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文学少年の恋物語 〜令和版源氏物語〜  作者: AYASAM
1年生2学期
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74/117

Mio卒業ライブ その1

 同日の夕方。

まだ夏の名残が残る空気の中、俺たちは愛表(あいのもて)駅の改札を抜けた。

16時ちょっと前。会場は17時開場、18時開演。時間には余裕があるはずなのに、なぜか足取りは少し速い。

ホームに吹き抜ける風が、生ぬるい。


「……いよいよだね」


隣でナノハが、小さく言った。


これが卒業ライブじゃなかったら、もっとはしゃいでいるのでいることだろう。

きっと物販どうだ、セトリはどうだ、なんて早口で浴びせてくるんじゃないか。


電光掲示板に表示される文字。


――恋電 二又(にまた)町行き。


いつも乗っている恋電だが、今回は南東方面に向かっている。会場は隣町の海風市。Mioの地元だ。やってきた水色のラインの車両が、ゆっくりとホームに滑り込む。


水色。

Mioのイメージカラーと同じ色だなと思うと、少しだけ胸がざわついた。


車内は思ったより空いていた。

座席に並んで座る。ナノハはスマホを開いて、何度目か分からない告知画像を眺めている。


『Mio Graduation Live ーーついてきて! は今日で終わり』


その文字を、指でなぞるみたいにスクロールしていた。


「……終わり、か」

ナノハは、独り言みたいに呟く。


俺は何も言わなかった。

終わる、という言葉は、口に出すと急に重くなる。


電車は愛表駅を出て、南東へ。景色が少しずつ開けていく。住宅街が途切れ、遠くに深い青色が混じる。


海風(うみかぜ)市ーーMioが愛している街は海の見える街だ。今日はその街で最後のステージを飾る。


***


十七時前、海風市文化会館の最寄り駅に着く。

改札を抜けると、すぐにそれらしい人の流れが見えた。


水色のペンライトをバッグに挿している人。Tシャツ姿のファン。「最後だね」と笑い合う声。

会場へ向かう道は、どこか祭りの前みたいな空気に包まれていた。


ナノハは、少しだけ歩幅を狭めた。

視線の先には、白い外壁の大きな建物。


--海風市文化会館 大ホール--

キャパ三千。

その数字を思い出すだけで、スケールの大きさに圧倒される。


「……でかいね」

「うん」


それだけの会場を、今日、満員にする。

そして、そこで終わる。


入口前には、すでに長い列ができていた。

十七時開場まで、あと五分。


ナノハはチケットを握り直す。

その指先が、少しだけ白くなっているのに気づいた。


「大丈夫?」


思わず聞く。


ナノハは一瞬だけ俺を見て、それから笑った。


「うん。いけるいける!」


そのセリフはMioの口癖だ。声の奥に、ほんの少しだけ震えが混じっている気がする。

扉の向こうから、スタッフの声が響く。


「間もなく開場します!」


列がゆっくり動き出す。

俺たちは、人の流れに乗って、ガラス扉の前へと進む。


自動ドアが開く。

冷房の冷たい空気が、外の暑さを切り裂いた。

その瞬間、ナノハが小さく息を吸う。

まるで、覚悟を決めるみたいに。


十八時まで、あと一時間。

Mioの最後のステージが、もうすぐ始まる。


***


 十八時ちょうど。客電がゆっくり落ちた。

さっきまでざわついていた三千人の空気が、一斉に息を止める。


暗転。

一拍。

低く響く重低音。


そして、水色のレーザーが闇を裂いた。


爆発みたいなイントロと同時に、ステージ中央にシルエットが浮かび上がる。


「海風市のみんなー!! 準備はいいー!?」


その声が響いた瞬間、会場が揺れた。


ーーMioだ。


アクアブルーのライトに包まれて、堂々と立っている。

引退ライブとか、最後とか、そんな空気は一切ない。


ただ、強い。

ただ、眩しい。


EDMのビートに合わせて腕が上がる。

俺も、ナノハも、自然に拳を突き上げていた。


「最初から上げてくよ! ついてきて!」


その一言で、三千人が跳ねる。


ナノハが笑った。いつものライブの顔だ。

その横顔を見て、俺は少しだけ安心する。


一曲目は『Aqua Rise』。


ライブの開幕にふさわしく、爽やかでノリのよい楽しい曲だ。

気分を上げるのにはぴったりの曲で、会場も存分に湧いた。


そして間髪入れずに二曲目が始まる。


『Spark in My Step』


アップテンポのギターリフ。

軽快なステップ。


<弾ける想いを (ウッウー)

