閑話 文学少年と百合子先生の冴えない平日
図書館でのひととき。
6月9日の放課後。
「はぁー」
俺は、深いため息をついた。
それは何故か。答えは今日が週の真ん中の水曜日だからだ。
憂鬱な曜日の候補として月曜日と水曜日の二つがあるが、月曜日は土日を満喫して疲れがとれた、いわば体力全回復状態なので、水曜日が一番憂鬱なのである。
今日はその憂鬱な水曜日であると同時に、図書当番の日でもあった。ああ、めんどくさい。かったるい。
図書委員は全部で二十人程度なので、三、四週間に一回のペースで当番が回ってくるわけだが、どうしてよりにもよって水曜日なのか……。
しかも今日は運の悪いことに、通常業務に加え、本を入れ替える仕事がある。
ただし、すべて入れ替えというわけではなく、一部の本棚のみだ。
入れ替え作業は大抵月末にやることが多いが、作業日がずれることもある。
今回は遅れに遅れてしまっているという状況だ。本の入荷が遅れたのか、前の当番の人たちが力を抜いたのかはわからない。
理不尽にしわ寄せを食らったことに倦怠感を感じながらも、本を移動して、並べ替えるという作業を進めていく。これ、意外と重労働なんだよな。
冊数が思ったよりも多いので、終わるのにかなり時間がかかりそうだ。
数十分後。
なんとかノルマをクリアして、そのあと軽く掃除のようなものをやり終えた。
掃除用具を持って、受付に戻る。
「古暮君、お疲れ」
現れたのは、図書委員会の担当である前沢百合子先生だ。
先生はニ年生のクラスの担任で、国語教師だ。長い黒髪で、日本人形のような色白な肌と、から紅に染まった唇が特徴の和風美人だ。
偶然だと思うが、この学校の国語教師って、女性ばかりで、しかも全員若くて綺麗だ。
先生に任せていた受付の仕事に、俺も加わった。
「はぁ……」
金属疲労を起こした右腕ををさすりながら溜息をつくと、先生はふふと笑った。
「大丈夫? とても疲れてるように見えるけど?」
「……はい。疲れてますよ、日常に」
気障な口調と仕草で、俺は答えた。
「そう。なら、これ読んでみる?」
先生がそう言って差し出したのは、実用書。
見ると、表紙には『ストレス解消法 ーやる気が出てくる本ー』という字とともに、ショートヘアーの活発そうな女の子のイラストが書かれている。
「あっ、いいえ、結構です」
「あら、そう? 面白いのに……」
冗談半分で言いましたごめんなさい。
前沢先生はれっきとした本好き。本の虫、古典の生き字引、大図書館の番人だ。
よって、普段はまず図書館にいるといって間違いない。ちなみに職員室の先生のデスクは本だらけだ。
用がある度にいちいち図書館まで足を運ばなきゃいけないんだから、先生が担任のクラスの生徒達はさぞ大変だろう……。
受付のチェアーで休んだおかげで、少し体力が回復したので、隣で単行本を読む先生に、おすすめの本を紹介してもらうことにした。
これは俺と先生の恒例行事だ。
「俺たち高校生くらいの年代におすすめの本って、なんかありますか?」
「うーん、そうね……夏目漱石の『こころ』なんてどうかしら?」
「ああ、それ少しだけ読んだことあります。たしか、
私は常にその人のことを先生と呼んでいた……。
ってな感じで始まるやつですよね」
「ええ。上中下の三部で構成されていて、下の『先生と遺書』の部分は特に教科書に取り上げられることも多いわね」
もしかして後にテストに出るかも。
「館内に置いてますか?」
「ええ」
調べるまでもなく本の有無がわかる。場所は言うまでもない。これは先生にしかできないことだ。
「そうですか。じゃあ後で借りることにします」
「先生」
俺は先生に「俺のおすすめ本聞いてください」と視線を送った。
「そうね。じゃあ、何をおすすめしてくれるの?」
「えっとですね、ミステリー本で、『13階段』ていう本があります」
「ああ、タイトルだけなら知ってるわ。それで、どんなあらすじなの?」
「ま、要約するとですね、仮釈放中の三上と、引退間近の刑務官の南郷が、十年前に起こった不可解な事件の真相を探るという……」
俺は夢中になって本のあらすじを説明した。聞き上手な先生の前では、ついつい饒舌になってしまう。
「面白そうね。後で読んでみるわ」
そう言ったところで、先生はあっと何か思い出したような顔をした。そして、受付の近くの壁にある掛時計を見た。
「あと三分しかないわ。ちょっと行ってくるわね」
「行ってらしゃい」
この学校の図書館は結構広い。
国立国会図書館のようなラスボス級でないが、並の地方大学の付属図書館ぐらいはあるので、中ボスクラスの広さだ。
二階建てで、一階は新刊、雑誌、辞書など、二回は日本の小説、海外の小説、論文などが置いてある。
勉強スペースはもちろん、会議スペース、PCスペースも設置されている。
この図書館はとても居心地のいい場所だ。
私語を慎みさえすれば、勉強するも良し、本を読むも良し、昼寝するも良しだ。ただし飲食は禁止だ。
俺は図書当番の日はいつも、貸出受付の席に座って、館内を見回している。
この図書館にある本の知識をすべて頭に入れられたら、世界征服できるだろうか、なんてことを考えながら。
休日とは違って、今日は平日の水曜日。水曜日。
