綾子 その2
九月七日、水曜日の朝。
今日は早く目が覚めたので、学校に早く着いた。
朝の学校は緩やかな時間が流れており、まるで学校自体が起きたばかりの人のような雰囲気だ。
青い空を眺めて、今日も一日頑張ろうと勢いをつけた。
現代文、数学と来て、三時間目になった。
三時間目は音楽の授業なので、移動教室だ。
階段を下りて、二階の音楽室に向かった。
音楽室はかなり広く、普通の教室の三倍近くある。
もとから置いてあるグランドピアノの他に、キーボードが十数台用意されていた。
今日の授業はピアノを使うのだろうか。
小休憩が終わるころには、人が大勢音楽室に収容されていた。
実技教科は選択制で、書道、美術、音楽の中から一つ選ぶことになっていた。
音楽はなかなか人気があったようで、全生徒のうち過半数が音楽を選び、その結果授業は三クラスに分けてやることになった。つまり、AB、CD、EF、といった具合だ。
今いるのは四十人くらいで、たいして普通の授業と変わらない。
「今日からは楽器演奏をメインに授業を進めます」
音楽の先生がはっきりとした声で言った。
「これまでは座学や鑑賞がメインでしたが、これからは実技中心になります」
ざわざわ、がやがや。
実技と聞いて、周りが反応した。
「皆さんに演奏してもらう予定の楽器は、ピアノと琴です。まずはピアノ、10月には琴をやる予定です」
ピアノは楽勝だろう。一方琴は触った事がないから、不安半分楽しみ半分だ。
「では、今日から実技試験に向けて、ピアノの練習をしていきます。今から試験の楽譜を配布します」
そう言ってプリントが渡され、それを前から受け取る。
見ると、プリントに書かれているのは五小節。左手はない。
ソレシラソシラソファラレ……。
これはそう、小フーガト短調の冒頭だ。
そうこうしているうちに、周りの生徒たちがざわめき始めたので、俺は楽譜から目を離して周りの状況を確認した。生徒たちが二人もしくは三人に固まっていく。これはグループを作っているのだろう。
そう思っている間にも、近くにいるもの同士でだんだんグループが形成されていく。遅れを取るわけにはいかない。
「すみません」
俺は隣に座っていた女子に声をかけた。するとその女子がくるっと回ってこちらを見た。
「はい」
そう、隣にいた女子は、昨日の放課後話したサッカー部マネジャーの彼女だった。
初対面したときC組の教室から出てきたので、てっきりC組の生徒だと思っていたが、A組だったんだな。
「あ、どうも。奇遇だね」
俺が挨拶すると、彼女は「ほんと!」と驚いた様子で応えた。
「まだ誰ともグループ作ってない?」
「うん」
「なら、一緒にやろう」
「……いいよ」
彼女は少し躊躇して、そう答えた。
「それでは皆さん練習を始めてください」
先生がそう言った後、一斉に演奏を始めた。
俺たちは教室の一番端にあるキーボードを使うことにした。
「どっちが先にやる?」
「お先にどうぞ」
俺は彼女に先を譲った。ピアノは家にあるので引こうと思えばいつでも弾けるのだ。ここはグループの人を優先させるのが良いだろう。
すぐ横から彼女の様子を見守ることにする。キーボードの譜面台に楽譜を立てて、短く爪を切った小綺麗な右手が鍵盤の上に置かれた。
ソレシラソシラソファラレ……。
まるで造詣が深い音楽家のような振る舞いで、可憐にメロディーを奏でるのを見て、俺は心底驚いた。
そして、止まることなく弾ききった彼女を拍手で称賛した。
「すごい上手いじゃん」
「そうかな……」
彼女は照れくさそうにして、はにかんだ。
「じゃあ次、俺弾くね?」
「うん」
彼女は横にずれて場所を空けてくれた。
昨日はキーボードを触れなかったため、少し腕がなまってしまった。
音量を小さくして、指を温めるために簡単なコードを弾いた。
ふと横を見ると彼女は驚いた様子でいた。おそらく俺が経験者だと察したはず。
俺は音量を上げて、キーボードに手を置き、楽譜通りに鍵盤を弾いた。
ソレシラソシラソファラレ……。
演奏が終わった後、彼女は目を輝かせながらこちらを見た。
「すごい! 手元を見ないで弾けるなんて!」
「まあね」
「いつからやってるの?」
俺が曲を繰り返し弾いていると、彼女が聞いてきた。
「3歳からピアノ教室に通ってる。今はもう卒業したけど」
「そうなんだ」
彼女は深く頷いている。
「そういう君も経験者でしょ?」
「えっと、私は習ったっていうか、母がピアノの先生をやってることもあって、自然と身についちゃった感じで。君に比べたら全然だよ」
ふむ、親がピアノの先生なら弾けてもおかしくはない。というか楽譜を見て即演奏できるレベルなら、全然卑下することはないと思う。自称上級者の俺から見ても相当上手いと言える。まさかこんな身近なところに同士がいたとは思わなかった。
***
数十分後。
名前とクラスの簡単な自己紹介を済ませ、差し障りのない話をし、同時に課題曲もほぼ完璧に覚えたかというところで、
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
俺は興味本位で、一つの疑問を投げかけようとした。
「なに?」
「サッカー部のマネージャーの仕事って結構大変じゃない?」
「うん。かなり大変」
「わかるよ。俺、中学でサッカー部で、マネージャーの仕事を手伝ってた時期があったから」
すると先生が近くに来たので、俺たちは話を止め、ピアノに集中した。
話は一旦中断で、先生がいなくなったらまた聞こう。
ところが先生は俺たちのそばからなかなか離れないので、会話をすることが出来そうになかった。
そして数分後。先生が俺たち二人から離れていった。
「はーい、そろそろ時間ですね。皆さんピアノの電源を切ってください」
そう言われて掛時計を見るとあとニ分で授業終了時刻だった。
「皆さん片付け終わりましたね。それでは授業を終わります」
起立、礼の号令がかかり、解散となった。
俺は会話の続きを話そうとしたが、出口近くの席に人が密集して、彼女の姿が見えなくなってしまった。




