ナノハの紙の星
ナノハのお話です。
青天の霹靂だった、Mioの引退宣言から一週間と少しが経った。
最初の数日は、正直まともに考えられなかった。
ニュースを見返しては溜息をついて、頭のどこかがずっとざわついていた。
でも、生活が崩れるほどではない。
バンドの練習には行っている。
声も、ちゃんと出る。
喉の調子も悪くないし、音程も取れている。
Mioの引退という事実は、時間をかけて受け止めることができた。
悲しさや寂しさはあるけれど、それ自体が私を止めているわけじゃない。
――問題は、もっと別のところにあった。
ミスしないように。
評価されるように。
頭の中で、いつの間にかそんな言葉がぐるぐる回るようになっていた。
そう考えるたび、胸の奥に小さな重りを一つずつ積まれていく感覚がある。
――うまくやれば、きっと楽しいはず。
自分に言い聞かせるように、何度もそう思う。
でも、その言葉には、どこか温度がなかった。
なんとなく、駅前を歩いている。
家にいると余計なことを考えてしまうから、と理由をつけて外に出たのに、結局考えていることは同じだった。
つい最近イヤホンが壊れてしまったため、何も身に着けずにただ人の流れに混じって歩く。
気づけば、足は勝手にいつもの方向へ向かっていた。
地下へと続く、見慣れた階段。
――あ。
少し迷ってから、そのまま下りる。
Green Box。
くすんだ看板。
少し古びたロゴ。
何度も通った、私のホーム。
ライブを終えてから、しばらく来ていなかったはずなのに。
扉の前に立つと、不思議と呼吸が整う。
この扉を開いたら、何かが変わる――
そんな都合のいいことが起きるわけがないと、頭ではわかっている。
期待はせずに、ゆっくり扉を押した。
ロビーの照明は少し明るく、外よりは涼しい。
壁際にはフライヤーが雑然と貼られていて、知らないバンド名がいくつも目に入る。
いつもなら流し見して終わるはずなのに、今日はなぜか足が動かなかった。
今日は聴くつもりで来たわけじゃない。
気づいたらここまで来ていただけで、理由なんて後づけだ。
――やっぱり、帰ろうかな。
そう思って出口の方へ体を向けた、そのとき。
「次、初ライブの子たちらしいよ」
ロビーの隅で、スタッフと常連らしき人が話している声が耳に入った。
「へえ、新人?」
「うん。まだ全然だけど、気合は入ってるって」
何気ない会話だった。
それなのに、その一言が胸に引っかかる。
初ライブ。
全然だけど、気合は入っている。
知らないバンドの話が、妙に気になった。
私は小さく息を吐き、出口に向けていた足を止めた。
……少しだけ、聴いてからでもいいか。
自分にそう言い訳して、再び奥の扉へ向かう。
少しだけ湿った空気。
床に染みついたアルコールとケーブルの匂い。
スピーカー越しの、少しこもった音。
ステージには、知らないバンドが立っていた。
客も多くはない。
フロアの後ろに数人、壁にもたれて聴いている人がいるくらい。
演奏は、正直言って上手とは言えなかった。
リズムは少し走っているし、ギターの音も荒い。
ベースと噛み合わない瞬間があって、歌もところどころ不安定だ。
――でも。
少し前までの私たちも、こんな感じだった。
そう思うと、不思議と否定する気にはなれなかった。
親近感という言葉が一番近い。
「じゃあ、次の曲行きまーす」
ドラムの子がそう言って、軽くスティックを鳴らす。
特別な前振りはない。
そのまま、演奏が始まった。
……このイントロ。
聞き覚えのあるコード進行に、心臓が沸き立つ。
この曲――。
私のもう一人の推し、Kiraraの曲だ。
タイトルは、「Kirapika Paper Star」。
何度も聴いた。落ち込んだ夜、イヤホン越しに何度も。
どうやら原曲通りじゃない。テンポは少し遅く、アレンジは簡素になっている。
それでも、ボーカルの声が、まっすぐ前に飛んでくる。
完璧に歌えてはいない。でも、その声は必死だった。
音程よりも、感情を前に出すように。
うまく聴かせるよりも、「届ける」ことを優先している。
やがて、サビに入る。
<まぶしくなくていい 見つけた人に届けば>
その一行が、スピーカー越しに、はっきりと耳に届いた。
そして胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
<わたしは紙の星 すぐ折れちゃうけど>
<夜空に投げた ちいさな願い>
紙でできた星。
弱くて、壊れやすくて、すぐ破れてしまいそうな存在。
それでも、願いを乗せて空に投げる。
<強くなくても 消えない光>
そのフレーズを、ボーカルは少し震えながら歌っていた。
上手いとは言えない。でも、純粋でまっすぐだ。
そう感じたとき、ふと頭の中に光景が思い浮かんだ。
それは、私がステージで最初に歌ったときのことだ。
ステージのセンターに立って、マイクを握り、足を震わせていたあの感覚。
歌の上手さを見せることなんて、考えていなかった。
ただ、その時感じている想いを伝えたかった。
誰かに、自分の声を届けたかった。
いつからだろう。
「うまくやろう」とすればするほど、
「評価されたい」と思うほど、
歌いた理由を、少しずつ後ろに置いてきてしまったのは。
胸が、じんわりと熱くなる。
私は、ただ立ち尽くしていた。
気づけば曲は終わり、フロアに拍手が起きている。
その音が、少しだけ遠くに聞こえた。
――私は、何を目指している?
上手くなること。
評価されること。
それ自体は、間違いじゃない。
でも、それだけじゃないはずだ。
歌いたいという気持ちは、どこからやってくる?
答えは、まだはっきりしない。
言葉にもできない。
それでも、一つだけ、確かになったものがある。
私は、歌いたい。
完璧じゃなくていい。
ミスしたっていい。
誰かにそっと届く歌。
誰かの心に刺さる歌。
Green Boxを出ると、夜風が少し涼しく感じた。
胸の奥の重さは、まだ残っている。
でも、積み重なった重りが、一つだけ取れた気がした。




