37.
『さあ、言ってみろ。貴様の魂を削り取ってでも叶えたい、その強欲な願いを』
絶望的な闇の気配を前にして。
セレナは一切の迷いなく、己の命を懸けた最大の願いを口にしようと、大きく息を吸い込んだ。
「アタシの願いは、たった一つです!」
地下室の淀んだ空気を震わせ、セレナの凛とした声が響き渡る。
背後で倒れているカシウスが「やめろ……!」と血を吐きながら制止しようとするが、彼女は振り返らなかった。
真っ直ぐに、巨大な悪魔の赤い双眸を見据えて叫ぶ。
「ここにいるカシウス様。そして、シャルミーヌ様とアルドリック様。この三人が、しわくちゃのお爺ちゃんとお婆ちゃんになるまで、ずーっと仲良く、平和に、幸せに生きる未来をくださいっ!!!!」
それは、世界を救うような壮大な願いでもなければ、莫大な富や権力を求める欲深い願いでもない。
ただ、彼女が大好きな「推し」であり、かけがえのない友人たちである三人。
彼らが当たり前の日常を末長く笑い合って過ごせるようにという、あまりにも純粋で、切実な祈りだった。
『……クク。よかろう』
悪魔の喉の奥から、低く濁った笑い声が漏れた。
禍々しい瘴気が渦を巻き、悪魔の巨大な腕がセレナへと真っ直ぐに伸ばされる。
『その他愛なくも強欲な願い、我の力で叶えてやろう。……さあ、その代償として、貴様の魂をすべて我によこせ!』
鋭い爪を持つ漆黒の腕が、セレナの胸元へと迫る。
カシウスが絶望に目を剥き、手を伸ばしたが、病に侵された体はピクリとも動かない。
――これで、終わる。彼女の命が、僕のせいで失われてしまう。
そうカシウスが深く絶望の底に沈みかけた、まさにその瞬間だった。
「で・す・が〜!はい悪魔さん、ストップ!そこで一旦ストップです!!!!」
セレナが両手を顔の前に突き出し、まるで暴走する馬車を止めるかのような全力のジェスチャーを見せた。
そのあまりに日常的で、緊迫感に欠ける「ストップ」の宣言に、悪魔の腕が、セレナの鼻先手前でピタッと停止した。
『……は? 何だ、小娘。今更命が惜しくなって命乞いか?』
悪魔が赤い目を細め、怪訝そうに問う。
するとセレナは、恐怖に震えていたはずの顔をパァッと明るくし、あろうことか悪魔に向かってビシッと人差し指を突きつけた。
「命乞いじゃありません! 契約の『不備』を指摘しているんです!」
『……不備、だと?』
「そうです! よく思い出してください。アタシがさっき願ったのは『カシウス様たちが幸せに生きる未来』です!」
セレナは腰に手を当て、さも当然だと言わんばかりの堂々とした態度で胸を張った。
「もしここで、アタシが代償として命を落としたとしましょう。そうしたら、優しくて友達想いのカシウス様は、絶対に『自分のせいでセレナが死んだ』って、一生そのことを引きずって悲しむことになります!」
「セ、レナ……?」
背後で唖然としているカシウスをよそに、セレナの怒涛の屁理屈は加速していく。
「カシウス様が悲しめば、当然、親友であるアルドリック様もシャルミーヌ様も悲しみます。そんなの、ちーっとも『幸せに生きる未来』じゃないですよねっ!? つまり、ここでアタシの命を奪ってしまったら、悪魔さんはアタシの願いを正しく叶えられなかったことになり、契約不履行になっちゃうんです!」
『なっ……!?』
悪魔の赤い双眸が、驚きに見開かれる。
人の魂を喰らう伝説の魔導具に対して、あろうことか契約の揚げ足取りを始めたのだ。
「『全能の環』なんて大層な名前を名乗っているくせに、アタシの願いをちゃんと叶えられないなら全能なんかじゃないです! 大嘘つきの詐欺師じゃないですかっ!」
『き、貴様……我の力を愚弄する気か……!』
