第8話「王弟殿下は公平すぎる」
エルネスト殿下は、領主に向いている。
そう思ったのは、リンド村の水路工事を見た時だった。
殿下は村長だけを呼ばなかった。
水汲みをする女たち、井戸を使う子ども、薬草を干す老人、荷を運ぶ兵まで並べて、順に話を聞いた。
「困っている順に言え。声が大きい順ではない」
その一言で、前に出かけた村長が口を閉じた。
公平だ。
けれど公平すぎる。
全員の話を聞けば時間がかかる。冬は待ってくれない。
私は横で記録を取りながら、殿下の顔色を盗み見た。
まだ少し白い。
毒の影響は薄れているが、体力は戻りきっていない。
「殿下。休憩を」
「あと三人だ」
「あと三人、が十回続く顔をしています」
ラーニャが後ろで咳払いをした。笑いをこらえた音だった。
殿下は私を見る。
「お前は遠慮がないな」
「毒見役ですので」
「薬師ではなかったか」
「都合のいい札を使い分けています」
殿下の口元が、ほんの少し緩んだ。
その表情を見て、胸が変に落ち着かなくなる。
王都で向けられていた笑みとは違う。値踏みでも、嘲りでもない。
私の言葉を、そのまま受け取った人の顔だった。
休憩の間、私は殿下へ薄い薬湯を渡した。
「苦い」
「効きます」
「甘くできないのか」
「できません」
「王弟への敬意は」
「薬効の前では平等です」
今度こそ、ハロルドが小さく笑った。
殿下は苦い顔で飲み干す。
「公平すぎるのはお前もだ」
「私は、相手によって薬の量を変えたくないだけです」
言ってから、少しだけ声が落ちた。
王都では変えさせられた。
高位貴族には高価な薬を。兵や侍女には薄めた薬を。私が異を唱えても、薬草庫の管理は宮廷薬師のものだった。
「王都では、そうできなかったのか」
殿下の問いは静かだった。
私は薬湯の器を布で包む。
「できませんでした。記録に残すことだけはしましたけれど」
「その記録を奪られた」
「はい」
短い返事のあと、沈黙が落ちる。
風が冷たい。
けれど、不思議と息苦しくはなかった。
殿下は無理に慰めなかった。怒れとも、忘れろとも言わない。
ただ、私の隣で同じ井戸を見ていた。
「取り返す時は、私も証人になる」
私は顔を上げた。
「殿下が?」
「お前は私を救った。私の砦の記録を守った。領民の子どもも救った。王都がそれをなかったことにするなら、私の目が節穴だったことになる」
「ずいぶん、ご自分の目に自信があるんですね」
「辺境で生きるには必要だ」
少しだけ笑ってしまった。
笑った自分に、私は驚く。
王都を出てから、こんなふうに力を抜いて笑ったのは初めてかもしれない。
午後、私たちは村の薬草干し場を正式に封鎖した。
腐った薬草は分類し、混じっていた眠り花は別に包む。封蝋の欠片も記録へ貼りつけた。
ニナは村の子どもたちに手洗いの仕方を教えている。
「爪の間もです! そこに悪いものが残ります!」
子どもたちは半分遊びながら真似をした。
それを見ていた村の女が言う。
「砦の薬師様は、怖くないんですね」
「怖い時もあります」
ニナが即答した。
私は思わず振り向く。
「でも、怖いのは人を助けたい時です。失敗を隠したら、もっと怖くなります」
昨日の言葉を、彼女はもう自分の言葉にしていた。
胸が少し熱くなる。
夕方、砦へ戻ると、王都からの早馬が待っていた。
黒い封筒。
銀の紋章。
王宮からの正式文書だ。
ハロルドが封を切り、顔を曇らせる。
「殿下」
エルネスト殿下が文書を受け取った。
読み進めるほど、その目が冷える。
「何ですか」
私が尋ねると、殿下は文書を机へ置いた。
「王都への召喚状だ」
心臓が、嫌な音を立てる。
「誰の」
「お前と、私だ」
文面には、こうあった。
辺境砦における薬材管理の不備。
王弟殿下への処置に関する確認。
リゼット・アルヴェーンの冤罪再審ではなく、薬師資格剥奪審問。
つまり王都は、私の罪を晴らす場ではなく、私から薬師の名まで奪う場を用意したのだ。
ニナが震える声で言う。
「そんなの、ひどいです」
ひどい。
本当にその通りだ。
だが、不思議と足はすくまなかった。
私には記録がある。
証人がいる。
そして、戻る場所もできた。
エルネスト殿下が私を見る。
「行くか」
命令ではなかった。
選ばせてくれている。
私は文書を見下ろし、ゆっくり息を吸った。
「行きます」
声は震えなかった。
「奪われるためではなく、取り返すために」
殿下は頷く。
「なら準備しろ。王都に、辺境の記録を持っていく」
窓の外では、冬の空が暗くなり始めていた。
王都へ戻る。
あの大広間で黙らされた私が、今度は自分の記録と証人を連れて。




