27.
迎賓館の別室では、グラディオラス侯爵と帝国側のイザベラ夫人が、ルミエの養子縁組と新たな婚約に関する取り決めに追われていた。
先ほどまでの殺伐とした腹の探り合いが嘘のように、今は両者とも自国にとって最大の利益を確保すべく血眼になって書類と睨み合っている。
大人たちが生々しい政治的交渉に没頭し始めたのを見計らい、カシウスはそっとその場を抜け出した。
彼が向かったのは、人気のない静かなバルコニーである。そこには激しい魔力暴走による疲労と、怒涛の運命の変化に戸惑うルミエが、夕風に当たって熱を冷ましていた。
「ルミエ殿。少しいいかな」
カシウスが声をかけると、手すりに寄りかかっていたルミエが弾かれたように振り返った。彼はすぐさま姿勢を正し、王族に対する最上級の敬礼をとる。
「カシウス殿下。……この度は、何から何まで本当にありがとうございました」
「頭を上げてくれ。君が覚醒したからこの結末を迎えることができたんだ。僕はほんの少し、舞台を用意したに過ぎない」
カシウスは穏やかに微笑み、ルミエの隣に並んでバルコニーから庭園を見下ろした。
先ほどの騒動で荒らされた中庭の薔薇たちが、夕日に照らされ静かな影を作っている。
「君がグラディオラス侯爵の養子となり、エリカ皇女の正式な婚約者となる。これで帝国との親善も保たれアルも自由の身だ。……だが、僕が君を助けたのは、ただの慈善事業ではないことはわかっているね?」
カシウスの声音から、先ほどまでの人の良い王子様の響きが消えた。
冷たく静かで、それでいて有無を言わせぬ王族としての威圧感がそこにはあった。ルミエは表情を引き締め、小さく頷く。
「はい。――私にできることなら、何なりと」
「うん、ありがとう」
カシウスは手すりから身を離し、ルミエの正面に立った。夕闇が深まり始める中、彼の端正な横顔に影が落ちていく。
「君たちヘリオトロープの家門が、歴史の闇に葬られてまで守り続けてきた秘宝がある。名を『全能の環』という」
その名を出した瞬間、ルミエの肩がびくりと大きく跳ねた。
沈黙がバルコニーを支配する。風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく耳に響く。
ルミエは戸惑いと恐れが入り交じった視線を彷徨わせた。
記憶を失っておりその名前に心当たりなどないはずなのに、ヘリオトロープの血に刻まれた本能が得体の知れない恐ろしさを彼に警告しているのだ。
「それ、は……」
ルミエは自身の胸元を強く押さえ、苦しげに言葉を濁した。
「……記憶はないはずなのに、その言葉を聞いただけで背筋が凍るような悪寒がします。殿下、それは人の身には余る、恐ろしいものではないのですか……?」
「ああ……まあ、ね」
ルミエの懸念を肯定するようにカシウスはわずかに口角を上げ、どこか寂しげとも取れる微笑を浮かべた。
「大丈夫、使うのはもう少し先だから」
その『いつか』が訪れることを、彼はすでに確信しているようだった。
死すら厭わないような揺るぎない覚悟。それを目の当たりにしたルミエは小さく息を吐き、静かに首を縦に振った。
「……もちろん殿下には、エリカ様と共に歩む未来をくださった多大な恩はあります。しかし、私にはその封印の解き方など——」
「解き方の手順や術式なら、もう知っているんだ」
カシウスはルミエの言葉を遮り、内ポケットから手のひらに収まるくらい小さな魔法石を取り出した。
「必要なのは、ヘリオトロープの魔力を込めた鍵となる触媒だ。ルミエ殿、君のその魔力をこの石に注ぎ込んでくれないか」
促されるまま、ルミエは石を両手で包み込むように握った。
「……こう、でしょうか」
