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26.

 




 嵐のような模擬試合、そしてそれに続く一連の騒動がようやく幕を閉じた後。

 ルミエがグラディオラス侯爵の養子として迎え入れられ帝国との縁談が大団円に終わったという事実は、シャルミーヌにとってまだ現実離れした夢のようだった。



「もうっ! メイドに変装した意味がなくなったじゃない……! 侯爵にも絶対ばれてたし……!」



 アルドリックの盛大なタックルと全方位に向けた重すぎる愛の叫び。その恥ずかしさに耐えきれなくなったシャルミーヌは、カシウスたちや使用人たちの視線から逃げるようにアルドリックの腕を引っ張り、迎賓館の控室へと駆け込んでいた。


 バタンッ。


 その重厚な木製の扉を閉めた瞬間、外の喧騒は嘘のように遠のき、室内は水を打ったようにしんと静まり返る。



「はあ……もう。本当に、寿命が縮むかと思った……」



 無事に終わった。そう思いほっとすると同時に、今日一日分の疲れがどっと押し寄せてくる。

 彼女はゆっくりと部屋の中ほどへ歩み寄り、西日に照らされて黄金色に染まり始めた庭園の景色をぼんやりと眺めた。



「……カシウスとセレナさんには、とんでもない貸しができちゃったわね」



 ぽつりと零した独り言は、静かな部屋に吸い込まれていく。

 脳裏に浮かぶのは自身の立場すら気にせずスライディングで場に割って入ってきたセレナの勇姿と、完璧な笑顔で大人たちを丸め込んでみせたカシウスの姿だ。


 あの二人の絶妙な連携と介入がなければ、アルドリックとエリカ皇女の縁談は決定事項としてそのまま進んでいたに違いない。最悪の結末は、本当に紙一重のところで回避されたのだ。


 危機が去り、落ち着いて冷静さを取り戻していくほどに。

 シャルミーヌの胸の奥に、得体の知れない恐怖が波紋のように広がっていく。


(今回は本当に、奇跡みたいなものだった)


 嵐が過ぎ去った後のなぎのような静けさが、かえって不安を増幅させる。劇的な大逆転劇。それは物語の中なら喝采を浴びる結末だろう。


(でも、もしあの二人が現れなかったら。ルミエ様の正体が暴かれないままあの場が収められてしまっていたら……)


 アルドリックは今頃自分ではない誰かと並んで、生涯の伴侶としての誓いを立てていたのだろうか。皇女に微笑みかけ彼女の手を取り、その身を捧げる。

 その光景を想像しただけでシャルミーヌの指先から血の気が引き、心臓が凍りつくような感覚に陥った。メイド服のスカートを握りしめる両手が、かすかに震え始める。



「……シャル。いや、シャルミーヌ」



 ふいに、背後から声が届いた。

 それは先ほどまでの大仰で芝居がかったトーンではない。控えめで、こちらを慮るような声だった。



「さっきは……大声で愛を叫んだりして、本当にすまなかった。自分でもどうしようもなくなるほど、君のことしか考えられなくなって。その……暴走、してしまったようだ……」



 シャルミーヌがゆっくりと振り返る。

 そこには、自信に満ち溢れルミエを圧倒していた男の姿はなかった。

 彼は心底申し訳なさそうに眉を下げ、ただひたすらにシャルミーヌのことだけを見つめている。


 彼のその苦しげな、けれど自分という存在だけを強く求めていると雄弁に語る瞳を見た瞬間。

 幼い頃から努力を重ねて身につけてきた常識的で立派な公爵令嬢としての矜持や、張り詰めていた自制心の糸が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。



「……っ」



 理性が止めるよりも先に、身体が動いていた。

 シャルミーヌは数歩の距離を駆け寄ると、堪えきれない思いの丈をぶつけるように正面から彼の胸へと飛び込んだ。



「シャ、シャルミーヌ……!?」



 不意の衝撃にアルドリックが驚きに目を見開き、やり場を失った両腕が宙を泳ぐ。けれどシャルミーヌは離れようとせず、彼の仕立ての良いジャケットを両手でぎゅっと強く握りしめた。



「…………本当に、怖かった」



 紡ぎ出された声は自分でも信じられないほどに震え、涙声に掠れていた。

 その弱々しい響きに、アルドリックが小さく息を呑む気配が伝わってくる。



「貴方がいつかいなくなるって、頭ではわかってた。でも……」



 シャルミーヌはこれまで押し殺してきた負の感情が、一気に溢れ出すのを止められなかった。理屈では説明のつかない、胸を掻き毟りたくなるような喪失の予感。それが、彼女の喉の奥を熱く焼いていた。



「あのまま貴方と皇女様との婚姻が決まっていたら……私、自分でもどうしていたかわからない」

「シャルミーヌ……」

「今回のことで痛いほど思い知ったわ」



 アルドリックの胸板から伝わる、トクトクと速い鼓動。それが自分への愛ゆえのものだと確信した瞬間、彼女の中で何かが弾けた。



「私、貴方を……誰にもあげたくない」



 今まで押し殺してきた感情を吐露する。

 シャルミーヌは、彼の胸に顔を埋めたまま自嘲気味に言葉を重ねた。



「最低、よね。自分の婚約すらまだどうにもなっていないのに、貴方を独り占めしたいだなんて……」



 心の底で、シャルミーヌは己の無力さと不甲斐なさを呪っていた。


 セレナのように人目を憚らずに好きだと叫んで走り出せるような強さもない。

 エリカのように愛する人を守り抜くのだと、堂々と誓えるような逞しさもない。

 そして、母のように彼を強引に奪ってしまうような勇気もない。


 愛する人を永遠に失いそうになってなお、公爵家の令嬢としての常識や体裁が足枷となって自分を縛り付ける。そんな臆病な自分が、情けなくて仕方がなかった。



「私の立場から言えることじゃないのは、分かってる。わがままだっていうことも……。でも、お願い。どうか、どこにも行かないで」



 それは、誇り高いローズブランシュ公爵令嬢としての理知的な言葉ではない。ただ一人の、恋に落ち、愛する人を失うことを恐れる少女の、あまりにも切実で純粋な祈りだった。


 アルドリックは目を伏せ、重い息を静かに吐きだした。

 そして、堰を切ったように溢れ出した彼女への愛おしさを隠そうともせず、細く震える彼女の背中に腕を回す。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、力強く抱きしめ返した。



