ハピバ その3
八月中旬の朝。
夏休みも折り返しだ。課題はおおむね順調に進んでいる。
今日は家を出て勉強してみようと思う。
自由研究では万和人に学習環境を割り振ったが、俺も自分なりに試してみるのも良いだろう。
ずっと家にいるのも飽きてきた。
図書館は本を借りにたびたび通っているので、だいたい想像がつく。全く別の場所がいいな。
少し賑やかなところにしたい――レストラン、いやコーヒー店だろうか。
そうだ、またハピバに行ってみるのはどうだろう。
店の場所や季節、時間帯によって混雑具合に当たり外れはあるが、また挑戦してみるか。
俺は駅前のハピバへ向かった。
自動ドアを抜けると、冷房の空気が肌を撫でた。
「いらっしゃいませ!」
店員の挨拶は相変わらず愛想がいい。
七月にも来たが、どうやらまた恋愛の話に遭遇しそうな予感がする。
それを見越して今日はがっつり考えるような宿題ではなく、単語帳と一問一答問題集だけ持ってきた。
さっと終わらせるつもりだ。
「ご注文をお伺いします!」
「アイス――」
言いかけて、やめる。
「カフェラテを一つ」
甘すぎない程度がいい。前回とは違うメニューにしてみる。
受け取ったカップは結露していて、外の暑さを忘れさせてくれた。
窓際の端の席に座る。やはりここが落ち着く。
英単語帳を開き、暗記を始めた。
――十分後。
ページをめくったとき、どこかで聞いたような笑い声がした。
「えー、ついに?」
「だって、待ってても始まらないから」
明るく、少し高めの声。聞き覚えがある。
ゆっくり視線を斜め後ろへ向ける。
テーブルを挟んで向かい合う女性二人。
その片方は――なんと担任の一ノ瀬先生ではないか。
白いブラウスに淡いブルーのスカート。
学校で見るスーツ姿とは違い、年相応の美人に見える。
先生はスマホを差し出していた。
「この写真どう思う? 盛れてる?」
「いい感じだよ」
「ふむ」
先生は画面を見つめ、少し真剣な顔になる。
「プロフィール、何書けばいいか分かんなくてさ。趣味、読書って地味かな?」
「いいじゃん。国語の先生なんだし」
「教師って書いたほうがいいかな?」
「もちろん」
俺は視線を落とす。
英単語帳の「future」という単語が目に入り、ふと考える。
待ってても始まらない……か。先生は何を始めたんだろう。
「それで、登録したのはいつ?」
「昨日。一番レビューが多いマチアプにした」
マチアプ。マッチングアプリの略だと、少し遅れて理解する。
「年齢とかさ、条件で見られるのちょっとしんどいね」
「でも見ないと始まらないでしょ?」
「まあね。子ども欲しいかとか、ちゃんと確認しなきゃだし」
子ども。条件。確認。
七月に聞いたギャルたちの「ときめき」とは、だいぶ温度が違う。
将来を見据えるような視点。先生はパートナー探しを始めたのか。
普段、生徒に国語を教えている姿からは想像しにくい。
けれど思い返せば、初対面のときから身だしなみには気を配っていた。
前触れはあったのかもしれない。
「写真、三枚目どうする? 全身入れたほうがいいよ」
「えー、それ必要?」
笑い声が重なる。
俺はカップを持ち上げ、氷を揺らす。カランと乾いた音が鳴った。
二人の会話は聞いてはいけない気がするけれど、耳は勝手に拾ってしまうのだから仕方ない。
「ねえ、初デートってどこがいいと思う?」
「無難にカフェでしょ」
「ハピバとか?」
「いや、もうちょい背伸びした場所がいいんじゃない?」
「あ、そうなの?」
そのとき、先生がふとこちらに顔を向けた。
やばい。反射的に視線を前に戻す。
これ以上いるのは危険だ。
勉強は別の店でやればいい。最悪、図書館でやろう。
俺は静かにトレーを持ち上げ、立ち上がる。
背中に先生の視線が向いていないことを祈りながら、出口へ向かった。
「ありがとうございましたー!」
自動ドアが開く。
外の熱気が一気に押し寄せる。
冷房との温度差に、軽く眩暈がした。
歩き出してから、大きく息を吐く。
まさか先生がマッチングアプリを始めていたとは。
先生は美人だし、会う相手には困らないだろう。ただ、内面は少し独特だ。
長く一緒にいられる相手を見つけるのは、案外大変かもしれない。
そんなことを考えながら、俺は帰路についた。




