした。


「昨日から」


「妙な言葉を定着させるな」


「でも、掲示は働く」


「勤務とは言っていない」


「厳しい」


「当然だ」


 滝さんは少し笑った。


 僕も少し笑った。


 如月さんは弁当を開けながら、僕を見る。


「佐倉」


「はい」


「受け取りは進んだか」


「何のですか」


「分かっているだろう」


「掲示のことですか」


「それも含む」


 如月さんは短く言った。


 褒め言葉。


 届いたこと。


 自分の線が見られたこと。


 その全部を言っているのだと分かった。


「少しは進みました」


「少しか」


「少しです」


「ならよい」


 如月さんはそう言って、卵焼きを食べた。


 滝さんがノートの端に小さく何かを書く。


『受け取り、進行中。』


「また書いてる」


「必要なので」


「何でも必要になるね」


「必要なものが多い」


 滝さんは真面目に言った。


 そのあと、少しだけ黙ってから、言った。


「明日、学校ない」


 その言葉に、少しだけ空気が変わった。


 前にも似たようなことがあった。


 学校がない日は、生存確認ができない。


 あの時は、少し変な空気になった。


 だから、僕は少しだけ言葉を選んだ。


「土曜日だからね」


「生存確認、できない」


「月曜に確認されます」


「月曜まで未確認」


「未確認期間」


 滝さんは少し考えた。


 如月さんが箸を置く。


「確認できないなら、確認することを決めておけばいい」


「確認すること?」


 滝さんが聞いた。


「月曜に聞く内容だ」


「なるほど」


 滝さんはすぐにノートを開いた。


「週末確認予定」


「本当に作るんだ」


「作ります」


 滝さんはノートの端に小さく書き始めた。


『週末確認予定』


 一、寝る。

 二、無理しない。

 三、掲示勤務を月曜に確認。

 四、月曜、生存確認。


「四つもある」


「必要なので」


「これ、僕の宿題?」


「生存宿題」


「重い宿題だね」


「大事」


 滝さんは真面目に言った。


 僕は少しだけ笑った。


 でも、その文字を見ていると、少し安心した。


 土日は学校がない。


 確認はできない。


 でも、月曜に確認する予定がある。


 それだけで、良く分からない何かがずっと違った。


 如月さんが言った。


「無理しない、は本当に守れ」


「はい」


「特に佐倉」


「はい」


「そして夏美もだ」


「はい」


「返事だけで済ませるな」


「「 行動も合わせます 」」


 声が重なった。


 滝さんが少し笑った。


 僕も笑った。


 何回か被ってるこの言葉に如月さんはため息をついたけれど、少しだけ笑っていた。


 午後の授業は、少し眠かった。


 金曜日の午後。


 教室の空気も、少しだけゆるい。


 先生の声を聞きながら、僕は何度かノートの端を見た。


 滝さんの週末確認予定。


 生存宿題。


 その言葉が、何となく頭に残った。


 宿題というほどではない。


 でも、土日の間も、月曜に確認されると思うだけで、少し生活の輪郭がはっきりする気がした。


 放課後、美術室へ行くと、藤野先生が窓を開けていた。


 春の終わりに近い風が入ってくる。


「佐倉、今日は少し眠そうね」


「金曜日なので」


「便利な理由ね」


「便利です」


 先生は笑った。


 美術室には、昨日正式入部の紙を出した山城くんの弟が来ていた。


 ほかの一年生も二人。


 まだ少し緊張した様子で、机の端に座っている。


 掲示の話をしている子もいた。


「掲示、見た?」


 藤野先生が一年生に聞く。


「見ました」


「筆が居ました」


「ウサギも居たよね」


 その声を聞いて、僕は少しだけ手元の鉛筆を握り直した。


 昨日よりは、ましだった。


 でも、やっぱり少し落ち着かない。


 藤野先生が僕の方を見て、少しだけ笑った。


 たぶん、僕の顔を見て分かっている。


「今日は、自分の線を少し離して見る練習をしましょうか」


「離して見る?」


「描いたものを、少し遠くから見るの」


 先生はそう言って、僕の静物画をイーゼルに立てかけた。


「近くで描いていると、線の迷いばかり見えるでしょう。でも、少し離れると、形になっている部分も見える」


 僕は少し後ろに下がった。


 自分の描いた瓶と布と木箱。


 近くで見ると、気になる線ばかりだった。


 でも、少し離れると、思っていたよりちゃんとそこにある。


 まだ完成ではない。


 でも、形にはなっている。


「掲示のポスターも同じよ」


 藤野先生が言った。


「近くで描いている時は、線の迷いが見える。でも、廊下で見る人は、少し離れて見る」


「だから、届いたんですかね」


「届いたんだと思うわ」


 先生は静かに言った。


