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白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


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第十六章 届く線

 木曜日の朝、反対側の隣は四日目になった。


 窓側から二列目、後ろから三番目。


 もう、席を探すような感覚はほとんどなかった。


 僕は椅子に座り、鞄を机の横にかけた。


 左隣には、まだ滝さんはいなかった。


 机の上にノートを出す。


 昨日のページを開くと、ぴょん吉がノートの端から少しだけ外へ顔を出していた。


 その横には、困っているけれど前より逃げていない筆。


『見られる線、未対応。』


『静かな線、仮採用。』


 静かな線。


 昨日、滝さんにそう言われた。


 上手いではなく、静か。


 うるさくないけど、ちゃんといる。


 その言葉は、まだ少し落ち着かなかった。


 でも、嫌ではなかった。


「おはよう」


 左から声がした。


 滝さんだった。


「おはよう」


 滝さんは席に着くと、鞄を机の横にかけた。


「反対側、四日目」


「確認されました」


「生存確認」


「確認されました」


「体調は?」


「普通。眠気なし。反対側にはだいぶ慣れた」


「おお」


「進歩確認?」


「確認しました」


 滝さんは小さくうなずいた。


 それからノートを開く。


 今日のぴょん吉は、机の横で普通に座っていた。


 もう耳だけそちらへ向けているわけでもない。


 横に一言。


『反対側、定着中。』


「定着中」


「完全ではないので」


「でも、だいぶ普通になったね」


「うん」


 滝さんはそう言ってから、少しだけ僕のノートの方を見た。


「掲示、今日貼られる?」


「たぶん」


「たぶん」


「昨日、まだ途中だったけど、藤野先生が今日仕上げるって言ってた」


「ぴょん吉、掲示勤務?」


「勤務って何」


「外部進出後の仕事」


「仕事なのかな」


「美術部を覗く係」


「係ができた」


 滝さんはノートの端に小さく書いた。


『掲示勤務、未確認。』


「また未確認」


「貼られてから確認」


「それはそう」


 僕は少し笑った。


 でも、笑いながらも落ち着かなかった。


 昨日は美術室の中で見られた。


 藤野先生に見られて、滝さんに見られた。


 でも、今日は違う。


 掲示が貼られれば、廊下を通る人が見る。


 一年生が見る。


 美術部に入るかどうか迷っている人が見るかもしれない。


 それは、自分の線が自分の手元から少し離れることだった。


 朝のホームルームが終わると、廊下が少し騒がしくなった。


 各部の案内を貼り直すために、先生や生徒が何人か動いているらしい。


 教室の外から、掲示板の画びょうを外す音が聞こえた。


 僕は少しだけ廊下の方を見た。


「気になる?」


 滝さんが聞いた。


「少し」


「見に行く?」


「今はまだいい」


「未確認のまま?」


「確認前、待機」


「使いこなしてる」


「感染したので」


 滝さんは少し笑った。


 二時間目が終わったあと、廊下に出ると、美術室の近くの掲示板に新しい案内が貼られていた。


 まだ誰も大きくは騒いでいない。


 でも、前より少し目に入りやすくなっていた。


『美術部 活動案内』


 活動日。


 場所。


 持ち物。


 正式入部について。


 そして、その端に、困っている筆がいた。


 前の掲示の筆より、ほんの少しだけ前に出ている。


 完全に自信満々ではない。


