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30.

 




 時は流れ、王立学園は重苦しい緊張感に包まれていた。

 王都の夏特有のじっとりとした湿気を帯びた風が吹き抜ける中。

 いよいよ期末試験の当日がやってきたのである。


 普段は優雅な貴族令嬢や令息たちが集う華やかな学園も、今日ばかりは様子が違う。

 誰もが目の下に濃い隈を作り、すれ違う者同士で挨拶を交わす余裕すらない。

 それぞれが手元のノートや参考書に齧り付いていた。

 そんな殺伐とした空気の中、大講堂の前に集まった四人のグループがあった。



「うぅぅ……お腹が痛いです。逃げ出したいですぅ……」

「しっかりしなさい、セレナさん。今まであんなに特訓してきたんだから、大丈夫よ。深呼吸して」

「その通りだ。シャルミーヌが、貴重な睡眠時間を削ってまで君に勉強を教えたのだ。赤点など取るはずないだろう」



 青白い顔をして今にも倒れそうなセレナの背中を、シャルミーヌが優しくさすっている。

 アルドリックは何がそんなに不安なのかわからないといった様子で首を傾げている。



「そうそう、大丈夫だよ。もし君が落ちても、僕たち三人で君の分まで海を満喫してきてあげるからね」

「ひ、酷いこと言わないでくださいカシウス様ぁ! そんなことされたら呪っちゃいますからね!」

「ははっ、元気が出てきたじゃないか。その意気だよ」



 彼らがそんな風に喋っていると、やがて試験開始を告げる重々しい鐘の音が学園中に響いた。

 セレナは泣く泣く彼らと別れ、大講堂の自分の席に着く。

 講堂の中を沈黙が支配した。

 試験監督を務める厳格な顔つきの教授が分厚い羊皮紙の束を配り終え、静かに開始の合図を出す。



「それでは、筆記試験を開始する。表を向けなさい」



 生徒たちが一斉に紙をめくる音が響く。

 セレナは震える両手で問題用紙を裏返した。

 最初に行われるのは、彼女が最も苦手とする魔法史の試験だ。


(どうしよう、全然わからなかったら……。海が、水着が、尊いお二人のイチャイチャが遠ざかってしまう……!)


 そんな不純だが切実な動機を胸に、セレナは恐る恐る一行目の問題に目を通した。


『問一。旧王国時代に存在したとされる伝説の魔導具「全能の環」について、その代償と、封印を担った一族の名を記せ』

(あっ! これ、生徒会室でシャルミーヌ様が教えてくれたところだ!)


 先日の地獄の特訓の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 人の身に余る願いの残酷な代償、そしてヘリオトロープ家の悲劇。

 あの時カシウスが意味深に語っていた言葉まで、一言一句違わずに思い出すことができた。


 セレナは震える手で羽ペンを握り直し、インク壺にペン先を浸した。

 そして勢いよく真っ白な解答欄に勢いよく文字を書き殴り始める。

 驚くべきことに、その後の問題もまるで魔法にでもかかったかのようにスラスラと解けていくではないか。


『問三。魔法陣の基礎方程式において、魔力干渉を防ぐための術式を展開せよ』

(あっ! これもカシウス様が「ここはよく引っ掛けで出るから気をつけて」ってウインクしながら教えてくれた問題だ!)


『問五。建国暦三四二年に起きた「薔薇の誓約」に関わった三つの貴族家の名前を挙げよ』

(あっ! これもわかる! アルドリック様が「シャルに毎日贈りたい三百四十二本の薔薇!」って叫んでたから、年号とセットで完璧に覚えてる!)


 まるで、巷で噂になっている怪しげな通信教育の広告漫画の主人公にでもなったかのような全能感。「これ、進〇ゼミでやったところだ!」と叫び出したくなる衝動を必死に抑え込みながら、セレナの羽ペンは羊皮紙の上を滑るように走り続けた。


