第6話「見習い薬師は震える手で」
薬室に、焦げた匂いが満ちた。
私は調合台へ駆け寄り、煮立った小鍋を火から下ろす。
ニナが真っ青な顔で立っていた。
「ご、ごめんなさい!」
鍋の中では、細根草の煎じ液が黒く濁っている。胃薬にするはずだったものだ。焦がしただけなら、まだいい。
けれど、隣に置かれた瓶を見て、私は息を止めた。
眠り花の乾燥葉。
量は少ない。だが、煎じ液に混ざれば患者を眠らせすぎる。
「ニナ。手を出して」
「え?」
「触ったでしょう。指に粉がついている」
ニナは震えながら手を差し出した。指先に薄い青緑の粉がついている。
私は布に酒精を含ませ、彼女の指を拭いた。
「口に触れていない?」
「触れてません。たぶん」
「たぶん、では困るわ。唇は痺れていない?」
ニナは唇を噛み、首を振った。
泣きそうな顔だった。
叱るのは簡単だ。
でも、ここで怒鳴れば彼女は次から失敗を隠す。薬室でそれが一番怖い。
「鍋は捨てる。瓶はこっちへ。調合台を拭いてから、何を間違えたか一緒に見るわ」
「私、薬師に向いてないんでしょうか」
その声が小さく割れた。
私は手を止める。
王都で同じことを言ったことがある。
まだ見習いだった頃、配合を一つ間違えて、年配の宮廷薬師に笑われた。
薬草を触る手が女の手だ、と。
泣きそうになった私は、その日から記録を倍にした。誰にも文句を言わせないために。
あの男は、私の記録を奪った。
でも、私が学んだ癖までは奪えなかった。
「向いているかどうかは、失敗した時に決まるものじゃないわ」
ニナが顔を上げる。
「失敗したあと、隠すか、直すか。そこで決まる」
私は黒くなった煎じ液を器へ移した。
「見て。細根草は弱火でゆっくり。眠り花は棚の上段。似た色の札を近くへ置いた私も悪い」
「リゼット様は悪くないです!」
「薬室では、悪い人を探すより先に、次の事故を減らすの」
言いながら、札を作り直す。
胃薬。眠り薬。毒性あり。
赤い線を二本引く。
ニナは鼻をすすり、震える手で筆を持った。
「もう一度、やらせてください」
「ええ。ただし今度は、声に出して読むこと」
「細根草、乾燥粉、匙半分。水、椀一杯。弱火」
まだ声は震えている。
それでも、逃げなかった。
昼前、薬室の扉が開いた。入ってきたのはハロルドだった。
「リゼット。殿下が呼んでいる」
「急患ですか」
「違う。薬室の正式な管理についてだ」
ニナの肩が跳ねた。
昨日まで、私は毒見役の札をぶら下げたままだった。薬師として働いていても、名目は曖昧だった。
曖昧な立場は、責任を押しつけるには便利だ。
王都で何度もそうされた。
執務室へ行くと、エルネスト殿下は机に数枚の書類を並べていた。
顔色は戻りつつあるが、頬の線はまだ少し痩せている。
「薬室の鍵を三本に分ける」
前置きなしだった。
「一本はお前。一本はハロルド。一本は私が預かる」
「毒見役にしては重い鍵ですね」
「まだ毒見役と呼ばれたいのか」
私は口を閉じた。
殿下は少しだけ視線を柔らかくする。
「辺境薬室臨時管理官。正式任命は王都の承認がいる。今は砦内の権限だけだ」
机の上の書類には、確かにそう書かれていた。
胸の奥が熱くなる。
薬師として認められること。
それは、私が思っていたよりずっと欲しかったものらしい。
「お受けします」
「条件がある」
「またですか」
「人を育てろ」
私は瞬きをした。
殿下は窓の外へ目を向ける。薬草畑では、ニナが焦げた鍋を洗っているはずだ。
「お前一人では足りない。倒れれば終わる。薬室を一人の腕に戻すな」
その言葉は痛いほど正しかった。
前任の薬師が亡くなった途端、この砦の薬は止まった。
それを繰り返してはいけない。
「ニナを育てます。ほかにも字が読める人を探します」
「好きにしろ。必要なら兵も出す」
「殿下は、ずいぶん簡単に任せますね」
「簡単ではない」
殿下は私を見た。
「私はお前の失敗を見ていない。だが、お前が失敗を記録する人間だとは見た」
息が詰まる。
信頼というものは、甘い言葉ではなく、こういう形で渡されるのかもしれない。
薬室へ戻ると、ニナは新しい煎じ液を作り終えていた。
色は淡い琥珀。匂いもいい。
「できました」
「味見は?」
「しました。苦いです。でも焦げてません」
私は少し笑った。
「上出来」
その時、廊下から荒い足音が近づいてきた。
扉を開けた兵士は、雪を払う暇もなく叫んだ。
「村から子どもが運ばれてきました! 高熱です! 一人じゃありません!」
ニナの顔から血の気が引く。
私は薬箱を取った。
「ニナ、今作った胃薬は置いて。解熱用の乾燥柳皮と清潔な布。ラーニャを呼んで」
「はい!」
震えていた手が、今度は動いた。
薬室の外では、冬の風が石壁を叩いている。
毒だけではない。
この辺境では、病も人を選ばない。
そして今度は、砦の外の命が私たちを待っていた。