 でも、逃げてはいない。


 困っているけど、進行中。


 昨日、滝さんが書いた言葉を思い出した。


 その視線の先に、ぴょん吉がいた。


 掲示の端から、少しだけ顔を出している。


 美術部の中を覗いている。


 まだ入るかどうか迷っているけれど、少し気になっているような顔。


 自分で描いたものなのに、廊下に貼られていると少し違って見えた。


 紙の上では小さかった線が、掲示板に貼られると、急に外の空気を吸っているように見える。


「いた」


 横から滝さんが言った。


 いつの間にか隣に来ていた。


「いたね」


「掲示勤務、確認」


「勤務なんだ」


「勤務中」


 滝さんは掲示を見上げて、少しだけ目を細めた。


「筆、進んでる」


「少しだけ」


「困ってるけど」


「進行中」


「確認しました」


 滝さんは小さくうなずいた。


 僕は掲示を見ながら、少しだけ息を吐いた。


 貼られてしまった。


 もう、僕の机の上には戻らない。


 もちろん、外すことはできる。


 描き直すこともできる。


 でも、今この瞬間は、廊下の掲示板にある。


 誰かが通れば見る。


 それだけで、胸の奥が少し落ち着かなかった。


「佐倉くん」


「うん」


「体調は?」


「普通。眠気なし。掲示で少し重い」


「精神項目、掲示追加」


「また増えた」


「必要なので」


 滝さんはそう言ったあと、少しだけ掲示を見た。


「でも、悪くない」


「悪くない?」


「うん。ちゃんといる」


 昨日と似た言葉だった。


 うるさくないけど、ちゃんといる。


 僕は掲示の端のぴょん吉を見た。


 確かに、そこにいた。


 小さくても、ちゃんと。


 昼休みになる少し前、山城くんが僕の席に来た。


「佐倉」


「うん?」


「美術部の掲示、見た」


 その一言で、少しだけ体が固まった。


「見たんだ」


「見た。あれ、新しくした?」


「昨日少し手伝った」


「やっぱり」


 山城くんは少し笑った。


「弟がさ、あのウサギ気にしてた」


「ウサギ」


「端にいるやつ。筆の方見てるやつ」


 僕は返事が少し遅れた。


 ウサギ。


 ぴょん吉のことだ。


「何て言ってた?」


「なんか、あのウサギは入るか迷ってる感じがするって」


「え」


「あと、筆も困ってるけど、前より進んでそうって」


 思わず、滝さんの方を見た。


 滝さんもこちらを見ていた。


 目が少し大きくなっている。


 山城くんは続けた。


「弟、今日も美術部見に行くって言ってた」


「本当?」


「うん。たぶん正式入部するんじゃないかな」


 そう言われて、胸の奥が変なふうに軽くなった。


 自分が考えて描いたことが、少しだけ届いていた。


 困っているけど、進行中。


 筆が中にいて、ぴょん吉が外から覗いている。


 それが、ちゃんと誰かに伝わっていた。


「佐倉?」


「あ、うん」


「大丈夫?」


「大丈夫」


「じゃあ、弟に言っとく。今日行っていいって」


「うん。ありがとう」


 山城くんは手を軽く上げて、自分の席へ戻っていった。


 滝さんが小さく言った。


「ぴょん吉、仕事した」


「だから仕事なの?」


「掲示勤務」


「勤務成功?」


「たぶん」


「たぶん」


「でも、たぶん届いた」


 その言葉に、少しだけ昨日の演奏を思い出した。


 たぶん、届いた。


 昨日は、滝さんの音だった。


 今日は、僕の線だった。


 昼休み、如月さんが来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 いつものように滝さんが弁当を出し、僕も弁当を出した。