激しいステップで (ウッウー)>


コール&レスポンスが飛び交う。


Mioはステージの端から端まで走り回っている。

煽り方が上手いのは彼女の特徴で、観客との距離を一瞬で縮まった。


まさに太陽と呼ぶにふさわしい。

現役ど真ん中の圧倒的な熱量だ。

これで引退であるため、今までで最高のパフォーマンスを披露しようと頑張っているのが見て取れた。


***

 そこからほんの少し間が空き、次の曲に入る。

三曲目は『海風ドライブ』だ。


少し落ち着いたポップナンバー。

ステージ後方のスクリーンに映るのは、海沿いの道路だ。

Mioは夕焼けの海風市を見ながら、


「やっぱり地元って最高だよね! 皆もそう思うでしょ?」


笑いながら問いかけると、客席がじわじわ沸く。


地元愛ーー何度も聞いた言葉だ。

でも今日は、どこか少しだけ深く響く。


ナノハが小さく呟く。


「Mio、ほんと海風市好きだよね……」

「だな」


柔らかい声で微笑む彼女に同調する。



 四曲目はがらっと雰囲気が代わり、『Flash Forward』

照明が白く鋭くなる。


未来志向のロックナンバー。


<前へ進んでく

もう止まらない>


どこか遠くに言ってしまいそうなフレーズが散りばめられている。


<振り返らずに>


そんな言葉が、ビートに乗って届けられる。


Mioは強い目をしている。演出だとは思うが、引退を少し意識している表情も出ているのではないか。


本当にこれが最後なのかーーふと、そんな言葉が頭をよぎる。


隣を見ると、ナノハは真っ直ぐステージを見ている。

負の感情はなさそうだが、ほんの少しだけまばたきが多い気がした。


***

 五曲目は『High Tide Heart』だ。

照明が水色に戻る。この曲は少し感情寄りのナンバーだ。


<ひとしずくの願いが 波紋ひろげて

触れた瞬間 世界が澄んでゆく>


声量を見せるサビ。


<ただ真っ直ぐに響く光になる

揺るがない心で 歌い続けるよ>


ホール全体に、伸びやかな声が広がる。

圧倒的に上手い。


完璧なピッチで声がまったくブレない。

音楽活動をメインでやってきただけあり、歌唱力が別格だ。


歌の上手さがこの人の最大の武器なんだと、改めて実感させられる。


隣のナノハは、息を詰めるみたいに聞いている。

曲が終わるまで、憧れの眼差しをMioから逸らさなかった。


そして六曲目。


イントロが流れた瞬間、会場が爆発した。


「まだまだ、ここからー!」


Mioが叫ぶ。彼女の口癖がそのままタイトルになっている曲の一つである『まだまだここから!』だ。


<眩しい日差し浴びて 砂浜を駆けていく

波しぶき跳ねるたび 胸の奥が震える>


とても明るい雰囲気で、南国ではしゃいで遊んでいるような気分にさせられる。


<何度つまずいても ここまで来れたのは

君の声がいつも 道を照らしたから>


おそらく歌詞内の『君』とは、自分たちファンのことを指しているのだろう。ファンの応援があるから頑張ってこれたという意味ではないか。


<まだまだー! (まだまだー!)

