36.
「カシウス様! 起きてっ……起きてください!」
鉄格子の向こうから響く、鼓膜を震わせるような悲痛な叫び声。
深い闇に落ちようとしていたカシウスの意識は、その強烈な現実の声に引かれるようにして、ゆっくりと浮上していった。
重い瞼を開けば、ぼやけた視界の中に見慣れた少女の姿が映り込んだ。
「……セ、レナ……?」
掠れた声で名を呼ぶと、鉄格子を握り締めていたセレナはハッと顔を上げた。
大粒の涙をポロポロとこぼしながら、泣きはらした目で彼を見つめる。
「はいっ、セレナです……! 良かった、間に合って……! 今、今開けますから! 動かないでくださいっ!」
セレナは鉄格子の古びた錠前に手をかざすと、短く詠唱して鍵を壊した。
バァァンッ! という破裂音と共に、頑丈な鉄の錠前が飴細工のように吹き飛ぶ。
彼女は躊躇うことなく牢屋の中へ飛び込み、冷たい石の床に倒れ伏しているカシウスの元へと滑り込んだ。
「ひどい熱……それに、こんなに血を流して……!」
カシウスの髪は汗と血で額に張り付いており、その呼吸は浅く、不規則だった。
彼の右手には、鈍い光を放つ漆黒の指輪が固く握り締められている。
「大丈夫です、安心してください。アタシがすぐに治しますからっ!」
セレナは震える両手をカシウスの胸元にかざし、自身が持つすべての魔力を振り絞って、最上級の治癒魔法を展開した。
「<治癒>!」
地下室の淀んだ空気を浄化するように、まばゆく温かな黄金色の光がカシウスの身体を包み込む。
光がカシウスの全身を包み込み、引き裂かれた衣服の下に見えていた痛々しい火傷や鎖に擦れた手首の裂傷が見る間に塞がっていった。
心なしか、呼吸も少しだけ落ち着きを取り戻したように見える。
――間に合った。これで助かる。
そう思ってセレナが安堵の息を吐き出そうとした、次の瞬間だった。
「……っ、がはっ……!」
突然、カシウスの身体が激しく痙攣し、その口から大量のどす黒い血が吐き出された。
「えっ……!?」
飛び散った血の飛沫が、セレナの白い頬や服を赤く汚す。
カシウスは喉を掻きむしるようにして咳き込み、さらに血を吐き続けた。
神聖魔法の光は確かに彼の身体を包んでいるというのに、彼の顔色は土気色を通り越し、死者のような蒼白へと変わっていく。
「ど、どうして!? 外傷は全部塞がったはずなのに! なんで血が止まらないの!?」
パニックに陥り、さらに魔力を注ぎ込もうとするセレナ。
そんな彼女の震える手を、血に濡れたカシウスの冷たい手が、力なくそっと握り止めた。
「やめて、くれ……セレナ……。無駄、なんだ……」
「カシウス様……っ、無駄なわけないじゃないですか! シャルミーヌ様もアルドリック様も、カシウス様のことを心配しています!傷を治して、みんなで一緒にお屋敷に帰りましょう……!」
「これは……怪我じゃ、ないんだ」
カシウスは自らの口元を乱暴に拭いながら、力なく、けれどどこまでも静かな声で告げた。
「僕の命は元々長くなかった……不治の病、なんだ。どんな高度な治癒魔法を使っても、治すことはできない」
その言葉が落ちた瞬間、セレナの動きが完全に凍りついた。
「ふじの、やまい……?」
頭の中が真っ白になる。
カシウスが不治の病を患っている。
そんな情報、彼女の記憶のどこを探しても存在しなかった。
「嘘……そんなの、嘘です。だって、原作ゲームにも、外伝小説にも……そんな設定、一行だって書かれてなかったのにっ!」
セレナは顔を青ざめさせ、うわ言のように呟いた。
原作での彼は、秋に何者かに誘拐され、人間爆弾へと改造されるはずだった。
だからセレナは、その誘拐事件さえ防げば、彼は助かるのだと信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。
彼は初めから誰に知られることもなく、一人で静かに死へと向かっていたのだ。
「……セレナ。君には、少し不思議なところがあるね」
混乱するセレナを見て、カシウスは苦しげに微笑んだ。
「全部わかっていると言いながら、試験問題や僕の病のことは知らなかったり……。でも、僕がここに閉じ込められていることは、知っていたり。それなら……僕がこれから話すことも、もしかしたら知っているかもしれないな」
カシウスは浅い呼吸を繰り返しながら、右手の中にある漆黒の指輪――『全能の環』をきつく握り締めた。
「ここ数ヶ月……僕は毎晩、恐ろしい悪夢を見ていたんだ」
「悪夢、ですか……?」
「ああ。僕が死んだ後、シャルが絶望に染まって悪魔に取り憑かれる。そして、王都が業火に包まれ……アルの手で、シャルが殺される。そんな、地獄のような夢を」
その内容を聞き、セレナは息を呑んだ。
それは紛れもなく、原作ゲーム『灰色のエピローグ』における彼ら三人に起きた悲劇だった。
「あの二人は、誰よりも幸せにならなきゃいけない。あんな結末、絶対に迎えさせてはいけないんだ。……だから僕は、この指輪を探した」
カシウスは力なく笑い、自らの手のひらに乗せた指輪を見つめた。
「人の身に余る願いを叶える代わり、命や魂を残酷な対価として要求する禁忌の魔導具。……どうせ長くない僕の命と魂を代償にすれば、二人が心から笑い合える幸せな未来を願うことくらいは、できるはずだから」
「そんな……だから一人で、こんなところに……!」
「最期に、君が来てくれてよかった」
カシウスは細めた目で、泣き崩れるセレナを優しく見つめた。
