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29.

 




 窓から差し込む西日が、生徒会室のアンティークテーブルを黄金色に染め上げていた。

 いつもなら優雅なティータイムが繰り広げられるこの場所は現在、セレナの赤点回避を目的とした『地獄の特訓会場』へと姿を変えている。



「うぅ……文字が、文字がぐにゃぐにゃして見えますぅ……。歴史の年号なんて、誰がいつ何をしたかなんて、どうして全部覚えなきゃいけないんですかぁ……」



 山積みにされた分厚い参考書を前に、セレナは今にも泣き出しそうな声を上げて机に突っ伏した。

 その悲鳴にも似た泣き言を、シャルミーヌは手にした羽ペンでピシャリと机を叩いて一刀両断する。



「泣き言を言わないの。貴女が赤点を取ったら、海への招待は取り消しになるのよ? ほら、顔を上げて。次は『魔法史』の範囲にいくわよ」



 シャルミーヌは公爵令嬢としての生真面目さを存分に発揮し、容赦なくスパルタ指導を続けていた。

 そんな彼女の凛とした教師ぶりを、テーブルの向かい側から恍惚とした表情で見つめている男が一人。



「ああ、素晴らしい……! 厳しくも知性に溢れたシャルのその横顔は、まるで教えを授ける女神そのものだ! 俺も今すぐ学園に入学し直して、君の個人授業を一生涯受け続けたい!」

「アルはとりあえず黙ってて。っていうか、自分の試験勉強はどうしたのよ」

「試験なら心配無用だ。学園の全科目は既に三周した。今はシャルの美しき叱咤激励を聞きながら精神を統一しているところだ」

「三周もしててどうしてそんなに頭が沸いてるのよ! 知識を詰め込む前に、まずはその暴走しがちな情緒を整理整頓してきなさい!」



 平常運転で重すぎる愛をぶつけてくるアルドリックを冷たくあしらいつつ、シャルミーヌは小さく溜息をついてセレナに向き直った。

 その傍らではカシウスがこの騒がしくも微笑ましい光景を、香り高い紅茶を傾けながら楽しげに眺めている。



「さて、気を取り直して。セレナさん、旧王国時代に存在したとされる『伝説の魔導具』について、教科書の百二十ページを開いて」



 シャルミーヌの指示に従い、セレナは渋々といった様子で分厚いページをめくった。



「ええと……これですか? 『全能の環』……」

「そう。試験ではその魔導具の名称と、それが歴史から姿を消した理由がよく問われるわ。その指輪がどんなものか、説明できる?」



 シャルミーヌの問いかけに、セレナは教科書の文字を目で追いながら、ぽつりぽつりと読み上げ始めた。



「ええと、『全能の環』は……人の身には余るようなどんなに強大な願いでも叶えてくれる伝説の指輪……。えっ、すごい! どんな願いでも叶えてくれるんですか!? じゃあ、この期末試験を全部満点にしてほしいとか――」

「最後まで読みなさい」



 ぱぁっと目を輝かせたセレナを、シャルミーヌの冷ややかな声が制止する。



「あ、はい……。ええと、しかし……決して都合の良い魔法の道具ではない。その指輪は、願いを叶える代償として、それに見合うだけの……『残酷な対価』を、必ず要求する……」



 セレナの声が次第に小さく、不安げなものへと変わっていく。

 シャルミーヌは真剣な眼差しで静かに頷き、教科書の記述を補足するように語り始めた。



「そうよ。例えば莫大な富を願えば、代償としてその者の寿命が半分削り取られる。あるいは『死者の蘇生』などという人の理を超えた願いを口にすれば、願った本人の魂そのものが指輪に喰い殺されると言われているわ」

「た、魂を喰い殺される……!?」

「ええ。過去にはその指輪の力に魅入られて国庫の全財産を失った王や、一族全員の命を代償に持っていかれた貴族もいたそうよ。だからこそそれは奇跡の指輪ではなく、国を滅ぼしかねない呪われた禁忌の遺物として恐れられるようになったの」



 シャルミーヌの語る恐ろしい歴史の真実に、セレナは青ざめた顔でごくりと生唾を飲み込んだ。

 テストで満点を取りたいなどという軽い気持ちで触れていい代物ではないと、身をもって理解したらしい。



「あまりに危険すぎるその指輪は悪用を恐れた当時の国王の命によって、歴史の闇へと極秘裏に封印されたわ」



 シャルミーヌはそこで言葉を切り、羽ペンの先でセレナを指し示した。



「では、ここで問題よ。その『全能の環』の封印という大役を国王から任されたのは、どこの何という一族かしら?」

「えっ!? あ、ええと……魔力に長けた一族……」



 突然の質問に、セレナは慌てて記憶を引っ張り出そうとする。

 シャルミーヌは少しだけヒントを出すように、声を潜めた。



「つい数日前、私たちはお見合いの席で、その一族の生き残りと出会ったばかりじゃない」

「あ……っ!」



 セレナの脳裏に、凄まじい魔力の暴走を見せた護衛騎士ルミエの姿と、泣き崩れるグラディオラス侯爵の顔がフラッシュバックする。



「わかりました! 『ヘリオトロープ家』です!」

「正解よ。彼らは感情の高ぶりに応じて魔力を爆発させるという、特異な体質を持っていたわ。その強大な魔力に対する耐性と制御力を見込まれて、彼らだけが『全能の環』を安全に封印し、代々隠し場所を守護することを許されたのよ」