 僕は自分の絵を見た。


 線は、近くにある時と、離れた時で見え方が違う。


 それは少し怖くて、少し面白いことだった。


 部活の終わり際、藤野先生が正式入部の紙を何枚かまとめていた。


 山城くんの弟の紙もそこにある。


 美術部の人数が少し増える。


 その中に、自分の線がほんの少し関わっているのだとしたら。


 やっぱり、悪くなかった。


 美術室を出る前、僕は廊下の掲示をもう一度見た。


 困っているけど進行中の筆。


 外から覗くぴょん吉。


 明日と明後日、僕は学校に来ない。


 でも、この掲示は学校に残る。


 誰かが見るかもしれない。


 誰も見ないかもしれない。


 それでも、ここに残る。


 自分の線が、自分のいない場所に残る。


 そう思うと、少しだけ不思議だった。


 昇降口へ向かうと、滝さんと如月さんが待っていた。


 滝さんは楽器ケースを持っている。


 如月さんは竹刀袋を肩にかけている。


「お疲れ」


 滝さんが言った。


「お疲れ」


「掲示勤務二日目、どうだった?」


「勤務中でした」


「成果は?」


「一年生が掲示の話をしてた」


「おお」


「進歩確認?」


「確認しました」


 滝さんは小さくうなずいた。


 如月さんが僕を見る。


「佐倉」


「はい」


「週末確認予定は覚えているか」


「寝る、無理しない、掲示勤務を月曜に確認、月曜生存確認」


「よし」


「本当に宿題みたいですね」


「宿題だろう」


「生存宿題?」


 滝さんが言った。


「その言い方は採用しない」


 如月さんがすぐに返す。


「でも、いい」


「よくない」


 三人で校門へ向かった。


 夕方の空は、少し薄い色をしていた。


 金曜日の放課後は、いつもより学校の外が近く感じる。


 明日は学校に来ない。


 明後日も来ない。


 月曜まで、教室も、左隣も、掲示も、少し遠くなる。


 校門のところで、滝さんが立ち止まった。


「佐倉くん」


「うん」


「月曜、生存確認」


「確認されます」


「週末確認予定、忘れない」


「忘れません」


「掲示勤務も」


「月曜に確認します」


「よろしい」


 滝さんは小さくうなずいた。


 その横で、如月さんが言う。


「本当に無理するなよ」


「はい」


「週末は、学校がないからな」


「分かってます」


「ならいい」


 如月さんはそれだけ言って、少しだけ視線をそらした。


 心配してくれているのだと分かった。


 それをちゃんと受け取るのも、たぶん大事なことだ。


「ありがとうございます」


 僕が言うと、如月さんは少しだけ目を細めた。


「受け取り、進行中だな」


「はい」


 滝さんが小さく笑った。


「確認しました」


 三人はそこで別れた。


 滝さんは駅の方へ。


 如月さんは別の道へ。


 僕は家へ向かう道を歩く。


 金曜日の帰り道は、少しだけ長く感じた。


 学校から離れていく。


 でも、掲示は学校に残っている。


 自分の線が、そこに残っている。


 それが少し落ち着かなくて、少し嬉しかった。


 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


「金曜日だった」


「それはそうね」


「週末確認予定ができた」


「何それ」


「寝る、無理しない、月曜に生存確認」


 母さんは少しだけ目を丸くして、それから笑った。


「いい予定ね」


「いいのかな」


「いいと思うわよ。ちゃんと休む予定があるのは大事」


「宿題みたいになった」


「じゃあ、ちゃんと提出しないとね」


「月曜に?」


「月曜に」


 母さんまで、そう言った。


 僕は少しだけ笑った。


 夜、部屋でノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、掲示板の前に立っている。


 筆は少し前に進もうとしていて、ぴょん吉はその横で掲示を見上げている。


 その下に、滝さんが昼休みに書いたものを思い出しながら、自分でも書いた。


『週末確認予定』


 一、寝る。

 二、無理しない。

 三、掲示勤務を月曜に確認。

 四、月曜、生存確認。


 少し考えて、さらに一行足した。


『金曜日の未確認。』


 土日は学校がない。


 だから、確認できないことがいくつかある。


 滝さんの声。


 反対側の隣。


 掲示の前に立つ一年生。


 ぴょん吉と筆の勤務状況。


 でも、月曜に確認する予定がある。


 それだけで、未確認は少しだけ怖くなくなる。


 白いノートの端で、ぴょん吉が掲示板を見上げていた。


 その横の筆は、困っているけれど、ちゃんと進行中だった。


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