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32.

 





 夏休みに入り早くも一週間という月日が流れていた。

 南部の海辺に建つローズブランシュ公爵家の別邸では、日を追うごとにゆったりとした空気が流れるようになり、四人は各々好きなことをして過ごす時間が増えてきていた。


 シャルミーヌは波の音が聞こえるサンルームで、優雅に読書や刺繍を楽しんでいる。

 アルドリックはそんなシャルミーヌを眺めたり、鍛錬をしたりと気ままに過ごしていた。


 そんな平和で騒がしい日常風景がすっかり定着した、ある日の午前。

 セレナは一人、別邸の広いテラスへと足を運んでいた。


 そこには真っ白な手すりに寄りかかり、どこまでも青く広がる水平線を静かに見つめているカシウスの背中があった。

 彼は上質な白いリネンのシャツに身を包み、潮風に金糸のような髪を揺らしている。

 その立ち姿はどこかふっと風に溶けて消えてしまいそうな、不思議な儚さを漂わせていた。



「……カシウス様」



 セレナが控えめに声をかけると、カシウスはゆっくりと振り返り、いつもの笑みを浮かべた。



「やあ、セレナ。アルたちの観察は少し休憩かい?」

「はい。お二人は愛を育んでいらっしゃるので。……それよりカシウス様は、こんなところで何をされていたんですか?」



 セレナが隣に並んで海を見下ろすと、カシウスはふっと目を細めた。



「ただ海を眺めていただけさ。王都の城にいると、こうして何もしないで景色を楽しむ時間なんて滅多にないからね。……波の音は、心が落ち着くよ」



 その声は穏やかだったが、セレナの胸の奥には、小さな違和感がくすぶっていた。

 最近のカシウスは、ふとした瞬間にひどく遠くを見るような目をする。

 それに気のせいかもしれないが、以前よりも少しだけ顔色が優れないように見える日があった。



「……あの、カシウス様」



 セレナは意を決して、彼を真っ直ぐに見上げた。



「本当に、どこかお加減が悪いのではないですか? もしかして、何か一人で不安なことや悩みを抱え込んでいらっしゃるとか……」

「おや」



 カシウスは少しだけ驚いたように目を瞬かせた後、くすりと楽しげに笑い声をこぼした。



「ずいぶんと真剣な顔をしているね。何かと思えば、僕の体調の心配かい?」

「だって、最近のカシウス様、なんだか遠くへ行ってしまいそうな顔をされる時があるんです。気のせいならいいんですけど……もし何かあるなら、アタシでよければ何でも聞きます!」



 身を乗り出して力説するセレナの頭に、ぽん、と大きな手が乗せられた。

 カシウスが優しく、子供をあやすような手つきで彼女の髪を撫でている。



「ふふっ、心配性だなあ、君は。何もないよ。ただ少し、夏の暑さで疲れが出ているだけさ」

「本当ですか……?」

「本当だよ。……君にそんな顔をさせるなんて、僕もまだまだ修行が足りないな」



 カシウスは完璧な笑顔を崩さないまま、さらりと話題を切り替えた。



「それにしても、この一週間は本当に楽しかったよ。アルの暴走に、シャルのツッコミ。そして、君という予測不能な存在のおかげで、退屈とは無縁の素晴らしいバカンスになった」



 まるで、これが最後の別れであるかのような、妙に重みのある響き。

 セレナがその言葉の真意を測りかねていると、カシウスは手すりから身を離した。



「さて、僕は少し部屋に戻って休むとするよ。昼食の時にはまた食堂で会おう」

「あ、はい……おやすみなさい、カシウス様」



 優雅な足取りで客室へと戻っていくカシウスの後ろ姿を見送りながら、セレナは言いようのない焦燥感に駆られていた。


(……気のせい、だよね。だって原作のストーリーなら、カシウス様に『あの事件』が起きるのはまだ先のはず……)


 セレナは前世でプレイしたゲームの記憶を、脳内で必死に反芻した。

 この世界がセレナの知る乙女ゲームの世界であるならば。

 カシウスの身に最大の悲劇が降りかかるのは、木々が色づき始める秋の季節だ。


(まだ夏休みだもん。まだ時間がある。カシウス様がいきなりいなくなるなんてこと、あるはずがない……!)


