第42話「イザベルの鍵束は、祈祷書の腹に隠されていました」
王太后宮の奥は、昼でも薄暗かった。
祈祷室へ続く廊下には、花がない。
香も少ない。
その代わり、古い紙と木の匂いがした。
水庭で嗅いだ匂いだ。
「祈祷室は、王太后様の私的な場所です」
案内の女官が震える声で言った。
「ですが、今回は陛下の命令があります」
エルネスト殿下は封書を見せた。
王命の封蝋。
女官は下がった。
扉は閉まっている。
鍵穴は古い。
だが、鍵はかかっていなかった。
ラーニャが扉を開ける。
中は空だった。
祭壇。
燭台。
白い布。
祈りの言葉を書いた古い本。
人の姿はない。
けれど、床には新しい足跡がある。
「逃げた後です」
私は祭壇の前で膝をついた。
床に、白い粉が少し落ちている。
眠り薬ではない。
紙魚を避ける粉だ。
古い本を開く時に使う。
「本を動かしています」
ハロルドが祈祷書を一冊ずつ確認する。
分厚い本。
革の表紙。
金具は錆びている。
その中で、一冊だけ重さが違った。
「これです」
私は本を持ち上げた。
中身が揺れる。
本の腹がくり抜かれていた。
祈りの言葉の中に、鍵束が隠されている。
星三つの鍵。
銀の蛇の細鍵。
黒い小箱の鍵。
そして、王弟府の封蝋型に似せた小さな型。
エルネスト殿下の目が冷えた。
「私の封蝋を真似る道具か」
「完全ではありません」
私は型の縁を見た。
「王弟府の松脂の匂いが足りません。だから偽命令書には王太后宮の木香が残った」
ハロルドが帳面に書く。
証拠は小さい。
でも、小さいものほど嘘を嫌う。
祈祷書の奥に、薄い紙が挟まっていた。
日付と声の一覧。
私は一枚を広げる。
「王太后の声で水庭を開ける」
次の紙。
「第二王子の声でセラフィナを呼ぶ」
さらに次。
「王弟の声で辺境写しを止める」
ハロルドの筆が止まった。
「声を使った日誌です」
「声の盗用記録ですね」
私の声は乾いた。
声まで、道具のように並べられている。
誰かの声で命じる。
誰かの声で呼び出す。
誰かの声で断罪する。
その中に、私の名前があった。
「リゼット・アルヴェーン。第二王子の声で再断罪に誘導」
胃の底が冷えた。
あの夜を、もう一度作るつもりだったのだ。
今度は私を辺境ではなく、黒帳の側へ渡すために。
エルネスト殿下が紙を見て、低く言った。
「させない」
短い言葉だった。
けれど、その場の空気が少し変わった。
私は頷く。
「はい。させません」
ラーニャが祈祷室の奥を調べていた。
「隠し戸がある」
壁の布を外すと、小さな戸があった。
人が一人、身をかがめて通れるほど。
向こうから、かすかに水音がする。
水庭へつながっている。
その通路の壁に、爪で刻んだ跡があった。
古いものと新しいものが混ざっている。
私は灯りを近づけた。
文字。
「声を信じるな」
その下に、もう一行。
「印も信じるな」
古い傷のような文字だった。
「誰かが、以前からここで気づいていた」
ハロルドが言う。
「オルガ様でしょうか」
私はすぐには答えられなかった。
前任薬師オルガ様。
彼女は王の薬に違和感を覚え、そして死んだ。
ここまで来ていたのか。
それとも別の誰かか。
答えはまだない。
だが、祈祷書の底に、もう一つ小さな紙包みがあった。
私は慎重に開く。
中には、乾いた花びら。
北辺境では使わない香草。
オルガ様の遺品に残っていた匂いと同じ。
「オルガ様は、ここへ来ています」
声が震えそうになるのを抑えた。
「または、ここに関わる薬を持たされました」
エルネスト殿下はしばらく黙った。
それから、祈祷書と鍵束を封じるよう命じた。
「イザベルを捕らえる。祈祷室へ出入りした者を全員調べる」
その時、王太后宮の入口で騒ぎが起きた。
女官が走ってくる。
「王太后様が、リゼット様だけにお会いしたいと」
ラーニャが即座に首を振る。
「罠だ」
私もそう思った。
だが、女官が差し出した紙には、本物の王太后様の筆跡があった。
私は紙の匂いを確かめる。
木香ではない。
薬でもない。
ただ、古い墨の匂い。
「本物です」
エルネスト殿下が私を見る。
「一人では行かせない」
「はい。一人では行きません」
私は紙をたたんだ。
イザベルの鍵束は、祈祷書の腹に隠されていた。
そして、その祈祷書の底から、オルガ様が消される前に触れたかもしれない匂いが出てきた。




