第46話「移送許可状は、空の馬車だけを祈祷室へ運びました」
移送許可状は、私の名前を正しく書いていた。
リゼット・アルヴェーン。
王太后宮祈祷室へ移送。
記録手は、扉の内側でこそ役に立つ。
私は紙の匂いをもう一度確かめた。
古い封蝋。
新しい紙。
そして、祈祷書の底にあった香草。
「私を本当に運ぶ必要はありません」
エルネスト殿下が私を見る。
「囮にするつもりか」
「私自身ではなく、私が乗っていると思わせる馬車を」
ラーニャがすぐ首を振った。
「危ない」
「危ないから、相手は動きます」
私は許可状を布の上に置いた。
怖くないわけではない。
名前を書かれただけで、喉の奥が固くなる。
けれど、私を祈祷室へ入れたいなら、向こうは扉を開ける。
扉が開けば、手が見える。
エルネスト殿下は少し黙った。
「君は王弟府の中で待つ。馬車には私の兵を乗せる」
「はい」
「君の薬箱は馬車に積む。相手が触れば分かるようにできるか」
「できます」
私は薬箱の取っ手に、透明な粉を薄く塗った。
毒ではない。
水に触れると青くなる、薬材検査用の粉だ。
手袋をしていても、縫い目に残る。
夜。
空の馬車が王弟府を出た。
私は屋根裏の小窓から見送った。
中に私はいない。
それでも胸が痛い。
自分の名前だけが、あの馬車に乗っていく。
祈祷室へ続く廊下は、王弟府の兵が先に押さえていた。
ハロルドは別室で記録を取る。
私はそこにいた。
扉の向こうから聞こえる音だけを頼りに。
車輪。
足音。
鍵の鳴る音。
そして、誰かが言った。
「中へ」
女の声だった。
イザベルではない。
若い。
けれど、声の作り方が似ている。
喉の奥を少し閉じ、相手に逆らえないと思わせる声。
ラーニャが合図した。
兵が祈祷室へ踏み込む。
短い悲鳴。
椅子が倒れる音。
私は立ち上がりかけた。
エルネスト殿下が手で止める。
「まだだ」
次に響いたのは、壁の奥を走る音だった。
人ではない。
細い管の中を、声が抜ける音。
「伝声管です」
私は言った。
祈祷室の声は、人が中にいたからではない。
壁の奥から届いていた。
王太后様しか入れない部屋。
だから誰も見ない。
誰も疑わない。
声だけが、そこにいる。
兵が壁布を剥がした。
木の板の後ろに、細い金属管があった。
先は床下へ続いている。
その管の口に、青い粉がついていた。
私の薬箱に触れた指の粉だ。
「触りましたね」
私は布越しに管の縁を押さえた。
青い跡は、右手の形をしている。
指が長い。
小指にだけ、粉が少ない。
銀の蛇の指輪を外した跡かもしれない。
ラーニャが捕らえた女を連れてきた。
顔は見知らぬ女官。
だが、袖口の裏に銀糸があった。
蛇ではない。
蛇の鱗だけ。
「名前は」
エルネスト殿下が問う。
女は黙る。
私は彼女の手を見た。
右手の小指だけ、青くない。
「リディア様の手袋を預かっていますね」
女の目が動いた。
「どこですか」
女は唇を噛んだ。
ラーニャが袖を探る。
内側から、小さな布包みが落ちた。
銀の蛇の指輪。
ただし、中の石が外されている。
空洞だった。
ハロルドが息をのむ。
「指輪が鍵になっている」
「違います」
私は空洞の縁を見た。
赤黒い蝋が残っている。
「これは、封蝋型の一部です」
先王印そのものではない。
だが、外周の葡萄葉を押すための輪。
中央の王印だけを別の型で押せば、古い王命封蝋に見える。
エルネスト殿下の目が冷えた。
「つまり、先王印は一つではない」
「分けてあります」
だから見つからない。
だから焼いたはずの印が、生きているように見える。
捕らえられた女官が笑った。
震えた笑いだった。
「輪だけ見つけても、扉は開かない」
「どの扉ですか」
私が問うと、彼女は初めて私を見た。
「薬師局の古い保管庫」
モーリスが守っていた場所。
婚約破棄の日の薬包が消えた場所。
「本物の薬包は、そこにありますか」
女は答えない。
だが、沈黙が答えだった。
移送許可状は、空の馬車だけを祈祷室へ運んだ。
そして空の馬車が連れて帰ってきたのは、銀の蛇の指輪に隠された先王印の欠片だった。




