35.
カシウスの意識は、深い泥の底へと沈み込んでいくような感覚の中でひどく曖昧に揺らいでいた。
(……ああ。また、あの悪夢か)
全身を苛む病の激痛から逃れるように目を閉じ、眠りにつくたびに。
彼の脳裏には決まって同じ光景がフラッシュバックする。
それは、ただの夢ではないと彼は直感していた。
彼が死んだ後に訪れる、あまりにも残酷な『未来の記憶』だ。
カシウスは半透明な傍観者として、その絶望の舞台を見下ろしていた。
視界に広がるのは、今彼が倒れ伏しているのと同じ場所。
すなわち、禍々しい魔力の気配が立ち込める地下施設の牢獄だった。
冷たい石の壁に太い鉄の鎖で張り付けにされているのは、ボロボロになった彼自身の姿だ。
彼の肌には呪いのように黒く禍々しい文様の『魔力回路』がびっしりと刻み込まれ、脈打つように赤黒い光を放っている。
「カシウスッ!!」
転がり込むようにそこへ飛び込んできたのは、アルドリックだった。
その背後には、恐怖と絶望に顔を歪ませたシャルミーヌが続いている。
不眠不休で王都中を探し回り、ようやくたどり着いた最愛の親友の惨状。
それを前にして、二人は息を呑んで立ち尽くした。
「アル……シャル……」
鎖に繋がれたカシウスが虚ろな目を開き、微かに口を動かす。
「しっかりしろ、カシウス! 今すぐ助け出す!」
「待って、カシウス……! お願い、死なないで……!」
アルドリックが剣を抜き放ち、シャルミーヌが涙ながらに叫ぶ。
しかし、拘束されたカシウスは力なく首を振った。
「駄目だよ、アル……。僕はもう、手遅れだ」
「そんなこと……! 俺が、俺の力でどうにかしてやる! 今すぐ鎖を外して――」
血を吐くようなアルドリックの叫びが、地下室に虚しく反響する。
カシウスは自身の命がすでに尽きかけていることを悟っていた。
だからだろう。最後の力を振り絞って、最も残酷な願いを親友に託した。
「頼む、アルドリック。……僕を、殺してくれ」
「カシウス……っ、やめろ……! 頼むから、そんなこと言わないでくれ……っ!」
「君にしか……頼めないんだ。王都の人々を、そしてシャルを、僕の道連れにするわけにはいかない」
それは自身の忠臣に対する、第二王子からの最期の命令だった。
アルドリックの顔が、言葉では言い表せないほどの深い絶望に歪む。
彼は剣を握る両手をわななかせ、獣のような嗚咽を漏らした。
そして――血の涙を流しながら、親友の胸に深々とその刃を突き立てたのだった。
「いやあああああああっ!!!!」
シャルミーヌの鼓膜を破るような悲痛な絶叫が、カシウスの意識を白く染め上げた。
ぱっと場面が変わり、重い雨が降りしきる王都の墓地へと移る。
第二王子であるカシウスの盛大な葬儀。
黒い喪服に身を包んだ貴族たちが並び、白百合の香りが鼻を掠める。
シャルミーヌとアルドリックの二人は、降り注ぐ冷たい雨を避けることもせず、ただ静かに墓標を見つめていた。
『見ろ、あれがグラディオラス家の若き騎士だ』
『大規模な魔法爆発の危機から、自らの命を懸けて王都を救ったという……』
『殿下の悲劇は痛ましいが、彼という英雄がいてくれたおかげで我が国は助かった』
周囲の貴族たちがヒソヒソと交わす無責任な称賛の声が、雨音に混じって耳にこびりつく。
彼らは何もわかっていない。
あの地下牢で、アルドリックがどれほどの痛みを抱えて親友を斬ったのか。
「……英雄、ですって?」
シャルミーヌが、虚空を見つめたまま、氷のように冷たい声で呟いた。
「ふざけないで。アルは、一番大切な親友を……その手で殺さなければならなかったのに。何が国を救った英雄よ。みんな、何も知らないくせに……!」
彼女の華奢な肩が、激しい怒りと哀しみで震えている。
しかし、その隣に立つアルドリックの瞳には、もう何の光も宿っていなかった。
「……彼らの言う通りだ、シャルミーヌ」
空虚な響きを持った声。
アルドリックは、自らの両手をゆっくりと見下ろした。
雨に濡れたその手には、まだ親友の生々しい血の感触がこびりついているようだった。
「あいつに託された以上、俺は英雄としてこの国を守り続けなければならない。シャルミーヌも、この国の国民も……あいつが守ったものをこの先一つ残らず守り抜いてみせる」
「アル……違うわ、あなたは……!」
「それが俺の贖罪なんだ」
心を完全に閉ざしてしまったアルドリックの姿を見て、シャルミーヌの胸の中で何かが決定的に壊れる音がした。
――彼を、こんなにも苦しめているのは誰か。
それは、彼を英雄として祀り上げ、その呪縛に縛り付けるこの国そのものだ。
王国が存在し続ける限り、彼は『カシウスを犠牲にして国を救った立派な英雄』という偽りの仮面を被り、血を吐くような痛みを一人で抱えながら生き続けなければならない。
(私が生きている限り。そして、この王国がある限り。アルは、一生その重圧と罪悪感に苦しむことになる)
シャルミーヌの瞳から、一切の光が消え失せた。
彼女はアルドリックを深く愛していた。
だからこそ、彼をその残酷な運命から解放してあげたかったのだ。
(……ならば、いっそ。私ごと、この王国を跡形もなく滅ぼしてしまえばいい。そうすれば、彼はもう、英雄でいる必要なんてなくなるのだから)
場面は再び切り替わる。
そこは、光の届かない地中深く。
ヘリオトロープ家の遺産が眠る『封印の祠』だった。
歴史の闇に葬られ、厳重に封印されていた禁忌の魔導具。
グラディオラス家が管理するその禁足地に、シャルミーヌは一人で足を踏み入れていた。
冷たい石の台座に安置された、漆黒の指輪――『全能の環』。
彼女は躊躇うことなくその指輪を手に取ると、自身の持つ魔力を一気に流し込んだ。
――ズズズズズッ……!!
