第5話「記録は裏切らない」
市場の商人が消えた翌朝、薬室の棚が荒らされていた。
扉の鍵は壊されていない。
つまり、内側を知る人間の仕業だ。
ニナが青ざめた顔で立ち尽くしている。
「わ、私、昨夜はちゃんと閉めました」
「あなたを疑っていないわ」
私は荒らされた机を見回した。
瓶は倒れ、紙束は床に散らばっている。だが奇妙だった。
高価な薬材は残っている。
代わりに消えているのは、申請控えの一部と、殿下の症状を書いた記録の写しだった。
狙いは金ではない。
証拠だ。
「ハロルド様を」
ラーニャがすでに動いていた。
ほどなくして集まったのは、私、ニナ、ラーニャ、ハロルド、そしてエルネスト殿下。
殿下は散らばった紙を一瞥し、低く問う。
「失われたのは」
「申請控えと、症状記録の一部です」
「原本は」
私は息をつき、机の足元から薄い木箱を引き出した。
「ここです」
ハロルドが目を見張る。
「隠していたのか」
「王都で学びました。記録は一冊だけにすると、盗まれた時に終わります」
だから私は、必要なものほど写しを作り、置き場所をずらす癖がついていた。
昨夜盗まれたのは、あえて上に置いていた閲覧用の束だ。
もちろん、盗まれて困らないわけではない。
相手に何を掴まれているか教えたことになる。
けれど、こちらの息の根までは止まらない。
エルネスト殿下が、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「いい癖だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ハロルドが紙片を拾いながら眉をしかめる。
「昨夜の見回りで不審者は出なかった。となると内部の人間だ」
「あるいは、内部へ出入りできる人間」
私がそう言うと、ラーニャが頷く。
「監察使の書記官トーマは、昨日ここへ入っている」
ニナがはっと顔を上げた。
「あの人、帰る前に『インクで手が汚れた』って言って、手洗い場所を聞いてきました。薬室の裏口の近くです」
トーマ。
気弱そうに見えた若い書記官。
だが、気弱に見える人間が安全とは限らない。
私は床の紙を拾いながら、違和感を整理する。
「でも、写しだけを盗んだのは妙ね。原本がどこか分からなかった?」
「時間がなかったのかもしれん」
ハロルドが答える。
「あるいは、写しを消せば十分だと思ったか」
私は首を振った。
「違うと思う。原本の場所までは掴めなかったのよ。だから、手の届くところだけ持っていった」
つまり、敵は焦っている。
市場の商人が逃げ、監察使が来て、薬室が荒らされた。
線が急につながり始めている。
その時、ニナが小さく声を上げた。
「これ……」
彼女の指先にあったのは、散らばった紙に紛れた短い糸だった。
濃い青。上等な上着の裏地に使う色だ。
辺境の兵や雑役が身につける布ではない。
私は糸をつまみ、記憶を探る。
昨日の応接室。
バジルの上着は茶色。けれど、書記官トーマの袖口の裏に、確かに同じ青が見えた。
「ラーニャ。まだ追える?」
「馬なら半日差だ」
エルネスト殿下が即座に命じる。
「通行記録を確認しろ。監察使の一行が、どの道を使ったか洗え」
「はっ」
ラーニャが出ていく。
私は木箱から別の帳面を取り出し、机へ開いた。
「何をする」
殿下に問われ、私は答えた。
「照合です。申請控え、症状記録、丸薬の成分、市場の出入り。重なるところがないか見ます」
「そこまでして何が見える」
「まだ分かりません。でも、同じ場所に何度も傷がついているなら見えるかもしれません」
砦のどこが狙われ、いつ、誰が動いたか。
帳面だけで人は捕まえられない。
それでも、何度も同じ名前が出るなら無視はできない。
午前いっぱいを使って整理した結果、一本の偏りが浮かんだ。
毒が出た日も、丸薬が流れた日も、申請控えが消えた日も、必ず倉庫南口の鍵番が交代している。
しかも、その交代は本来の当番表にない。
「この名前……」
ハロルドが帳面を覗き込み、顔を曇らせた。
「副倉庫番のセルドか。二年前に中央から回されてきた男だ」
中央から。
私はエルネスト殿下を見る。
殿下も同じ結論に至ったらしい。
「生かして捕らえろ」
声が冷える。
「喋らせる」
その命令が飛んで間もなく、外で短い騒ぎが起きた。
走ってきた兵が叫ぶ。
「セルドが逃走しました! 南柵を越えて森へ!」
やはり、当たりだ。
けれど私は、机の上の帳面から目を離せなかった。
市場の出入り、薬材の欠落、見張り交代、薬室侵入。
散っていたはずのものが、ようやく同じ縁をなぞり始めている。
エルネスト殿下が私の横へ来て、開いた帳面を見下ろした。
「追いつけなくても、これだけあれば次は詰められる」
「ええ」
私は頷く。
「奪われたままの紙も、取り返せます」
殿下はしばらく無言で帳面を見ていたが、やがて低く言った。
「ひとまず薬室はお前に任せる。毒見役の札だけでは、もう足りん」
胸の奥が熱くなる。
毒見役ではなく、薬師。
まだ口約束に近い。けれど、確かに前へ進んでいた。
その時、ラーニャが戻ってきた。
息は乱れていないが、表情だけが険しい。
「セルドは森で死んでた」
部屋の空気が止まる。
「口封じ?」
私の問いに、ラーニャは頷いた。
「胸に短剣が一本。持ち物はほとんど抜かれていた。ただし、これだけ残ってた」
差し出されたのは、金具の外れた小さな革札だった。
そこに刻まれていた紋には、見覚えがあった。
第二王子宮の保管庫で見た封印札に似ている。
けれど、土と血で削れていて、断言できるほど鮮明ではない。
私は息を呑んだ。
都から伸びる手は、想像より近い。
そして次は、私たちのほうから掴みに行ける。




