第41話「オスカーの沈黙は、左手より先に揺れました」
オスカーは、王弟府の取調室で黙っていた。
左手の黒い手袋は外されている。
薬指には古い火傷。
爪の横には、黒い蝋が残っていた。
「王弟の声を真似た命令書を運んだことは確認した」
エルネスト殿下が言った。
「誰に命じられた」
オスカーは答えない。
沈黙は、慣れたものだった。
長く王の寝所を守ってきた人間の沈黙だ。
けれど、左手だけが少し揺れていた。
私はその手を見た。
手首の内側。
袖口の縫い目が、少し厚い。
「袖を切ってください」
ラーニャがすぐに短剣を出した。
オスカーの目が初めて動く。
「無礼だ」
「声を盗んだ方が無礼です」
ラーニャは迷わず袖を裂いた。
細い紙包みが落ちた。
私は布で受ける。
甘い匂い。
舌の奥が苦くなる。
「口を塞ぐ薬です」
ハロルドの筆が止まった。
「自分で飲むためですか」
「いいえ。近くの相手に含ませるためです」
私は紙包みを開いた。
粉は黒くない。
薄い灰色。
水に溶けると、喉の筋を固くする。
死なない。
だが、しばらく証言できなくなる。
「誰の口を塞ぐつもりでしたか」
オスカーは黙る。
私は彼の前に、偽命令書の紙筒を置いた。
「あなたは辺境砦への写しを止めようとした。失敗した後、次に狙うのは、ここで証言する人です」
「推測だ」
「では、なぜ袖に薬を隠したのですか」
「護身だ」
「護身の薬なら、自分の喉を塞ぎません」
彼の左手がまた揺れた。
沈黙より先に、体が答えている。
エルネスト殿下が低く問う。
「イザベルか」
オスカーのまぶたが動いた。
「女官長イザベルを黙らせるために持っていたのか」
「違う」
早かった。
否定が早すぎる。
私はハロルドへ視線を送った。
彼は短く頷き、記録した。
早い否定。
関係あり。
「では、セラフィナ様ですか」
オスカーは今度は黙った。
沈黙の種類が変わった。
怖れている。
自分の罪ではなく、名前を出すことを。
エルネスト殿下は椅子の背に手を置いた。
「セラフィナ嬢の証言が公的記録になれば、婚約破棄の日の断罪は揺らぐ」
オスカーの唇が引き結ばれる。
「揺らぐのではない。崩れる」
小さな声だった。
ハロルドの筆が走る。
私は聞き逃さなかった。
「崩れると困るのは誰ですか」
「多すぎる」
初めて、答えが返った。
「第二王子殿下、王妃様、薬師局、貴族院。誰も、あの夜を間違いだったとは認めたくない」
私の胸が熱くなる。
怒りではなく、冷たい熱だった。
あの夜。
私は毒を作った女にされた。
居場所を奪われた。
辺境へ送られた。
それを、誰も間違いにしたくない。
「なら、記録します」
私は言った。
「認めたくない人が多いほど、紙に残します」
オスカーが笑った。
疲れた笑いだった。
「だから主は、お前を欲しがった」
主。
またその言葉。
エルネスト殿下の目が鋭くなる。
「主とは誰だ」
「名はない」
「逃げるな」
「本当に名で呼ばれない。声だけが来る。黒い手袋も銀の蛇も、星三つも、全部が扉だ」
扉。
銀の蛇の女が残した言葉と同じ。
「声はどこから来ますか」
私が問うと、オスカーは少しだけ顔を上げた。
「王太后宮の祈祷室」
王太后宮。
水庭のさらに奥。
ハロルドが息をのむ。
「祈祷室は、王太后様以外は入れません」
「だから声だけが出る」
オスカーは言った。
「誰が中にいるか、誰も見ない。見てはいけないことになっている」
エルネスト殿下が即座に命じる。
「祈祷室を封鎖する」
「遅い」
オスカーの声は、かすれていた。
「イザベルは、もう鍵束を移した」
「どこへ」
オスカーは目を閉じる。
私は水差しを彼の前へ置いた。
「黙れば、薬で黙らされる人が増えます」
彼は長く息を吐いた。
「王太后様の古い女官の部屋だ。祈祷書の中」
その時、廊下の向こうで足音が近づいた。
ラーニャが扉へ手をかける。
グラント卿が入ってきた。
顔が険しい。
「殿下。セラフィナ嬢の控室に、誰かが入ろうとしました」
私の手が止まる。
「セラフィナ様は」
「無事です。ただ、扉の下に紙が差し込まれていました」
グラント卿は紙片を差し出した。
そこには、細い字で一行だけあった。
「証言すれば、次は第二王子の声でお前を断罪する」
オスカーの沈黙は、左手より先に揺れた。
そして、その揺れの先で、セラフィナ様の証言がもう狙われていた。