 周囲の生徒たちが頭を抱え、苦悶の表情で唸り声を上げている中。

 セレナ一人だけが、何かに憑かれたような猛烈なスピードで解答欄を埋めていく。

 彼女の背中には、三人の優秀な家庭教師たちの後光が差しているかのようだった。



「そこまで。羽ペンを置きなさい」



 教授の厳格な声が大講堂に響き渡り、長かった期末試験が終わりを告げた。

 解答用紙を回収された瞬間、セレナは机の上に突っ伏す。

 まるで真っ白な灰になったかのように燃え尽きていた。

 しかし、その顔に絶望の色はない。

 むしろ、持てる力をすべて出し切ったという清々しい達成感に満ち溢れていた。



 それから、胃の痛くなるような数日間が過ぎ。

 ついに、期末試験の結果が張り出される運命の日がやってきた。


 初夏の眩しい陽射しが降り注ぐ中庭には巨大な木製の掲示板が設置されていた。

 自分の名前と順位を確認しようとする生徒たちがわらわらと集まっている。

 歓喜の声を上げる者、絶望して膝から崩れ落ちる者。

 悲喜こもごもの光景が広がる中、セレナは掲示板から少し離れた木陰でガタガタと震えていた。



「む、無理です……見に行けません。もし赤点の欄に私の名前があったらと思うと、足がすくんで一歩も動けません……!」



 両手で顔を覆い、今にも泣き出しそうなセレナ。

 そんな彼女を見かねて、シャルミーヌが小さく溜息をついた。



「仕方ないわね。私が代わりに見てきてあげるから、ここで待っていなさい」



 シャルミーヌは毅然とした足取りで人混みを掻き分け、掲示板の最前列へと進み出た。

 その後ろ姿を、セレナは祈るような気持ちで見つめる。

 隣に立つカシウスは余裕の笑みを浮かべており、アルドリックは通常運転でシャルミーヌを見送っていた。

 数分後。

 人混みから抜け出してきたシャルミーヌが、セレナの元へと戻ってきた。

 その顔は、いつも通りの冷静な無表情を保っている。



「シ、シャルミーヌ様……どう、でしたか……?」



 セレナが恐る恐る尋ねると、シャルミーヌはふっと口角を上げ、見事な笑みを咲かせた。



「おめでとう、セレナさん。魔法史も他の科目も、全部赤点回避よ。順位も真ん中より少し上くらいだったわ」

「……えっ?」



 その言葉を理解するのに、セレナは数秒の時間を要した。

 そして、じわじわと込み上げてくる歓喜の感情が爆発する。



「や、やったぁぁぁぁぁっ!! 赤点回避です! 補習免除ですぅぅぅっ!!」

「ちょ、ちょっとセレナさん! 泣かないで、制服が汚れちゃうわ!」



 セレナは涙をボロボロと流しながら、シャルミーヌの胸に勢いよく飛び込んだ。

 口では文句を言いながらもシャルミーヌの顔は優しく綻んでおり、セレナの背中をポンポンと軽く叩いて労っている。



「ああ。よく頑張ったね、セレナ」



 カシウスが甘い笑みを浮かべ、セレナの頭を優しく撫でた。

 その手の温もりに、セレナはさらに大号泣してしまう。



「うわぁぁん、カシウス様ぁ! シャルミーヌ様ぁ! それにアルドリック様も……っ! 本当に、本当にお三方のおかげです! 私、一生ついていきますぅ!」

「当然の結果だな。むしろ、女神の如きシャルミーヌが教えたのに満点でなかったことが不思議なくらいだが、君の努力は認めてやろう」

「アルは一言余計なのよ! でも……まあ、本当に、よく頑張ったわね」



 賑やかな歓声と笑い声が、初夏の風に乗って青空へと吸い込まれていく。

 赤点という最大の恐怖を乗り越えた四人の間には、これまで以上に強い絆と、心地よい空気が流れていた。



「さあ! これで、心置きなく夏休みを迎えられるわね」

「はいっ! これで大手を振って、海に行けます! 白い砂浜! 青い海! そして何より、別荘で繰り広げられるお二人の尊い水着姿と甘いひととき……! 最高の夏休みになること間違いなしですっ!」

「ちょっとセレナさん、何を期待してるのよ!?」



 シャルミーヌが眩しそうに目を細めると、セレナが勢いよく顔を上げ鼻息を荒くした。

 顔を真っ赤にして抗議するシャルミーヌの隣で、アルドリックが両手を広げて天を仰いだ。



「ああ、神よ感謝する! 波打ち際でシャルミーヌの白い肌が太陽に照らされ、濡れた髪が艶やかに光る姿を拝める日が来ようとは! 俺はこの夏、シャルミーヌのための専属パラソル兼、浮き輪兼、波除けの防波堤として命を懸けることをここに誓おう!」

「重い! そして怖い! そんな防波堤いらないわよ!」

「はははっ、本当に君たちは見ていて飽きないね。海辺での休暇が、今からとても楽しみになってきたよ」



 カシウスが腹を抱えて笑い、セレナも涙を拭いながら満面の笑みを浮かべる。

 赤点という最大の危機を乗り越え、無事に約束の切符を手に入れた。

 騒がしくも温かい四人の笑い声はいつまでも中庭に響き渡り、彼らの前にはどこまでも青く澄み切った輝かしい夏が待っているのだった。




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