 如月さんが椅子を持ってくる。


 席替えをしても、この形はもうだいぶ自然だった。


「掲示、貼られました」


 僕が言うと、如月さんは弁当の蓋を開けながら短くうなずいた。


「見た」


「もう見たんですか」


「廊下を通ったからな」


「どうでした?」


 聞いてから、少しだけ緊張した。


 如月さんは卵焼きを一つ食べてから言った。


「悪くない」


「悪くない」


「筆が前より少し進んでいた」


「そこ見たんですね」


「そこを見せたいんだろう」


 僕は少しだけ黙った。


 如月さんはちゃんと見ていた。


 たぶん、僕が思っているよりずっと。


「山城くんの弟が、今日も美術部に来るらしいです」


「掲示を見てか」


「たぶん」


「なら、届いたんだろう」


 如月さんはさらっと言った。


「届いた」


「見る人に伝わる役目があればいいと言っただろう」


「言いました」


「役目を果たしたなら、それでいい」


 滝さんがノートの端に何かを書き始めた。


「何書いてるの?」


 僕が聞くと、滝さんはノートを少しだけ見せた。


 そこには、掲示板の前に立つぴょん吉がいた。


 横に一言。


『届く線、確認中。』


「確認中なんだ」


「まだ初日なので」


「厳しい」


「沙耶感染」


「私のせいにするな」


 如月さんが言った。


 でも、少しだけ口元が緩んでいた。


「見られたなら、次は届いたかどうかだろう」


 如月さんが言った。


「今、少し届いた気がしました」


「なら、それを忘れるな」


「はい」


「あと、褒め言葉も受け取れ」


「またそれ」


「何度でも言う」


 滝さんが小さく言った。


「受け取り、二日目」


「分割払い続いてる」


「未完済」


「完済するのかな」


「たぶん」


 三人で少し笑った。


 午後の授業中も、何度か掲示のことを思い出した。


 廊下に貼られている紙。


 そこにいる筆。


 ぴょん吉。


 山城くんの弟が言った言葉。


 入るか迷ってる感じ。


 前より進んでそう。


 それは、僕が考えながら描いたものだった。


 自分の考えが、そのまま全部伝わるわけではない。


 でも、少しだけ届くことがある。


 線は、届くことがある。


 そう思うと、少しだけ手元のノートを見る目も変わった。


 放課後、美術室へ行くと、藤野先生が掲示用の予備の紙を片付けていた。


「佐倉、見た?」


「はい」


「廊下の掲示」


「見ました」


「どうだった?」


「落ち着かなかったです」


「正直ね」


「でも、悪くはなかったです」


「それならよかった」


 藤野先生は少し笑った。


「一年生、今日も来るかもね」


「山城くんの弟が来るらしいです」


「あら、そうなの」


「掲示のぴょん吉を気にしてたみたいで」


「ちゃんと仕事してるじゃない」


「やっぱり仕事なんですか」


「掲示に出たら、仕事ね」


 藤野先生も滝さんと同じようなことを言う。


 僕は少し笑った。


「筆も、伝わってたみたいです」


「何て?」


「困ってるけど、前より進んでそうって」


 藤野先生は少しだけ目を細めた。


「弟君、感性がいいね」


「自分の意図が伝わるとすこし嬉しいですね」


「ちゃんと届いたわね」


「届いたんですかね」


「届いたんだと思うわよ。描いた人がそこを考えていたなら、なおさら」


 そう言われて、少しだけ胸が静かになった。


 ちゃんと届いた。


 その言葉を、まだ全部は受け取れない。


 でも、昨日よりは少し受け取れる気がした。


 部活が始まると、本当に山城くんの弟が来た。


 ほかにも一年生が二人。


 昨日より少しだけ人数が増えていた。


 山城くんの弟は、美術室に入るなり少し照れたように言った。


「掲示、見ました」


「ありがとう」


「あの筆、前よりちょっと進んでました」


「そう見えた?」


「はい。困ってるけど、来てほしそうでした」


 僕は少しだけ返事に詰まった。


 来てほしそう。


 それは自分では考えていなかった。


 でも、言われてみると、そう見える気もした。


 中にいる筆が、外から覗くぴょん吉を見ている。


 美術部の中から、迷っている誰かを見ている。


 来てもいいよ、と言っているみたいに。


「あと、端のウサギ」


「ぴょん吉?」


「名前あるんですか?」


「ある」


「かわいいです」


 そう言われて、僕は少しだけ困った。


 褒められている。


 たぶん。


 しかも、ちゃんと。


「ありがとう」


 僕は何とかそう言った。