 シャルミーヌは教科書をパタンと閉じ、少しだけ悲しげに目を伏せた。



「けれど……十年前、ヘリオトロープ家の一族は根絶やしにされてしまった。封印の場所を知る者が誰もいなくなってしまったせいで『全能の環』は今もどこに眠っているのか、誰にもわからないままなの」



 静まり返った生徒会室に、歴史の重みと悲劇の余韻が漂う。

 その重苦しい空気を断ち切るようにカチャリと、陶器の触れ合う小さな音が響いた。



「……君はその場所を、どうやって知ったんだろうね」



 それまで黙って話を聞いていたカシウスが、ティーカップをソーサーに戻し静かに口を開いた。

 彼のいつもの穏やかな王子としての微笑みは消え、その瞳の奥の感情を伺い知ることはできない。



「カシウス……?」



 シャルミーヌが怪訝そうに首を傾げると、カシウスはふっと表情を緩め、何事もなかったかのように優雅に足を組み替えた。



「いや、何でもないよ。ただ、十年間完全に途絶えたと思われていた鍵が……つい先日帝国皇女の護衛騎士として、この王国の表舞台にひょっこりと帰ってきたわけだ」



 カシウスのその言葉に、シャルミーヌもハッと息を呑んだ。

 ヘリオトロープの生き残りであるルミエの存在。それは単に帝国との縁談をまとめるための駒というだけでなく、歴史の闇に消えた『全能の環』の封印を解き得る唯一の存在であることを意味していた。



「もしその指輪の伝説がただのおとぎ話ではなく、今もどこかで眠っているのだとしたら。……それを手に入れようと企む輩にとって、今の彼は喉から手が出るほど欲しい最高の道具になるかもしれないね」



 カシウスは独り言のように呟きながら、窓の外の青空へと視線を向けた。

 彼の横顔はまるでこれから起こり得る波乱を予期しその盤面を俯瞰してみているような、底知れない雰囲気を漂わせている。


 そんな王太子の意味深な態度に、室内の空気がわずかに緊張を帯びた――かに思えたが。



「ちょ、ちょっと待ってください! もし誰かがその指輪を見つけて、『試験なんかなくなれー!』って願っちゃったらどうなるんですか!?」



 突然、セレナがとんでもないことを叫びながら、バンッと机を叩いて立ち上がった。

 あまりに的外れでスケールの小さい発想に、カシウスは思わず虚を突かれたように目を瞬かせる。



「え……試験が、なくなる?」

「そうです! もし試験がなくなる代償として、学園の校舎が全部爆発してなくなっちゃったら……私たち、補習どころか海にも行けなくなっちゃうじゃないですかぁっ!」

「どんな極端な想像よ! だいたいそんなくだらない願いに命や魂をかけるようなバカは、この世界のどこにもいないわよ!」



 シャルミーヌがすかさず容赦のないツッコミを入れ、セレナの頭を丸めたプリントでペシッと叩いた。



「うぅぅ……でもぉ……」

「でもじゃないの。伝説の指輪を当てにしてないで、自分の頭に知識を詰め込みなさい! ほら、次は魔法陣の基礎方程式よ!」

「ひぃぃっ、スパルタですぅ……!」



 涙目で再びペンを握らされるセレナを見て、カシウスは肩の力を抜き、おかしそうに声を立てて笑い出した。

 先ほどまでの冷徹な王太子としての顔はすっかり鳴りを潜め、彼もまた、ただの面白がる一人の学生へと戻っている。



「いやあ、セレナは本当に飽きないね。伝説の禁忌を前にしても、最大の関心事は期末試験と海への執念か」

「笑ってないで、殿下も少しは教えてあげてください! 私一人じゃこの子の暴走を止めきれません!」



 シャルミーヌが抗議の声を上げる中、アルドリックが再びしゃしゃり出てくる。



「心配はいらないぞ、シャル! 万が一その指輪を持った悪党が現れようとも、俺の剣がすべてを薙ぎ払う! 俺にとっての全能の環とは、君という存在そのものだからな!」

「はいはい、わかったからアルはそこの隅っこで素振りでもしてなさい!」



 生徒会室に、再びドタバタと騒がしくも温かい日常の空気が戻ってきた。

 不穏な歴史の影と、王太子の密かな思惑を孕みながらも。

 彼らの賑やかな夏休みに向けた地獄の特訓は、夕暮れまで果てしなく続いていくのだった。





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