 ゲームの知識を心の拠り所にしながら、セレナは自分に言い聞かせるように大きく首を振った。

 しかし、彼女の胸の奥底に張り付いた冷たい不安の塊は、どうしても消え去ってくれなかった。


 そして、その嫌な予感は的中した。




◇◇◇




 その日の夕方。

 別邸の食堂には、腕利きの料理長が腕を振るった海の幸が所狭しと並べられていた。

 シャンデリアが温かな光を落とし、食欲をそそる香りが漂っている。



「……おかしいわね。カシウスが、夕食の時間に遅れてくるなんて」



 席に着いたシャルミーヌが、壁に掛けられた大きな振り子時計を見上げながら呟いた。

 時刻はすでに、約束の時間を十分以上過ぎている。

 王族として厳格な時間管理を身につけているカシウスが、何の連絡もなく遅刻することなどこれまで一度たりともなかった。



「……少し心配ね。誰か呼びに行かせましょうか」

「なら、アタシがっ! アタシが行ってきますっ!」



 シャルミーヌが使用人を呼ぼうとした矢先、セレナが勢いよく椅子から立ち上がった。

 午前中のテラスでの会話とあの胸騒ぎが、彼女の背中を強く押していた。



「そう? じゃあお願いするわ、セレナさん。もしかしたら眠ってしまっているだけかもしれないから、静かに声をかけてみてね」

「はいっ! すぐ戻ります!」



 セレナは食堂を飛び出し、足早に廊下を駆け抜けた。

 広い別邸の廊下には、彼女の焦ったような足音だけが響いている。

 カシウスに与えられた客室の前に辿り着くと、セレナは小さく深呼吸をした。

 そしてその扉をノックする。



「カシウス様、セレナです。夕食の時間ですよー」



 努めて明るく声をかけてみるが、扉の向こうからは何の反応もない。

 いつもならすぐに行くと、あの涼やかな声が返ってくるはずなのに。



「……カシウス様? お加減でも悪いんですか? 開けますよ?」



 二度、三度とノックをしても、返事はなかった。

 セレナの心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。

 彼女は震える手で真鍮のドアノブを握り、ゆっくりと押し開けた。



「失礼します……」



 客室の中は、薄暗く静まり返っていた。

 綺麗に整えられたキングサイズのベッドに、几帳面に並べられた荷物。

 だが、肝心のカシウスの姿はどこにもなかった。



「カシウス、様……?」



 室内を見渡したセレナの視線がふと、窓際にある小さな丸テーブルの上で止まった。

 そこには、黒い革張りの分厚く古い本が置かれている。

 そして、その本に重しのように乗せられていた、一枚の折り畳まれた便箋。


 セレナは吸い寄せられるようにテーブルへと近づき、その便箋を手に取った。

 封筒には入れられていない。

 表には達筆で流麗な文字で『愛すべき友人たちへ』とだけ書かれている。

 間違いなく、カシウスの筆跡だった。


 震える指先で便箋を開くと、短い文章が記されていた。



『少し野暮用ができたから、出かけてくるよ。

 僕がいなくても、残りのバカンスを三人で存分に楽しんでほしい。

 アル、シャルを頼んだよ。セレナ、君のその明るさには何度も救われた。

 ありがとう。……探さないでくれ。 

 カシウス』



「探さないでくれ……って、どういう……?」



 セレナの声が震える。

 そして、便箋の下敷きになっていた黒い本へと視線を落とした。

 古びた表紙に刻印されていたのは、あの不吉な名称だった。


 ――『全能の環に関する考察と失われた歴史』。



「嘘……」



 セレナの顔から、さぁぁっと血の気が引いていく。

 人の身に余る願いを叶える代わり、命や魂を残酷な対価として要求する伝説の指輪。

 なぜ、カシウスがこんな本を持ち出し、そして突然姿を消したのか。


(……()()()()()。カシウス様自身が、自分の意志で姿を消したの?)


 原作の知識と、目の前で起きている現実が決定的に乖離し始めている。

 もしこのまま、カシウスが一人で姿を消し、この恐ろしい指輪の力に手を出そうとしているのだとしたら。


 それが引き金となって、秋を待たずしてあの『凄惨な悲劇』へと直行してしまうのではないか。

 あの優しかった彼が、誰にも看取られることなく、血と絶望に塗れた結末を迎えてしまうのではないか。



「だめ……そんなの、絶対にだめっ!」



 セレナは本と書き置きを胸に強く抱きしめると、踵を返して客室を飛び出した。

 もはや夕食どころではない。

 一刻も早く、シャルミーヌとアルドリックにこの異常事態を伝えなければ。


 彼が一人で最悪の運命へと突き進んでしまう前に。

 セレナは恐怖でぐしゃぐしゃになりそうな顔を必死に引き締め、食堂を目指して薄暗い廊下を全力で駆け抜けていった。






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