 色々と考えるところはあるので、素直には受け取れなかった。


 藤野先生が少し離れたところで、満足そうに見ていた。


 一年生たちはそのあと、昨日と同じように紙を出して、簡単なスケッチを始めた。


 山城くんの弟は、筆の絵を少し真似して描いていた。


 困っている筆。


 でも、少し前に進もうとしている筆。


 それを見て、僕は少しだけ不思議な気持ちになった。


 自分の線を見て、誰かがまた線を引いている。


 そんなことがあるのかと思った。


 部活の終わり際、山城くんの弟が正式入部の紙を藤野先生に渡していた。


 先生はそれを受け取り、優しくうなずいている。


 僕はそれを少し離れて見ていた。


 掲示のせいだけではないと思う。


 もともと興味があったのだろうし、山城くんが話してくれたこともある。


 でも、その中に少しだけ、自分の描いた線が入っていたのだとしたら。


 それは、悪くない。


 いや、かなりよかった。


 そう思った。


 美術室を出ると、廊下で滝さんが待っていた。


 今日は楽器ケースを持っている。


「お疲れ」


「お疲れ」


「一年生、来た?」


「来た」


「掲示勤務、成果?」


「成果って言うと大げさだけど、山城くんの弟が正式入部の紙を出した」


「おお」


「何その反応」


「進歩確認」


「それ、朝も聞いた」


「大事なので」


 滝さんはノートを取り出し、立ったまま小さく書いた。


『届く線、少し確認。』


「少し」


「完全確認ではないので」


「でも、ほんとに確認はされた?」


「されたと思う」


 僕がそう言うと、滝さんは小さくうなずいた。


「受け取り、進行中」


「褒め言葉?」


「たぶん」


「じゃあ、受け取ります」


「確認しました」


 そこへ如月さんが来た。


 竹刀袋を肩にかけている。


「佐倉」


「はい」


「掲示は働いたか」


「働いたみたいです」


「ならよい」


「如月さんまで仕事扱い」


「掲示なのだから仕事だろう」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 滝さんが少し笑った。


「沙耶、掲示勤務採用?」


「しない」


「でも使った」


「今だけだ」


「厳しい」


 いつもの会話をしつつ、三人で校門へ向かった。


 夕方の風が少しだけ涼しかった。


 木曜日。


 まだ週の途中なのに、今週もずいぶん長い気がした。


 反対側の隣に慣れてきた。


 滝さんの音を見つけた。


 僕の線を見つけられた。


 そして今日は、その線が少しだけ誰かに届いた。


 校門のところで、滝さんが言った。


「明日は、掲示勤務二日目」


「まだ続くんだ」


「続きます」


「ぴょん吉も?」


「ぴょん吉も」


「筆も?」


「筆も」


 如月さんが言った。


「お前たちもだろう」


「僕たちも?」


「困っていても進行中、なんだろう」


 滝さんが少しだけ目を丸くした。


 それから、静かに笑った。


「沙耶、今の本採用」


「するな」


「でも、いい」


 僕も少し笑った。


 困っていても、進行中。


 それは筆だけの話ではなかったのかもしれない。


 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


「掲示が貼られた」


「あら。どうだった?」


「落ち着かなかった」


「それでも?」


「少し、届いたかもしれない」


 母さんは少しだけ笑った。


「よかったじゃない」


「うん」


「ちゃんと受け取れた?」


「少し」


「少しでも十分よ」


 最近、母さんも如月さんみたいなことを言う。


 僕は少しだけ笑った。


 夜、部屋でノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、掲示板の前に立っている。


 その隣には、少し前に進もうとしている筆。


 ぴょん吉は掲示の端から顔を出していて、筆はそれを見ている。


 横に一言。


『掲示勤務、初日。』


 少し考えて、もう一つ書いた。


『届く線、少し確認。』


 書いてから、しばらく眺めた。


 見られることは、まだ怖い。


 褒められることも、まだ少し苦手だ。


 でも、見られた線が誰かに届くこともある。


 そう思うと、少しだけ次の線を引くのが怖くなくなった。


 白いノートの端で、ぴょん吉が掲示を見上げていた。


 その横の筆は、困っているけれど、確かに少しだけ前を向いていた。


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