ルミエが意識を集中させると、彼の瞳が再び微かに赤紫色に発光する。淡い魔力の光が魔法石へと吸い込まれ、すぐに消えた。
「ああ、完璧だ。これで、この石が鍵となる。……恩に着るよ、ルミエ殿」
石に宿った赤紫の光が、カシウスの白い肌を不自然なほど鮮やかに照らし出す。それはまるで、長い眠りから目覚めた怪物の鼓動のようだった。
「はい。どうか、ご無事で……。貴方がそれを正しく使うと信じましょう」
カシウスは魔法石をそっと胸元にしまい直した。
彼の目的は達成された。これ以上、この新米の侯爵令息を縛り付ける理由はどこにもない。
「君たちの明るい未来を祈っているよ。エリカ殿下を大切に」
カシウスは再びいつもの完璧な笑顔を作り、ルミエに背を向けてバルコニーを後にした。
◇◇◇
カシウスが迎賓館の廊下を歩いていると、不意に奇妙な音が耳に届いた。
「……っ、くっ……尊すぎ……うぅぅ……」
声の出どころは、アルドリックとシャルミーヌが逃げ込んだ控え室から少し離れた廊下の壁際だった。
そこにはメイド服姿のセレナが力尽きたように壁に背中を預け、両手で口を塞ぎながら顔を真っ赤にして身悶えしている姿があった。
「……セレナ。君、そんなところで一体何をしているんだい?」
「ひぇっ!? カ、カシウス様……!」
カシウスが面白がって声をかけると、セレナは短い悲鳴を上げて飛び上がった。
極度の興奮状態にあった彼女は、彼の姿を見るや否や猛烈な勢いで熱弁を振るい始めた。
「カ、カシウス様! 聞いちゃいました! 私、さっきあそこの扉の向こうで聞いちゃったんです!」
「何をだい?」
「お二人が! 中で! 『世界中を敵に回しても君の傍にいたい』とか『お願い、どこにも行かないで』とか! もう、尊すぎて……っ! あのまま扉の前にいたら命が危なかったのでここまで避難してきたんです!」
早口でまくしたてるセレナの姿に、カシウスはたまらず吹き出した。
「ふっ、あはははっ! なるほど、今のアルドリックなら確かに言いそうな台詞だね。シャルミーヌの赤い顔が目に浮かぶよ」
カシウスが腹の底から愉快そうに笑うのを見て、セレナはハッと息を呑んだ。
王子としての完璧で計算された作り笑いではない、彼が心から楽しそうに見せる無防備な笑顔。それを見た瞬間、セレナの胸の奥で先ほどの尊死とは全く違う、甘くて早い鼓動が跳ねた。
(カシウス様の笑顔……反則すぎます……っ)
彼女がひそかにカシウスに対して抱いている特別な感情が、頬の熱をさらに上げていく。
「君は本当に面白いね。でも、まだ思い残すことはあるだろう?」
カシウスは壁際でへたり込んでいるセレナに向かって、スッと手を差し伸べた。
「僕らの役目は、あの不器用な二人を無事に結婚式まで導くことなんだから。さあ、立てるかい?」
「あ……はいっ」
差し出された大きな手に自分の手を重ねると、彼に優しく引き上げられた。その手から伝わる体温に、セレナの心臓はさらにうるさく鳴り響く。
「でも、あの二人の甘い時間はそろそろ終わりにしてあげないと。いつまでも閉じこもっていては、余計な噂を立てられかねないからね。まあ、もう手遅れかもしれないけど」
「あははっ、そうですね! それじゃあお部屋まで突撃しちゃいましょうか!」
セレナは照れ隠しのようにわざと明るく振る舞い、カシウスと顔を見合わせて悪戯っぽく笑い合った。
二人は息をぴったりと合わせて控え室の扉の前まで歩み寄り、勢いよく開け放つ。
「やあ、お熱い二人とも。そろそろお迎えの時間だよ!」
「きゃあああっ!? な、なんで急に入ってくるのよ!」
扉の向こうでは、案の定、アルドリックに過剰なスキンシップを受けながら真っ赤になっているシャルミーヌの姿があり、カシウスとセレナは顔を見合わせて再び大笑いしたのだった。