生徒たちは皆スローモーションに見え、館内の時間はゆっくりと流れている。まるで録画したビデオをスロー再生しているかのようだ。
そういえば、アクセラライティング・ワールドっていうラノベが一時期流行ったよな。主人公の少年が、思考と動作を加速させることができるVRMMOの対人格闘ゲームで無双していく……そんなことを考えていると、
「これ借ります」
と声がかかった。仕事に戻ろう。
「少々お待ちください」
俺はこのやり取りが好きだ。相手がどんな種類の本を読むのかや、どれくらいの量や頻度で読むのかがこのやり取りである程度わかるからだ。
目の前の女子生徒は、美術の本を複数冊借りた。
口調や借りる様子では、本を借り慣れている感じがする。そういえばこの人、前も同じように複数冊美術本を借りていったような気がする。
単純な興味での閲覧か、それとも授業で使うのか、はたまた部活動での使用か。
ーーWhen you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.(可能性を排除していったとき、残ったものがどんなにあり得ないものだとしても、それが真相である)ーー
うーん……可能性を排除しきれない……。
「一週間以内に返却してください」
「はい」
会話は一言二言だけれど、服装や持ち物、顔の表情やそぶりなどから、本を借り来た生徒の人物像を推理してみるというのは、なかなか面白い。まあ、シャーロック・ホームズとはいかないが。
これが、俺が図書委員になった一つの所以だ。
三十分ぐらいして、前沢先生が返ってきた。もう図書館内には人が数人しか残っていなかった。
「はあ、疲れた」
「大丈夫ですか?」
先生は図書館を出る前に比べて、かなりげんなりしていた。
「うん、ちょっと来客の人が面倒くさくてね」
「はあ」
大人の世界にも面倒臭い人っているんだな。もしかすると、むしろそういう人の方が多かったりして。
「そういえば、近々期末考査があるわよね」
先生は唐突に話題を振った。
「そうですね」
先生は2年F組の担任というのを風の噂で耳にした。
それに先生は国語を担当している。二年生の授業を受け持っているらしい。
テストのことも当然把握しているか。
「古暮君は大丈夫なの、テスト?」
「……だいじょばないですね」
「先生が教えてあげようか?」
いつも前沢先生は自分のことを私と言うけれど、今回は先生であることを強調したくて『先生が』と言ったのだろう。
「え、ほんとですか? お願いーー」
「嘘よ。子曰く、学びて時に之を習ふ。亦た説ばしからずや」
俺のお願いに割り込んで、先生はなんだかよくわからないことを話し始めた。
「何ですか、学びて時に……」
俺は音だけを拾って、それを復唱した。子曰く……これは確か『論語』の最初の決まり文句だ。
「学びて時に之を習ふ。亦た説ばしからずや。勉強したことを復習するのは楽しいっていう意味よ」
俺は「はあ……」と間抜けな返事をした。先生は唐突に漢文の知識を出してきたが、これはよくあることなのでリアクションは薄くなった。
さて、先生が急に漢文を持ち出して来た理由はなんだろう。きっと何かしら伝えたいメッセージがあるのだろう。考えてみよう。
素直に考えるのであれば、「ちゃんと復習をしているのか?」ということだろうけれど、もう少し踏み込みが必要だと思う。
まず、先生は勉強を教えてあげようかと訊いてきて、俺がそれに食いついた。それに対して先生が漢文を出してきたわけだ。ということは、復習しているかどうかではなく、最初から誰かに教えを乞おうとしていることについて言いたいのか。少し飛躍し過ぎだろうか。
「えっーと、最初から誰かに教えてもらおうとするのは良くないということですか」
俺がそう完結すると先生は頷いて、柔らかく微笑んだ。その艶姿に、俺は魅了された。
その後も二人で駄弁っていたが、先生がまた呼び出しを食らった。
俺が「ここは俺に任せて先に行け!」と言うと、先生は「下校時刻までには戻る。I'll be back.」と言い残して駆けていった。
それを見送って、返却口にある本を適当に漁ったりしながら時間を潰す。
それから少し経ってキンコンとチャイムが鳴った後、放送部の下校時間を知らせる放送が流れ始めた。
本棚の影からヌッと動く人影があり、見ると先生だった。
「なんと!」
俺は声を上げる。先生は真顔で受付へ戻って来た。
「どうしたの古暮くん? 度肝を抜かれたような顔をして」
「先生がちゃんと時間通りに戻ってくるなんて」
「あら、私はいつも時間通りよね?」
「えっーと、俺の記憶違いですかね? 先生はいつも遅れてやってくるのがお決まりだったような……」
「それは古暮くんの気のせいね。どこかのヒーローじゃあるまいし」
ごまかされたが、俺の気のせいでは決してない。
先生の発言を録音するなり記録するなりすれば証明できるだろうが、まあ大したことでもないので証明しようは思わない。
その後、俺は先生と手分けして館内の見回りと戸締りをした後、誰もいなくなった図書館をしっかりと施錠した。
「じゃあ先生、また」
「ええ、気を付けて帰ってね」
「はい。さようなら」
「さようなら」
俺は先生と別れて帰路に就いた。
私が高校生の頃、国語教師は全員男性でした。なんとむさくるしいことか。