叫ぶたびに 心が開いてく>


コールがあるので、会場の三千人が「まだまだー」と叫び返す。もちろん俺もナノハも全力で叫んだ。


ジャンプ。

クラップ。

水色のペンライトが揺れる。


これが現役ライブだったなら、どんなに良かったことか。


最後のサビ前、Mioが煽る。


<いつでも全力で! (レッツゴー!)>


その言葉に、会場が一体になる。


ナノハは本当に楽しそうに笑いながらコールしている。


<抑えてたものが 光に変わるよ>


ラストのコールを叫んで、アウトロに入る。

余韻を残しながら曲が終わり、照明が落ちる。


ナノハに視線をやると、その視線が、ほんのわずかに揺れていた。

表情は笑っているのに。

これが最後であることが受け止めきれない。

そんな印象を俺は感じ取った。


手で汗を拭きながら、Mioは満面の笑みで言う。


「まだまだいくよ! 今日は長いからね!」


引退の空気はまだほとんど出でおらず、あくまでいつものMioだ。


ひと安心。けれど、もう少しで引退を意識した姿が現れる。

俺にとっては三ヶ月前から推している彼女。


いつも明るい太陽に、影が差してしまう。


「Mio……」


隣で、ナノハが小さく息を吐く。

その表情はどこか不安を孕んでいる気がした。


休憩10分を挟み、ライブが再開される。

ステージが明転した。


ステージに立つMioは、さっきまでの宝石みたいなアクアのドレスではない。

白を基調にした新しい衣装に身を包んでいた。


ショート丈のジャケットは柔らかなアイボリー。

胸元には細いアクアの刺繍が走り、光を受けるたびに淡くきらめく。

スカートは軽いチュールの二層仕立てで、動くたびに空気をはらんで揺れた。裾の内側にだけ、薄い水色が忍ばせてある。


足元はヒールではなく、動きやすいショートブーツ。

髪もハーフアップに変わっていて、リボンは小さく、少しラフだ。


第一部より、近い。


完璧なアイドルから、同じステージに立つ誰かへ。

それでも――スポットライトの中心に立つ姿は、やっぱりMioだった。


「ここからは、ちょっと特別な時間にしようと思います!」


衣装を変えたMioが、楽しそうに宣言する。


「今日は仲間も来てくれてます!」


会場がざわめく。


次の瞬間――シンフォニックなストリングスが鳴り響いた。

低く、芯のある声が闇を裂いた。


〈まっすぐな光だけじゃ

照らせない場所がある〉


ステージ上手に白と黒のライトが灯る。


<白と黒のその隙間で

揺れていた本音>


ゆっくりと歩き出したのは、凛とした雰囲気の子だった。


白を基調に黒のラインが入ったシャープな衣装。肩のシルエットが直線的で、軍服のようにきっちりとしたデザイン。長い髪を後ろでまとめ、無駄のない動きでヒールを鳴らす。


表情は静かだが、視線が鋭い。客席を一度なぞるだけで空気が引き締まる。

その声は低音でも揺らがない。支える側の声だ、と直感する。


続いて――甘く弾む声。

ピンクの光が弾ける。

反対側から飛び出してきたのは、笑顔がまぶしい子だった。


フリルの多いミニ丈の衣装がひらりと広がる。パステルピンクに小さなリボンが散りばめられ、足取りまで軽い。ターンしながらセンターへ寄ってくるたび、スカートが花のように咲く。