「愚弄してません、事実を言っているだけです! 全能を名乗るならきちんと願いを叶えてください! そう、つまり! 対価を払うアタシまで含めて全員を幸せにすることが、あなたのやるべきことなんですっ!!!!」
地下室に、セレナのトンデモ理論が木霊する。
命を懸けた禁忌の儀式は、いつの間にか悪徳商法の契約解除を迫るクレーマーと、それにタジタジになる店員のような、極めてシュールな光景へと変貌していた。
静まり返る地下室。
悪魔は伸ばしかけていた腕を止めたまま、固まっていた。
そして、数秒の重すぎる沈黙の後――。
『…………。…………クッ。クハハハハハッ!!!!』
悪魔が腹を抱えるようにして、空間が揺れるほどの大爆笑を放った。
それは先ほどまでの禍々しい嘲笑ではなく、心底ツボに入ってしまったかのような笑い声だった。
「アタシは大真面目に言ってるんです! わ、笑わないでください!」
『ヒィーッ、ハハハッ! 傑作だ……! いや、何百年と封印の中で眠っていたが、貴様のようなふざけた小娘は初めて見たぞ!』
悪魔はひとしきり笑い転げた後、赤い目を三日月のように細めてセレナを見下ろした。
『かつて我を呼び出した人間どもは、皆一様に自らの欲望に溺れ命や魂を惜しげもなく差し出してきた。……対価を値切るばかりか、我の『全能』の定義にまでイチャモンをつけてくるとはな』
「だから、イチャモンじゃなくて正当な主張ですってば!!」
『ククク……よかろう。貴様のその強引な屁理屈、気に入った』
悪魔がパチンと漆黒の指を鳴らす。
すると、地下室に渦巻いていた禍々しい瘴気が、嘘のようにスッと引いていった。
『ここで貴様の願いを蹴って、またあの退屈な台座に戻るくらいなら……貴様らがこの先、どんな馬鹿馬鹿しくも面白い喜劇を見せてくれるのか、この指輪の中から特等席で見物させてもらうのも一興だ』
悪魔は楽しげにニヤリと笑うと、背後で倒れているカシウスへとスッと右手をかざした。
『王の血を引く小僧よ。貴様の命を内側から喰い破ろうとしていたそのくだらん病魔、我が対価の代わりに喰ろうてやったわ。これで、寿命が尽きるまで嫌でも生きねばならんぞ』
「え……っ?」
その瞬間、カシウスの身体を覆っていた死の気配が、霧散するように綺麗に消え去った。
彼を絶えず苛んでいた内臓を抉るような激痛も、呼吸の苦しさも、嘘のように消え失せている。
まるで、重い鎖から解放されたかのように、身体の隅々まで活力が満ちていくのがわかった。
『小娘。我はしばらく、この指輪の中で眠りにつく。精々、我を退屈させないような面白い未来を見せてみろ。……クハハハハッ!』
笑い声の残響と共に、悪魔の巨体は渦を巻いて収縮し、セレナの手に握られた指輪の中へと吸い込まれていった。
後に残されたのは、ただの冷たい石造りの地下室と、静寂だけだった。
「……えっと」
セレナは手の中の指輪をまじまじと見つめた後、ゆっくりと背後を振り返った。
そこには、病魔が完全に消え去り、狐につままれたような顔で呆然と座り込んでいるカシウスの姿があった。
「カシウス様……お加減は、いかがですか?」
「……痛みが、ない。魔力も……正常に循環している。僕は、本当に……」
自身の身体を信じられないといった様子で見下ろすカシウス。
そんな彼の姿を見て、セレナはついに緊張の糸が切れたように、へなへなとその場に座り込んだ。
そして、これ以上ないほどの輝かしい満面の笑みを浮かべて、彼に向かってピースサインを突き出した。
「どうですかっ! これでカシウス様も死なないし、アタシも死にません! 完全無欠のハッピーエンドの出来上がりですっ!」
「……」