指輪から、間欠泉のようにドス黒い瘴気が噴き上がる。
それは瞬く間に祠の天井を覆い尽くし、やがて空中で禍々しい巨大な悪魔の姿を形成した。
『……我の封印を解いたのは、貴様か。人の娘よ』
空間を震わせるような、地の底から響く悪魔の声。
圧倒的な威圧感と死の気配を前にしても、シャルミーヌの瞳は揺らがなかった。
「ええ、そうよ。伝説の指輪に宿る悪魔……あなたに、叶えてほしい願いがあるわ」
『ククク……よいだろう。だが全能の環は、願いに見合うだけの残酷な対価を要求する。貴様が望むものによっては、その魂を永遠に喰らい尽くすことになるぞ。それでも構わんのか?』
悪魔の嘲笑うような問いかけに、シャルミーヌは一切の迷いなく頷いた。
「構わないわ。私が生きている限り、彼は解放されないもの」
彼女は両手を強く握り締め、真っ直ぐに悪魔を見据えた。
「……私の魂と引き換えに、この王国を跡形もなく燃やし尽くして。彼を『英雄』として縛り付けるすべてのものをこの手で壊してちょうだい」
『ククッ、自らの国を滅ぼすことを望むか! 面白い! その深く歪んだ絶望の魂、たしかに受け取ったぞ!』
悪魔が歓喜の咆哮を上げる。
次の瞬間、黒い瘴気がうねりを上げてシャルミーヌの身体を包み込んだ。
契約は成立した。
禁忌の力と悪魔の呪いが彼女の魂と完全に融合し、その背中に漆黒の翼を形作っていく。
それを、幻影であるカシウスは絶望と共にただ見つめていることしかできなかった。
――そして場面が切り替わり、最後の悪夢が幕を開ける。
王都は、業火に包まれていた。
空は黒煙に覆い尽くされ、赤黒く染まっている。
美しい王城も、華やかな街並みも、すべてが燃え盛る炎の中に崩れ落ちていく。
逃げ惑う人々の悲鳴と、建物が倒壊する轟音が地獄の交響曲のように響き渡っていた。
その猛火の中心。崩れかけた王城のバルコニー。
そこには悪魔と契約したシャルミーヌが、静かに立っていた。
街を見下ろす彼女の姿は、恐ろしいほどに美しく、そして悲しかった。
対峙するのは、ボロボロに傷ついたアルドリックだ。
彼は白銀の剣を構えながらも、その手は小刻みに震え、足は前に進むことを拒絶していた。
「……ねえ、アル」
シャルミーヌがかつての彼女と同じ、穏やかで優しい声で語りかけた。
燃え盛る炎に照らされたその笑顔には、深い愛情と、取り返しのつかないほどの狂気が入り混じっている。
「私たち、どうしてこうなっちゃったのかしらね」
「シャル……やめてくれ……! お願いだ、目を覚ましてくれ……っ!」
アルドリックが子供のように泣き叫ぶ。
だが、悪魔と契約した代償により、シャルミーヌの魂はすでに燃え尽きる寸前だった。
彼女自身にも、もう溢れ出す破壊の力を止めることはできない。
シャルミーヌは、絶望に顔を歪める幼馴染を愛おしそうに見つめた。
そして、最後の理性を振り絞って微笑む。
「――アル。生きて、幸せになってね」
それが、彼女の最期の言葉だった。
直後、完全に悪魔の力に飲み込まれた彼女が放つ破壊の魔法と、アルドリックの渾身の閃刃が交錯する。
閃光が奔り、シャルミーヌの華奢な体が真っ二つに断ち斬られた。
ドサリ、と音を立てて瓦礫の上に崩れ落ちる彼女の亡骸。
静寂が訪れた業火の中で、アルドリックは血だまりに膝をついた。
天を仰いで獣のように狂った絶叫を上げた。
「やめろ……。やめてくれ……っ!」
俯瞰していたカシウスの意識が、耐えきれずに叫び声を上げる。
しかし、彼がどれほど手を伸ばしても。
血と絶望に塗れたその惨劇の光景は、彼の指をすり抜けていくだけだった。
終わらない悪夢の中で、カシウスの意識が闇に飲み込まれそうになる。
その時だった。
「――カシウス様っ!!!!」
生命力に満ち溢れた強烈な『現実の声』が、暗闇を真っ二つに引き裂いた。
「っ……!」
カシウスの意識が、急速に浮上する。
重い瞼を微かに開くと、そこには薄暗い地下の天井と冷たい鉄格子があった。
そしてその鉄格子を両手で強く握り締めた少女が、必死の形相で叫び続けている。
それは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたセレナだった。
「カシウス様! 起きてっ……起きてください!」
その声を聞いた瞬間。
カシウスの脳裏に焼き付いていた絶望の悪夢は、霧のように消え去っていったのだった。