くるくる変わる表情。ウインク。指先まで遊び心が宿っている。


〈ぶつかっても すれ違っても

同じ強い想いがあるから〉


声は高めで、けれど芯がある。跳ねるようなのに、音程はぶれない。

そして――透明な高音が重なった。


水色のライトが客席までまっすぐ伸びる。

奥から歩いてきたのは、どこか儚さをまとった子だった。


淡い水色のドレス風衣装。透ける素材が重なり、動くたびに波のように揺れる。長い髪がライトを受けて淡くきらめく。

伏せがちな睫毛。けれど歌い出した瞬間、まっすぐ前を射抜く。


〈ひとつの勇気 掛け合わせて

三つで未来へ行けばいい〉


声は澄み切っている。空気が一段、軽くなる。

三人が揃った瞬間、照明が三色に分かれて交差する。


<違う色のままで 眩しい光を放て

重なった瞬間 広がるハーモニー>


白黒の直線、ピンクの跳ねる円、水色の透き通る線。

重なった光は、ひとつの大きなプリズムになる。

歌も衣装も演出もすべて完成度が高い。

タイプはまるで違うのに、削り合わない。むしろ互いを引き立てている。


<手を伸ばして ぎゅっと掴みにいこう

私たちの Triple Prism Dream>


ナノハが小さく呟く。


「……きれい」


横顔には羨望が映っている。

彼女は食い入るようにステージを見ていた。


ブリッジを越え、ファイナルコーラス前。

三人が背中合わせに立つ。


白黒の子が低く支え、ピンクの子が跳ね、水色の子が伸ばす。

完璧な三角形ができあがると、ステージ奥が再び暗転する。


水色のライトが一本、ゆっくり灯る。

Mioが合流して歓声が爆発する。


〈信じて歩いてきたその軌跡

間違いなんてひとつもない〉


四人の並び。中央にMio。

けれど奪いすぎない。

三人の色を受け止めながら、広げる。

前に立つ太陽が、今回は横に並んでいる。


とても珍しい四人ユニゾンだ。

ホールいっぱいにハーモニーが広がる。


<重なり合うその先に

待っているのは

私たちの Triple Prism Dream>


曲が終わった瞬間、三千人が総立ちで喝采を送る。

圧巻のステージだった。


ナノハは、ただ拍手している。

強く、何度も。


一体誰なんだ、この三人は。完成度が高すぎる。

ナノハが息を呑む。


「すごいね」


俺は頷くしかなかった。

歓声が落ち着くのを待って、Mioが前に出る。


「改めて紹介します!」


スポットライトが順番に当たる。


「Sugar Prismetteのみんなです!」


三人が並んで一礼する。


「まずはセンター!」


ライトを浴びた彼女は、落ち着いた視線で前を見る。


「ショコラ!」


短くマイクを持つ。


「今日は呼んでくれてありがとうございます。最高の夜にしましょうね」


声が低めで安定している。

さっきのAメロの軸そのままだ。


なるほど。

あれは偶然じゃない。


「そして!」


ピンクの子が弾ける。


「ルビー!」


「海風市のみんなー! 楽しんでるー!?」


観客からの返事が爆発する。

ファンサが自然で、表情の作り方がうまい。


「最後はー、ミント!」


水色の子が真面目な表情を見せる。


「今日は先輩の特別な日なので、心を込めて歌います」


静かな声なのに、遠くまで届く。


さっきの透明な高音の正体。

ダンスの安定感も、この子か。


三人の色が違う。声も違う。

でも、不思議とまとまっている。


Mioが笑う。


「ほんとに頼れる仲間なんです」


その言い方が、少しだけ誇らしげだった。


ナノハは何も言わない。

ただ、じっと見ている。


俺は全く知らなかったが、ちゃんとしたグループだ。

Mioはその中に混ざって楽しそうにしている。


その事実が、ナノハにどう刺さっているのか。

それを考えながら、俺は次の曲を待った。



 間を置かず、ポップなビートが弾ける。

さっきまでのシンフォニックな空気が、一気にアイドル色へ変わる。


イントロではルビーの声が弾む。


<君の笑顔ひとつで ハートがspinして

止まらないよ my love circulation>


ショコラが軸を作り、


<ふいに目が合うたび 軌道がふわり揺れて

空白のページが 彩られてく>


ミントが透明感で包む。観客の熱が質を変える。


<くるくる回る Love Circulation