「もう、あんな悲しい嘘をついて、一人で勝手にいなくなったりしないでくださいね。貴方がいなくなったら、アタシ……本当に、生きていけませんから」
最後に少しだけ声をつまらせて微笑むセレナ。
彼女のその顔を見た瞬間、カシウスの胸の奥底で、今まで張り詰めていた何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
一人で抱え込んでいた、絶望的な未来。
誰にも言えなかった、死への恐怖と孤独。
彼女は、それらをすべてを力業で蹴り飛ばし、悪魔すらも丸め込んで、最も鮮やかな形で彼を救い出してしまったのだ。
「……ははっ」
カシウスの口から、乾いた笑いが漏れる。
それは次第に大きくなり、やがて彼は、完璧な王子としての仮面を完全に投げ捨てた。
年相応の少年のように、心からの無邪気な笑顔を見せながら、声を出して笑い始めたのだ。
「あははははっ! ああ、敵わないな。……君は、本当に予測不能で底知れなくて、最高に面白いよ」
カシウスは笑いすぎて潤んだ瞳でセレナを見つめ、ゆっくりと立ち上がり、彼女へと歩み寄った。
そのままセレナの肩を優しく抱き寄せる。
間近で覗き込む彼のサファイアブルーの瞳は、これまでに見たどの瞬間よりも熱を帯びて、爛々と輝いていた。
「…………ありがとう、セレナ。君が僕を救ってくれたんだ」
セレナがその熱量に圧倒されて息を呑んだ、次の瞬間。
カシウスの美しい顔が近づき、彼女の唇にふわりと温かな感触が重なった。
「…………へ?」
チュッ、という小さなリップ音。
一瞬の出来事に、セレナの思考は完全に停止した。
目の前には、形の良いカシウスの長いまつ毛があり。
彼の少し高くなった体温と、甘い香りがすぐそばにある。
彼がゆっくりと唇を離すと、セレナは口をぽかんと半開きにしたまま硬直した。
「か、かし……えっ? 今、チュって……ええっ!?」
「ふふっ」
一拍遅れて事態を飲み込んだセレナの顔が、瞬く間に真っ赤に染め上がっていく。
ボンッ! と音が鳴りそうなほどに赤面し、両手で口元を覆ってパニックを起こすセレナを見て、カシウスは意地悪な、それでいてどこまでも甘い笑みを浮かべた。
「これが、さっきの君の情熱的な告白への、僕からの答えだよ」
「こ、こたっ……!? あ、ああああの、さっきのはその、推しに対する極限の愛と言いますか、勢いと言いますか……!」
しどろもどろになって言い訳を並べようとするセレナの鼻先を、カシウスは指で軽くつついた。
「言い訳は聞かないよ。君は僕をこの世界で一番愛している男だと言い切り、悪魔から僕の命を強引に奪い取った。……その責任は、一生かけて取ってもらうからね」
「いっしょう……っ」
「覚悟しててね、セレナ。僕は一度愛したものは、何があっても絶対に手放さない主義なんだ」
それは彼が王族として内に秘めていた、独占欲の表れだった。
アルドリックの重すぎる愛を笑っていた彼自身もまた、一度火がつけば、決して後には引かない執着心を持っていたのである。
「う、嬉しい、ですけど……心臓が、持たない気がしますっ……」
ついに許容量を超えたセレナは、真っ赤な顔のまま、限界を迎えてカシウスの胸元へとへなへなと倒れ込んだ。
カシウスはそんな彼女を愛おしそうに抱きとめ、その柔らかい髪を優しく撫でる。
冷たく暗かった地下室は、今や温かな体温と、新しく芽生えた甘い恋の空気に満ちていた。
悪魔との契約も、悲劇の未来も、すべては彼女の明るさとトンデモ理論によって見事に打ち砕かれた。
これから先、彼らを待ち受けるのは、きっと。
予測不能で騒がしくも、どこまでも幸せなハッピーエンドの続きだけなのだろう。




