ナノハの未完成
Green Boxに行った日から、数日が経った。
胸の奥に灯った小さな熱は、まだ消えていない。
でも、それがそのまま歌に変わるわけじゃないことも、私は分かっていた。
スタジオのドアを開けると、冷房の効いた空気と、いつもの匂いが鼻を突く。
ケーブル、ゴム、少し古い木材の匂い。
「じゃ、行こうか」
リオの声で、練習が始まる。
今日は次のライブを想定してカバー曲の通しをやる予定だ。
リオが持ってきた楽曲は、またしてもMiaiz。
高い演奏技術が求められる。加えてボーカルは帯域が広く難しい。
クリックを入れて、本番を想定する。
イントロ。
Aメロ。
Bメロ。
音は合っている。
テンポも、ズレていない。
でも。
サビに入った瞬間、声がわずかに遅れた。
ほんの一瞬。
客席にいたら気づかれないかもしれない。
でも、私には分かった。
「あ……」
ブレスの位置が、ズレてしまう。
頭が次を考えすぎて、体が追いついていない。
それに、一定の音程に安定しない。身が入っていない証拠だ。
そのまま最後まで歌い切る。
大きなミスはない。
でも、終わったあと、胸が妙に空っぽだった。
「もう一回」
リオが、淡々と言う。
二回目。
回数を重ねるほど、声が硬くなる。
感情を込めようとすると、タイミングがズレる。
合わせようとすると、強弱が薄くなる。
――違う。
分かっているのに、どうすればいいのか分からない。
「少し走ってるから、クリック意識して」
リオの指摘は正確だった。
否定できない。
「うん」
頭では理解できる。
でも、胸の奥で何かが噛み合っていない。
そのまま次の曲に移る。よく知らないグループの曲だ。
複雑なリズムのため、Cメロの入りを一拍、外してしまう。
そして決定的に演奏が崩れた。
「ストップ」
リオが手を挙げる。
スタジオの空気が、一段冷えた気がした。
「ナノハ、今どこ見て歌ってる?」
責める声じゃない。
でも、問いとしては重い。
「……ごめん」
答えになっていないと分かりつつ、そう言うしかなかった。
「楽譜見てる?」
「え? うん……」
曖昧な返事をしてしまう。
するとリオは少し考えてから言った。
「一回、整理したほうがいいかもね」
それは正論だった。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
練習は、そこで切り上げになった。
機材を片づけながら、私はほとんど喋らなかった。
ミユも何も言わない。
リオはスマホを確認している。
「ナノハ」
最後に声をかけてきたのは、ラブだった。
「ちょっと、外行こ」
断る理由もなく、頷く。
ビルの裏手。
人通りの少ない場所。
夜風が、汗を冷やす。
「今日さ」
ラブが、少しだけ言いにくそうに切り出す。
「調子、悪かった?」
「うん……」
ラブは、少しだけ笑った。
「下手になったとは、思わなかった」
意外な言葉だった。
「なにかを探そうとしてる感じ?」
その問いに、胸がきゅっと縮む。
「前はさ、余裕がないように見えたけど、そんな雰囲気でもないよね?」
ラブの問いかけに、「そうかな?」と返す。
「うん」
ラブは、はっきり言った。
「一つアドバイス」
ラブがこちらを見る。
「とことん悩んで結論がつかない場合は、誰かに相談するのがベスト」
その言葉は、慰めじゃなかった。
前に進めとも、戻れとも言っていない。
ただ、隣に立ってくれている感じがした。
「……ありがとう」
そう言うと、ラブは照れたように笑った。
「ドラマーは皆を支える存在なのです」
その一言で、少しだけ力が抜けた。
私は空を見上げる。
夏の夜は、まだ終わらない。
答えは、まだ出ない。
でも――
独りじゃない。
そう思えたことが、今日一番の救いだった。