君を想うよ Heart Vibration>


キラキラした、跳ねるような歓声が会場を包む。


ルビーのウインクに悲鳴が上がり、ミントの高音で空気が澄む。


Mioは一歩引き、三人を立てる。

ときどき視線を送り、笑い合う。


仲間としての距離。

それが自然に成立している。


ナノハの呼吸が、少し浅くなるのが分かった。


羨ましいのか、眩しいのか。それとも――


<恋が宇宙を動かしていく

終わらない Love Circulation>


最後のキュートな掛け合いが終わり、

観客のクラップがホールを満たす。


この曲も非常に完成度が高いな。窮屈を覚える暇がない。


中央に立つショコラの安定感。

ルビーの弾ける笑顔。

ミントの透明な高音。


その真ん中に、Mioがいる。でも主役を奪わない。

あくまで並んでいる。


「ありがとう!」


ルビーが手を振る。

ミントが息を整えながら、静かに客席を見渡す。

ショコラがマイクを持ち直した。


そこでMioが一歩前に出る。


「今の曲は、Sugar Prismetteの代表曲――

『Love Circulation』でした」


 歓声がもう一度起きる。


「つい最近、50万回再生突破したんだよね?」


「そうです」とルビー。

「褒めてください!」とミント。


「すごいよ。最初に聴いたとき、完成されてるなーって思った」


Mioは三人を見て、少し誇らしそうに笑う。


「今日はそんな大事な曲を、一緒に歌わせてもらいました」


その言い方が、ゲストじゃなく仲間だった。


「せっかくだからさ」


Mioが続ける。


「ちょっと座って話さない?」


ステージ中央に、白いハイチェアと小さな丸テーブルが用意されている。

照明が少し落ち、柔らかい光に変わる。


四人が腰を下ろす。

並びは、左からルビー、ショコラ、Mio、ミント。

距離が、近い。


さっきまでのパフォーマンスの熱が、少しずつ落ち着いていく。

ナノハの呼吸も、ゆっくりになる。

でも、一切目は逸らさないでいる。


「改めて、今日は来てくれてありがとう」


Mioが三人を見る。


「こちらこそです」


ショコラが丁寧に返す。


「今日は卒業ライブということでーー」


ルビーが元気よく声を上げた。


「言い方が重いのよ」


Mioが苦笑する。客席が笑う。

ナノハの目は真剣だ。


「今日は、私たちからも少し聞きたいことがあって」


ショコラが落ち着いた声で続ける。


「怖いなあ」


Mioが肩をすくめる。

ミントがマイクを持ち替え、少しだけ緊張した様子で口を開いた。


「先輩、緊張してます?」

「してない……たぶん」


また笑いが広がる。


けれど俺は気づく。

さっきの曲中より、今のほうが少しだけ声が素に近い。

ステージ用の声じゃない。


「じゃあ、ひとつ聞いていいですか」


ショコラが言う。


「私たちと最初に会ったとき、どう思いました?」

「それ、こっちが聞きたいんだけど」


即答だった。ルビーが勢いよく答える。


「完璧すぎてて、近寄りがたかったです!」

「わたしも」


ミントがうなずく。


「ちょっと怖いと思ってました」

「うそー!?」


会場が笑う。ナノハの肩も、小さく揺れた。

けれどミントは、そのまま続ける。


「高校で初めて見たとき……廊下でイヤホンつけて歌ってて」


ざわ、と空気が動く。


「ちょっと待って、それ言うの?」

「すごく楽しそうだったんです。ああ、この人は歌うのが好きなのかなって」


 ナノハの指が、膝の上でそっと握られた。


「その日から、私もちゃんとやろうって思いました」


拍手が起きる。俺は少し遅れて手を叩いた。


誰かの進路を、静かに変えてしまう存在。

Mioは、そういう人間なんだ。


「私はそんなに立派な人間じゃないよ」


照れながらも、どこか誇らしそうに目を細める。

ショコラが続ける。


「いやいや。本番前に必ず全員の顔見て回って、『水飲んだら?』って言って差し入れしてくれるじゃないですか」

「それくらい普通でしょ」

「「いやいやー」」


ルビーとミントの返事が被る。

Mioは想像を裏切らず気遣いができるらしい。やはり立派な人間だった。


ミントが思い出したように笑う。


「先輩、高校3年の文化祭のとき、音響トラブルありましたよね」

「やめなさい」