「僕はもう、指輪に願いを込めたら消えてしまう。……セレナ。僕の代わりに、あの不器用な二人を取り持ってやってくれないか? 君のその明るさがあれば、きっと二人は――」
そんなカシウスの言葉は、パァンッ! という乾いた平手打ちの音によって強制的に遮られた。
打たれた頬を押さえ、カシウスは驚愕に目を丸くする。
「……ふざけないでください」
セレナは、ボロボロと大粒の涙を流しながら、鬼のような形相でカシウスを睨みつけていた。
その瞳には、かつてないほどの激しい怒りと、狂おしいほどの情念が渦巻いている。
「なんて……なんてバカなことを言っているんですか、あなたはっ!! 何が『僕の代わりに』ですか! 何が『幸せな未来を願う』ですか!! 貴方がいないハッピーエンドなんて、そんなのちっともハッピーじゃないんですよ!!!!」
「セレ、ナ……?」
「アルドリック様も、シャルミーヌ様も、あなたという親友がいなくなったら絶対に心から笑えなくなります! でも、それ以上にっ、アタシが嫌なんです!!」
セレナは両手で顔を覆い子供のようにしゃくり上げながら、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
前世からのただの推しへの感情ではない。
この世界で共に笑い、共に過ごした時間の中で育まれた、一人の女性としての深すぎる愛の告白だった。
「だってアタシは、カシウス様のことが大好きなんです! ずっとずっと、誰よりも、愛しているんですっ!」
「……っ」
「完璧な王子様の仮面を被っているくせに、本当は少し子供っぽくて、人の恋路を特等席で面白がっているところも! 意地悪を言うときの少し高くなった声も、太陽みたいに綺麗な金の髪も、その落ち着いた灰色の瞳も!」
セレナは堰を切ったように、彼への溢れんばかりの想いをぶちまけ始めた。
「いつも余裕ぶっているくせに、本当は誰よりも優しくて友達想いなところも! 自分の命を投げ出してでも、大切な人たちの未来を守ろうとする、その馬鹿みたいに優しすぎるところも……全部、全部大好きなんです!!」
「セレナ、君は……」
「あなたは私の最推しで……この世界で一番、愛している男の人なんですっ!」
薄暗い地下室に、彼女の涙ながらの愛の告白が反響する。
「だから! だから……っ、自分の命を対価にして二人を救うなんて、そんなの絶対に許しません! アタシたちの役目は、お二人を結婚式まで導くことなんでしょうっ!?」
カシウスは言葉を失い、ただ目の前の少女を見つめていた。
病に侵され絶望の淵にいた彼の心に、セレナの熱烈な愛が――業火のような激情が、強引に火を灯していく。
死ぬための理由を探していたカシウスの瞳に初めて、生きたいという渇望が混じった。
――しかし、現実は非常である。
再びカシウスの身体が大きく跳ね、彼はゴホッと血の塊を吐き出して床に突っ伏す。
限界を超えた肉体は、すでに死の淵へと片足を突っ込んでいたのだ。
「カシウス様っ!」
セレナは慌てて彼を抱き起こすと、その血に濡れた右手から漆黒の指輪を強引に奪い取った。
「なっ!? セレナ、何を──」
「アタシ、最初に言いましたよね」
指輪を両手でしっかりと包み込み、セレナはカシウスの目をじっと見つめた。
そして、場違いなほど晴れやかな笑みを浮かべた。
「皆様のためなら、命でもなんでも捧げられるって」
「まさかっ……! セレナ、やめるんだ!!」
カシウスがこれまで見せたことのない必死の形相で叫び、手を伸ばす。
しかし、彼にはもう、彼女を止めるだけの腕力すら残されていなかった。
「その指輪はダメだ……っ! 君が代償を払う必要なんて、どこにもないだろうっ!」
「あります。アタシが愛したあなたの命は、私が絶対に守ってみせます」
セレナはカシウスの制止を完全に振り切り、目を閉じる。
そして、その手に握った指輪へ魔力を一気に注ぎ込んだ。
「<心願>」
聖女の力と呼ばれるほどの、桁外れの魔力の奔流。
それが禁忌の魔導具へと流れ込んだ瞬間、地下室の空気が一瞬にして凍りついた。
指輪から、ドス黒い瘴気が間欠泉のように噴き上がる。
それは瞬く間に地下室の天井を覆い尽くし、やがて一つの巨大な渦となって、空中に禍々しい人型を形成し始めた。
『……ククク。クハハハハッ!!』
空間を震わせるような、鼓膜を直接引っ掻くような悍ましい笑い声が響き渡る。
瘴気が晴れた後、そこには漆黒のローブを纏い、血のように赤い双眸をギラギラと輝かせた、巨大な悪魔が浮遊していた。
歴史の闇に封印されていた人の命と魂を喰らう存在そのものが、今ここに顕現したのである。
『──我を呼び覚ましたのは、貴様か。小娘』
悪魔が低く、地の底から響くような声でセレナを見下ろす。
その圧倒的な威圧感と死の気配に、常人であれば怯んでいただろう。
しかし、セレナは一歩も引かなかった。
彼女は震える両足にぐっと力を込め、カシウスを背中に庇いながら真っ直ぐに悪魔を睨み返した。
「そうです! アタシが呼びました!」
『クク……よい覚悟だ。我は全能の環。対価さえ支払えば、お前のどんな願いでも叶えてやろう』
悪魔の口元が、三日月のように吊り上がる。
『さあ、言ってみろ。貴様の魂を削り取ってでも叶えたい、その強欲な願いを』
絶望的な闇の気配を前にして。
セレナは一切の迷いなく、己の命を懸けた最大の願いを口にしようと大きく息を吸い込んだ。




