第47話「イザベルは、古い保管庫の鍵を涙で濡らしました」
薬師局の古い保管庫は、昼でも冷えていた。
王宮の奥。
誰も使わない薬棚。
十年前の規則書。
古い瓶。
そして、鍵穴が三つある鉄扉。
「星三つの鍵、銀の蛇の輪、王命印の中央」
ハロルドが並べて読む。
「三つを合わせなければ開かない仕組みです」
星三つの鍵は、祈祷書から見つかった。
銀の蛇の輪は、昨夜押さえた。
だが、中央の型がない。
「イザベルが持っている可能性が高い」
エルネスト殿下が言った。
イザベル。
女官長。
セラフィナ様に嘘を言わせ、王太后宮の声を借り、鍵束を移した人。
だが、まだ黒帳の主ではない。
扉を開ける人間だ。
グラント卿の兵が、王太后宮の古い女官部屋で彼女を捕らえたのは、昼過ぎだった。
逃げてはいなかった。
椅子に座っていたという。
机の上に、祈祷書を開いて。
イザベルは保管庫の前に連れてこられた。
背筋はまっすぐ。
髪も乱れていない。
ただ、指先だけが赤い。
鍵を強く握っていた跡だ。
「中央の型を出せ」
エルネスト殿下が言う。
イザベルは答えない。
私は彼女の袖を見た。
香の匂い。
王太后宮の木香。
その奥に、塩。
涙の匂いだった。
「王太后様を守りたいのですか」
イザベルの目が鋭くなる。
「あなたに何が分かるのです」
初めて返事をした。
私は一歩だけ近づいた。
「王太后様の名が使われたことは分かります。あなたがそれを止めず、隠したことも」
「止められるものですか」
イザベルの声が崩れた。
「先王の印が出れば、王太后様が疑われる。祈祷室の声が出れば、王太后様が疑われる。私が黙っていれば、まだ」
「まだ、誰が助かるのですか」
イザベルは口を閉じた。
助かっていない。
セラフィナ様は脅された。
オルガ様は死んだ。
私は罪を着せられた。
王太后様の名も傷ついた。
沈黙は、誰も守っていなかった。
「あなたは黒帳の主を知っていますか」
イザベルは首を振った。
「主は名を持たない。命令は、扉ごとに来る」
オスカーと同じ言葉。
「では、リディアは」
「リディアも名ではありません」
私は息を止めた。
「銀の蛇の扉を開ける女は、代々リディアと呼ばれる。私が知る今のリディアは、先王妃の侍女の娘です」
本名ではない。
役目の名。
だから追っても逃げる。
人を捕まえても、役目が残る。
「中央の型はどこです」
イザベルの手が震えた。
彼女は胸元から小さな包みを出した。
布は濡れていた。
涙だ。
中には、黒い金属片。
王命印の中央。
十年前に焼いたはずの印。
ただし、表面に細い傷がある。
完全な印ではない。
「これは、半分です」
私は言った。
イザベルは目を伏せた。
「もう半分は、リディアが持っている」
エルネスト殿下の声が硬くなる。
「では扉は開かない」
「開きます」
イザベルは小さく言った。
「保管庫は、完全な印で閉じたのではありません。欠けた印で閉じた。欠けたままなら、開く」
ハロルドが記録の手を止めた。
「欠けた王命で、証拠を閉じたのですか」
「そうです」
イザベルの声はかすれていた。
「欠けているから、誰も王命とは言えない。けれど王命の形だから、誰も逆らえない」
嫌な仕組みだった。
責任だけを欠かせる。
命令だけを残す。
エルネスト殿下は三つの鍵を扉へ入れた。
星三つ。
銀の蛇の輪。
欠けた王命印。
鉄扉が重く鳴った。
冷たい空気が流れ出す。
中には、箱がいくつも並んでいた。
薬包。
古い裁定書。
名前の札。
その一つに、私の名があった。
リゼット・アルヴェーン。
婚約破棄の日。
私は手を伸ばしかけ、止めた。
「先に記録を」
ハロルドが頷く。
グラント卿が封を確認する。
エルネスト殿下が私の横に立つ。
箱の奥に、もう一枚の札が見えた。
オルガ・メルダ。
前任薬師の名。
イザベルはその札を見て、声を失った。
「それは、知らなかった」
その言葉だけは、嘘に聞こえなかった。
イザベルは、古い保管庫の鍵を涙で濡らした。
そして扉の向こうには、私の冤罪とオルガ様の死が、同じ棚に並べられていた。