「マイク入らなくて、地声で最後まで」


どよめきが走る。


Mioは少しだけ間を置いて言った。


「止まるの、怖かったんだよね」


空気が変わる。

笑いが、すっと引いた。


ショコラが、まっすぐに聞く。


「今も、怖いですか?」


会場が息を止める。

Mioは視線を落とし、それから顔を上げる。


「うん。怖いよ」


即答だった。


「それに今日も……あのときと同じくらい怖い」


ナノハの指が、きゅっと強く握られる。


「でもね」


小さく笑う。


「止まってしまうのは、もっと怖い」


その言葉は飾られていなかった。


「歌わない自分が、想像できなくて。だから、形が変わっても歌い続けるよ」


終わりにしない、と言っている。

ふと隣を見ると、ナノハは目を潤ませていた。


「先輩、私たちに何かありますか?」


少し声を震わせたミントの問いに、Mioは少し考えてから穏やかに笑った。


「私がここまで続けてこれたのは、歌うことが好きだったからなんだよね」


客席の空気が、静かに揺れる。


「だから、好きって気持ちさえあれば、なんとかなるよ」


ナノハの喉が、小さく鳴った。


この言葉は、ステージの三人だけに向けられていない。

ここにいる全員に向けられている。

きっと、俺たちにも。


ルビーがぱっと空気を明るく戻す。


「じゃあ最後に、“あの言葉”いきましょうか!」

「だめ。まだ言わない」

「えー!」

「それは最後にとっておくの」


笑いが戻る。でも、さっきの言葉は消えない。


四人が肩を並べる。

照明が少し強くなり、次の曲の準備が始まる。


ナノハは、ステージから目を離さない。


最初とは違う顔だ。

憧れだけじゃない。理解しようとしている。


このトークが、今日いちばん大事だったかもしれない。



 四人がセットから移動し、ステージへと戻る。

音が鳴り、十曲目へ突入した。

どうやらこの曲も四人全員で歌い上げるようだ。


肩を組み、笑い合いながら歌う。

アップテンポで明るい友情ソングのようだ。 

グループアイドルらしい幸福感が押し寄せてくる。


仲間という言葉が、わざとらしくなく成立している。


ナノハのバンド、Rosetteでは、こういう空気を作れていただろうか。

そんな思考が一瞬よぎり、彼女を見る。

ナノハは口元を緩ませ、幸せそうにステージを見ていた。


これまでの彼女の舞台で、こんな表情を見せたことはなかった。


この表情がステージで出せるなら――もっと、いける。


そんなことを考えながら、俺は四人の歌声を静かに聞き届けた。


***

 ゲストが退場し、Mioだけが残された。

三色のライトが消え、再びアクアブルーへ戻る。少し静かになる。


落ち着いたイントロで波の音が聞こえる。

この曲は『Blue Horizon』だ。

穏やかなバラード寄りのミディアムな曲だ。


会場の熱が、ゆっくりと整っていく。


〈遠くに見える 青い地平線〉


声は安定している。歌は衰えることを知らず、完璧なままだ。


しかし、第一部とは違うものがある。

少しだけ、内側を見せる歌い方をしている気がする。


無理に盛り上げず、浸らせず。

ただ、想いを共有する。


「五年間、ほんといろんなことあったなー!」


曲を歌い終わり、MCを入れ、Mioは軽く笑う。


「うまくいかないこと、思い通りにならないことがいっぱいあったけど、全部楽しかった」


苦労話も、明るく処理する。


未練は語らない。

後悔も言わない。


「これまで経験してきたこと、すべてが私の宝物!」


会場が拍手で包まれるなか、ナノハが小さくつぶやく。


「……重くないね」

「だな」


Mioの表情はとても明るく、観客を泣かせに来てはいない。

今日終わる人の本当のテンションではない。


だからこそ、逆に胸に残る。


これは別れの準備の言葉じゃなくて、前に進むための整理の言葉だ。


曲が終わり、照明がゆっくり落ちる。

静かな余白。空気が変わる。


もう少し経てば、核心に触れる時間がやってきてしまう。


ナノハは、まっすぐステージを見ている。

まだ目は潤んでいない。

でも、水面下では確実に何かが動き始めているのではないか。

そう感じさせられていた。

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