第45話「王命の封蝋は、十年前に死んだはずの印でした」
紙に押された封蝋は、古かった。
赤ではない。
暗い葡萄色。
先王の時代、王命書にだけ使われた色だ。
陛下は紙を見たまま、しばらく動かなかった。
「その印は、焼いた」
王太后様が言っていた言葉と似ていた。
焼いたはず。
返したはず。
閉じたはず。
この宮中では、はず、が多すぎる。
「本物ですか」
エルネスト殿下が問う。
陛下は苦い顔で頷いた。
「少なくとも、形は本物だ。先王崩御後、十年前に廃された印だ」
「では、誰かが型を持っている」
ハロルドが言う。
私は紙へ顔を近づけた。
封蝋の匂い。
古い樹脂。
乾いた木香。
そして、ほんの少し、北辺境では使わない香草。
オルガ様の匂い。
祈祷書の底にあった花びらと同じ。
「この紙は、最近作られています」
私は言った。
モーリスが顔を上げる。
「古い印なのにか」
「印は古い。でも紙は新しい。薬で古く見せています」
私は紙の端を布で押さえた。
色が少し移る。
「灰汁と香草で黄ばませています。三月以上前なら、匂いはもっと抜けます」
三月。
オルガ様が死んだ頃。
黒帳が王都と辺境をつなぎ直した頃。
「読めるか」
陛下が問う。
紙は折られていた。
開けば、薬が散るかもしれない。
私は水で湿らせた布を用意し、端から少しずつ開く。
中の文字が見えた。
「薬包保管箱の差し替えを許可する」
部屋に沈黙が落ちた。
さらに下。
「リゼット・アルヴェーンに関する毒物証は、第二王子宮の裁定まで秘匿」
私は指先が冷えるのを感じた。
あの夜の薬包は、最初から差し替えられる予定だった。
断罪してから証拠を整える。
罪が先。
証拠が後。
それが、私にされたことだった。
レオンハルト殿下の顔が青くなる。
「私は、そんな許可を」
「君の名はない」
エルネスト殿下が言った。
「だが、君の裁定が利用された」
第二王子は何か言おうとして、口を閉じた。
今は怒るより、理解する方が苦しい顔だった。
私は同情しなかった。
ただ、記録した。
「差し替えを実行した者は」
陛下の声が低い。
モーリスが震えた。
「私は、箱を受け取っただけです」
「誰から」
「奥侍従長オスカーです」
オスカー。
また一つ、道がつながる。
「オスカーは誰から受け取った」
モーリスは首を振った。
「知りません。ただ、封蝋があった。王命だと言われた」
「十年前に廃された印を、王命だと思ったのか」
エルネスト殿下の声は冷たかった。
モーリスは黙った。
知っていたのだ。
知っていて、従った。
王命の形をしていれば、自分の責任を隠せるから。
私は紙の下部を見た。
小さな文字がある。
「記録手候補、保留」
また、その言葉。
私のことだ。
十年前の印を使った紙にも、私の役目が書かれている。
黒帳の主は、私をただ潰すだけでは足りなかった。
書かせるつもりだった。
自分たちの都合のいい記録を。
「リゼット」
エルネスト殿下の声で、私は顔を上げた。
「手を離せ」
紙を握りしめていた。
私はゆっくり力を抜いた。
「すみません」
「謝ることではない」
殿下は私の前に立った。
紙と私の間に入るように。
「この記録は、君に背負わせない。王弟府と陛下の記録にする」
「でも、私の名前が」
「だからこそだ」
短い言葉が、胸に落ちた。
私は頷いた。
逃げない。
でも、一人で持たない。
その区別を、今は覚えなければならない。
陛下はモーリスの拘束を命じた。
セラフィナ様の証言は公的記録になった。
婚約破棄の日の毒物証は、差し替え疑いとして封じ直された。
小さな勝利だった。
私が毒を作ったという断定は、初めて王の前で崩れた。
それでも、終わりではない。
古い王命印の型が残っている。
イザベルはまだ捕まっていない。
銀の蛇の女も、声の主も、姿を見せていない。
夕刻。
王弟府へ戻ると、ハロルドが一通の封書を持ってきた。
「殿下。門前に置かれていました」
封書には、暗い葡萄色の封蝋。
先王の印。
私は息を止めた。
エルネスト殿下が封を切る。
中には、今日の日付の許可状が入っていた。
「リゼット・アルヴェーンを、王太后宮祈祷室へ移送することを許す」
署名はない。
代わりに、一行だけ添えられていた。
「記録手は、扉の内側でこそ役に立つ」
王命の封蝋は、十年前に死んだはずの印だった。
そして、その死んだはずの印が、今度は私を祈祷室へ呼んでいた。