「……俺も、同じことを考えていたよ」



 頭上から降ってきたその声には、耳を焦がしそうなほどの激しい熱が混じっていた。

 普段の息を吐くように紡がれる甘ったるい詩ではない。そこにあったのは一人の男としての生々しく、恐ろしいほどに深い独占欲だった。



「俺にとっての近衛騎士という地位も、このグラディオラスという誇り高き家名も……すべては、君の隣に堂々と立つために与えられた手段に過ぎない」

「アル……?」

「もしあのままあの見合いが進み、君を失うことが避けられない事態になっていたら。俺はあの日君に言ったように地位も名誉もすべてを投げ捨て、君を奪って地の果てまで逃げるつもりだった」



 あまりに過激で、王国を背負う騎士らしからぬ言葉。シャルミーヌは驚いて顔を上げようとしたがアルドリックはそれを許さず、彼女の後頭部に手を添えて自身の胸へと引き寄せた。



「俺が俺であるために、君だけは絶対に手放せない。たとえ世界中を敵に回してでも君の傍にいたいと……そう、心から思ってしまっているんだ」



 厳しい規律と王家への忠誠を魂に刻み込んできたはずの高潔な騎士が、今、己を縛るすべての鎖を自らの手で断ち切ろうとしている。ただ、一人の女性を愛し抜くために。

 彼がかけられているのは、ただの魅了魔法のはずだ。だというのに、彼の瞳の奥底で燃える炎は作られた偽物の感情などではなく、紛れもない真実の光を放っているように見えた。



「もう二度と、君をこんな風に震えさせないと誓おう。父上には俺からしっかりと言っておくし、カシウスにも裏から手を回してもらう。……君を不安にさせるような真似は、この先一切しないと約束する」



 アルドリックはゆっくりと腕の力を緩めると少しだけ身を引き、シャルミーヌの顔を覗き込んだ。そして彼女の白い頬を伝う冷たい涙の跡を、無骨な親指で愛おしそうに何度も優しく拭う。



「だからどうか、泣かないでくれ。君の涙を見るのが……俺には、何よりも辛いんだ」



 静まり返った室内で、二人の触れ合う体温だけが確かな現実としてそこにあった。

 二人はこれから待ち受けるであろう身分やしがらみという運命の濁流に共に抗っていく覚悟を、言葉なき沈黙の中で確かに共有していたのだった。




 ◇◇◇




 一方、その頃。

 堅く閉ざされた控室の扉のすぐ向こう側にある薄暗い廊下では、異様な光景が繰り広げられていた。



「……っ、…………っ!!」



 壁にべったりと張り付いたセレナが、全力で声を殺しながらその場で身悶えていたのである。

 彼女は両手で自らの口を必死に塞ぎ、喉の奥からせり上がってくる悲鳴をどうにかして堰き止めていた。しかし、その瞳はかつてないほどのギラギラとした輝きを放ち、興奮で顔を真っ赤に染め上げている。



「……と、尊い……っ! お二人が……最高に、尊いですっ……!!」



 声音を最小限にまで抑えて、激情を逃がすように呟く。

 重厚な扉を一枚隔てた向こう側で繰り広げられている、騎士と誇り高き公爵令嬢による命がけの愛の告白。

 世界中を敵に回してもなんて、前世で遊び尽くした乙女ゲームのクライマックスでもなかなかお目にかかれない極上の殺し文句ではないか。


 アルドリックの重く深い真実の愛と、普段はツッコミ役に徹しているシャルミーヌが見せた健気な弱さ。その甘く切ない空気感が壁越しにヒシヒシと伝わってきて、セレナの脳内を激しく麻痺させていた。


(こっ、これ以上ここにいたら、間違いなく尊死とうとししてしまいます……っ!)


 一介の令嬢としての、いや、ただの強火ファンとしての理性がかろうじて彼女の脳内で警鐘を鳴らす。

 セレナは抜き足差し足、まるで忍者のように静かな動きで扉から少しずつ距離を取った。

 そして、どうにか荒い呼吸を隠さなくてもいい場所まで移動する。

 冷たい石造りの壁に背中を預け、ほっと詰めていた息を吐いた。



「……ふぅ、助かった。あのまま扉の前にいたら、心臓が何個あっても足りなかった……」



 燃えるように熱くなった両頬を冷たい手のひらで挟みながら、セレナはようやく我に返った。

 自分の大好きな推しの二人が順調に距離を縮めているのは、これ以上ないほど喜ばしいことだ。


 だが、冷静になって周囲を見渡して気づく。

 先ほどまで一緒にいたはずの人物の姿がどこにも見当たらないことに。



「……そういえば、カシウス様はどこに行っちゃったんだろう?」



 騒動を見事に収めた後、いつの間にか姿を消してしまったカシウスの行方を思い浮かべ、セレナは小さく首を傾げたのだった。





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